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生きる意味を考えることとはその二
2016/08/03 18:00 | Comments(0) | イライラ対処
思考は、理想自己との一致のために行う作業である。

理想自己とは、その瞬間、そうとしかありえない、言葉、行動、状況、反応のことである。

生きる意味とは、その理想自己と現実が一致したときに、分かるものである。


この三点目が、今回掘り下げて書くべきことだろう。

自分のなかでは、違和感がある、それは何故か。
理想自己と生きる意味との関係性である。

自分がこうあるべきで実際そうであり、それ以外を実感レベルで考えられない状態、真実そのものが、理想自己である。
そのため、理想自己は、到達する目標ですらないことを先日書いた。
そこまではいい。

次に、その理想自己に到達するための思考とは何か、ということと、そもそも、生きる意味をみつけることとこ関係性がわからない、ということだ。


理想自己への到達の矛盾



理想自己は、目的でも目標でもないと書いた。
すると、その理想自己となるための、その状況に至ること、そのことが、そのまま矛盾となるのだ。

つまり、理想自己とは、理想的な概念ではあるものの、目の前にぶらさげられたニンジンのようなものなのではないか。

この表現は難しい、ただ、ここでは仮に、理想自己には、なる、ものであると表現する。
現実と自己との擦り合わせである。

こう書くと、現実にただ追従し流されるだけ、長いものにまかれるだけ、とも感じられる。そうではない、それでは、自己など存在しない。

すぐさま、自己は不要ではないか、との議題があげられるものの、これは棄却する。
自己は、捨て去ることができないものである。特に私はそうである。その理由は、経験によるもののため、根拠は薄い。

とにかく、10歳ぐらいから、友達と、小学校の休み時間にトランプしたり遊んだこと、母親がつくってくれたドーナッツの美味しさなど……自己が生じ始めた時期に、人間関係で嫌な思いをし、死んでしまいたいと思ったことがある。

その感覚は当然、いま呼び起こすことはできないものの、その後、紙のノートに日記ともいえない、いわゆる思考そのものの過程、これをログ、の僕は勝手に読んでいるが、そのログを書き続けていったことに繋がるのだと思っている。

それらは、懐古主義であり、トラウマが現在に影響していても、単に甘えに過ぎない、ぐらいに思っていたが、そこから辿らなければ、やはり自己を知ることはできない。

知る必要があるのか、という疑念、これらは、とことん排除していく必要がある。とにかく、自己は、過去からいままで、結局消えることはなかったし、それが現実と共鳴することもなかったのだ。

死にたいって思ったことある?


この疑問、なんで仕事してるかわかんない、ぐらいに言っていた友人に、思いきって聞いてみた。

オブラートに、生きてる意味わかんねーってなったことある、っとか、笑顔で。
え、それはないよ、と即答だった。おぉ、やっぱり、そういうもんか。


なんやかんや、みんな、自己と現実が一致しているのである。解離性障害みたいになんてならないのだ、……ほんとか?

みな、人生とは、なんらか、不満を感じながら生きていくものだ、とか、よく聞くはなしだが、その不満とは、所詮、自己を脅かすレベルのものではないというのか。

そしたら、自分は何故こんなにも、こんがらがってしまったのか。

過去の自己を無視して、更地に新しい建物をたてようとした、が、結局土台がしっかりしないから、崩落した。

いまは、特に、立ち止まって考えるべきだ。


ルーチン作業


薫習、といって、日々の修行をこなしていると、身に付けるものにお香の匂いがしみつくのだという。
正しいことを繰り返し行うことが、重要だといわれる。

正しいかは分からないが、僕はずっと、考えること、書くことはずっと続けてきた。

ある意味習慣なのだから、簡単にやめることもできないだろう。なら、これを利用するっきゃない。


思考パニック


いま、真面目に答えを出そうと考えてたら、様々な過去がフラッシュバックして、危うく発狂、とかくと、オーバーな気がするが、具合悪くなりかけた。

書くことは、やっぱり、楽しんでてきとーに書いてるぐらいがいいのか、でも、それだと、他者に感動を与えるようなことはできない。

うーん……なんやかんや、一時間たったのか。

どんだけ時間を使えば、前に進めるのか、いや、そもそも、いま僕は、前ってどっちかが分からなくなっている。


なんで人はみな、楽しそうに生きている?

