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新しいことに対する理解の仕方
2016/07/06 23:00 | Comments(0) | イライラ対処
答えがないのは、大変なことだ。

かといって、日々ルーチンだと大変といわれたりする。

つかれた、これからかえりだ。


魅力的な人間になる必要がある。
魅力的なとは、何か特技をもっていることだ。
何か夢中になれるものをもっていることだ。

否。
他愛ない、テレビ番組についてきゃあきゃあと話せるならばそれでもいい。

問題は、僕は、何か、他者に話せることがないことだ。



いや、いま、それが書きたいのではない、もうとにかく、本当に、なにもかもが、やる気というか、力が抜けていくような感覚。
なんと、表現したらいいのだろう、なんだか、底無し沼でもがきながら、徐々に埋まっていくようだ。

先日書いた、無気力病か。やる気は起きないが、頑張れ頑張れと声がする。

先が見えない不安、ああ、でも、いまふと思い出した。

これは、大学四年あたりの、授業の一貫の、インターンのような実習のとき、仕事は夜遅くまで続き、帰っても準備がいろいろとあったり、気持ちがまったく休まらなかった。

もし、仕事をするようになったら、毎日こんなかんじなのか、何がたのしいんだ、全然希望もわかない、逃げ出したい、どこへ? 仕事は多い、プライベートなんてない、誰も頼りになら無い……


そういえば、そんな感じな時代があったきがする。
そのころは、もうこんな書く場所も気力もなかったが、いまこうして書いているのは、まだ余裕があるからか。

子どもと生き甲斐

いやほんと、子どもが欲しいな、身体は健康で思考も健全ながら、やる気が、生きる気が、起きない、といいつつ、積極的に死のうとするわけではなく、なにもしたくないわけでもなくむしろ、頑張れ頑張れと心の声がきこえつつも、何で頑張る必要があるのだと無気力を呼び起こす声も聞こえる。

子どもは欲しいと思いながら、それに対しての、例えば合コンとか、婚カツサイトへの登録とか、友人の紹介をうけようとか、それらと一切やる気がしない。

というのは、最初の、魅力的な人間にならねば、という要請である。


ありのままの自分、それを愛してくれる人を探せばいいじゃない、そのとおり、ところが、いま、僕は、ありのままの自分というのも分からなくなっている。


俺は、誰だ?

とにかく多くの人たちとふれあい、自分というものを見つめ直していこう!

なんじゃそりゃ、いまさら、何を言うのか、十分人付き合いしてきたではないか。
いや、もっと、ふつう、の人はたくさん触れあっているのだ、君がふつうになるには、まだ足りないのだ。

うるせぇ、ふつうってなんだ、俺はふつうじゃないってのか。

ふつうじゃない、ふつうのひとは、こんなこと書いたりしない、こういう時間を、娯楽や自己研鑽にあてて、どんどん魅力的な人間になっていっている。


じゃあどうしたらいい、平日は最近仕事でいつもこれぐらいの時間だ。休日はほとんど、知人とでかけたり会ったりする予定でうまっている。いまの生活でこれ以上どうしたらいい?

とにかくまだまだできることがある、できることをしないで、諦めるのは、君の信条に反するのではなかったのか?



大きな誤りがある考えだ。
確かに、未来思考はじゅうようだ、しかしそれは、現時点での苦労や努力が、未来で成果を結ぶ、と信じられることによる、再帰的な現時点性の肯定であり、楽しみである。
いまの自分は、その未来がみえず、かといって現時点性の肯定ができるほどの元気もない。

生きたくもない、死にたくもない、ゾンビのような状況だ



ああ、うるさい、なら、酒だ。酒でものんで、泥酔して余計なことをわすれてしまえばいい。

愚かしい、酒を飲みすぎると気分が悪くなることはよくわかっているはずだし、相当な量も必要だ。





熱中できるゲーム

思い出した、熱中できるゲームがないときも、こういった状況になりがちであった。

ゲームの時間は人生の無駄とかよくきくけれども、結構、人生につなぎとめてくれる意味で、重要なものだと思うなぁ。


こういったこと書いてると、若いうちに多くの経験をしなかったからだとか、勉強がたりなかった、努力がたりなかった、まぁそんな非難ばかりになるだろう。

これが、十代の少年なら、思春期だねぇと、保護の対象にすらなるかもしれない。

気持ちの悪い、いい大人が、こんなんでは害悪でしかないだろう。


ところが、僕は少なくても、その若いうちからこんなようなことを考えざるえなかったし、経験や努力的なことも、十分にやってきた。この、十分というのは、所詮比較概念になると、どれほどの量かは無意味になるから、十分に、としか表現のしようがない。

