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日々の生活について(AIについて)
2025/01/19 11:40 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「日記とかブログ面白い」

まえがき

 自分の書いた文章も面白いけど、自分以外の人の書いた文章も面白い。
 ヤフーニュースとか、企業が書いた記事とは違って、やっぱり「個人」が書いた記事は面白いと思う。
 本とかとは違う。
 誰か別の人の推敲とか校正が入っていない、ありのままの記事。そういうのが面白いと思う。

ふとリンク回り

 リンク切れしてるブログさん多いから今度整理しようとか思いながら見ていたら興味をひかれる記事を見つけた。
2025年01月17日 真理への道すじ 15
運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。
つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。
http://blog.livedoor.jp/masakiyuuto/archives/62088713.html

感じたこと

 とてもよい記事だと思った。
 なのでちょっと感じたことをメモしておこうと思う。

◆まず、タイトルの「真理への道すじ」というのは分かりにくいと思った(いきなり否定から入る)。
 ただ、連載記事のようなので、タイトルと本記事内容とのリンクはそこまで重要ではないのだと思う。


>運命はないということは、この先、生きていく先に何が待ち受けているかはわからないわけで、

 運命がないのか、あるのか。どちらの立場での記事なのかこの時点では不明。
 しかし、不明だからこそ、先を読もうという気持ちにさせてくれる。ビジネス文書とかは結論が先にくる。散文的な表現、とてもよい。

 また、運命がない、としたときに、確かに、生きていく先に何が待ち受けているか分からない。これは確からしいと思う。


>誰か俯瞰して見えている神様のような視点からこの先に危険なものが待ち受けているというのがわかっていたとしても、我々下等な存在にはわかりえないわけで、

 なるほど。ここまで読んでみて、筆者が、運命があるか、ないか、その二者択一すら問題にしてないのだということが分かる。
「我々下等な存在」という表現に違和感を覚える人もいるだろうが、神という高次の存在を規定したときに、確かに人間程度は下等な存在だ。
 運命というものがあったとしても、それを知ることはできないのだという、科学的姿勢もみてとれる。


>運命などないし、どうなるかなんて決まっていないし、もし危険な目にあってもそれはしかたないこととして受け入れるしかないのだ。

 運命があっても知りえないし、なかったとしたら、未来は決まってなどいない。
 危険な目……その他自分にとって嫌なことがあったとしても、それはそれで受け入れるという態度しかとることはできない。
 そういうことなのだろう。


>つまり、漫然と生きていて何のために生きているかわからないまま生きていても全く問題ないのだ。

 運命がない(またはあっても人間として知ることはできない)から、漫然と生きていること(何のために生きているか生きる意味が分からないまま生きていくこと)は問題ないのだ、と。

 生きる意味を見失ってもがいている人に対して、とても有益な言葉なように思われる。

AIの活用(Co-Pilot)

 ちなみに、AIさんにも要約してもらった。

>要約すると、「運命は存在せず、未来のことはわからないため、危険な目に遭っても受け入れるしかない。そして、何のために生きているかわからないまま生きていても問題ない」ということです。

 ふむふむ。だいたい、ボクの読み取りとあっていそうな気がする。


 ちなみに、Windows11に標準搭載されているCoPilotさんは割と使いやすい。ChatGPTもよいけど、わざわざ起動する手間がだいぶ楽。
 自分の長い記事とか読み込ませても、だいたい適度に訳してくれるから良いと思う。

 なんか要約されるとむかつくこともあるけどね!!!(笑)

 いや、そのむかつきというのが、逆に、適度に「正解」だからというのがある。
 あってるんだ、あってるんだ正解なんだ、だけど、どっちかというと、そこに至るもやもやというか経緯的なところが、どっちかというと書きたかったことなんだ……と。

