今日の一言「いろんな技術があるのだなぁ」
そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。
まえがき
VOICEVOXという、テキスト読み上げソフトの技術力に感嘆したと先日書いた。そもそも、直接声を変換する技術……すなわち「ボイスチェンジャー」というのは、どんな感じになっているのだろう、いまどきは、と思った。
色々調べてみると、DAWソフトを使用するものだったり、単体で動くものだったり、これまたたくさんあることが分かった。
というわけで、とりあえず、無料で単体で動作する「恋声」というものを使ってみた。
↑という上の文章を読んでみようと思う。
実践
サンプル音声雑音が、、ひどいが、簡単に音声ファイルを作成することができた。
設定は、
・ピッチ 13~14
・フォルマント 3~4
ぐらいにすると、男声から女声に変換できる。
・参考動画(がそりんチャンネルさん)
・参考動画(ゆあさん。恋声とエフェクトの設定公開! )
ボイチェンはあくまで補助ツールであり、大事なのは最初から通す自分の声自体ということだ。ボイトレ大事ということか。
ちょっと声の出し方を変えてやってみた。
サンプル音声2
雑音については、「SoundEngine」というフリーソフトで、「ノイズサプレッサー(雑音帯域低減)」というエフェクト?を使用したら少し抑えられた。
追記:前の記事にコメント頂けてたので試しに、返信を音声にしてみました。
サンプル音声3
結果どうなんだろ
作業自体は、「簡単」とは思うけれども、一般的に世のYoutubeで出回っているクオリティに近づけようとすると大変だなぁとは思う。動画作りはほんと大変だ思った以上に。時間もかかる。
そのかかった時間に対しての、自分の体感時間は全然少ないのだけれども、「えっ、もうこんなに経ったの?!」と驚く。
たかだか、30秒~40秒の上のサンプル作るのに、1時間半かかっている。もちろん、色々と、設定を変えてみたり、発声のしかた変えてみたり、サウンドエンジンのエフェクトで雑音を減らすにはどうしたらいいか試したり……いろいろやっていたからだが。
そういうことを、効率化していけたら、もっと素早く作れるようにはなるのだろうとは思う。
しかし、そもそも、そこまでして「発信したいこと」というのは特にない。
過去記事の音読を聞くというのはいいけど、それだと、VOICEVOXで読んでもらった方がいい気がする。
異なる技術
上のボイスチェンジャーは、音を直接変換するタイプだが、新しくAIを活用した技術もあるということだ。Seiren Voice
こっちは、ニコニコ動画の会社?ドワンゴ? が開発したようだが、サンプリング(録音)した音声を、文節(単語?)に区切った上で、VOICEVOXのようなキャラクターが改めて呼んでくれるという方法のようだ。
ヤマハが持田さん(ドリカム?)のなりきりマイクというのを作ったというのをニュースで見たことがあって、それと近い方法なのかな、と思った。
なりきりマイク
SeirenVoiceの方は、変換に時間がかかっているため、リアルタイム出力ができない。その点で、なりきりマイクはリアルタイム変換している(とはいえ、若干の誤差があるのだろうが)のがすごいと思う。
どちらの技術も、「自分の声」自体というのは、全くなくなっているのだと思う。「歌い方」「しゃべりかた」という情報をもとに、声を再変換している、というイメージである。
一方で、最初にあげた恋声などは、ピッチやフォルマントといった設定値を元に戻すと、自分の元の声に戻すことができるのでは、と思った。違うかな? でも合ってる気がする。
逆に言うと、十人十色の声、ということなのだろうな。たぶん。
後者の技術は、キャラクターボイスということで統一されるのであろうと思う。
というか、そもそも、人間の声って、80億人とかみんな違うのだろうか?
そういえば、リアルの人と話している時も、確かに、この人はこの人の声だな、と識別できている気がする。それってよく考えたらすごい……のか?
でも、「おばさん声」とか、若い人の声、とかあったりするよな。声も歳とともに変わるものなのか。
うーん。世の中知らないこと多いな。声のこととか、いままで一切考えたこともなかった。小説とかでも、声についての表現がされている作品はあったのだろうが、あんまり読んだ記憶がないなぁ。「若い男の声が聞こえた……」みたいな描写で、ふむふむ、と納得してた気がする。でもその瞬間に、「若い男の声」というのは、自分の頭の中には再生は「されていない」のである。
あとがき
(かっこ書きである。ここまで書いて、上のサンプル音声の、1と2を改めて聞いてみて、うーん、何となく、女の子っぽいのは2の方な気がするが、好み的には1かもしれない。1の方は、どっちかというと、普通に地声で話した感じ。2は少し、「エッジ」(喉のふるえ)を抑えて、高い声で話すようにした感じ。好みの声というのも色々あるからなぁ。めっちゃ自分の理想で好きな声って、どんな声なんだろう。Vtuberの声とか意識しないとみんな同じに思えるな。声と言えば、昔、ニコニコ動画全盛期のころの、「いさじ」氏の声が好きだった気がする。「ニコニコ流星群」懐かしいな)PR
まえがき
先日、音声読み上げソフトのVOICEVOXがすごいと記事で書いた。AIすごい、ということは、近年いわれはじめてることは知っていた。2018年とか、もっと前かな。ディープラーニングとか、ニューラルネットワークとか、言葉をよく聞くようになったころ。自動運転技術というのも聞くようになってきたころだ。
自分の仕事関係にも、影響が出てくるのでは……みたいな話はありつつ、そこまで実感するレベルのものはなかった。
例えば、AIとは別次元の、RPAという技術もあるが、それは正直すごいとは思えなかった。せいぜい表現できることが、オフィスのVBAでできることであったからだ。あ、すぐさま書くと、自分の業務レベルで活用できる範囲であれば……という意味で、固有のシステムを使っている業務などでは、RPAが大活躍する場面ももちろんあるだろう。
