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幸せが逃げていく言葉
2016/06/16 00:31 | Comments(0) | イライラ対処
わたしって不細工だしー
デブだから
ネガティブなんで

まぁ、
どうせ
わたしなんて


このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。

ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。

わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。

でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。

これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。

パイロット


それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。

ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。

ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)

解離体験


とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。

それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。


と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。


往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。

同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。



現時点性


ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。

未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。


そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。


そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、



ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。

つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。


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居場所のなさと悪口を言わないこと
2016/06/14 23:42 | Comments(0) | イライラ対処
22時過ぎて仕事して、帰路につくと、想像以上に、空虚感が強い。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。


真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。

資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。


忙しさって、心を失なうと書くとか。

やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。



単純明快な独り言


なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。

そういえば、保険も入った。

もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。

今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。

空虚感


この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。


誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。

確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。

背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。

すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。

しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。


道化


あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。

不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。


いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。


そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。

笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。

現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。


えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。

仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。


全人格的承認


もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。

笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。


僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……

もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。

そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。


ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。

病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。

ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。

考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。


ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?

治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。


身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。




誰もいない荒野で



と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。

しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。


全人格的承認を求めているのだろうか!?

と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。



という構造が、絶望の3形態、


自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望

としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。


いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!

ということだってできる。

ふりだし



ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。

その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。


うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。

うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。

そりゃ落ち着かないわけだ。











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信仰と宗教と実感と
2016/06/11 17:50 | Comments(0) | イライラ対処
国民会議ではなかった、日本会議だった。本の感想は、ひとことでもメモしておくべきだろう。

日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。

あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。


その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。

よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。


これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。

ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。

その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。


僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。

どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。


それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。

同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。



なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。


という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。

人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。

ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。

唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。

いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。


この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。

いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。

ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。

信仰と実感について


そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。

これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。

実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。

ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。


ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。


なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。

それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。

そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。



























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宗教のうさんくささ
2016/06/09 23:26 | Comments(0) | イライラ対処
国民会議、という本を読んだ。といっても、まだ数十ページだけれど。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。

民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。


その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。

しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。


最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。

と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。

引き寄せの法則

いや、まぁ、僕も、「すごいもの」に憧れたい、信じたい、という気持ちはあるのだと思う。そもそも、宗教とは何かといえば、超然たる存在に従い、教示を受け、信仰することである。

それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。

同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。

これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。

表現による真実性の隠蔽

僕は、映画も漫画も小説も好きだし、表現することはとても楽しいことだと思いながら、それがエンターテイメントじゃなくなったとき、欺瞞を感じ、気持ち悪いと思う。

結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。

と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。

言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。

ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。


一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。

こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。


本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。





なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。

死の恐怖

まぁ、久々の、この日常カテゴリだから、このまま書き連ねていこう、徒然。

夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。


その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。


いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。

で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。

幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。

それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。



敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。


ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。

自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。


何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。

とにかく、時間切れ。

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肉親の死その後
2016/05/23 20:13 | Comments(0) | イライラ対処
肉親とはどこまでを指すのか。ただ、血が繋がっている親族と考えてよいだろう。

厳密な定義は必要とは思わない。

離婚届を突きつけられ、大好きだった祖父も亡くなった。

不幸が重なる。ここで涙を誘うためには、祖父との楽しかった思い出や、幼い自分のためにしてくれたこと、進学や就職のたびに、本当に喜んでくれたことなど、書き連ねていく必要がある。初の孫ということで、本当に大事にしてもらった。




たくさんないた、それを、言葉にしていくことは、何となく恥ずかしい気がする。どこか、感情に流されない自分を、理想視しているきがする。

にもかかわらず、よくわからない人だとだんじられて離婚届を突きつけられたのは、本当に哀しく、愛想もつきたことであり、それがまた、自分の人生にとってとても幸せなことであったと冴え思える。

本当に大事な祖父が亡くなったことは、自分にとっての大きなダメージだ、しかしそれは、離婚というストレスにぶつかり、ダメージを軽減してくれたことのようにも思えるのである。


葬儀の流れ


宗派や地域によってちがうようだが、病院から斎場に運ばれ、火葬、法要、会食おとき、となる。

その間、訪ねてくるかたもいる。
通夜とは、具体的にはないこともある。
とかく、亡くなった最初の夜になることもある、火葬の前に顔をみにくる、しかし、それは家族に進められたら、で、そのときに香典を包んでくるかとか、難しい。
とかく、香典は、葬式法要の際に、受付で渡されることが多かった。そのほうが、名簿にも記帳してもらうのだから、身内としては楽である。

通夜は、まだ気持ちの整理もされていないとき、お金をもたれたら、その管理も発生するし、親族が多ければ分担もできようが、大変である。
手伝いに行くなら価値はあろうが、あまり親しくないなら、むしろ行くべきではないと思った。




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