なぜ人はみな、苦しみを乗り越えて笑ってられる?

なぜ、避けられない死の恐怖を感じない?



そして、なぜ僕はこんなふうに考えざるえない?

なぜ僕は、自己を、どこか遠くにあるものだと感じる?




なぜだ?

なぜ?


頭が真っ白になる、というより、様々な絵の具でぐちゃまぜになって、結果真っ黒になつていくような、そんな感覚に、もう常に書いていないと自分が保てない。


いやはや、まいっちまうね、こりゃ、


そうやってすぐ、悲劇の主人公気分か、きめぇ、早くしんじまえよ。
とかも声が聞こえるし、うるさいうるさい、黙ってろ。

そしたらこのタイミングで、お久しぶりです!メアド変えたから登録よろしくねってメールが。

差出人不明、間違いなく迷惑メール、でも、弱っちまってると、返信してしまいそうだ、わらい。

ああ、ほんとに具合が悪い、今日はここまで。
カテゴリ、思考にしたけど、日常に変えよう。
失敗した。








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年齢と思考との関係
2016/08/01 07:00 | Comments(0) | イライラ対処
20代でやっておくこと、30代で考えるべきこと、40代で決めること、50代で考えるべきこと……


それぞれの年齢で、するべきことを示す本は多い。
それぞれ読んでみてわかるのは、その通して根底にあるものである。

結果的に、それらは僕に感動を与えなかった、何故か。現実的なるものの構築を前提にしているからだ。

もうひとつ、年齢は関係ないという説明、いわゆる、何かを始めるには遅い時期はない、というもの、これとの矛盾も気になるところ。

矛盾とか、足りなさ、物足りなさに悶えるのであれば、そういった言せつに惑わされる必要はもうないだろうと思う。


思考の無意味性


先日の記事は、一週間が始まる今日読んでも、やはりよいと思った。よい、というのは、ポイントが整理されていて分かりやすいということだ。書いていて意識はしていなかったが、たまにこうしたよい記事ができる、と、自画自賛したいわけではない。

ただ、続きを書くべきだが、ちょっとハードルがあがって書けない、ぐらいには思う。

まず、土台の補強を、と思う。

ひとつ、思考それ自体に意味はないということ。
小説家は、その創作を論理的に構築する必要があるかもしれないが、特殊な職業は保留とする。
基本的には、現実的なるものとのフィードバックを必要とする。

思考のためだけの思考は、避けるべきということだ。そうでなければ、面白さすら表現できないだろう。


理想自己



思考の目的とは、現実と理想自己との一致である。
では、理想自己とは何か。それを知ることも、思考のひとつの目的である。

このとき、理想自己とを、目指す到達点のように考えては、ならない。

何か、到達するべきものではなく、理想自己は、それが表象する、法則、ルールなどを知ることでもある。

理想自己は、固定的なものではない。このことは、一般に、目的とされるものとは異なる。
現実において、目標は、達成する壁のようでもある、乗り越えていくものだ。


飲み会


で、また時間が経って、飲み会である。
昨日も、自宅でやきとりなどを買って、先日購入したビーフィーター24というジンと、グレープフルーツでオリジナルカクテルを楽しんだ。
氷もスーパーでわざわざ大きめのものを購入した。

たいした手間はないけれども、楽しかった。

今日の飲み会も、何ら気を使わず笑って話した。うん、やっぱり、学生時代の友人はよいものだ。

過去の来歴を知ってるというのは、それだけで価値があるものと思う。

といった表現をすると、俺には友達が一人もいない、と寂しさを嘆く人たちの支持を失うだろう。
お前は、ぐだぐだとネガティブなことを書きつつも、実はもっとじぶんより下の人をみて喜んでいるのだと。


こうなってくると、僕のこの思考というものが、単なる我儘とか、逃げとか、甘えとか、思考としてすら認められなくなるのである。

逆に、こうした事情から、イケメン、リア充的な人も、受け入れられるようになった。


思考は万人にひらかれている。

ヘルマンヘッセのシッダールタは、歩くだけで女の子にきゃーきゃーいわれるイケメンであったが、決してリア充ではなかった。

他の表現をすれば、上をみてもきりがなければ下をみてもきりがない。こうやって帰っているなかも、ベンチに座ったカップルがキスをしている。

他者と比較しても無意味といわれるが、なかなかできないもの。でもそれでも、その無意味性を強く実感するようになってくると、自然に妬みとか嫉妬とか、そういった感情はあまり生じなくなってくる。