とはいえ、メール(アウトルック)やエクセルファイル等の移動編集加工といった内容であれば、VBAが分かれば基本何でもできるので、敢えて年間ライセンス○○万円かけてまで導入するメリットが分からなかった、ということである。
(RPAが、プログラミングの知識や概念を知らなくても「本当のPC操作レベルが怪しい人も含めて」ばしばし活用できる技術ならすごいと思うが、結局やってることはプログラミングだと思ってしまったというわけである。とはいえ、無料でどの端末でも自由に使えるなら使ってもいいかなとは思うわけで、別にダメとか批判したいわけでもない)
画像生成が本当にすごい
と、身近でAIについて感じる機会がなかったが、最近、ピクシブ(イラスト共有サイト)とかで、AI生成というタグがあったりして、これなんだろ……と色々みてたら、「え、これ本当にAIで作ったの?」って驚きの連続だった。もちろん、普通に描くよりは、すごく簡単に作れるのだと思う。
でも、結構きれいな画像作るには大変なのでしょう……と思っていたが、下の動画をみてて、思った以上に簡単に作れるんだろうなぁと改めて思った。
キャベツ氏の動画
AIが作ったコスプレイヤーが超バズってたのでAIに【ゲームキャラを実写化】してもらったらクオリティ高すぎたwww誰でもわかる使い方説明
Stable Diffusion
というソフトらしい。無料で使えるようだ。VOICEVOXも無料ですごいと思ったが、すごい時代だ……。
実際に自分でやってみよう……とまではならなかったが、きっと、10代、20代ぐらいで知ってたらすごくはまってた気がする。
でも、創作とかするときの参考とかにもよいのではないだろうか。
キーワード(プロンプト)を組み合わせて、目的の画像を生成する……面白いね。
人工知能
AI――アーティフィシャル・インテリジェンス――と聞くと、知能というワードから、生命体みたいなイメージをわくけれども、別にAIは「意思」をもって何かしているわけではない。インプットがあって、演算し、アウトプットする……それだけといえばそれだけだ。
「それだけ」……といってしまえば、人間の活動も、それと同じである。食べて排泄し、エネルギーを得て消費し……の繰り返し。
複雑な過程がある……ということを「思考」と呼ぶのであれば、AIもそのディープラーニング(モデルの下地)やらニューラルネットワークを用いた演算など複雑な過程があるのだろうから、文字通り「知能」なのだろう。
とはいえ、画像生成ソフトとか、VOICEVOXに使われている技術は別にシンギュラリティを起こすような可能性は微塵も感じず、単に「すごおおおい!!」って思えるから良いなと思った。
なんか、攻殻機動隊みたいな、光学迷彩というか、電脳というか、そんな未来はまだくるイメージがないけれども、やっぱり世界の技術は進歩してるんだなぁという意味で、明るい気持ちになる。
カラーテレビが普及し始めて、「箱の中で色彩を帯びた人が動いてる!」みたいな感動や、スマートフォンで、移動しながらインターネットができる感動……それ以上の感動というのがあるのかという閉塞感を壊してくれてよい。
物理的身体の重要性
花粉が辛い。いっきに症状が出始めて、薬をあわてて服用しても1日~2日はつらくて、継続使用することで症状が落ち着き。
あ、大丈夫になったかなと思ってやめたらまたひどくなって、結局服用を続けている。いつまで続けたらいいのか……。
鼻水もつらいが、それより目がつらい。かゆい。かきむしりたくなる。
身体の具合が悪くなると、物理的身体についてのことも考えるようになる。
いたわってあげてよいと思う。
運用保守とか、電車とか公共交通機関とか、道路とか、電気とかインフラとか。物流もそうだろう。
そういう、「当たり前」ってとても大事だと思う。
そういう意味の中で、自分の身体の、例えば「歩く」という機能ひとつだって、よくよく複雑なことを「自然に」やってくれているわけだ。ありがとう自分の身体。
身体に感謝する時間を作ってあげてもよいかもしれない。
しかし、身体さんって、何すると喜ぶのか。筋トレって、身体を痛めつける作業なのではないか。ストレッチ、なのかしら。なんだろう。……よく言われるのは、「歩く」というのが、身体的にも精神的にもよいとされてるから、散歩してあげるのがよいかもね。
となったときに、冒頭の「花粉」がラスボスじみて立ちふさがる……かっこ笑い。
あとがき
(かっこ書きである。日記書く頻度増やしたいな。いまのところ、月1回は書けてるのか。結構ぎりぎりだ。今回の記事も、「書き始めるまで」が大変だ。勢い、大事。どうにも、日記とか文章は、書いてると段々書けていくのであるが、書き始めがすごいストレスがかかっている。「これ面白いの……?」ってどうしても思ってしまう。価値が見いだせないことをするのは、つらいことだ。モチベーション大事。面白くなくたって、書き残すことが大事……とは思うけれども、ね。最近、SNSとかもやってると、やっぱり「いいね」系の反応が気になったりする。反応が少なかったりすると「お前に興味ないし」みたいに言われてるみたいで、つらくなる。承認欲求……。最初は別に、簡単に記録というか、愚痴とかメモレベルな感じと思っていても、逆に反応があったりすると、反応がなかったときとの落差で悶々したりするのだ。なので、SNSは向いてないタイプなんだろうと思う。いやそれが逆にモチベーションとなる人もいるのだろうが。気になって思考の大半が支配されてしまう場合が多いとしたらそれは健全ではないだろう。このブログはたぶん、反応が頂けなくなっても、きっと続いていく気はする。気はするものの、頻度はさらに下がる気もする。いやほんと、反応を強要しているわけではないです……笑 これは本当に。むしろ、こういうことは、他の場所(リアルで誰かにとかも)言いづらいわけであって、ここでしか書けないことだったりする。貴重。感情のメタ化できるのはとてもありがたい。「こう思ったらこう思われるのではないか」<「ということを思ってしまう自分はこうではないか」みたいな、無限に広がりそうなイメージ。承認欲求自体も、悪いことではない。むしろ誰にでもある。