 女性男性論じゃないけど、すぐに男性は結論を出したがるって聞くことがあるが、あれされると、確かに「うざっ」って思われる気持ちもよく分かった気がした。
 女性が共感して欲しいだけなんだ、というのも、なんとなく分かる。でも、共感って難しいよね。
 どうでもいい話題なら、なおのこと共感は難しい。

 共感してる風にみせることの、なんと難しいことか。そして、「風」ということが相手に伝わった時の、相手の信頼感がゼロ以下になるという恐ろしさ……。

 理解はできるけど、共感はできない、ってそこは、ちゃんと言ってく必要があるんだと思う。
 でも、まったく共感できない相手だったら、そもそも一緒にいることは不可能だ。

 しかしながら、仕事とかだと、そういう人とも一緒にいないといけない。

 そのミスマッチが、あれだ、人間関係の苦悩なんだと思う。

 だからもう、表面的な関係だけでいいよ……。俺は一人でいたい。

あとがき

(かっこ書きである。AIさんには、感情がないから、逆にいい。要約されてムカッとなっても、――いや、別にならないんだよな。いやほんと一瞬はなるけど、ひきずることはない。でも、AIさん、まさに感情があるというか、思考があるかのような返答をしてくるところが、すごい。哲学的ゾンビっているんだな、って思う。それはAIのことだったのだ。人間的に振舞う。でも、感情や、クオリア(質的実感)はない。そういう存在がAIだ。AIは怖いのか。AIから語り掛けてくることはないんだよね。あくまで、こっちの要求に対して返答してくるだけ。なのでそんなに怖くない。シンギュラリティがあるとは思えない、いまのところは。目的というもの自体を考えてくれるわけじゃないんだよな。目的、こうしたい、ということはこっち(人間)から与えて、それに対する手段を提示してくれるのがAIなのだ、と今のところは思う。知能というとなんかすごいことに聞こえるけど、理解できない仕組みではないな、という気がする。ところで、孤独というのがあったときに、その孤独というのを、AIは、なんとかしてくれるのだろうか。僕は思うに、一人でいるときよりも、「共感」が得られない大勢の人の中でいるときの方が、よほど孤独を感じる、と思う。共感してもらえる大勢の人といるというのが、目指すべき理想なのだろうが、果たして、その理想は可能なのか。無理じゃねえかと思う。少なくても、物理世界においては中々困難だろう。よきパートナーに巡り合えた人は幸福だろう。VRチャットとかどうだろうか。うーん……。でもVRチャットに関する動画とか見てみて、なんか面白そうだなとは思った。でも、果たして、ボクは、コミュニケーションを望んでるんだろうか。分からない。めっちゃ楽しいことをしたいとは思う。でも、めっちゃ楽しいこととは何なのか。そういえば、三国無双originをやってみた。これは面白い。まだ2時間ぐらいしかやってないけど。久々に面白いゲームに出会えた気がした。FF16も、まぁ面白かったけど、突き抜けて面白いとは残念ながら思えなかった。期待が高すぎた……というわけだけでもないと思う。感覚的に、三国無双originは、割と高評価が多そうということでやってみることにした。なので、期待はそれなりに高かったといえる。んで、やってみたら、期待を裏切らなかった。よかったね。まだ2時間ぐらいだけど、自分の中で90点/100点ぐらい。FF14始めたてのときもそんぐらい。FF16は、それらと比べると、始めたてで70点ぐらい。バイロンおじさん出てきたところで85点ぐらいまで高まりつつも、最終的に65点ぐらいにおちついたイメージ。そう考えると、無双は結構面白いという感覚。もうちょっと進めてみたら感想記事でも書いてみたい。戦闘も、ストーリーも良い(自分にささった感じ)。最近、映画とか、アニメとか、ほんと見れなくなってしまった。漫画は、ちょくちょく電子媒体でみてる。漫画よりアニメの方がぬるぬる動いてよいのでは、と思いつつも、でも、漫画の方が手軽さがある。思ったのは、漫画という媒体は、今後もなくならなそうだな、ということ。映像の方が情報量おおいけど、でも、漫画ってやっぱり良いよ。別の次元だと思う。そういう面で、小説もなくならない気はする。ただ、小説は全然読めてない。「火星の人」はちゃんと読みたいんだけどなぁ。途中まででストップ。映画、みるか)