たとえば、努力が足りないから、もっと頑張れ、といってみれば、その空虚さがみにしみる。
それに、いわれなくても、むしろ、自分自身に、常に頑張れ頑張れと言われるのだ。



ああ、ほんとうに、もう、疲れる、疲れた。

蛇足という追記


いま、家にたどり着いたが、それで例えば、おかえり!今日も遅くまでお疲れさま!
といって迎えてくれる彼女でもいたらどうだろう、少しは元気になるだろうか。

なる気がする、でも、そんな可愛い子に対しても相手をする気力がわかない。

明日の打ち合わせとか気がかりだし…




他者に頼らないのが、やっぱりよくないのか。

よく考えたら、まあ、離婚からまだ2か月過ぎていないけれども、未だ、仲の良い友人たちにも、話しをしていない。というのは、まぁ、結婚式とか出てもらっていて、何だか申し訳ない、という気持ちが強いってのもあるんだけれども……。

なんだか、これが、俺の悪いところな気がするが、何か問題が発生したとき、誰かに丸投げしようとは思わないんだよな、相談は当然するんだけれども、最終的には、自分が解決しなければいけない、と思ってしまう。

任せることは任せる、ってのが、仕事でも重要ではあるのだから、これは課題と思う、のだが、そもそも、新規事業の開拓の仕事とか、そもそも後輩がいない部署だとか、あんまり指導されたことも指導したこともないかもしれない、もちろんゼロではないが……。

でも相談ってどうするのか

と、客観的に自分を見ようとする面は、自分の長所と思いつつも、「離婚しました~」っといったところで、それを友人たちに言って、どうするのか。
もちろん、誰か知り合いを紹介してもらうとか、有意義な時間になるだろうと思いつつも、そもそも、今、自分がどうしたいのか、それすら分からないときに、友人など他者と会話して、どうなるというのか。

実際、やってみたこともあって、まぁ数十分話をしていると、「それで、お前はどうしたいんだ?」とか、そういう話に向かっていく。「自分のしたいようにするのが一番だよ!」とか、励ましてくれたり、うんうん、優しい人たちだ。


いやでも、結局、どうしたらいいか、分からなくなるという構造。

だから、こうやって書いているのは、間違いなく、自分のためというのがある。いくら、きれいごとで、誰かの役に立ちたい、なんてブログの目的を書いたところで、いやまぁそれはそれで本気でそう思っているんだけれども、自分を知るためにやってるのが大きなウェイトだと思う。

でもなー、分からないなぁ。

とにかく、帰りの電車の中で、ものすごい疲労感でつぶされそうになるのは、回避したいと思う。

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他者の話を聞くこと
2016/07/01 21:41 | Comments(0) | イライラ対処
いやはや、知識ゼロの事象について、口だけで説明されて、それを覚えて対応しろ、と、これは難しい。

頭がいい人はできるのだろうか?

メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。



やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。

感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。

全然伝わっていないことが多々ある。

人を納得させる根拠ってのも難しい。

行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。


プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。



この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。

と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。




こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。


かわいい子ども



先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。

ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。


ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。

特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。

何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。

できることは現状描写



つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。

結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。

そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。


明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。

せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。


寝てはいけない。























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書く気が起こらないときに書く
2016/06/30 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
どんな楽しいことでも、ずっとそればかりをすると、飽きたり疲れたり楽しくなくなる。

しかし、どうにもやる気が起きなかったり、もやもやしたり、落ち着かなかったりしたときは、まず、書いてみることが有効だと学んだ。

不思議なほど、頭になにもうかばない。いつも同時思考的に様々なことが浮かぶけれども、感情の起伏すらよく分からない。


サイトの更新のこと、今日のランチのこと、仕事でバタバタしたこと、知人が夜に家にくること、今週末の旅行のこと、事象は浮かぶけれども、何も感情がわかない。

誰かに話そうとも思わなければ、敢えて書こうとも思わない。いま、無理矢理に書いている。



いやなことがあることすら


感情がないことは、僕が目指したことだったか。

ところで、ニュースのコラムで、自分の頭で考えろ、というが、それよりも、事実をしっかりとらえることが重要だ、といわれていた。

意見、推測、事実と、他者の発言も自分の発言も、しっかり見極める必要があるのだという。


ほらみたことか、と鬼の首とるわけではないが、僕が前から書いている、まずはインプットが重要だということに他ならない。

常に意識するため、たびたびそういった情報に触れるのは悪くはないが、大体自己啓発的なものは、知識としてはあるのだ。

と、そういった考えにとらわれると、いわゆる保守的な、頑固じじい、になるので、キャッチコピー的に気になる記事は読むようにしているが、最近新しい情報などほとんどない。