その大小や解消方法が違ったりするわけだ。自分が自分であっていい、というのは、やはり「環境」が必要だ。他者存在からそれが得られない場合は、「お金」というのも一つ指標になる。友達が誰もいなくても、お金があれば、それだけで価値がある。かっこ資本主義社会においては、という限定はあるものの、資本主義はかなり強固に世界に根付いているので安定的である。しかし本当は「家庭」というのもあった方がよいだろう。多面的な環境があった方が安定するのだ。しかし、最近忘れがちだけれども、めちゃめちゃコンプレックスな時代のときに光明としてみていた、「空(くう)」という思想というか思考は、忘れちゃだめだと思う。お金や、家庭や、会社や、その他さまざまな「安定装置(スタビライザー)」は大事で、あるべきだけれども、いずれ直面する大きな問題というか課題である、生老病死に対しては、無力となる可能性が高いのだ。まぁ絶対ない思考実験だが、世界のあらゆる欲するものを手にしていったとき、ふと、「それで? これが何になるのか?」と思った時に、どうするのか。そういう意味で大事なのは、小目標と大目標だと思う。ボクは今のところ、それはなくなってしまっている。小さいのも、大きいのも、目標はない。たぶん、コンプレックス時代(10代とか20代とか)に抱いていた目標は、達成できていると思う。人生ゴールだ、やったね!! みたいなことを書くと嫉妬されるかもしれない。まぁそれでもかまわないが、ボクは思うに、そのコンプレックス時代が異常だっただけな気もしてならない。普通に生きることができていて、それでいい、といった感じ。大小感情の起伏はあれ、ふつうに、日々満員電車にゆられ、こんなに人って多いのかと思いながら、仕事をし、帰って遊んで寝る。この繰り返しに特に不満もない。しかし果たして、40代、50代、60代と、同じような感覚でいられることはないだろう。わずかな、黄昏のような時間なのかもしれない。しかし、物語でも、常にクライマックス戦闘シーンだけだと疲れてしまう場合もあるだろう。そういった作品も面白そうだけれども。たいていは波があるストーリーが多いはずだ。そういう比喩でいけば今は、戦いが終わって、ちょっとパーティで料理して食事したり、日常パートみたいなそんな感じなのかもしれない。そういうことにしておこう。来年度はちょっと状況がかわりそうな要素(仕事面でのこと)が発生した。さてどうなることか。不安がないわけでもない。ただまぁ、より高次な問題……たとえば人生そのもののこととかと比べたら何とかはなるだろう)
今日の一言「寒い」
とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
まえがき
手が、冷たいと、キータッチも鈍くなる。あと、爪のケアも大事だね。深爪でもなく、長すぎでもなく、ちょうどよくしていないと、爪と皮膚の間が痛くなることがある。とりあえず、毎月、1つの記事は書こうという意識はずっと残しておいたけれども、中々書くに至らなかった。それは、何か、テーマを深く掘り下げて深遠なものを書こうという、そんな意識があったからだろう。
そんなこと無理なのだから、もっとカジュアルに書けばよいのである。
しかし、そうはいっても、そのあまりにもカジュアルな内容は自分が後から読んでもつまらないので、そのバランスが難しい。
5年前の記事
たとえば、PC版でこのブログを見ると、右上に「○年前の記事」というリンクを作っている。どうやって作ったのか覚えていないが、割と優秀だと思っている笑
たとえば、「共有することの不可能性」という記事で、何やら新しく作曲をしているが、わりとよく作った物だと思う。2時間……というのは、構想などもあったろうし、少しもっている可能性が(かっこ笑い)疑えないが、それでも、2~4時間程度で作ったのだろうと思う。そう考えると、すごい。今の自分ではできない。だって、そもそも作曲ソフトのログインすらすぐにできないだろうし、MIDIキーボードを配置する時間も、手間も、色々大変だ。
とても、同じ連続した自分とは思えないが、ただ、ブログという媒体を通じると、自己同一性を感じなくもない。
ブログの効能
日記とはそもそもそういうものだと思うが、「自己」を意識するというのがブログなり日記なりの意義だと思う。SNS的な時代においては、他者とのつながりにおいて「自己」を表現したり、認識したりするのだから、あまりブログや日記という媒体に価値を見出す人は少ない気がする。
とはいえ、時代遅れと言われても、自分としては、5年前や、1年前の記事があると、何だか変な「安心」があったりする。いやべつに確かに、ツイッターに記録が残せなくもない。ただ、ツイッターの構造的に、過去の記事などを振り返るのは適していない。別にまとめとか作ればいいのだろうが、であれば最初からインデックスされるブログ媒体がよい。
ちなみに、日記はほぼローカルなもの。ブログはオープンなもの、という違いがあると思っていて、逆に言うとその違いでしか言葉を分けて使っていない。
このブログも、ほぼ日記と同じ内容になっている。とはいえ、ブログである以上、「他者」という存在の意識は「ゼロではない」点が、日記と異なっているといえるだろう。
さらにちなみに、昔、中学? 高校? 大学? ぐらい、10代ぐらい、と言った方が良いか。その頃にやっていた「ゼロ秒アウトプット」(=ログ)というのは、自分の思考のアウトプットのプロセスによる違いであって、日記でもブログといった媒体の違いではない。
ブログ媒体の方が、「ゼロ秒アウトプット」はしにくい。頭に浮かんだ言語をそのまま吐き出すイメージなので。「むかつくむかつくむかつく」とかそういう繰り返し表現などになる。1回書けば読めば分かる……。むしろ、「伝える」のであれば、その「むかつく」原因や理由や、または違う表現にしたり工夫が必要である。
まぁとはいえ、その「うああああああ」とかの悲鳴に近い言語表現も、それはそれで「伝える」のに有効であるとは思う。
世の中すべて森羅万象いえることかもしれないが、「バランス」であって、ゼロか1かに区別するのは、たかだか「ログ」という自己表現ですら難しいということなのか。