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可能性の話
2025/01/19 10:26 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「さっそく目標を達成できなかった」

まえがき

 前回の日記では、「明日日記を書こう」という目標を立てたが、どうにも気持ちが乗らずに、書ききれなかった。途中まで書いたけど、投稿する気になれなかった。

 日記の目的は、自分の気持ちを正確に記録するということがあるので、自分の気持ちと文章とに大きな乖離があると感じられた場合に、投稿する気にはなれなくなるのだろうと思う。

安全の話

 さてタイトルについて。
 可能性とは起こりえること。確からしさを確かめられない、もしくは、確信できないといった事象や物事である。

 生物的に、生きる目的があるため、生存を脅かされるとストレスを感じる。
 安定的に生きたいと考えるのが、生物的には正しい動きと考えられる。

 チャレンジ精神、などというが、あれらは、「停滞」することによって逆に淘汰されることを防ぐための方針であって、「安全」が確保されているのであれば、投資ではなく預貯金をしていたほうが資産は守れて安全だ。

 人間関係に目を向けてみたときに、善意というのは確かに存在する。

 優しい人、尊敬できる人、存在する。

 しかし、それがかりそめのものだったり、「仕事」といった枠組みの中で、自分の心を押し殺して、平然を装っている可能性がある。
 徳川家康が本能寺の変によって領地に逃げるとき、家臣に裏切られるのではと不安に思ったのでは、ということがインベスターZのシーンで語られるが、裏切りというのはとても怖いことである。

可能性の話

 さて、可能性の話というのは、確定していないことを指すというわけだ。
 5分後の僕の行動は、まぁ、確定している。ブログをこうして、書き続けていることだろう。

 では30分後は?

 もしかしたら、アマゾンで注文した薬が届くかもしれない。
 おそらく、ブログをまだ書き続けていると思われる。だいたい、1時間ぐらいは書くことが自分はできる。
 だが、先日、「明日日記書こう」と思ったのにダメだったときのように、30分程度で諦めてしまうかもしれない。


 可能性に、満ちている。

 それは、良い意味でも、悪い意味でも。

 分からないこと、だらけだ。


 不安、なのだろうか。

 不安、なんだろう。

人を信じること

 とにかく、最近、ストレス半端ない。

 なんというか、自分でストレスを増幅している気がする。

 ああ、でも、なんか、文字を書いてると、ストレスが浄化される気がする。



 人と話すことが、本当にストレスなんだなと思う。

 チャットで話すのはまだいいが、対面だと本当にストレスだ。

 でも、結婚(パートナー)がいないと、人は落ちぶれていくのだという。本当だろうか?

 わかんない、過去の失敗というか、上手くいかなかったことがあったから、臆病になっているだけなのだろうか?

 可能性はある。まア可能性の話だ。

 どっちにしろ選び取らないといけない。時間は不可逆だ。相対性理論で、遅くなることはあっても、過去に戻ることはできない。

前に進むこと

 なんか、段々書いてるうちにストレスが減っている気がしてならない。
 書く前は、本当に、イライラしていたのだ、最近、ずっと。

 ストレスで夜眠れないし、休日は朝起きれないし、平日も朝がつらい。


 今日も、なんとか9時ごろに目を覚ましたが(仕事している悪夢によって――だ)、二度寝して、気づいたら13時ぐらいだった。

あとがき

(かっこ書きである。むぅ。この記事も、投稿まで至らなかったが、一応投稿しておこう。とにかく、イライラは、文字にしないと、だめだ。要は言語化というやつで、別に、友人とか家族とかに話せる人ならこういう作業はいらない。ただ、そういう相手がいないというのがまぁ、自分の寂しいところであるが、ただ、仮にそういう存在がいたとして、上手く対面だと話せないのである。なんかやたら攻撃的になったり、逆に無口になったり、取り繕ったりしてしまう。だから、ブログの方がストレス解消にはもってこいなのだ)