果たしてそれがよいことかは、他者に気妙味をもつべき、というのもあるから、難しいところ。それこそ、中庸である。

そして次の日


財布について、ダンヒルとヴィレクストラというブランドのものが、三十代に人気とのこと。
いまの財布も古くなってきたため、買い換えようかと思っている。で、女性との初対面の印象で大事なのは、高そうな長財布と、ゴールドカードだそうな(笑)


そういった、いかにも恋愛至上市場主義的なのに、面倒さとか胡散臭さを思っていたが、これも、次のように解釈すると、自分のなかでも対応が可能。

お金を何に使うか、ということの考えについても含めて、自分自身である、ということだ。

僕が何故ブランドものとか、高級品をばかげていると思っていたかは、これまでの記事を読むとわかる。
つまり、真実性の希求において、ブランドというのは、飾り、虚飾にすぎないのだ。

だから、そういったブランド、嗜好品、高級品よりも、機能性を追求するし……別に安物を求めるというのではなく、機能的に優れていれば、お金を出すのは吝かではない、ブランドは、その価格の価値が、機能以外の部分であるのだと、その認識であったわけだ。

その認識に変化があったわけではない。そうきた、みかけ、にたいしての自分の評価が高まったとしても、なんら嬉しくないと、そう思っていたわけだ。

お金の使い方



しかし、こう考えてみてもよい、その、お金のつかいかたを含めて、自分なのだと。
ルックスも、持ち物も、言葉も、声も、行動も自分なのだ、と。


自分、というものに拘りすぎなのかもしれない。
長いものにまかれてもいいじゃないか、と。


さらに翌日



カクテル3杯で、予想外によった。やはり、新しい居酒屋で一人飲むのは、その雰囲気が手伝ってよいが早いのかもしれない。

で、2時間くらい仮眠になったら、なかなか寝付けなかった。

これはチャンスと、色々思考にまわそうとした。


しかし、言葉が出てこない、出てきてもすぐ消える。

思ったのは、頭のなかだけで考えていると、同じことの堂々巡りになる。
アウトプットが大事なのだ。

些細なことも、頭によぎったことはメモをする。

メモは、補助記憶装置というよりも、もはや主記憶装置だ。

頭のなかの表現は、レジスタ、高速な記憶装置といえるだろう。でもすぐ消える。

エレファントテクニック


到達点はどこか。

大きな目標達成には、小分けにすることが大事。
身近な目標から達成する必要がある。

まず、このブログの到達点は何か、というより、複数日にまたがってきている、この記事の到達点はどこか。






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バーでジンの美味しさに気付く
2016/07/30 23:00 | Comments(0) | イライラ対処
先日の記事を読み直した、ひさびさに真面目に考えている感じがある。
用語定義のカテゴリをつくろうか。例えば、理想自己とか、何度も登場する表現である。
先日の記事では、考えることの、それ自体の無意味性について触れた。これはとても大事なことである。

タイトルは重要である。
生きる意味を徹底して考える。
このタイトルがなければ、僕はいつまでも自慰的なことをダラダラつらつらと書き続けていたかもしれない。

それも必要かもしれない、何せ、書いていること自体の楽しさはあるのだ。

しかし、70歳にもなって、まだ理想自己とのギャップ、なんて書いているのだろうか。そんな自分は、ちょっと想像したくない。おそらく、それぐらいになっていたら、先に自死を選んでそうだ。親だって亡くなっている可能性も高いし。それこそ、生きる意味を、もう見いだす可能性はないだろう。


この、数字というのは重要だ。70歳、と頭で考えるのと、いざ目にするのとでは違う。なんだか、やばい!ってきがする。語彙力のなさに辟易。やばい、を、焦燥感とか表現しようとは思ったが、やっぱり、やばい、が、適切に思ってしまうところが。