ゆえに、むしろ、女の子向けのコラム、すなわち、どうしたら男の子にモテるのか、結婚できるのか、とか、そういった記事を読むようにしている。

まあそれも、大半は斜め読みすらする必要がない。


何かを批判することで自尊心を保つ


何か言って、といわれて、こうした批判が浮かぶのは、嫌みな野郎なのだろうか。

まぁ、上に書いたことも、特段書きたかったわけではない。



ただ、問題は、意欲とかモチベーションとかの意味で、どうにもこうにも、力がでないのだ。


奮い立たせて、試験勉強は、五分くらいはしているが、結構つらい。

どうでもいい感が強い。



こういうときはどうしたらいいのか。

風呂に入って寝る、それだけである。



自分を偽ると疲れるという。

しかし、もう僕は、偽りの自分など、いないはずだ。

まぁこんなことを、常日頃いっているわけではないから、やはり、偽っているのかもしれない、とはいえ、社会性というのは、そもそも、自己に着せる服だろう。特段特殊なわけではない。


んじゃーいったい、なんなんだって話だ。

書きたくもない、何かしたいわけでもない、かといって不満があるわけではない、じゃあなんだってのか。

ただ、いまこそ、こういうときの気持ちこそ、しっかりと、言語化し、分析が必要ではないか。

単に睡眠不足では



よく考えると、先週くらいから、睡眠時間4時間とか5時間ではなかったろうか。

電車内とか、昼寝を含めれば、プラス一時間はありそうだが、まとまった睡眠は確かに少なそうだ。


単に疲れてるだけか。

身体からのフィードバックなしに、思考は存在しない。


やはり、土日フルで予定がはいっていると、気が休まらないのか。
ということは、外に遊びに行くとは、リフレッシュというよりは、むしろ仕事に近いのかもしれない。

ということは、他者といる時間は、リフレッシュできないということか。

そんなことはないだろう、ただし、一人の時間も大切だよと、世間はいう。一方で、他者との関係も大事だよと世間はいう。どっちやねん。それは、中庸だよ、バランスが大事だよ、どうすりゃええねん。



こうやって、一人になっても、まだ、何か書くようにと、何かインプットしろと、僕の心は呼び掛けてきて、一方で身体からのフィードバックに耳を傾けるとやる気がしないという。


これが結構つらいのだ。


この感覚の言語化は難しいが、休め、と思考で命令したところで、背反する感情、もっと時間を大切にとか、頑張らなきゃとかが、混在するカオス。

結局、ゆっくり休むこともできないながら、かといって何かをすることもできずに、椅子に座ったまま硬直してしまうのである。





なにもする気が起きないと、身体的不調がきになってくる。

お腹はいたいし、喉もいがいがするきがする。とかくと、風邪じゃん?と一言で終わりだが、そうではない。

でもまぁ、いまそうかいてみて、確かに、風邪のときは、なにもする気も考える気もおきないから、似ていると言えばにている。

ああ、そうか、風邪、とすれば、そうかもしれない。風邪ではないけれども、病気、という状態とすれば、まぁ、休みなよ、と、体からの訴えも、素直に聞ける気がする。



ではせっかくなので、この状態に名前をつけよう。

病名 無気力病
症状 倦怠感が発生、何のやる気も起きなくなる、しかし頑張れと心の声が聞こえる
治療 風呂に入る。それでも良くならなければ、寝ることを試みる。この際、無理に寝ようとしてはならない。ただ、できるだけ何も考えないようにする、坐禅などが有効と考えられるが、特効薬は見つかっていない。難病指定である。



単に鬱病では?(笑)
ただ、医学的な鬱病という表現では、自分の感覚を適切に表現できない。
それだって、プチ鬱とか、新型うつとか、新しい表現が発掘されてきたのだ。

医者にいってもいいが、精神科なんて、患者の症状を、問診で読み取るのが主なのだから、いやもちろん、内科医とか問診重要だが、CTスキャンしたら鬱病が見えるとか、腫瘍マーカーみたいに、特定の物質に反応する薬剤で鬱の原因ウイルスとかが見つかるわけではないという意味で。