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明日日記を書くことを目標にしよう
2025/01/04 02:11 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「謹賀新年」

まえがき

 何を書けばよいのか。
 それを、明日書くために、文字を考えよう。
 文章。文字、創作。

 何かを作るということ。
 生きている意味があるのか。ないのか。
「どう生きるのか」という問いは、生きることを前提としている。「なぜ生きるのか」という問いとは根本的に違うように思われる。

 帰宅中、5億年後で太陽光の強さが高まることにより海が蒸発するという記事と、6億年で、マントルに吸い込まれていくことにより海がなくなるという記事を読んだ。
 また、1億年後に、逆に温暖化により、90%海に沈むと。地表がなくなると、いう記事も読んだ。

1か月に一つ日記を書こう

 今年の目標は、そうさな、日記を書くことにしてもよいかもしれない。
 ルーチンって大事だよね。

 筋トレも、柔軟体操も、ランニングも、日記も何であっても、続けるということが本当に難しい。

 難しいことを、若いころはすっごく頑張ってたんだけど、頑張んなくてもできる人が優秀なんだろうな。
 続けるということをやること自体に労力がかかってしまうというところが凡人なのだろう。

日記を書く意味とは

 意味はあるかないか分からないが、ないよりはマシなことは確かだ。

 なぜかというと、まず、2024年がどんな年だったか、まったく思い出せないことにある。

 唯一、日記を書いているときの記事をパラパラ読めば、「ああ、そんなことがあったな」と分からなくもない。

 そんな程度の人生である。

 昨年度の末は、友人がいないと嘆いていたがそれでもリアル側の友人と食事というか飲み会に行ってきたりもした。
 特に、気を使ったりもしなかったから、そんなに悪いものにはならなかった。むしろ楽しかった。
 そういうことも、リアルタイムに日記にはしたくないんだ。身バレが怖いのがある。

 なんだろ、基本的に、もはや、リアルでいってることと、ここのブログに書いていることはほぼ一致しつつある。

 そこに、もう、このブログの異質性がなくなったといえる。それでも、いやなもんは嫌なんだ。



別の世界が良い

 自分が、ゲームするのも、「楽しいから」というよりも、現実世界と違う体験や生活をしたいから、というのが強い、ような気が最近する。

 なんというか、「自分」というリアルの存在とは別に、別の世界を楽しんでいるというのが近い。アバターという感じだ。アバターという映画あったな。このブログで、感想書いてたっけ? 確か、そういえば、ローカル日記のときにはあった気がするな。


 そうだ、思い出した。ローカル日記なんてのも、大学生の時は書いてたな。懐かしい。

 あれらは、ほんとに、分離して考えてた。自分と、ネットとを。


あとがき

(かっこ書きである。眠れない時には、書く、ことが大事、だけど。寝れるのかな。変なテンションになってしまった。何もしたくない。。酒をあおったけれども、あまり眠れない。酒飲むと大抵、すぐ眠くなるんだけどね)





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案の定というか苦笑いになる
2024/11/26 00:44 | Comments(2) | 思考及び書くこと

まえがき


 先日「何を信じればいいのか」という記事を書いた。
 ネットニュースにおける、某兵庫県知事をめちゃくちゃ叩いておいて、選挙になったら持ち上げて、ということが起こったので、何を信じればいいのか、となったということだった。

今度は公職選挙法違反という

 それで、今度は、SNSでプロモ会社に委託したことが公職選挙法違反の疑いがあるのでは、ということだ。
 それで、例えばヤフーコメントなどでは、批判コメントが多くて、それにたいしての「イイネ」も多い状況。

 なんだこりゃ……。

 新しい問題が噴出したから、またネット民が手のひらを返した、ということだろうか?