ジン


で、本当は、先日の記事の続きで、徹底的に考えたいとおもったが、バーに行って飲んだジンが美味しくて、そのメモを優先している。もう遅い時間になったし。

ジンとは、蒸留酒で、ジュニパーベリーで香り付けされているお酒である。

と、調べればすぐに出てくるが、実感があったことはメモメモ。

飲んだのは、ボンベイサファイアという種類。タンカレーという種類も飲んだが、ボンベイサファイアが非常によかった。

ウォッカとは違う香り付けがよいと思った。

グラスの中で、乾いた音を立てて氷が揺れるのもいい。

バーっていいなと思った。

バーって、居酒屋と何が違うのか、とか、僕はすぐそんな疑問が浮かぶ。
調べてないが、西洋風か、日本風かの違いだろうか。

と、眠いので、本当は記事をかくきはなかったのだけど、ここで、このタイミングで書くかどうかで、このご一生の僕の記憶に左右する。

これは、復習の効果である。

復習をしないと、人の記憶は驚くほど早く消える。

復習をしても消える。

けれど、残るものもある。

その残るものの積み重ね、
それが自分である。


自分とは何か、と問われて、所属を答えたり、名前をいったりする方法もある。

僕は、記憶である、と答えたりもする。

身体も重要な要素であるが、完全に記憶をなくしたら、それは自分ではないだろう。


だから、記憶喪失とか、認知症とかボケ、というのは、ある意味で死、なのだと思う。


そういう意味で、誰かの記憶に残っていれば、永遠に生き続けるのだよ、といった表現もあるが、自分という意味では死んでしまったのである。


だから、記憶って大事にしたほうがいいと思う。

暗記は、詰め込み教育の批判とか、望ましくないとされるけど、でもやっぱり大事なことだ。


もちろん、体感によって記憶をつくるひともいる。

だから、あんまり勉強が得意でなくたってよい。

ただ僕は、昔から、なのかは分からないが、言語かできないことは、すぐに忘れてしまう。そもそも頭にはいらない。

思考をするのは、言葉をつくる、表現をするということでもある。


ああ、家が近づいてきた。
お疲れさま。









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友人との会食飲み
2016/07/28 23:36 | Comments(0) | イライラ対処
当ブログで、拍手を押してくれる方がいる。
あえて、気づかないふりをしようかとも頭に浮かぶのが、自分らしいと思いながら、自分に対しての偽りを、分析を、それが辛く不快なものであっても、もう僕は逃げはしないだろう。

ということで、拍手、これほど嬉しいものとは思わなかった、拍手という言葉が、賞賛とまでいかなくても、読んだよとか、イイネ的な意味には、自然に感じさせるのだ。

この機能、みくしいとかツイッターとかで普及したのだろうが、なんだか寂しさを感じる人にとっては非常に有効だろう。

と、一般論的に書くとこうなるが、やはり、継続性は、僕にとって代えがたく感動を与えるのだ。


確かに、かい心のできの記事があったとする。
それにコメントがついたり、役に立ちましたとかいわれたら、きっと飛び上がって嬉しい、が
それよりも、継続して、簡単でも、イイネを押してくれる方が、時として嬉しいときもあるということだ。


それが嘲笑的な意味の可能性を僕が考えないはずはないが、でも、それでも、例えアンチだとしても
ありがたいことではないか、と思うのだ。


友人への報告



面白いものだ。

今日、偶然的に、会うことになって、昼も、また夜も、別の友人にあって話す機会があった。


こういう偶然は、なにか、世界的に、訴えるものがあるのだろうと思う、と書くと宗教的だが、厳密には、そのふりかかる出来事に対しての僕の考え方や感じ方によるものともいえる。

どちらも、科学的ではないから、胡散臭さがあると思う。

ただ、僕は、乗って運転したい車のことを強くそうきして、家の壁紙にはって毎日みていたら、事故によってその乗りたい車を運転することができた、という20代の経験から、何か強烈なイメージは、その現実性との整合性をできるだけ近づけた上で実現するのだと、そう、思った。