だとしたら、どれだけ自分のことを表現できるかに尽きるわかだ。


その表現が支離滅裂だったりすれば、統合失調症とか、病名がもらえたり。
うん、是非とも、この記事を読んでもらって、病気かどうか判断してもらいたいものだ、きっと、誰にでもある悩みですね、ひどくなるようならまた受診してくださいみたいになるだけだ。


第一において、、、と、少しずつ饒舌になってきたが、


意味や目的があること



こういうときに、生きる意味とか、しっかりもっていると強い。

明日への活力、希望になる。

幸せって何か、といいながら、甘いものを頬張ると、まぁまぁ幸せである。

で、一個100円くらいの甘いもので幸せなら、楽しいなら、とりあえず数年は楽しく幸せに生きていける。


そんなものでいいのか。

それで満足して生きていていいのか?


もしかして、身体が疲れた休みたいといいながら、もっとできる、頑張れと強要する、無気力病と、僕が生きる意味とかいって模作しているのは、同じ構造なのか?


というのは、もう考えるのはよそうぜ? 毎日、それとなく生きていけばいいじゃないか。
まわりや、女の子たちは、成長とか、頑張っている姿にほれたり、出世に必要だったりするかもしれないが、もうそんなのに応えるのは、とっくに限界だったのではないか。



無理に無理をしているから、すべてにやる気がなくなり、その状態すらもおそれて、生きる意味とか探そうとしているのではないか。



体もそうだが、頭も、思考も、休ませて欲しいのではないのか。

身体は寝る頭は?



体を休ませるのは、寝ればいい。

では、頭を休めるにはどうしたらいいのか?


寝ているでもなく、起きているでもなく……というと、まさに坐禅のことになる。
ほんと、仏教色が強くなっていやになるほどだ、僕はキルケゴールさんだって好きなのだ。

ただ、思考を休める、という、これはもしかすると、新しい表現かもしれないが、これを実践する必要もあるのかもしれない。

そもそも時間がないから難しいんだけど。

ただ、十分にねてりゃあいいってもんじゃなく、意識的に無意識になることが重要ってわけだ。


やってみるか。

時間がないというのは、何事もいいわけに過ぎないからな。




























































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ハッピーエンドとは
2016/06/27 20:35 | Comments(0) | イライラ対処
あるホームページの更新をした。
それに関しては別のブログに書いておくか。ただ、別に1時間45分くらいで更新ができたとか、そういったことは、ホームページ上に書いてもいい気がするが、ごちゃごちゃするだろうし、サーバーの管理者のリナックス更新日記とか、別にユーザーは興味ないだろうしそれはやめておこう。

へルマンヘッセのシッダールタ、読み終わった。
二回目で、初読よりも感動したのは、初作品な気がする。

以下ネタバレあり。

やっぱり、子どもは何がなんでも欲しいな、と思った、
シッダールタは、10歳ぐらい成長してから我が子に会って、溺愛するのだが、子どもは、貧しい暮らしをするシッダールタをむしろ軽蔑していく。

暴言をはき、盗みをはたらき、それでもシッダールタは子どもを愛する。そのとき、自分でも、いつも笑ってみていた、幼児人間、すなわち、日々の情動によって素直に生きる人たちと、自分が同じになっていることに気づく。

それがわかっても、師匠にとがめられても、子を愛するという気持ちをとめられなかった。


しかし、ついに、子どもは、なけなしの金などを盗んで、出奔する。


他にも、ネタバレになるが、イチャイチャした女性は蛇に咬まれて死ぬし、散々な人生である。

でも、最後は、この作品のラストは、結局生活自体はかわらないのに、ハッピーエンドのようになっている。

ハッピーエンドとは何か



どうしたら、ハッピーエンドなのか、例えば、Edenという作品で、主人公エリヤが、ある共通の被害者らをもつ女性に、彼らが死んだ事件によって僕たちは出会った、だから、僕たちが結婚して子どもを生めば、それでハッピーエンドじゃないか、という。


しかし、この考え方は、必ず崩壊する。

それは結局、時間軸上の、浮き沈みをもとにして、ハッピーを規定しているからだ。

子どもが、悪人になったら?

子どもが小さいうちに殺されたら?