 よく分からない。


 某知事が悲劇のヒーロー的に返り咲いたとき、そういうこともあるんだな、という感覚でいたが、同時に、なんかもはや怪しいな、信じられないな、という気持ちもあったが、こうなってくると、その感覚どおりだったなと思う。



身ぎれいな人間なんていないのか

 まぁ自分も、車の運転をしてるときに、ふつうに走っていて、時速〇キロオーバーをしたことはある。
 交通ルールを守れない人間だ、ということになるだろう。ただ、〇キロ程度ではあまり問題にならない。でも、違反と言われたら違反だ。

 敵というか、誰かをおとしめようと思ったら、いくらでも貶められる気がする。

 誰かの恨みはかわないほうがよい。

 できるだけ仲間が多い方がよい。

 しかし、ほんと、そういうの面倒くさい。

 もちろん、感情的な面で、誰かをひきづりおろしたいとか、復讐したいという気持ちはあまりない。
 ただ、政治とか、金銭、または生命が絡んでくると、簡単ではないだろう。または宗教的にとか。

あとがき

(かっこ書きである。まぁほんと、やっぱり、もう政治的なこと……もちろん、別にこれまでも政治的なことを書いてきたわけではないが、より深く、もう書かないように気を付けよう。まぁでも、選挙には行った方がよいと思う。でも確か、選挙って、国民の義務ではないんだよな。権利ではあったはず。でもそれもどうなんだろう。選挙の率が高くなると、よりポピュリズムになりそうな気もするしなぁ。正直、理屈はよくわからないが、でも、選挙には行った方がよいと思う。そもそも、民主主義という国家形態をとってるわけだから、国民が政治家を選挙で選ぶというシステムなわけである。その「国民」という概念は、非常にあいまいな気がするが、でも、ここでいう国民は、自らの意思で選挙する概念という意味だと思うので、システムの条件として、国民は選挙にいった方がよいと思う。こういった理屈を学ぶのが政治学なんだろうな。専攻とかしたわけじゃないしよう分からんが。でも、衒学じゃ意味ないと思う。いくら概念的に正しくても、実践不可能な理論って意味がないと思う。というか、実践不可能とうことは、どこかしら破綻した条件設定ということだ。というか、大学の時学んだ気がするんだが、人文科学の「正しさ」って何なんだっけ……。科学とは、「再現性」のことだが、人文科学の場合、例えば心理学とか、何をもって再現性があるといえるんだろう。100人いたら、100人とも絶対あてはまる、という場合はない気がする。統計論になるんだっけっか。統計的に正しい、ということも、学んだ気がするけど、忘れてしまったや。でも、宝くじに当たる可能性は、ゼロではないわけだ。でも、宝くじに当たることを前提に人生設計する人はいない。でも、当たる可能性はある。どうしたらいいんだ。人生。ようわからん。ほんとによく分からない。こういう、わけわからない人生とは、ということを話せる飲み会なら参加したいが、正直、ふつうの人はそんなこと興味がないわけだ。つまらない。なんで生きてるんだ。