悪口を言わないこと



前項の小見出しと内容が一致しなかった。まぁよい、とにかく、最近、怖いものがないため、好き勝手言葉を発している。

あのひと、めんどくさいんだよねーからはじまって、この仕事意味あるんすかーみたいなものまで。

まぁ、すごくなめくさってる。

逆に、人間らしくなったともいえる。サラリーマンは、飲み屋でぐちをいうものだ。

いーんだけどね、俺は、そういうのは、やっぱり、それこそ無意味と思う。

悪口いっても、つまらなそうにしても、どのみち、一分一秒が過ぎていくわけで、だったら、前向きに改善策や打開策を考えていた方が楽しいのでは、と思うのだが。


自信




人間としての自信、俺は、生きていていいんだ、人の役にたっているんだという自信、それがあると、結構なんでもうまくやってけるものだ。

苦しいことや面倒やことがあっても、うまくやってけるものだ。


で、その自信をつけるには、努力だけじゃだめで、現実との距離感をうまくつけることが大事なんだが……


って書いてたら、ガムかむのが、自分の口のなかをかんで血のあじがする。
最近、えん下もうまくいかないこともあるし、歳を感じるなぁ。
というか、痛い、今日はこれまでにする…

とにかく、仕事を途中できりあげ友人と飲み会の時間をつくれたのはよかった、とだけメモする。

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楽しいという言葉の意味
2016/07/27 22:25 | Comments(0) | イライラ対処
この時間から帰宅となると、やはり体力的、精神的にすり減っている、その状態での思考とはどういう意味か、先日の記事の通り、まったなしである。

そのまた先日の記事において、僕には親友がいないのではと書いた。でも、親友も友人も相対概念だし些末ごとだと書いた。

この、同じことを、楽しそうに言うか、つらそうに暗そうに言うかで、他者の感じ方が違う。

楽しそうにしていれば、特にその人が著名人だったり好きな人だったら、ああ、そういう考え方もあるのだと、受け入れられやすい。

一方、暗そうにしていたら、その考え方を受け入れたら自分まで暗くなりそうだ、くわばらくわばら。


というわけで、人は楽しそうな人についていく。当たり前の、自然現象だ。



ということを書いて、思って、僕は何をしたいのか。


時間のなさ



友人と会う予定であって、突発的な仕事になって、帰ったらもう寝るぐらいしかない時間になったとき、なにやってんだろ、俺って誰だろ、みたいになる。

これが、帰って、お父さんおかえりなさい! 遅かったね、大丈夫?

みたいに迎えてくれる子供や妻がいたら、元気がでるかもしれない。


でも待ってほしい。深夜、0時すぎて帰って、起きてまっててくれるなんて、そんなのありえないし、むしろ申し訳無さすぎる。


で、そうやって触れあう時間が少なくなって、すれ違いが増えて、生きるATMになったり、離婚したり家庭内暴力とか、散々なことになる事例は、決してまれなことではないだろう。

だから、仕事をきりつけることとか、優先順位とか、考える必要があったりする。でも、いまだに、遅くまで働くことが大事とかいう人もいるし、バランスは本当に難しい。


なにがいいたいのかといえば、バランス感覚の軸となるのは、やっぱりどう生きたいか、という長期目的によるのだ。

楽しいとは何か



え、楽しいもんは楽しいんだよ? そんなこと書くなんてバカ?

うんそう、バカなのだろう。

けれども、そう罵ったところで、何がどうかわるというのか。
例えはクズ的に悪いが、知的障害者に対して、頭悪いの? っていうようなものだ。

書いておくが、僕はそんなこと思ったことない。けれども、そんなこと言う人が、周りにはたくさんいた。

やっぱり、幼い頃にそういう人に多く出会うと、人間に対しての期待値がものすごく下がるんだろう。


これによって、怒りの沸点も僕はものすごく低いし、温厚で冷静な人物である、こう解釈もできるし、幼い頃の経験などに拘る必要はない、

ただし、フロイトの精神分析などでも、そういった深層心理を洗い出すのは重要とされている。
自分の感じ方の起因、が分かれば、対応の仕方も検討できるというわけだ。
僕も一理あると思う。


……なんか眠くてめがしょぼしょぼして、頭に何も浮かばない。


うん、とにかく、とりあえず、家に帰ったら、風呂にはいって、五分だけ、坐禅をしよう。
で、一問だけ、資格の問題を解こう。


それだけは、頭に銘記して、電車のなかで目を、つむる。






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