イチゴ美味しかったこととユニクロのヒートテックの袖
いやあの。上に書いたことって、書き始める前に、一切頭に浮かんでなかった。
とりあえず、2月上旬も過ぎたし、何か一つ記事を書いておこうか、暇だし、ぐらいに思っていて、その、上の小見出しのことでも最低限書いておくか、という意識だった。意識低い。
しかしまぁ、いつものことではある。書き始めると、違うことを書いてしまうのである。とはいえ、上のもともと書こうとしていたことは書いておこう。
スーパーマーケットで、イチゴが、398円で(タブン税抜き、税込みで437か)なんか熟れていておいしそうで、好きなのだけどあまり自分では買わないのだけれども買ってみた。
これがなぁ、美味かった。
顔がほころんでしまうほどに美味しかったのである。以上。
いやほんと、ただこれだけの記事になるところだったのだ。恐ろしい。もともとイチゴ好きなのだが、久々に、それこそ、自分で買ったのは10年ぶりぐらいになるのではなかろうか。食べることも、1年に何回かあるかぐらいだったと思う。いやぁ、満足である。
そういう意味だと、しばらく行かなくなっていた回転ずし(100円均一ではない)店に足を運んだ。いま思ったのだが、上の表現だと、回転ずし自体にあまり行っていないようにみえるが、そうではない。安めの回転すし店には月に数度いっているぐらいであった。日本語難しい。
つまり正確な表現としては、以前は行っていたが、込み具合とか品質とか価格とか、場所といった問題から行かなくなっていた店に久々に行ってみた、ということだ。
そしたら、以前より(前は30分とか1時間とか待たされることもあった)混んでおらず、そもそも待たずに入れた。そして、品質も、以前は「うーん、この価格でこの品質か……」と思うことが多くなっていたのだが、美味しいと思っていたころと同じぐらいに感じた。
白子軍艦が超美味かった。これはうまい。あと、タイとかヒラメの白身がよかった。旨かった。本当に「ああ、美味しかった」と満足して帰路につくことができた。
もう一つ書かないといけないのか。ヒートテックを買い足した、が、「9分袖」というやつだった。うーーん。着心地がよくない。袖にゴムがあって閉まるようになっているが、手首の細い部分からずれているので、締め付け感が不愉快である。好ましいものを、もう一度買いたいと思うのだけれども、毎年毎年バージョンアップ(orダウン)するから、同じものを買うというのができない。
同じもの
若いころは色んなものに触れたい、と思うのかもしれない。でも、歳を取ってくると同じものでよい、いや、同じものがよい、となっていく、と書くと、ボクはハテナがたくさん浮かぶ。
いや、ボクはもともとそういう性格であった(かっこ笑い)。
うん。もとから、あまり冒険しようという気持ちは少なかった。商品の面も、生き方としても。
冒険家の性格の人からしたら、「つまらない人生だな」と言われるかもしれない。確かに、マセラティにもブガッティにも乗れない。でも、楽しいとか幸せとか、そういった感情を得ることができれば、それはそれ自体は等価値に思う。苺がすごく美味しかったという脳刺激は、ボクに十分の充足を与えてくれた。
あとがき
(かっこ書きである。魂という、非物質的なものがあるのかどうか。魂だったり、エーテルの海だったり、あって欲しいと思う。ただ、突き詰めて考えたとき、死というのは、全くの無に帰すというのは、おぞましく恐怖で落ち込むことばかりでもない。逆にそう信じたい、という気持ちもある。死とは、自分の意図に関わらずやってきて、すべてを奪っていくから嫌なものなのである。死を望む状況、そんなものあって欲しくないが、そういう状況であったならば、死は救済となりえる。死ぬというのは怖いことだが、死なないということもまた怖いという想像はつきやすい。永遠にすべて得たうえで生きる、というのは素晴らしいことかもしれない。お金も、周りの友人や恋人や家族、大好きな人たち、健康な身体、ほか、ありとあらゆるすべてがあったうえでの永遠に生きるということは素晴らしいことだろう。しかし、例えば「人」として考えたとき、いくら仲の良い人でも、それが逆に嫌悪となって心も離れていくこと、ボクはそういう経験も数度とあったので、うん、その、「永遠」って逆に怖いなと思ってしまう。上に書いた「固定的」ということは確かに望むべくことだが、しかし、完全に同一な原子の状態というのはありえないし、そこにあまり意味もない。人間の身体……というか生物というのはすべてホメオスタシス(恒常性)で成り立っているということだ。ミクロに分解していっても生物の本質はないということだ。魂は、見つからない。まぁこんな感じのがゼロ秒思考、瞬間アウトプット、みたいなやつだ。意味不明だろう。しかし、逆に、ボクはこっちが、(イチゴの話よりも笑)あとから読んで面白いと思ったりする傾向がある。いやまぁ、イチゴの話も大事は大事だ。また買おうかと思うから。でも、今度またかったとき、同じ感動を得られるかと言うのは分からないのだ。そこが「永遠」の難しさ。同じ刺激だけだと、人間は満足できないのだ。これは、自然というのが非常に残酷で理不尽だから、いろんな手段を取るようにと生物的進化をしたからだろう。自然に対しての生存戦略として、この人間の「同じことしてたら飽きる」という特徴があるのだと思う。これはまぁなので、仕方ないのだ。逆手にとって楽しんでやるしかあるまい。しかし思うに、これは、「自然」さんが、あまりにも強大だから、そういう特徴が必要だったということだ。ああ、もちろん、今すぐ、ここ数百年で変わるということではないと思うが、その前置きをしたうえで、「同じことをして満足する」という特徴に変わる可能性もあるのではないか。自然が完全にコントロールできるのであれば、いや、できなくても、従順に生きる方が適しているのであれば、そういう性格の人間が増えてもおかしくない。同じことをして、同じもの食べて「ああ、白子の寿司めちゃおぃしぃぃぃ最高」と、久々にしたことによって得た感動と同じだけの脳刺激が得られる人の方が幸せかもしれない。これは本当に皮肉ではない、と添えておこう。