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書く気が起こらないときに書く
2016/06/30 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
どんな楽しいことでも、ずっとそればかりをすると、飽きたり疲れたり楽しくなくなる。

しかし、どうにもやる気が起きなかったり、もやもやしたり、落ち着かなかったりしたときは、まず、書いてみることが有効だと学んだ。

不思議なほど、頭になにもうかばない。いつも同時思考的に様々なことが浮かぶけれども、感情の起伏すらよく分からない。


サイトの更新のこと、今日のランチのこと、仕事でバタバタしたこと、知人が夜に家にくること、今週末の旅行のこと、事象は浮かぶけれども、何も感情がわかない。

誰かに話そうとも思わなければ、敢えて書こうとも思わない。いま、無理矢理に書いている。



いやなことがあることすら


感情がないことは、僕が目指したことだったか。

ところで、ニュースのコラムで、自分の頭で考えろ、というが、それよりも、事実をしっかりとらえることが重要だ、といわれていた。

意見、推測、事実と、他者の発言も自分の発言も、しっかり見極める必要があるのだという。


ほらみたことか、と鬼の首とるわけではないが、僕が前から書いている、まずはインプットが重要だということに他ならない。

常に意識するため、たびたびそういった情報に触れるのは悪くはないが、大体自己啓発的なものは、知識としてはあるのだ。

と、そういった考えにとらわれると、いわゆる保守的な、頑固じじい、になるので、キャッチコピー的に気になる記事は読むようにしているが、最近新しい情報などほとんどない。


ゆえに、むしろ、女の子向けのコラム、すなわち、どうしたら男の子にモテるのか、結婚できるのか、とか、そういった記事を読むようにしている。

まあそれも、大半は斜め読みすらする必要がない。


何かを批判することで自尊心を保つ


何か言って、といわれて、こうした批判が浮かぶのは、嫌みな野郎なのだろうか。

まぁ、上に書いたことも、特段書きたかったわけではない。



ただ、問題は、意欲とかモチベーションとかの意味で、どうにもこうにも、力がでないのだ。


奮い立たせて、試験勉強は、五分くらいはしているが、結構つらい。

どうでもいい感が強い。



こういうときはどうしたらいいのか。

風呂に入って寝る、それだけである。



自分を偽ると疲れるという。

しかし、もう僕は、偽りの自分など、いないはずだ。

まぁこんなことを、常日頃いっているわけではないから、やはり、偽っているのかもしれない、とはいえ、社会性というのは、そもそも、自己に着せる服だろう。特段特殊なわけではない。


んじゃーいったい、なんなんだって話だ。

書きたくもない、何かしたいわけでもない、かといって不満があるわけではない、じゃあなんだってのか。

ただ、いまこそ、こういうときの気持ちこそ、しっかりと、言語化し、分析が必要ではないか。

単に睡眠不足では



よく考えると、先週くらいから、睡眠時間4時間とか5時間ではなかったろうか。

電車内とか、昼寝を含めれば、プラス一時間はありそうだが、まとまった睡眠は確かに少なそうだ。


単に疲れてるだけか。

身体からのフィードバックなしに、思考は存在しない。


やはり、土日フルで予定がはいっていると、気が休まらないのか。
ということは、外に遊びに行くとは、リフレッシュというよりは、むしろ仕事に近いのかもしれない。

ということは、他者といる時間は、リフレッシュできないということか。

そんなことはないだろう、ただし、一人の時間も大切だよと、世間はいう。一方で、他者との関係も大事だよと世間はいう。どっちやねん。それは、中庸だよ、バランスが大事だよ、どうすりゃええねん。



こうやって、一人になっても、まだ、何か書くようにと、何かインプットしろと、僕の心は呼び掛けてきて、一方で身体からのフィードバックに耳を傾けるとやる気がしないという。