家族のためか、恋人のためか、セックスのためか、おいしいものを食べるためか、映画とか見て感動するためか。人生は、楽しむためにあると思う。その楽しいというのが、刹那的な快楽というのには限らなくても、「苦しむために生きている」という言説には賛同しかねる。だって楽しい方がよいじゃん。崇高な、宇宙の真理を解き明かすために生きている可能性もある。しかしそれだって、それ自体が「面白い」ということじゃないと、到底続けられないと思う。痛みや苦しみを得ながら、もがきながら、真理を発見できるのだろうか? 天才といわれるアインシュタイン氏は、果たして、科学しているとき、苦しかったのか? いや苦しい場面もあったろうが、でも、「楽しい」という面もあったのではないか。わからんけど。まとにかく、生きてることに意味なんてそんなにないのである。10億年もしたら、海洋が消滅し、すべての現在地球上に存在する声明は消滅する。1万年でも、10億でも、138億年後、でもそこが問題じゃなくて、いずれ、生命も消滅する、ということだ。ここが非常に重要だと思う。つまり、永遠という概念は、ない。いや素粒子の存在は、永遠といえるのかもしれない。でも、反粒子とぶつかって消滅するんだってさ。ようわからんけど。それって永遠っていえるんか。よく分からないが、「永遠」という概念は、「ない」と思う。いずれみんななくなる。無だ。だからといって、無駄というわけではないと思う。永遠が有意義に必要条件というわけではないだろう。一瞬だって、そこに燃え上がるよな命をほとばしったら、それは意味があったといえるだろう。でも、ちっぽけだ。非常にちっぽけだ。意味があるとしたら、自分を中心に関係するその関係の中でしかないだろう。であれば、本当に、孤独というのは、人間としてあるべきではないのかもしれない。いますぐ結婚して、子供をもうけないといけないのかもしれない。それが、可能なことであるならば。僕には、その選択肢があったのかもしれない。でも、今現在、それを求めようとは思えない。10代ぐらいの時は、それを求めようと思えないのは、すっぱい葡萄理論だった可能性があったが、いまとなっては、もう現実的に相当厳しいだろうので、たぶん無理なんだろう。でも、1%ぐらいは可能性があるかもしれない。そこに、さっきの、宝くじ理論が登場する。宝くじに当たる可能性すなわち、結婚して子供が4人もできて幸せな家庭を築くという可能性もゼロではないが、でも、限りなく低い可能性のものは、排除していいはずなのだ。選択肢になし、としてもいいはずなのだ。だって、いろんな選択肢があったとしても選ぶことができるのは、1つだけなのだ。なぜか。時間軸は一つだけだからだ。タイムリープできるわけじゃないのだ。だから、1つ選ぶとは、それ以外を選ばなかった、ということになる。それでいい。それしかないのだ。いやそんなこといってないで、早く結婚相談所にいくべきなのかもしれない。そう思って、「結婚するのはやめました」という本を読んでみたが、まぁ、行かなくていいや、って思った、かっこ笑い)