極端かもしれないが、究極に思考はすべきである。思考は、「前提」があってのもので、その前提が何かを考えておく必要がある。自然に対抗するための生存戦略という前提で考えたら、もしその前提がなかったら……という思考、そういうのって楽しいと思う。そういうことができるのもの、安全安心の環境があってのことだ。災害にあわれた方々への……なんとも、なんといっていいか分からないな。「残念でした」というのは何か大変に失礼だし、どちらかというと、自分も気を付けなきゃという自己中心的な感覚の方がつよいのが、まぁ人間として自分の未熟さを思うところだ。とはいえ、「かわいそう」という気持ちは、ある。しかしその気持ちもまたなんか失礼な気もする。かといって、何とかしてあげよう、とまでは思えない。1000円ぐらい寄付してもよいか、ぐらいな感覚だ。いや別にその金額がどうというわけじゃない。2000円でも別に良いと思う。しかし、1万円……となると、ちょっと、うーん、ごめん、、って感じになる。そして、その寄付というのがなんか、その、面倒というか、面倒……いや違うな、「意味があるか分からない」という感覚がある。人任せ、ではあるが、ちゃんと国税も納税しているわけだから、政府が支援するというのであれば、して欲しいと思う。それでいいのではと思う。仮に、自分の気持ちを踏みにじって、1万円寄付したとしても、それが、その「意味があるか分からない」という気持ちを完全に上回ることはない気がする。前回の記事と同じような結末を迎えるが、やはり、自分は人間としてはダメな人間なのだろうと思う、少なくても、リア充というたぐいの人間ではないのだろう)
今日の一言「魂の連れがいない」「出離生死(しゅつりしょうじ)」
35歳までに、何か、決めたり、大事なことを考えたりしなきゃと、そんな風に思っていた。
ところが、何も変わらなかった。
35歳の誕生日を迎えた瞬間、天啓がおりてきて、またはチート能力に覚醒して、とか何もなかった。普通に1日が過ぎた。
いやもちろん、この前に合った、仕事の評定の関係の面接でやや辛辣なことを言われたことは、1日~2日ぐらい心にとげが刺さったような感覚が続いた。
ところが、まぁ、それぐらいで済んだ。
そして、どちらかというと、ボクの生きづらさというのは、仕事というより、個人的なことというか、総合的な「生き方」に対してのものだった。
そういった意味で、いわゆる世間一般的な幸せ……「良い会社に入って」「美人な奥さんと結婚し」「優秀な子供を育てる」と言うことに対して、諦めの境地には至った気はする。
つまり、ボクは、不幸なのである。
世間一般的には、不幸で、犯罪者予備群で唾棄すべき存在なのだ。哀しい。
といったことを……書くこと自体が羞恥でしかないのだけれども、ところが、「心が軽くなった」ということの表現としては事実なのである。
この「事実」は、しっかり書いておいた方が良い。もちろんこの「事実」という表現は、決して、何か数学的に証明できるようなものではないし、あくまでも、今時点でのボクの感覚、レベルでしかないわけだ。ただ、大事なことはむしろそれで、今時点でボクがどう感じていたのか、考えいてたのか、その「資料」が大事というわけだ。
「人生の晩年にやってくる「むなしさ」の正体【仏教の教え】」
まえがき
35歳で仏陀は悟りを開いたわけだ。ボクは何歳だっけ? 分からないけれども、35歳は過ぎたと思う。35歳までに、何か、決めたり、大事なことを考えたりしなきゃと、そんな風に思っていた。
ところが、何も変わらなかった。
35歳の誕生日を迎えた瞬間、天啓がおりてきて、またはチート能力に覚醒して、とか何もなかった。普通に1日が過ぎた。
漸近的な変化
ただ、そうはいっても、その瞬間で何か変わったとかではないけれども、「人の目を気にしなくなった」というのはあったと思う。いやもちろん、この前に合った、仕事の評定の関係の面接でやや辛辣なことを言われたことは、1日~2日ぐらい心にとげが刺さったような感覚が続いた。
ところが、まぁ、それぐらいで済んだ。
そして、どちらかというと、ボクの生きづらさというのは、仕事というより、個人的なことというか、総合的な「生き方」に対してのものだった。
そういった意味で、いわゆる世間一般的な幸せ……「良い会社に入って」「美人な奥さんと結婚し」「優秀な子供を育てる」と言うことに対して、諦めの境地には至った気はする。
つまり、ボクは、不幸なのである。
世間一般的には、不幸で、犯罪者予備群で唾棄すべき存在なのだ。哀しい。
人の目が気にならなくなった
それは事実としてスティグマであろうが、しかし、個人的には、長年抱いていた苦しみというのがなくなったような気がした。といったことを……書くこと自体が羞恥でしかないのだけれども、ところが、「心が軽くなった」ということの表現としては事実なのである。
この「事実」は、しっかり書いておいた方が良い。もちろんこの「事実」という表現は、決して、何か数学的に証明できるようなものではないし、あくまでも、今時点でのボクの感覚、レベルでしかないわけだ。ただ、大事なことはむしろそれで、今時点でボクがどう感じていたのか、考えいてたのか、その「資料」が大事というわけだ。
人生とは寂しいものである。
菊谷隆太さんという親鸞を教えている方のユーチューブを見た。「人生の晩年にやってくる「むなしさ」の正体【仏教の教え】」
面白かった。
テレビのバラエティを見ているだけだと出会えなかったと思う。よきかな。
ユーチューブってほんとに、変わったなぁと思う。ニコニコ動画みたいな、エンターテイメントの一部だった気がしたけれども、最近、ふつうに学習にも役立つと思う。この前の、宇宙の年齢の話のゆっくり解説動画とか、勉強になったもんなぁ。
大事なことは、こうやってしばらく経ってからも思い出して書いておくことだ。そうすると記憶の定着率が良い。
簡単に説明すれば、宇宙の星々は、全方位に遠ざかっていることをハッブル氏が発見して、そこから、宇宙は膨張していることが推察された。なんやかんやあり、超新星爆発の光を観測することで、地球からの距離と速さが分かった。時間は、距離÷速さなので、そこから、宇宙の誕生時間を割り出すという計算で、宇宙の年齢が求められるということだ。