これが結構つらいのだ。


この感覚の言語化は難しいが、休め、と思考で命令したところで、背反する感情、もっと時間を大切にとか、頑張らなきゃとかが、混在するカオス。

結局、ゆっくり休むこともできないながら、かといって何かをすることもできずに、椅子に座ったまま硬直してしまうのである。





なにもする気が起きないと、身体的不調がきになってくる。

お腹はいたいし、喉もいがいがするきがする。とかくと、風邪じゃん?と一言で終わりだが、そうではない。

でもまぁ、いまそうかいてみて、確かに、風邪のときは、なにもする気も考える気もおきないから、似ていると言えばにている。

ああ、そうか、風邪、とすれば、そうかもしれない。風邪ではないけれども、病気、という状態とすれば、まぁ、休みなよ、と、体からの訴えも、素直に聞ける気がする。



ではせっかくなので、この状態に名前をつけよう。

病名 無気力病
症状 倦怠感が発生、何のやる気も起きなくなる、しかし頑張れと心の声が聞こえる
治療 風呂に入る。それでも良くならなければ、寝ることを試みる。この際、無理に寝ようとしてはならない。ただ、できるだけ何も考えないようにする、坐禅などが有効と考えられるが、特効薬は見つかっていない。難病指定である。



単に鬱病では?(笑)
ただ、医学的な鬱病という表現では、自分の感覚を適切に表現できない。
それだって、プチ鬱とか、新型うつとか、新しい表現が発掘されてきたのだ。

医者にいってもいいが、精神科なんて、患者の症状を、問診で読み取るのが主なのだから、いやもちろん、内科医とか問診重要だが、CTスキャンしたら鬱病が見えるとか、腫瘍マーカーみたいに、特定の物質に反応する薬剤で鬱の原因ウイルスとかが見つかるわけではないという意味で。


だとしたら、どれだけ自分のことを表現できるかに尽きるわかだ。


その表現が支離滅裂だったりすれば、統合失調症とか、病名がもらえたり。
うん、是非とも、この記事を読んでもらって、病気かどうか判断してもらいたいものだ、きっと、誰にでもある悩みですね、ひどくなるようならまた受診してくださいみたいになるだけだ。


第一において、、、と、少しずつ饒舌になってきたが、


意味や目的があること



こういうときに、生きる意味とか、しっかりもっていると強い。

明日への活力、希望になる。

幸せって何か、といいながら、甘いものを頬張ると、まぁまぁ幸せである。

で、一個100円くらいの甘いもので幸せなら、楽しいなら、とりあえず数年は楽しく幸せに生きていける。


そんなものでいいのか。

それで満足して生きていていいのか?


もしかして、身体が疲れた休みたいといいながら、もっとできる、頑張れと強要する、無気力病と、僕が生きる意味とかいって模作しているのは、同じ構造なのか?


というのは、もう考えるのはよそうぜ? 毎日、それとなく生きていけばいいじゃないか。
まわりや、女の子たちは、成長とか、頑張っている姿にほれたり、出世に必要だったりするかもしれないが、もうそんなのに応えるのは、とっくに限界だったのではないか。



無理に無理をしているから、すべてにやる気がなくなり、その状態すらもおそれて、生きる意味とか探そうとしているのではないか。



体もそうだが、頭も、思考も、休ませて欲しいのではないのか。

身体は寝る頭は?



体を休ませるのは、寝ればいい。

では、頭を休めるにはどうしたらいいのか?


寝ているでもなく、起きているでもなく……というと、まさに坐禅のことになる。
ほんと、仏教色が強くなっていやになるほどだ、僕はキルケゴールさんだって好きなのだ。

ただ、思考を休める、という、これはもしかすると、新しい表現かもしれないが、これを実践する必要もあるのかもしれない。

そもそも時間がないから難しいんだけど。

ただ、十分にねてりゃあいいってもんじゃなく、意識的に無意識になることが重要ってわけだ。


やってみるか。

時間がないというのは、何事もいいわけに過ぎないからな。




























































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ハッピーエンドとは
2016/06/27 20:35 | Comments(0) | イライラ対処
あるホームページの更新をした。
それに関しては別のブログに書いておくか。ただ、別に1時間45分くらいで更新ができたとか、そういったことは、ホームページ上に書いてもいい気がするが、ごちゃごちゃするだろうし、サーバーの管理者のリナックス更新日記とか、別にユーザーは興味ないだろうしそれはやめておこう。

へルマンヘッセのシッダールタ、読み終わった。
二回目で、初読よりも感動したのは、初作品な気がする。

以下ネタバレあり。

やっぱり、子どもは何がなんでも欲しいな、と思った、
シッダールタは、10歳ぐらい成長してから我が子に会って、溺愛するのだが、子どもは、貧しい暮らしをするシッダールタをむしろ軽蔑していく。

