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幸せはまったなしである
2016/07/26 22:13 | Comments(0) | イライラ対処
幸せ、という言葉自体が好きではないが、それは別に不幸が好きというのではない。
幸せとか不幸とか、相対概念を求めることの危険性と無意味さを思うだけだ。

何故そんな、いま更なことを書いているのか。先日引用したブログのひとつで、周囲の反対を押しきり美人と結婚したある男性のことが書いてあった。結論、家庭生活でもうまくいかず、子供は二人さずかったものの、妻からは蔑まれ、あるとき40代で亡くなったという。

雷にうたれて死ぬのもそう。
まったく、生きていて報われることのない人もいる、たくさんいる。

仕事がうまくいかず、叱られて、落ち込んで……そんなときに読むと、最初の言葉のようなものが浮かぶのだ。


落ち込むほどでもない


とはいえ、それほど落ち込むものでもない、ご飯を食べたら少し回復だ。これくらいの感情ダメージなど、ダメージにも当たらないほどだ。

これが10年前なら強がりだったろうが、いまはほんと、それ以上にダメージとなることが色々とあったから、比較すると大したことないとわかる。


と、書くと、ほら、やっぱり、若いうちの苦労はした方がいいんだよ、とか短絡的にいいたくなるだろう。そんなわけない、努力はあってもいいが、苦労など必要ではない。

だって、明日どころか、あと数時間で死ぬかもしれないわけだろう。いまが苦しければ未来で救われるとか、寝言にすぎない、その元説が意味をなすのは、未来の楽しさの信仰が翻って現時点にあらわれるからにすぎない。


ポケモンgoの批判


ある著名人が侮蔑した、というが、補足されていて、創作物を否定するわけではなく、ちょっと過激な発言をしてみた、ということだそうな。

まぁ、そんなことだろうと思った、というか、僕の疑問そのままであって、少し笑ってしまった。

所詮、他者の言葉は、表現である。
真実性をもった厳密な言葉など、そう簡単につくりだせない。
かといって、文章をねりにねって作ったとして、その厳密性がわかりやすいかというとそれもまた違う。

法解釈の難しさは困ったものである。で、分かりやすく解釈して書いたら、もれがあったり、逆に他の人にはわかりづらかったり。



つまるところ、相手にどう伝わるか、だけ機にすればよい。
で、相手にあわせた言葉を使うわけだが、誰にでも合わせられるかというと、まぁ合わない人もいる。そこで努力してあわせてもいいが、苦労になるほどなら、即刻やめてもいい。


楽しくあれ



人はすべからく、楽しくあるべきだ。この言葉も好きじゃないのだが、他に表現がない。


あるべきようにあればいい。

なるようになればいい。


と書くと、それはまた、ちょっと違う気がするし、難しい感覚だ。

これは、中観とか、空(くう)、という表現が可能と思うが、そもそも抽象概念であって、それを表現しても万人に意味を伝えることは不可能だ。
ヴィトゲンシュタインの、語り得ないことは沈黙しなければいけない、というのは、このことを示していると、僕は理解している。

が、その、このこと、が、なんなのか、ちゃんと表現できるすべをもたないのが、僕が凡人なところだ。


それでもなお、その、楽しくあれ、というのが、あるべきだと確信する。


サイコパス



犯罪者、感情がない者、倒錯した快楽を目指すもの。

この、楽しくあれという思想は、この問題に直面し、破綻する。

だから、政治学などで語られる、正義、にはなりえないものだ。

けれども、この、日常思考と、実存としての意味においては、これらのことを気にする必要はない、というか、そんな時間がない。


考えることは、生きる意味とか、正義とか、倫理とか道徳とか、普遍的ルールなど、僕の日常思考と似ているけれども、

政治学といった学問や科学とするには、することができるのは、実存の問題が片付いた人たちだけである。



生きる意味を求めて



15年、といってもいいかもしれない。
自我が芽生えて以来、この問題は僕の身近なものだった。

しかし、時に忘れたり、脇においたりと、気づかないようにしていたときもあった。

しかし、それでも、長いものだ。

その間、楽しいもの、快楽の得方というのは、様々学ぶことができた。



それでもやはり、この問題は、ずっとそばにいたのである。


長期目標



いま、重要なのは、目的、目標だ。

目的は、その到達点であり、目標は到達のための具体的数値化可能な行動の集合である。

何年後にプロットするか。


ただ、それより、それにしても、よくもまぁ、これほど言葉が出てくるものだ。

いずれ、同じことを繰り返すだけになるかとも思っていたが、日常のあれこれを元にしてかきはじめると、そのときどき違った表現になる。


だらだらと、書き続けていいものか?

