人生を見つめなおすブログにしようと思う、のだけれども、まだ、書き始めるための前提がそろっていない。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
『善悪の屑』
という作品を読んだ。のうのうと生きている犯罪者に対して、たとえば少年法で守られたり、どんな凄惨なことをしても、10年程度の刑期で出所して人生を楽しんだりと、そんな「屑」に対して、同様に、いやそれ以上の復讐を代行する二人組みの話。
恨みや本舗、という作品もあったような、そっちは読んだことがないけれども、人の行為と、感情とが、道徳や法律で割り切れない部分があるということの表現であると思われる。
そんな人の、ネガティブな面に目を向ける必要があるのだろうか。果たして、仕事をする上でも必要なければ、就職活動、婚姻活動、その他の社会的な活動において、何ら意味あることには思えない。
そうした作品を読むことは必要なのか。
ネガティブ作品の必要性
徐々に、書き連ねていくことになるだろう、ポジティブ、肯定感というもの。人生というもの。生きるということ。愛情、友情、その他の人間的な感性というもの。
僕は、十分に、深いところまでさかのぼって行くことができているはずだ。
これ以上、人間というものの理解に、必要なエンターテイメントはないように思える。
驚くことはない、人間の恐ろしさというものは、裏切り、背徳、殺人、いじめ、あげればきりがない。それに対して、ポジティブなイメージのなんとわずかなことか。
問題は、その点ではない、このブログの、特に今求められることは、強い自己イメージ、理想の自分、こうありたい・なりたい姿、である。
しかし、そのとき、人間の負の側面に、蓋をしてよいのだろうか。
ただ、純粋に、人の温かさを、優しさを、美しさを信じてよいのだろうか。
僕は、僕が、これから行うべき作業は、非常に困難だといえる。
それは、人間の負の側面を知っていて、感じていて、それでいてもなお、自分の触れる世界は本当に美しいものなのだという実感、そしてそのことを信じる、心の底から信じるという作業なのだ。
PR