暴言をはき、盗みをはたらき、それでもシッダールタは子どもを愛する。そのとき、自分でも、いつも笑ってみていた、幼児人間、すなわち、日々の情動によって素直に生きる人たちと、自分が同じになっていることに気づく。

それがわかっても、師匠にとがめられても、子を愛するという気持ちをとめられなかった。


しかし、ついに、子どもは、なけなしの金などを盗んで、出奔する。


他にも、ネタバレになるが、イチャイチャした女性は蛇に咬まれて死ぬし、散々な人生である。

でも、最後は、この作品のラストは、結局生活自体はかわらないのに、ハッピーエンドのようになっている。

ハッピーエンドとは何か



どうしたら、ハッピーエンドなのか、例えば、Edenという作品で、主人公エリヤが、ある共通の被害者らをもつ女性に、彼らが死んだ事件によって僕たちは出会った、だから、僕たちが結婚して子どもを生めば、それでハッピーエンドじゃないか、という。


しかし、この考え方は、必ず崩壊する。

それは結局、時間軸上の、浮き沈みをもとにして、ハッピーを規定しているからだ。

子どもが、悪人になったら?

子どもが小さいうちに殺されたら?


大抵の作品は、お姫様と庭師は結婚し、末長く暮らしました、とか、何かターニングポイントを規定し、エンディングとなる。


でも、彼らがその後、本当に幸せだったのか分からない。

それに、避けられないだろう死を、果たして、どのように昇華したのだろうか。


時間軸の消失



シッダールタの作品の面白いところは、未来も、過去も、すべて消え去ったところにある。

しかしそれは無ではなく、川の流れのように、常に同じものはないが、常に水は流れているかのようなことである。


悟りは教えられるものではないということと、時間軸のなさ、このことが、仏教的であり、へルマンヘッセの独自性でありながら、むしろ仏教の真髄を示しているように思える。


悟りのなさと時間性のなさの例え


例えば、この作品を、もっと早くに読んでいたら、僕はもっと幸せだったのか、もっと上手くに生きられていたのか、例えば、涙で枕を濡らしていた10代のころに読んでいたら、どうだったか。


きっと、なにもわからないどころか、怒りを感じたのではないか。

勉強できて頭よくて、ルックスはよくて女の子からはきゃーきゃーいわれ、お金持ちになって、好きになった女性とは好きなだけイチャイチャできて。

なんやねん、おまえ、何が不満なんだ、いい加減にしろ!

と、
そりゃあまぁ、妬んだだけではなかったろうか(笑)


この記事に価値があるとしたら、
ポイントは、そこじゃない、と、伝えられるかどうかだ。

つまり、
確かにイケメンは、人生イージーモードかもしれないが、それと自分、そして自己、自我とは何ら関係ないのだと。



自画自賛だし、多分拍手をつけてくださった方がいるから、気をよくしただけかもしれないが、先日の記事の、自我が最良の師と気付くこと、というのは、良いタイトルだと思った。


















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考える生き方の購入決定
2016/06/24 23:16 | Comments(0) | イライラ対処
あるブロガーが出版した、考える生き方、という書籍の購入を決定した。

どうやら、高学歴で奥さんも子どもにも恵まれ、書籍も出版しブログもフォロワーが多いような人が、人生からっぽだった、とか、なんとかのたまう本らしい。


誰がそんなの読むのか、と、思ったら、やたらとレビューが高い。

もともと、政治に関しての知見が鋭い人だということだ。そんなすごいひとでも、考えることが、必要になってしまうのだ、というのが、共感をよんでいるらしい。

もしくは、自伝って、偉人が書くものだから、ふつうのひとの、ふつうの生き方というのが、共感や安心を生むのかもしれない。


なんだか、いやなかんじだ、でもそれは、もしかすると同族嫌悪的な感情なのか、という疑問と、いわゆるレビューの、こういった思考次元においての役にたたなさを思いだし、思いきって購入を決定したわけだ。

第一線の戦い

あんまり読む気はしていないが、それは、第一線で戦うことの恐れなのかと、僕は思った。

つまり、こう、ログとか、思考といった面でも、上には上がごちゃごちゃしていて、この方面でも、僕は有象無象にすぎないのか。


つらいよねー、ぐちゃぐちゃかいていて、それが生産性があるかどうか別にして、そうした表現ができることが、確かに自分が認めたある人はすごいと心から思ったとしても、その世界には、まだまだたくさん、多くの人がいたなんてのは、まさに井の中の蛙であって、蛙としては、ずっと井戸のなかにいたいだろう。