大抵の作品は、お姫様と庭師は結婚し、末長く暮らしました、とか、何かターニングポイントを規定し、エンディングとなる。


でも、彼らがその後、本当に幸せだったのか分からない。

それに、避けられないだろう死を、果たして、どのように昇華したのだろうか。


時間軸の消失



シッダールタの作品の面白いところは、未来も、過去も、すべて消え去ったところにある。

しかしそれは無ではなく、川の流れのように、常に同じものはないが、常に水は流れているかのようなことである。


悟りは教えられるものではないということと、時間軸のなさ、このことが、仏教的であり、へルマンヘッセの独自性でありながら、むしろ仏教の真髄を示しているように思える。


悟りのなさと時間性のなさの例え


例えば、この作品を、もっと早くに読んでいたら、僕はもっと幸せだったのか、もっと上手くに生きられていたのか、例えば、涙で枕を濡らしていた10代のころに読んでいたら、どうだったか。


きっと、なにもわからないどころか、怒りを感じたのではないか。

勉強できて頭よくて、ルックスはよくて女の子からはきゃーきゃーいわれ、お金持ちになって、好きになった女性とは好きなだけイチャイチャできて。

なんやねん、おまえ、何が不満なんだ、いい加減にしろ!

と、
そりゃあまぁ、妬んだだけではなかったろうか(笑)


この記事に価値があるとしたら、
ポイントは、そこじゃない、と、伝えられるかどうかだ。

つまり、
確かにイケメンは、人生イージーモードかもしれないが、それと自分、そして自己、自我とは何ら関係ないのだと。



自画自賛だし、多分拍手をつけてくださった方がいるから、気をよくしただけかもしれないが、先日の記事の、自我が最良の師と気付くこと、というのは、良いタイトルだと思った。


















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考える生き方の購入決定
2016/06/24 23:16 | Comments(0) | イライラ対処
あるブロガーが出版した、考える生き方、という書籍の購入を決定した。

どうやら、高学歴で奥さんも子どもにも恵まれ、書籍も出版しブログもフォロワーが多いような人が、人生からっぽだった、とか、なんとかのたまう本らしい。


誰がそんなの読むのか、と、思ったら、やたらとレビューが高い。

もともと、政治に関しての知見が鋭い人だということだ。そんなすごいひとでも、考えることが、必要になってしまうのだ、というのが、共感をよんでいるらしい。

もしくは、自伝って、偉人が書くものだから、ふつうのひとの、ふつうの生き方というのが、共感や安心を生むのかもしれない。


なんだか、いやなかんじだ、でもそれは、もしかすると同族嫌悪的な感情なのか、という疑問と、いわゆるレビューの、こういった思考次元においての役にたたなさを思いだし、思いきって購入を決定したわけだ。

第一線の戦い

あんまり読む気はしていないが、それは、第一線で戦うことの恐れなのかと、僕は思った。

つまり、こう、ログとか、思考といった面でも、上には上がごちゃごちゃしていて、この方面でも、僕は有象無象にすぎないのか。


つらいよねー、ぐちゃぐちゃかいていて、それが生産性があるかどうか別にして、そうした表現ができることが、確かに自分が認めたある人はすごいと心から思ったとしても、その世界には、まだまだたくさん、多くの人がいたなんてのは、まさに井の中の蛙であって、蛙としては、ずっと井戸のなかにいたいだろう。

プライドの無意味さ


自己が否定されるのは、誰だってつらい。

けれども、批判や、プライドの傷つきを恐れることは、一切すべきではないのだ。


自己保身したところで、それが、誰にどう評価されるのか。
むしろ、まわりを省みない自己肯定は、哀れにすらみられるだろう。

それとまた、結局のところ、実感でしかない。

フラットな気持ち、というのが、そもそも幻想なのかもしれない。

いわゆる客観せいなど、存在しないのかもしれない。

上流下流の判断


プライベートを書くことに、意味を見いだせなかったのは、現実の生きていることじたいと、思考とは別と思っていたからだ。しかし、その書籍は、積極的に自分の生活を明らかにしている。

そのうえで、生きづらさ、のようなものを表現している書籍なのだろうか。読んでみないとわからないが、

ただ、やっぱり、感情として、恵まれている生活の人に対して、そのひとが、悩み、諦めているとか、ふざけんなって気持ちになるきがする。

僕もそうみられているなら悲しい、が、ここらへんはやっぱり、よく気を付けるべきだ。





うーん、今回、全然いい表現が頭からでてこない。書いていてあまり楽しくない。
なぜだろう。



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