もう遅い時間だから、思いつくままにダッシュでメモ。
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。
決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。
むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。
ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。
玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。
逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。
このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。
本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。
とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。
もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。
それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。
なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。
そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。
だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。
話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。
そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。
ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。
いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。
様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。
ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。
今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。
ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。
だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)
大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。
そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。
まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)
・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。
決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。
むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。
ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。
玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。
逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。
このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。
すぐに忘れてるということ
タイトル、書こうと思ったことと、書いていることがまた違う気がする、そもそも、またスマホで書いていて、しばらく中断してもう一度起動したら消えていた。本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。
とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。
もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。
それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。
なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。
男女交際
もうしばらく忘れてしまったが、新しく連絡先を交換して、そっからどうやって関係を深めていくのだろうか。そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。
もう読者へではなく独り言
だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。
話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。
そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。
ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。
いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。
様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。
ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。
今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。
ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。
だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)
大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。
そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。
まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)
まとめ
・読者の方は無理をされないで欲しい・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)
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たくさんの人に囲まれて
家族連れ、カップル、子どもたち、中学生、老夫婦、休日の楽しそうなひととき。
なにかを、共有すること、他者の人生を背負うこと、それがコミュニケーションであって、他者に思い通りに意思を伝えるというのは、コミュニケーションの表層なのかもしれない。
もっとも、仕事におけるコミュニケーションは、後者が正しい。あとは、できるだけ、気持ちよくなってもらうだけだ。
誰かに相談されたことはあるか
色々情報検索していて、ぐさっと、はっとなったのは、他者から相談された経験が少ないということだ。
仕事は当然別として、プライベートにおいて、なにか重大な人生のイベントについて、どうしたらよいか、尋ねられたという経験はないかもしれない。
いやいや、小さなことでも、何かあるかと考えても、でてこない。
そういう意味では、僕はとても寂しい人間なのかもしれない。
そして確かに、あまりそういったことを望んだこともなかった。心から欲したことでなければ、現象化することはあまりないのだ。
頼りかた
なるほど、そう考えると、そもそも、他者を頼る、ということが、僕はほとんどない。
これが所謂様々なことの原因かもしれない。
自慢どころか、逆に卑下的だが大抵のことは自分の力でやってきた、と書くと、学校の先生や親、親戚、友人、その他多くの人たちの力がなければ今の自分はいません、と書くことはできても、本当に解決されるべき問題に対して、他者は本当に無力だった。
え、じゃあ、思考における尊敬すべきあの人や、離婚して落ち込んでるときにメッセージをくれた人たちは、どうなのか。
いま唯一の深層欲求に従ってこうして言葉をつくりあげることができているのも、間違いなくその方々のおかげである。感謝、とかくと言葉が軽いぐらい、重要な影響をもたらしてくれた。
いますぐ書くことをやめるべきか
ポイントは、理解不可能性。
書くのをやめたところで、思考はとまらないし、むしろ頭のなかでカオスとして渦巻くことを考えれば、その100%の表現など不可能でありながら、整理され片付けられ、新たに何か構築する際のピースとなる。
ポイントは、他者との付き合いにおいて、今回のテーマの、頼るということを、意識的に取り入れた方がよいかどうか。
何で頼れないかというと、頼ると頼られるから、頼られたときに自分が力になれないと、申し訳なくて自分を責めるからだと思われる。
相手の人生を背負うことが怖いのだ。
自分ひとりであれば、最悪のことは死ねばよいだけである。
ところが、他者に対して、取り返しのつかないことをしてしまったら、自分が死んでも取り返しがつかないとしたら。
やっぱり、他者を頼ることは怖いことだ。
極端に考えすぎである
きっと、頼り頼られ、というのは、そんな考えることではなく、きっと、自然にやるものなのだろう。
僕も、最近までそんなこと考えてもいなかったから、きっと、自然に頼らないようにしてきたのだろう。
ただ、やっぱり、不思議なことは、子どもの頃からよくきくこととして、早く大人になりなさいとか、分別をつけなさいとか、自立しなさい、社会人になって一人前だとか。
独立した個として、生きていくことが奨励されている。
他人へ任せてもいいとか、仕事の管理職向けの本を読んで、なるほどなーっと思ったぐらいである。
もっとあげれば、お兄ちゃんだからしっかりしなさいとか、一人前とか、何か一人で成し遂げることではなかったのか。
このブログ自体が頼り
やっぱり、このテーマ、誰かを頼った方がいい、というのは、思慮に値しない。
まず、確認として、例えば存在価値とか、そういったことを話すことは、まずもって必要なくて、むしろ他者を不愉快にさせる可能性がある危険なことだ。
そんな危険なことを、こうして書ける場所があることが、まず、間違いなく、頼りきっている。
そして、僕の表現力と理解可能性による二重の意味において、物理世界に対して頼ることはできない。
わたしって不細工だしー
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
パイロット
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
解離体験
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
現時点性
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
22時過ぎて仕事して、帰路につくと、想像以上に、空虚感が強い。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
単純明快な独り言
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
空虚感
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
道化
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
全人格的承認
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
誰もいない荒野で
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ふりだし
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
国民会議ではなかった、日本会議だった。本の感想は、ひとことでもメモしておくべきだろう。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
信仰と実感について
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。