プライドの無意味さ


自己が否定されるのは、誰だってつらい。

けれども、批判や、プライドの傷つきを恐れることは、一切すべきではないのだ。


自己保身したところで、それが、誰にどう評価されるのか。
むしろ、まわりを省みない自己肯定は、哀れにすらみられるだろう。

それとまた、結局のところ、実感でしかない。

フラットな気持ち、というのが、そもそも幻想なのかもしれない。

いわゆる客観せいなど、存在しないのかもしれない。

上流下流の判断


プライベートを書くことに、意味を見いだせなかったのは、現実の生きていることじたいと、思考とは別と思っていたからだ。しかし、その書籍は、積極的に自分の生活を明らかにしている。

そのうえで、生きづらさ、のようなものを表現している書籍なのだろうか。読んでみないとわからないが、

ただ、やっぱり、感情として、恵まれている生活の人に対して、そのひとが、悩み、諦めているとか、ふざけんなって気持ちになるきがする。

僕もそうみられているなら悲しい、が、ここらへんはやっぱり、よく気を付けるべきだ。





うーん、今回、全然いい表現が頭からでてこない。書いていてあまり楽しくない。
なぜだろう。



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当ブログの読者の方へと飲み会
2016/06/23 01:25 | Comments(0) | イライラ対処
もう遅い時間だから、思いつくままにダッシュでメモ。
先日の記事とか、暗いなーっと読むと思ったりするけれども、どうか、読者の方は、心配をするとか、一緒に沈んだ気持ちになるとか、とにかく、負の状況にはならないで欲しいと思う。

決して、書いている本人として、人生絶頂楽しい嬉しい幸せだぜ、と感じているわけはないのだけれども、それ(暗い感情)と、書くということとは、全く別次元、といっていいほどのことだ。

むしろ、書いていた方が、よほど、気持ちが落ち着くし、悪い状況(負の感情というものがダメなものだというのであれば)から抜け出すことができるようなものなのだ。


ある女性たちとの飲み会。最近、B6サイズのメモ帳を持ち歩いているが、できる限り早急にメモしておくことが、精神衛生上にも、実用的にも有用であると思った。
そのメモは、プライベートも仕事も、些末なことも重要なことも、とくに気にしない。自分が知らない、新しいことだと思ったら、メモをする。それは、例えば、ある人が、ネコを好きだとか、服飾関連の仕事をしているとか、そんなこともそうだし、本当に心躍ること、感動してすごいな、と思ったこともそうだし、明日仕事で資料のアノ部分を直そうとか、そのレベルであってもよい。

玉石混交。そして、メモは、見返す、という部分もあるが、これのすごいな、と思ったことは、書いてあることが、記憶されるということだ。

逆に、書いていないことが、もう最近は本当に、猛スピードで消えていく。
この記憶力の低下、特に、瞬間記憶力というのか、それとも、中期記憶への移行力の低下なのかは分からないが、いやそもそも、今までもそうだったけれども、気にしていなかっただけなのか、とにかく、そういった心配事が、メモによってある程度解決されるのである。



このブログが「暗い」ということと、メモが何が関係あるのか、というのは、書くまでもないが、メモ的な意味もあるということだ。
そして、感情を掘り下げることが、やはり、会話の「ネタ」になることは間違いない。ある事象について、どう感じ、どのように対応したのか、どう発言したのか、行動したのか、どう考えたのか、そのこと自体が、その人そのものであり、「他者へ興味を持つ人たち」にとっては、面白いと感じる部分なのである。


すぐに忘れてるということ

タイトル、書こうと思ったことと、書いていることがまた違う気がする、そもそも、またスマホで書いていて、しばらく中断してもう一度起動したら消えていた。
本当にこまめに保存しないとだめだな。ネットワーク通信が一時的にきれるのでもダメなのかもしれない。その点は、FC2はローカル環境での文字が一時保存されていたのか、安全性が高かったなぁ。なんとなく、複数のブログが同じアカウントで作成できる、という点以外は、FC2の方が使いやすかった気がする、ということで、また話がズレ。