ただ、誰がみてくれようがいまいが、書いているのは楽しいのである、であれば、先の、楽しくあれ、としての方針に合致してるから、いいんじゃないか、となるが、どうも、違う気がする。

なにか大きなことをやりたいのか、障害者施設におしいって日本の歴史に残るくらいの殺人をすればいいのか、とか、こんな表現をしてると、逮捕される日がくるかもしれない、そういう意味で、表現の自由を制限するような法律は基本的に反対だ。GTAとかやったら犯罪をおかすとか、例えそれが確率論的に科学的に証明されたとしても、反対だ。そのうち、ネガティブなことを考えたり書いたりしただけで逮捕される時代になるかもしれない。

書いておくが、別にそれでもいい、その事自体はいいのだ、問題は、僕が許せないのは、そのネガティブの定義なんてどうせ誰にもできないということである。

ネガティブもぽじてぃぶも、相対概念だ。だから、あるそのときどきの為政者が考えるネガティブ概念によって取り締まりがされるのだ。

幸せの義務化、とか、そんな表現すれば、安易に厳罰化とか規制を推進する人にも、違和感を与えられるだろうか? きっと、それとこれとは次元が違うとか、いくらでも反論することだろう。

だから、そういう人を目にしても、特に戦おうとはしない。ただ、仲良くなろうとは思うかもしれないが、心を開こうとは思うまい。


心をひらく!?
面白い表現が自分からでたものだ。









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ポケモンGOを侮蔑するとは
2016/07/25 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
雷でうたれて死ぬってほんとにあるんだな。

あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。

ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。



現実肯定主義



俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!

とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。

現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?

酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。

うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。

というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。

社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。

としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。



一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。


だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。


だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。

まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。

そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。

価値判断


ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。

とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。

いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。


一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。

いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。



なんのはなしだ?

ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。


精神疾患の娘を殺害



老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。

やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。

しかし、どうしたらいいのか。

まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。

そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。

所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。

あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。

雷で死ぬ



昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。

プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。


それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。

その方の人生ってなんだったのか。

そこで死ななければいけない意味ってあったのか。



残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。

生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。

もっといえば、生きる意味すらない。



そんなもんだ。

これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。


結論は、矛盾しない。

こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。

客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。

とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。

それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。

その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。


だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。









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新しいカフェにグループで
2016/07/23 22:23 | Comments(0) | イライラ対処
コンセプトがあるカフェに複数人で行った。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。

よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。

でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。

まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。

しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。

遊びの種類

逆にいってしまうと、ほとんどの遊びってものをやった気もする。
女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし


まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。



それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。

これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。

人間嫌い


人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。

だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。


これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。

とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。

ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。


書くこと

いやぁ、たぶん誰もみてないだろうが、いろいろやってみて、こうやって思ったこと書いてるのがやっぱり楽しい。

なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。



っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)

でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。

そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。

本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。

やりたいこと

是非また誘って欲しいと思っている、が、一人でいきたいとは思わないってとこだな。

というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。

このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。


友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。



思考上は考えてみる

とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。

で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる


あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。

日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。

まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。

まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。

……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。


我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。

今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。

けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。










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自画自賛過去の記事の励まし
2016/07/22 21:00 | Comments(0) | イライラ対処
2008年からの記事を読んだ。携帯からだと、過去記事のリンクがないから、PC表示にしたが。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。

ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。

ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。

なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。

その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。

そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。


最もよき理解者である他人


過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。

その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。


その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。


まさに、まさに至言である。


いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。


逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。

その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。

その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。

2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。


それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。

でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。


何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。


間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。


ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。


他者じゃダメな理由


ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。

それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。

やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)


きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。

親友とは



そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。

なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?

最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。

なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。


でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。

仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。

そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。

そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。














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単純であることとニュースと
2016/07/15 18:47 | Comments(0) | イライラ対処
さて、三連休である。以前、仕事が落ち着かないと、休みも気が重い、と書いたけれども、気にしても仕方がない。今回は東北まで足をのばそうと思う。

その前に、ある関西の高速道路で、60代が運転するトラックが乗用車に追突し、ぺしゃんこになって二人が亡くなったニュースをみた。
写真が衝撃的だった。

最近、ヨーロッパで、列車同士が正面衝突した事故の写真もみた。バラバラの遺体があふれてたというコメントに戦慄した。



そして、2015年推計で、高齢化率が、25%をこえたそうだ。
十年後には、30%に及ぶらしい。



人生に一時停止はない



問題の先送りはするべきではない、というのは、一般表現で、そうではないと書いておく。

というのは、まさに、いまこの瞬間しかないとしたときに、物事をペンディングにするのは悪いことではなく、一つの選択だ。

こう、予定がある日に限って、他の方からの誘いがあって、翌週以降でお願いしたわけだけれども、これも一種のペンディングであるからにして、保留が悪いことだという意識があると、それはまた自分を傷つける場合があるのである。


とはいえ一方、人生にまったなしである、というのはまた事実である。

今日の朝とか、とても不快な感情で溢れていた、それが、仕事が想定よりもスムーズにいったことで、気分が落ち着いた。

不快になったのは、前日、何もするきになれず、だらだらと過ごして、眠れもせずに時間を浪費したためだ。

そういう時間を限りなく減らす必要があるだろう、その、だらだらというのは、休むな、ということではない。


頑張れという声への対処


問題は、シンプル。解決策もシンプル、それは、シンプルな状態を保つということだ。


イライラしてもよい、遊んでもよい、眠ってもよい。

そのどれもが、意識的に、シンプルにすることだ。イライラしながら落ち着こうとしたり、遊びながら勉強したり、うつらうつら眠るでも起きるでもない状態になったりすることを避けることだ。



人は思うより単純にできている。

自分の気持ちと感覚を忘れないことだ、耳を傾けることだ。











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