ただし、宇宙は加速しているので、今時点の速さを知っただけでは正確な年齢は出せない。そこで、その加速度を求めるために、宇宙マイクロ背景放射という光を分析して、宇宙全体のダークマターとダークエネルギーの割合を計算することで、より正確に138億年という宇宙の年齢を割り出したということだ。
今、何も見ずに思い出してみたけれども、上の説明だと、今度は、「なんで、超新星爆発の光を観測すると、距離と速さが分かるの?」という疑問が生じた。
動画をぼーっと見ている時は、「ふむふむ」みたいに思うのだけれども、よく考えると良く分からないということって多い。それがつらい……笑
物事って突き詰めれば突き詰めるほど、よく分からなくなるよね。
でも仕事は、「結果」が大事だから、どこかで、「妥協」して、前に進めないといけないことも多い。
テレビのバラエティを見ているだけだと出会えなかったと思う。よきかな。
ユーチューブってほんとに、変わったなぁと思う。ニコニコ動画みたいな、エンターテイメントの一部だった気がしたけれども、最近、ふつうに学習にも役立つと思う。この前の、宇宙の年齢の話のゆっくり解説動画とか、勉強になったもんなぁ。
大事なことは、こうやってしばらく経ってからも思い出して書いておくことだ。そうすると記憶の定着率が良い。
簡単に説明すれば、宇宙の星々は、全方位に遠ざかっていることをハッブル氏が発見して、そこから、宇宙は膨張していることが推察された。なんやかんやあり、超新星爆発の光を観測することで、地球からの距離と速さが分かった。時間は、距離÷速さなので、そこから、宇宙の誕生時間を割り出すという計算で、宇宙の年齢が求められるということだ。
ただし、宇宙は加速しているので、今時点の速さを知っただけでは正確な年齢は出せない。そこで、その加速度を求めるために、宇宙マイクロ背景放射という光を分析して、宇宙全体のダークマターとダークエネルギーの割合を計算することで、より正確に138億年という宇宙の年齢を割り出したということだ。
今、何も見ずに思い出してみたけれども、上の説明だと、今度は、「なんで、超新星爆発の光を観測すると、距離と速さが分かるの?」という疑問が生じた。
動画をぼーっと見ている時は、「ふむふむ」みたいに思うのだけれども、よく考えると良く分からないということって多い。それがつらい……笑
物事って突き詰めれば突き詰めるほど、よく分からなくなるよね。
でも仕事は、「結果」が大事だから、どこかで、「妥協」して、前に進めないといけないことも多い。
あとがき
(かっこ書きである。10年後の自分は、間違いなく40代である。いまでもおっさん、だけど、よりおっさんだなぁ。でも、どんな自分になってるかは想像できない。どうだろう。いま、30代のボクは、20代や10代のボクを、叱る気にも、羨む気にもなれない。ただ、「あるだけ」という感じだ。40代のボクは、いまの30代のボクを、どう思うのだろう。分からないが、今のボクと同じように「後悔」はして欲しくない。「あのとき、ああしておけばよかった」みたいなことが、ボクは昔から大嫌いであった。それを「反省はしてもいいけど、後悔はしないようにしよう」という言葉で表現して目標にして頑張っていた時期もあった。その目標は達成できたと思う。世間一般的な「幸せ」というのとは程遠いけれども、私個人としての「幸せ」な状態は得ることができた。そうさな、そういう意味で、ボクは、20代のころの自分を褒めてあげたいと思う。よくやってくれた。余は満足じゃ。さて、とはいえ、この記事のタイトルの通り、いつかは人生をむなしく思うのだろうか。そういう意味では、ボクは、ずいぶん若いころから、人生のむなしさを考えていた。そういう意味では、上のユーチューブに出てきた、70代の社長よりも先輩かもしれない。「アバター」を通した生身の肉体がないバーチャルな世界があったとして。すべて精神世界だけでのやりとりとなったとしたら、年齢というのは特に重要性をもたない世界になるかもしれない。前々から思ってたことだが、先輩や、年長者であっても、その道の仕事や遊びを長くやってる人の方が上手にできるというのは当たり前のことだと思う。若い人にも敬意をはらわなければいけないし、年長者でもダメな奴はだめだ。どうして本当に、歩きたばこをする奴らはいなくならないのだろう。じじぃに多いというボクの感覚だったが、この前若い奴で歩きたばこしている奴にも出くわした。むかつく奴らは、老若男女、平等にむかつくのである(反転して、老若男女、尊敬できる場合もある))
今日の一言「2023年よろしくお願いしますとか、ゼロポイントフィールドといったタイトルを避けることにした」
↑には、明けましておめでとうという意味があるので、「謹賀新年! 明けましておめでとうございます!」というと二重になってしまう、ということを聞いたことがある。あってたかどうか不安になる。
謹賀新年、今年(2023年)もよろしくお願いします、だと正しいのだろうか。
とか、そんなどうでもよいことに行数を使うのはもったいないのかもしれない。ただ、せめて、タイトルに、「2023年はじまりはじまりー!」みたいなものは避けようと思った。
そして今回、年末年始に読んでいた「死は存在しない」という新書についての感想でも書こうと思ったわけだが、そのキーワードの「ゼロ・ポイント・フィールド」みたいなタイトルも避けた。
ぜろぽいんとふぃーるど? みたいな言葉を使ったとて、全くインパクトがない。は? みたいになるから。
タイトルの付け方って大事。
いまいち、メールのタイトルを意識しない人が多い気がするけど、そもそもタイトルで読むか読まないか決めたりするからね……。
それ以上過ぎると、途端に書く気力がなくなる。1時間でできるだけ書くためには、ポイントを絞っていく必要がある。
まず、今回は、その「死は存在しない」という
>死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 新書 – 2022/10/19
という本の感想だ。