とにかく、いつも読んでくれてありがとうございます、と思った瞬間に、何だか、申し訳ないなぁ、とも感じたのである。
もちろん無理に読んでもらう必要はないし、もし読んでいただいたとき、暗い気持ちになってもらう必要もなければ、心配してもらう必要もない。

もちろん、気にかけて頂けることは、間違いなく、嬉しい感情なのだけれども、少なくても、書いている自分自身は、楽しんでいる、と規定して読んでもらいたい、ということだ。

それが、現実ワールドにおいて、じゃあ楽しく嬉しく生活できているか、ということは全くもって違っていて、そうでない場面はありながらも、この、書いていること自体は楽しいのだ、というイメージと思う。

なんだろう、これって、ある事象に対して、斜に構えるとか、一歩引いてみるとか、俯瞰してみるとか、そういう物事を客観視できる俺ってカッコイイ、的な、みたいな(笑)。
なのかもしれない、から、当然ながら、あまり表に出せるようなものではない、のだからこそ、こうして、好き勝手書くことができる時間、場所、そして、その場を通ってくれるか、立ち止まってくれるかは分からないが、そういった人たちがいるということは、とても貴重で嬉しいことなのである。

男女交際

もうしばらく忘れてしまったが、新しく連絡先を交換して、そっからどうやって関係を深めていくのだろうか。
そういえば、「理系のための恋愛論」とか読んで、ポイントを整理してできることは実践したりと、そんなことやっていたこともあったものだ、今も連載しているのだろうか。

もう読者へではなく独り言


だから、僕は、卑屈になって引きこもったり、自信喪失して哀しんだりとか、社会を恨んだりとか、周囲の環境を批判したりとか、そういうことを推奨するのではないのであって、決して、「暗い」とか「ネガティブ」とか、そういうものではない……というのは、あくまで僕の中の定義であって、それは、一般に「おかしい」と言われることはあるのだろうが、そういうことに気付かない人もいて先日挙げた記事の中の人はやり玉に挙がっていて可哀想だったが、僕はそれを気付いているから少し上なのだとか、まぁ、こういった思考が同時に起こるので、何が何だか、自分って何だか分からなくなった。

話しがズレた、だから、ネガティブとかいう、というのではなく、努力して、成功して、楽しい思いをして、その上で、じゃあだから何? と言われたとき、どうしようか、ということを僕は考えているわけだ。

そういった、自己との対話、成長、見守り、安心、再構築といったこと、それを、「生きる意味を考える」という表現をすることも可能と思う。

ここで、思考の罠に陥ってはならないのは、自己もまた「総体」であるということだ。


いくら考えても、身体のフィードバックがなければ精神は存在しないし、
自分一人であった場合もまた、精神は沈潜し、やがて枯れ果てるのである。

様々なフィードバック、相互作用というものにおいて、自己は成り立っている、なーんて、したり顔でいっていたら、きっと、そんなことわかってるよ、てか、今更? などと嘲笑されることだろう。

ただ、常に気を付けなければいけないのは、「知識」と、身につくこと、腑に落ちること、人に教えられること、実践できること、は全く別物なのである。

今かってな思いつきだが、このブログはまた、「訓練」であるともいっていいだろう。

ただしい思考、というものが、どこにあるのか、どれにあたるのか分からないけれども、正しい思考を統一し、精進することが、重要に思われる。



だって、これが、30代の男が書いているから嘲笑なのであって、中学生ぐらいでここまでかけたら、すごくないか?(かっこわらい)

大体において、現実ワールドのコミュニティでは、ある一定の基準、が存在するから、その基準に到達しないものは、「レベルが低い」「努力が足りない」とか、排斥や叱咤の対象となるのである。
が、しかし、そうはいっても、人それぞれの基準は、決して、ある一つのコミュニティ内で完結するものではない、このことが、イジメの問題を根本解決する唯一とも思える手段、つまり、コミュニティの再構築や、もしくは逃避という手段なのだけれども、現実的には簡単ではないことである。

そういった意味において、WEB、インターネットという部分は、すなわちそこは、もう自分の家ではなくて、例えば、全裸でキーボードを叩いていたとしても、身体は別として、精神は外の世界へと解き放たれているのである。
だからこそ、閉鎖的コミュニティまたは失敗コミュニティからの、脱出となりえるのである。




