コンセプトがあるカフェに複数人で行った。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
遊びの種類
逆にいってしまうと、ほとんどの遊びってものをやった気もする。女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間嫌い
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
書くこと
いやぁ、たぶん誰もみてないだろうが、いろいろやってみて、こうやって思ったこと書いてるのがやっぱり楽しい。なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
やりたいこと
是非また誘って欲しいと思っている、が、一人でいきたいとは思わないってとこだな。というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
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