2008年からの記事を読んだ。携帯からだと、過去記事のリンクがないから、PC表示にしたが。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
最もよき理解者である他人
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
他者じゃダメな理由
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
親友とは
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
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