まぁ、本来的には、こうした記事を読んで、「この人面白いな! 一緒にこれから生きていきたいな!」と思ってくれるような女の子がいりゃあいーんだけど、それを実現するための、潜在意識への語りかけは、相当困難をアラームしている(笑)




まとめ

・読者の方は無理をされないで欲しい
・B6メモは記憶面も精神面からも有効
・飲み会お疲れ様でした(自分へ)





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休日のカフェで頼ること頼られること
2016/06/19 17:38 | Comments(0) | イライラ対処

たくさんの人に囲まれて


家族連れ、カップル、子どもたち、中学生、老夫婦、休日の楽しそうなひととき。

なにかを、共有すること、他者の人生を背負うこと、それがコミュニケーションであって、他者に思い通りに意思を伝えるというのは、コミュニケーションの表層なのかもしれない。

もっとも、仕事におけるコミュニケーションは、後者が正しい。あとは、できるだけ、気持ちよくなってもらうだけだ。



誰かに相談されたことはあるか



色々情報検索していて、ぐさっと、はっとなったのは、他者から相談された経験が少ないということだ。

仕事は当然別として、プライベートにおいて、なにか重大な人生のイベントについて、どうしたらよいか、尋ねられたという経験はないかもしれない。
いやいや、小さなことでも、何かあるかと考えても、でてこない。



そういう意味では、僕はとても寂しい人間なのかもしれない。

そして確かに、あまりそういったことを望んだこともなかった。心から欲したことでなければ、現象化することはあまりないのだ。


頼りかた


なるほど、そう考えると、そもそも、他者を頼る、ということが、僕はほとんどない。

これが所謂様々なことの原因かもしれない。
自慢どころか、逆に卑下的だが大抵のことは自分の力でやってきた、と書くと、学校の先生や親、親戚、友人、その他多くの人たちの力がなければ今の自分はいません、と書くことはできても、本当に解決されるべき問題に対して、他者は本当に無力だった。

え、じゃあ、思考における尊敬すべきあの人や、離婚して落ち込んでるときにメッセージをくれた人たちは、どうなのか。

いま唯一の深層欲求に従ってこうして言葉をつくりあげることができているのも、間違いなくその方々のおかげである。感謝、とかくと言葉が軽いぐらい、重要な影響をもたらしてくれた。

いますぐ書くことをやめるべきか



ポイントは、理解不可能性。

書くのをやめたところで、思考はとまらないし、むしろ頭のなかでカオスとして渦巻くことを考えれば、その100%の表現など不可能でありながら、整理され片付けられ、新たに何か構築する際のピースとなる。


ポイントは、他者との付き合いにおいて、今回のテーマの、頼るということを、意識的に取り入れた方がよいかどうか。


何で頼れないかというと、頼ると頼られるから、頼られたときに自分が力になれないと、申し訳なくて自分を責めるからだと思われる。

相手の人生を背負うことが怖いのだ。

自分ひとりであれば、最悪のことは死ねばよいだけである。

ところが、他者に対して、取り返しのつかないことをしてしまったら、自分が死んでも取り返しがつかないとしたら。

やっぱり、他者を頼ることは怖いことだ。


極端に考えすぎである



きっと、頼り頼られ、というのは、そんな考えることではなく、きっと、自然にやるものなのだろう。

僕も、最近までそんなこと考えてもいなかったから、きっと、自然に頼らないようにしてきたのだろう。


ただ、やっぱり、不思議なことは、子どもの頃からよくきくこととして、早く大人になりなさいとか、分別をつけなさいとか、自立しなさい、社会人になって一人前だとか。

独立した個として、生きていくことが奨励されている。


他人へ任せてもいいとか、仕事の管理職向けの本を読んで、なるほどなーっと思ったぐらいである。

もっとあげれば、お兄ちゃんだからしっかりしなさいとか、一人前とか、何か一人で成し遂げることではなかったのか。



このブログ自体が頼り


やっぱり、このテーマ、誰かを頼った方がいい、というのは、思慮に値しない。

まず、確認として、例えば存在価値とか、そういったことを話すことは、まずもって必要なくて、むしろ他者を不愉快にさせる可能性がある危険なことだ。

そんな危険なことを、こうして書ける場所があることが、まず、間違いなく、頼りきっている。

そして、僕の表現力と理解可能性による二重の意味において、物理世界に対して頼ることはできない。

















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