頼る人もいない、頼ろうとも思えない、そんな風に書いた先日。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
昨日の記事を読んでみたが、書いているときは、なにか面白いことを書こうとか、読者を想定なんてしていなかったが、面白かった。
未来思考における再帰的な現時点性の肯定、というのが、よく表現されていると思った。
基本的に、苦しくても頑張れるのは、この構造がある。
と、書くと、僕はすぐにその反論を想定する。たとえば、厳しい教育をほどこされる、幼い子ども。
または、激しい上司のもとで過ごす部下、などは、未来思考でやりきっているとはいえないのではないか。
恐怖で思考が支配されている状態は、他の解決方法があるだろう。
問題は、ごく一般的な状況における生活において、どう未来思考をはたらかせているのか、ということだ。
未来思考とは
思考は、現在、過去、未来のどれかに指向している。
基本的に、思考の状態は、現時点しかない。
ただし、時間の経過に対して、過ぎた方向を向けば過去思考であり、現在の経過時間単位よりも先に方向をむければ、未来思考となる。
厳密には、例えばある課題が発生したとき、類似の問題に対応する型を、過去の経験や記憶から思いだし、現時点目の前にある課題に当てはめることを考える、そして、その結果として問題がどう解決するのかを考える。
これらは、過去から未来に向けた思考をおこなっているわけだ。
ゆえに、厳密な思考分類は意味がないことに注意する必要がある。
そのうえで、未来思考の再帰性を考えるとはどういうことか?
現時点が苦悩であり、未来が希望であったとき、再帰的に現時点性に希望がもたらされる。
一方、現時点が楽しくても、未来が暗ければ、徐々に現時点は苦悩へと変わっていく。
過去に苦悩であり、現在が楽しければ、未来もまた楽しいだろうとの推測がおこる、いやしかし、この場合は、過去の苦悩がまた起こるのではとの恐怖により、未来の暗さから現時点が苦悩となることもある。
しかし、これをいってしまうと、人生一度も苦悩を味わうべきではない、ということになる。そんなことは不可能だ。
落ち込むこともある、でも、希望、楽しいこともある、このバランスが人生であり、生きるということだ。
閑話休題の反対
閑話休題とは、本筋の説明に戻るときに使うが、逆に、余談に入りたいときの四字熟語ってあるのだろうか。さて。頭をもう一度、しっかりと、考えを戻してみよう。
実感を大事にしなければいけない、いまぼくはどういった状態なのか。
そして、ぼくは、いま、何をしたら正しいのか、もしくは楽しいのか。
落ち込んだときの対処法として、自分のしたいことをたくさんあげてみる、というのがある。
それをしたいが、いま、したいことが浮かばない。
唯一、書いていたい、汗でべとべとするからお風呂に入りたいとか、そんなレベルだ。
まあそれで人生満足ならよいが、昨日から表現している空虚さや無気力さってのが、どう扱っていいか分からない。
ここで、また誰かに相談すると、離婚して落ち込んでしまっているのだ、大丈夫だよ、時間が解決してくれるよ、とか優しくしてくれるのだ。
そうではない、確かに加速したかもしれないが、そもそも、同じようなことを半年もそのもっと前から書いていたではないか。
逆に、いや、逆でもないかもだが、2008年とかその辺でたてた、人生の五年目標
が達成されて、自分というのが行方不明になっちまったのかもしれない。
落ち込みが足りない
ということで、いま、実感として思ったのは、甘えているな、ってことだ。例えば、このブログ丁寧にみてくれている方が何人かいるが、これすらなかったとき、いったい、エヴァのLCLの海のように、自己が溶け出してしまうというような、不安定な自己を、どう安定を保てばよいのだろう。
ここ、この場所が精神安定機構としてはたらいているのである。
この構造は、とても、ふつう、的であり、本当は、恋人とか家族とか、友人とか仕事とか趣味とか、なにかそういったものが、もしくはその複合的に自己を支えているのである。
ぼくはどうも、それらどれらにも所属していつつ、自己をコミットできていないような気がする。
マズローの欲求説のように、どこか、所属とか承認とかないと、人の心は不安定になるのだ。
認められたいとしたら、こうやってテキトーにかいていることが、やっぱり、面白いなーって感じてもらえることだ。
いつまでもふつうになれない
でもこの記載たちは、世界とのズレ、を欲求の基礎としているのであり、果たして、幸福論的に正しいのか、ってのは疑問。
もっとも、そうはいっても、
現時点的に、思考がとまらないとしたら、逃げられるものではない。
むしろ、思考がまったくでてこなくなるまで、徹底して書く必要があるだろう。
それは、同じことの繰り返しでも構わない、こんなに同じようなことを毎日のように書いてきてなぉ、まったく同じ表現になることはない。
何かの記事を引用したら、それで僕の心のすべてを表現できた、と、そう実感できるものはない。
であれば、まだ足りない、僕はまだ、自分を偽っている、自分を知っていない、自分を認めていない、自分を好きでない、そういった可能性があるのだ。
そこまで、自分を見つめる必要はないと、誰しもいうだろう、僕もむしろそう思う、けれども、それでも、
死なないためには
末恐ろしい見出しタイトルだが、ひとつ、毎日を生きていくためには、頑張らないことだと思ったわけだ。頑張る、努力する、賭ける、こうした、未来に向けた思考をストップさせることが重要だという主張である。
これは、みるひとがみれば、よくある、いわゆるスローライフ的な発想であり目新しいものではない。
ただ、先日の記事のごとく、相対表現に実体はない。
つまり、頑張る、という表現も、これにとらわれてしまうと、人生を、生きる意味を見失う原因になる。
つまり、頑張るとか、頑張らないとか、その表現に耳を傾けないようにするということだ。
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