考える生き方の購入決定
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A
との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
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との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
離人症
それはおいておいて、その本の中で作者は、どうにも実感が何に対してもわかなくなった時期があったと述べている。哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
仏教に学ぶ生きる意味
サイト、やっぱり、様々、引用しながら書いた方が、役に立つという意味では、そんな気がする。そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
絡まりあった自我
ただ、「悟りを開いた人から学ぶ」というのが、受け入れられない、という、僕のこじれた「自我」のせいである。実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
意味を求めること
ブログの移転はまぁおいておこう。酒を飲んでいるせいで、気分が高まってしまい、誰かとコミュニケーションをとらなければならないという強迫観念にかられただけかもしれない、別に、自分用に書き散らすだけであれば、ここでも、特段問題はないのである。とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
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