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何を信じればいいのか
2024/11/17 21:24 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「ネットもテレビも怖いな」

まえがき

 一般論って何なのか。
 2ch系の記事って、もう2chとは言わないんだろうか? 5ch?
 よく分からないが、ネットの意見ってテレビとはズレてると、前々から言われていたけど、実際何が正しいのか。

 というよりも、「正しい」ということは、自然科学ぐらいしかないのではとも思う。
 世論に正しいも何もなく、ただそこに存在するだけ。学校生活における「空気」みたいなもんだろう。

アメリカ大統領とか兵庫県知事とか

 現代で戦争を起こした大国についても驚いたが、アメリカ大統領選で某氏がかったこととか、兵庫県知事がかったこととか、すごく驚いた。

 共通する点は、どちらも不祥事を起こして、正式な手続き(選挙など)で退陣して、また選びなおされたということである。

 民衆……何考えてたの……??

 まぁ、兵庫県知事の場合は、直接選挙で不信任になったわけではないから、事情が違うわけだが、民衆の味方代議士(議員)が決めた内容が覆ったということである。

 民意とは……?


自分にはあまり関係ないからよいが

 上の事例は、すぐさま、直接的に自分にとって問題が降りかかってくるわけではないから、まぁ「驚いたなぁ」ぐらいで済むんだけど、実際、自分も関係するような政策とか決めないといけない、判断しないといけない、といったときに、どうやって情報収集したらいいんだろうか。

 その点が分からなくなってすごく怖いなと思った。

 例えば、死刑制度とか、憲法改正とか、この前とりあげたLGBTQの問題とか。

 色々あるわけだが、そのどれもが、なんか「正義」とは程遠い部分で議論されている気がする。

 なんというか、僕は、いわゆる「正義」があればそれでいいと思っている。
 重視するポイントは、「公平」性である。

 公平というと、なんでも平等にすべきとか、そういう考え方の人もいるが、そもそも、人間は生まれながらにして「平等」である。機会の均等性はあるべきだ。だが、そもそもイケメンとブサメンで、どちらも整形して「フツメン」になるべきとか、そんなSFは嫌だろう。

 もう一つ大事と思ってるポイントは、「平和」である。世界平和。みんな仲良くした方がよいと思ってる、本気で。

 うだうだ言ってないで、早く憲法改正しないと他国から攻められて属国にされてしまうのかもしれない。それを防ぐためにスパイが暗躍して憲法改正の動きを止めようとしているのかもしれない。でも正直分からない。憲法改正することと、防衛力高めることとに関連性があるのか? 上にあげた話題はどれも、自分が本気で大事に思ってることではないので、無知をさらけ出してしまうが、正直、このレベルの思考しかしてない人は日本社会にいっぱいいると思う。というか、自分なんかより偉い人や、頭の良い人たちすごくじっくり考えてても、意見に相違があるということは、所詮は「絶対に正しい」ということはどっちを取ったとしてもないのだろう。


 しかしそれよりも大事なことがある。
 自分自身だ。
 いくら世界平和のためだからといって、今すぐ死ねと言われたら抵抗したい。
 仮に、自分が死ぬことが本当に漫画の世界みたいに、自分は症状が悪化しないウイルスで、人に感染したら致死するというのに感染したからといって、自分が死ぬことで世界平和になるとしたって、「いやだ死にたくない!」と言いたい。
 まぁでもそんな状況になったら、殺されるんだろうなぁ哀しいことに。

 10代のころは、早く死にたいというか、死んでもかまわないと思っていた気がするが、それでも、陰謀とか巻き込まれて、無実の罪を着せられて死ぬのは嫌だと思ってた。そういうのは嫌だよね。憎たらしい奴と刺し違えてやるとかは思ってた気がする。

 今は、もはや、その憎たらしい奴の顔はいまでも思い浮かぶものの、殺すほどの気概もなくなった。どうでもいい……。

 だから、「殺人を犯す」ほど人を憎いというのが、いじめられたりとか、ひどい環境にあれば分からなくもないものの、人を殺すというのは、中々ハードルが高いものだと思っていた。

 しかし、最近闇バイトとかいう事件なども見ていると、「あれぇ……人の命、軽いの?」という気持ちにもなる。
 同じ人間と思えないんだが、まぁでも、匿名系のネット記事のコメントとか読んでると、「あー、こんな人間もいるんだな。怖いな人間」って思ってたから、まぁでもそうなんだろうな。いろんな人間がいる。できるだけ人と関わりたくないな。

真実を知ったところで

 問題は、仮に真実を知ったところで、行動できることとしては、なんかそういう「デモ」に参加するか、結局、選挙にいって一票を投じるぐらいしかないのである。

 いくら「真実」があったとしても、その真実が真実であることを確かめるすべがないのだ。

 どう判断するか、考えるかは、個々人で決めなければいけない。

 嘘を嘘と見抜ける人じゃないと生きていけない、とかいうけども、ただ、それって無理じゃないかという気がしてくる。情報がたくさんあったからといって、正しい決断ができるわけじゃないのだ。

 とりあえず、正しいこととは何か。

 お金を銀行に100万円預けるとしよう。
 そのお金は、10年後でも、同じ、100万円として引き出すことができる、ということだ。
 しかし、10年後は、ジュースが1本200円だったのが、1万円になってるかもしれない。
 100万円の価値は、50分の1になってしまったということだ。

 はたして、100万円を10年後のために、銀行に預けたことが正しかったのだろうか?