この本では、基本的に「ゼロ・ポイント・フィールド」という仮説について書かれていくわけだが、長いから以下「ゼロ説」って書く。
で、「アカシックレコード」みたいな話だなと思った。でもアカシックレコードという単語は出てこなかった。なんでだろ?
アカシックレコードとは、過去から現在までのすべての情報が記録されているという説で、非常に似ていると思った。
ゼロポイントフィールドは、それを「量子真空」に保存されている、という説であった。
(追記)アカシックレコード、にふれてないと書いたけど、そもそもインドの「アーカーシャ」については触れられていた。アカシックの語源はアーカーシャだということなので(wiki)同じような意味で既に筆者も触れているということなのだろう。そういえば、アーカーシャって、FF14でも出てきたような。デュナミスという言葉で言い直してたりしてたね。
オカルトだ……!
という印象が先行してしまうけれど、最先端の物理学をもってして立てられた仮説、ということだったので読んでみたわけだ。
たぶん、科学的な話を期待する方は、がっかりする気がする。
そのゼロポイントフィールドという存在についても、「量子真空に、ホログラム原理で、波動情報として記録されている」という説明ぐらいしかなかった、気がする。何がどうなって何故そうなるのか……という理系的な思考で読み解いていくには、あまりにも情報が少ない気がした(科学的な知識が殆どないボクでさえ)。
でもそのあたりは敢えてそういう読者層を狙っているのではないのだろうとは思った。
例えばボクは初めて、「コンステレーション」という言葉をしった。星座という元々の英単語だが、転じて、何やら全体的に何か一つの示唆、意味をもっているように感じられる現象のことをそう言うらしい。
例が浮かばない。
色々、筆者は、「不思議な体験」をしたことがある方のようだが、残念ながら、自分はそういう経験があまりないので……とはいえ、「何か考えてたら、同じようなことが起こった」みたいな引き寄せの法則的なことは、ゼロではないから、完全に拒絶するほどではないけれども、「偶然」ということで片付けることが多い。
ただ、そういった「偶然」と思われがちなことも、ゼロ説によると、意味を持っているし、原理的なものがあるということだ。
超時空的無意識というのが、その「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がった状態、というわけである。
超個的意識……というのは何だっけ? 仏教の唯識派の提唱した阿頼耶識みたいなもんだっけかな……。阿頼耶識≒超時空的無意識だっけ。そのあたり曖昧。
一読して、全部理解したり、記憶したりするのは難しい。
色々、勉強しようと思って読めば、どんな本でもいくつかためになることがある気がする。
「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で本を読むのはあまりよくない。
とはいえ、何も考えず(何か学ぼうとか意識せず)に引き込まれて熱中できる本の方がよいのは間違いないけども。
読み終わって、でも、「そうだゼロ説はある! 唯物論は間違ってる!」という素直な気持ちになれたわけではなかった。
でも、「生きる意味を徹底して考える」ということについて、「唯物論」というのが前提になっていたから、その点では違う視点もありえるのだなと思えたことは、1000円いくら、の価値がある本だったと思う。
といいつつ、「死とは何か」という本の方が、ボクは面白いと思った。こっちは3000円越えなんだけどね。
>「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12
唯物論とは何なのかというのが良く分かるし、意識というのが、ものすごい機能と結果を生み出す身体(脳)による物理現象なのだ、という説明がすごくしっくりくる。
死んだら無になる……というのも分かる。そして、無になる……ということについても掘り下げて書いてると思う。結論的に、死はそんなに悪いものではない……死よりももっと恐ろしい状況というのがあるというのも良く分かると思う。
それでもやっぱり、死ぬのは怖くて怖くて恐ろしいことだけれども、冷静になるために、冷静に考えるために大事な考え方や視点を教えてくれていると思う。
まぁそれでも、余命1か月とかいわれたら、取り乱すのだろうけれどもね。
まえがき
謹賀新年!↑には、明けましておめでとうという意味があるので、「謹賀新年! 明けましておめでとうございます!」というと二重になってしまう、ということを聞いたことがある。あってたかどうか不安になる。
謹賀新年、今年(2023年)もよろしくお願いします、だと正しいのだろうか。
とか、そんなどうでもよいことに行数を使うのはもったいないのかもしれない。ただ、せめて、タイトルに、「2023年はじまりはじまりー!」みたいなものは避けようと思った。
そして今回、年末年始に読んでいた「死は存在しない」という新書についての感想でも書こうと思ったわけだが、そのキーワードの「ゼロ・ポイント・フィールド」みたいなタイトルも避けた。
ぜろぽいんとふぃーるど? みたいな言葉を使ったとて、全くインパクトがない。は? みたいになるから。
タイトルの付け方って大事。
いまいち、メールのタイトルを意識しない人が多い気がするけど、そもそもタイトルで読むか読まないか決めたりするからね……。
アカシックレコードみたいな話しだった
1時間だ。ボクの書くことができるのは、1時間だ。それ以上過ぎると、途端に書く気力がなくなる。1時間でできるだけ書くためには、ポイントを絞っていく必要がある。
まず、今回は、その「死は存在しない」という
>死は存在しない ― 最先端量子科学が示す新たな仮説 (光文社新書) 新書 – 2022/10/19
という本の感想だ。
この本では、基本的に「ゼロ・ポイント・フィールド」という仮説について書かれていくわけだが、長いから以下「ゼロ説」って書く。
で、「アカシックレコード」みたいな話だなと思った。でもアカシックレコードという単語は出てこなかった。なんでだろ?
