考える生き方の購入決定
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A
との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A
との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
離人症
それはおいておいて、その本の中で作者は、どうにも実感が何に対してもわかなくなった時期があったと述べている。哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
仏教に学ぶ生きる意味
サイト、やっぱり、様々、引用しながら書いた方が、役に立つという意味では、そんな気がする。そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
絡まりあった自我
ただ、「悟りを開いた人から学ぶ」というのが、受け入れられない、という、僕のこじれた「自我」のせいである。実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
意味を求めること
ブログの移転はまぁおいておこう。酒を飲んでいるせいで、気分が高まってしまい、誰かとコミュニケーションをとらなければならないという強迫観念にかられただけかもしれない、別に、自分用に書き散らすだけであれば、ここでも、特段問題はないのである。とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
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表現するということ、それを突き詰めていくしかない気がする。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ストイック
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
飲み会あとの高揚感
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
思考と言葉
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
そして翌日
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
幸せ恐怖症
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
本当に幸せなのか
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
他者を求めるということ
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
頼る人もいない、頼ろうとも思えない、そんな風に書いた先日。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
未来思考とは
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
閑話休題の反対
閑話休題とは、本筋の説明に戻るときに使うが、逆に、余談に入りたいときの四字熟語ってあるのだろうか。さて。頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
落ち込みが足りない
ということで、いま、実感として思ったのは、甘えているな、ってことだ。例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
いつまでもふつうになれない
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
死なないためには
末恐ろしい見出しタイトルだが、ひとつ、毎日を生きていくためには、頑張らないことだと思ったわけだ。頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
答えがないのは、大変なことだ。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。
つかれた、これからかえりだ。
魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。
否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。
問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。
いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。
先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。
先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。
これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。
もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……
そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。
子どもと生き甲斐
いやほんと、子どもが欲しいな、身体は健康で思考も健全ながら、やる気が、生きる気が、起きない、といいつつ、積極的に死のうとするわけではなく、なにもしたくないわけでもなくむしろ、頑張れ頑張れと心の声がきこえつつも、何で頑張る必要があるのだと無気力を呼び起こす声も聞こえる。子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。
というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。
ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。
俺は、誰だ?
とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!
なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。
うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。
ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。
じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?
とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?
大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。
生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ
ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。
愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。
熱中できるゲーム
思い出した、熱中できるゲームがないときも、こういった状況になりがちであった。ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。
こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。
これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。
気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。
ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。
たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。
ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。
蛇足という追記
いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。
なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。
明日の打ち合わせとか気がかりだし…
他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。
よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。
なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。
任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。
でも相談ってどうするのか
と、客観的に自分を見ようとする面は、自分の長所と思いつつも、「離婚しました~」っといったところで、それを友人たちに言って、どうするのか。もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。
実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。
いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。
だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。
でもなー、分からないなぁ。
とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。
いやはや、知識ゼロの事象について、口だけで説明されて、それを覚えて対応しろ、と、これは難しい。
頭がいい人はできるのだろうか?
メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。
やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。
感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。
全然伝わっていないことが多々ある。
人を納得させる根拠ってのも難しい。
行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。
プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。
この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。
と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。
こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。
先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。
ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。
ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。
特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。
何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。
つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。
結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。
そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。
明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。
せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。
寝てはいけない。
頭がいい人はできるのだろうか?
メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。
やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。
感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。
全然伝わっていないことが多々ある。
人を納得させる根拠ってのも難しい。
行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。
プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。
この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。
と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。
こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。
かわいい子ども
先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。
ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。
ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。
特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。
何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。
できることは現状描写
つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。
結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。
そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。
明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。
せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。
寝てはいけない。