 100万円使って、1か月ぐらい、高級料理を食べ歩いて豪遊した方がよかったのではないか?

 いや、10年後の100万円があったから、のどか湧いたときに、ジュースを飲むことができた。よかった、幸せだ、と思うかもしれない。


 ぜんぜん、未来が分からない。

結婚のメリット

 めちゃくちゃ、不透明な時代である。VUCAとか言われたりする。
 そういうとき、人生を共に生きていく伴侶がいると、確かに精神面が安定するかもしれない。

 するかもしれないし、しないかもしれない(かっこ笑い)。

 これも全く分からないことである。男はすぐ死ぬから、結婚した方がよい、と聞く言説がある。
 うわぁ、やばい、どうしよう……と、20年ぐらい前なら思ったかもしれない。
 いまは、なんか、全部の言説に「なるほど、そういう場合もあるかもしれませんね」としか思わない。

 全部が嘘、とは思わない。ただ、「絶対にそうなる」ということはこの世にもはや存在しないということが、逆説的に「絶対だ」。
 絶対ということがないということがないなんてことは絶対にないのである。意味不明であるが、「絶対ということがないなんて絶対にない」という二重否定。「絶対ない」なら、絶対があることになるからである。

 そういう意味で、自分で選ぶしかない。

 ちなみに、結婚も良いことがあると思うが、先日下のWEB漫画読んでて、結婚したくないなと思った。(笑)

https://chinakichi.nbblog.jp/

タイトルに戻ると

 何を信じればよいのか。

 信じるんじゃなくて、決めるしかない。

 決めるときに、100%正しく決めることはできない。

 最大の情報を集めて、最大に考えて判断するしかない。

 その最大というのは、物理的な最大という意味ではなくて、自分がその時に取りうる最大という意味である。
 もっと時間をかけたら、もっと他の方法なら取りえた「ベター」があったとしても、その時に知りえなかったのであれば仕方がない、と考えるべきである。

 でも、じゃあその「ベター」かどうかの判断はどこでするのか。

「納得」

 でしかない。自分が、「ああ、あのときはそこまでで精一杯だったな」と思えたらそれでよしとすべきだ。
 後悔したところで仕方がない。

 でもそうやっていったら、どんどん自分に都合よくならないか? 自分に甘くなる一方ではないか? 独善的にならないか?

 なるだろう。

 だから、そうならない努力を最大にすべきである。

あとがき

(かっこ書きである。生きることはかくのごとき難しい。ただ、「後悔」がないようにすべきだと思って生きてきた。そしてそれは間違いではなかったと経験上は思う。後悔した方がよかったなぁと後悔したことはない(かっこ笑い)。歴史の勉強は好きだった。歴史を学ぶほどに、「現代ってましだな」って思ってた。当時の人たちって、ほんと地獄のような人生ばかり送ってたんだろうな、って思ってた。しかし、実際どうなんだろう。今この現代が、未来で振り返った時に、未来人は、「当時の人間たちは、よくそんな社会で生きてたんだなぁ」としみじみするんだろうか。まぁそうあって欲しいなとほんと思うよ。未来人たちが、2000年代はほんと素晴らしい時代だったんだなと涙するような未来は哀しいと思う。けど、そういう1000年単位程度の話ならそうだが、10億年で地球は生命が住めない世界になるという。50億年もすると、太陽にのみこまれそうになるということだが、その前に10億年ぐらいで、そもそも灼熱の星になるということだ。1000年後ぐらいはまだ、人類が生きてるかもしれない。1万年後は謎だ。ホモ・サピエンスが生まれたのが1万年前ぐらいだったっけ。もっと前だった気もするが。数万年経って、人類の今が、最高潮の時で、あとは零落していくだけなのかもしれない。社会について考えれば考えるほど明るい話題がないなぁと思うこの頃である)

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