アカシックレコードとは、過去から現在までのすべての情報が記録されているという説で、非常に似ていると思った。
ゼロポイントフィールドは、それを「量子真空」に保存されている、という説であった。
(追記)アカシックレコード、にふれてないと書いたけど、そもそもインドの「アーカーシャ」については触れられていた。アカシックの語源はアーカーシャだということなので(wiki)同じような意味で既に筆者も触れているということなのだろう。そういえば、アーカーシャって、FF14でも出てきたような。デュナミスという言葉で言い直してたりしてたね。
ゼロ説とアカシックレコードの違い
ゼロ説との違いとしては、アカシックレコードはすべての情報といいつつ、未来までは保存されてないことかなと思う。ゼロ説は、文字通り「すべて」記録されているので、未来予知もできるということだ。オカルトだ……!
という印象が先行してしまうけれど、最先端の物理学をもってして立てられた仮説、ということだったので読んでみたわけだ。
たぶん、科学的な話を期待する方は、がっかりする気がする。
そのゼロポイントフィールドという存在についても、「量子真空に、ホログラム原理で、波動情報として記録されている」という説明ぐらいしかなかった、気がする。何がどうなって何故そうなるのか……という理系的な思考で読み解いていくには、あまりにも情報が少ない気がした(科学的な知識が殆どないボクでさえ)。
でもそのあたりは敢えてそういう読者層を狙っているのではないのだろうとは思った。
例えばボクは初めて、「コンステレーション」という言葉をしった。星座という元々の英単語だが、転じて、何やら全体的に何か一つの示唆、意味をもっているように感じられる現象のことをそう言うらしい。
例が浮かばない。
色々、筆者は、「不思議な体験」をしたことがある方のようだが、残念ながら、自分はそういう経験があまりないので……とはいえ、「何か考えてたら、同じようなことが起こった」みたいな引き寄せの法則的なことは、ゼロではないから、完全に拒絶するほどではないけれども、「偶然」ということで片付けることが多い。
ただ、そういった「偶然」と思われがちなことも、ゼロ説によると、意味を持っているし、原理的なものがあるということだ。
意識の5段階
あと、表層意識、静寂意識、無意識、超個的無意識、超時空的無意識、みたいに無意識の中でさらに分類していくというのも面白いと思った。超時空的無意識というのが、その「ゼロ・ポイント・フィールド」と繋がった状態、というわけである。
超個的意識……というのは何だっけ? 仏教の唯識派の提唱した阿頼耶識みたいなもんだっけかな……。阿頼耶識≒超時空的無意識だっけ。そのあたり曖昧。
一読して、全部理解したり、記憶したりするのは難しい。
色々、勉強しようと思って読めば、どんな本でもいくつかためになることがある気がする。
「そんなこと知ってるよ」みたいな態度で本を読むのはあまりよくない。
とはいえ、何も考えず(何か学ぼうとか意識せず)に引き込まれて熱中できる本の方がよいのは間違いないけども。
死とは何かの方が面白かった気はした
唯物論をボクは信じてる、と思う。筆者もそうだったそうな。でも、考え方が変わったという冒頭で、それで「ほほー」と思って手に取ってみた(買った)わけだ。読み終わって、でも、「そうだゼロ説はある! 唯物論は間違ってる!」という素直な気持ちになれたわけではなかった。
でも、「生きる意味を徹底して考える」ということについて、「唯物論」というのが前提になっていたから、その点では違う視点もありえるのだなと思えたことは、1000円いくら、の価値がある本だったと思う。
といいつつ、「死とは何か」という本の方が、ボクは面白いと思った。こっちは3000円越えなんだけどね。
>「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 完全翻訳版 単行本 – 2019/7/12
唯物論とは何なのかというのが良く分かるし、意識というのが、ものすごい機能と結果を生み出す身体(脳)による物理現象なのだ、という説明がすごくしっくりくる。
死んだら無になる……というのも分かる。そして、無になる……ということについても掘り下げて書いてると思う。結論的に、死はそんなに悪いものではない……死よりももっと恐ろしい状況というのがあるというのも良く分かると思う。
それでもやっぱり、死ぬのは怖くて怖くて恐ろしいことだけれども、冷静になるために、冷静に考えるために大事な考え方や視点を教えてくれていると思う。
まぁそれでも、余命1か月とかいわれたら、取り乱すのだろうけれどもね。