今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」
ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
前書き
おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
NOTEに登録した
もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
自分が登録しているサイト等
創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
活動の優先度
ブログ>自サイト>その他。であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
傲慢な気持ちもある
いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
人はみな幸せに楽しく生きるべきである
僕はネガティブな人間である。しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
さらに第三次元を目指せ
だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
PR
今日の一言「今日も20分だ」
そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
前書き
最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
メインストリーム思考
モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
主流が発生する場
で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
自分の開示は最小限であるべきか
まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
今日の一言「未定」
社会悪を多様性はどう考えるべきか
この一連の記事の最後に、いつものごとく、極端な例を考えてみよう。
人を殺すことが、命を奪うまでに残虐な拷問を加え、苦しむ姿を見ることが大好きでやめられない人がいたとする。
排除すべき悪であることは間違いないが、「多様性」の考え方は、これに対してどう回答すべきか。
前提として、ルールも、共通価値も、否定されるものではない、ということだ。
上に書いた通り、ルールも、人の偉大な発明の一つだ。
だから、人に害をなす存在は排除する、というルールはあって然るべきだろう。
しかしそれでは、ルール>共通価値>多様性(個人価値)という図式とならないだろうか、なってしまいがち、であろう。
だから、ルールは可変であるべき、ということについては、共通価値として、「教育」されなければならないと思う。逆に言えば、ルールと教育はセットでもある。だからゆえに、特定の国や価値観を排除する反教育は、全くもって下劣で理に反しているといえる。
教育は、「仕組み」を教えるにとどまるべきであって、思想の埋め込みであってはならないのだ。
いや、過去にそれが共通価値として正しい時代もあったので、過去永劫間違いであるという意味ではない。
ただ、ここまで書いてきた通り、何か一つの目的や価値に全人類を合わせる、というのは、根源的に不可能である、と思われる、ということである。
それが可能であると思う人も多いのだろうが、歴史を学んでもう少し考えて欲しいと思う。歴史が嫌いな人は、身の回りの組織や、集団(家族や、友人たちとのことだっていい。いろんな人がいなかったろうか)のことを考えて、少し敷衍できる能力があれば分かるだろう。
ここで、個人的な価値レベルと、宗教とか、資本主義とかそのレベルの大きな目的や内容であれば、共通性をもたせられると考える人もいるかもしれないが、それが、こののち数万年単位で普遍であると、どこまで信じられるかが問題である。
(かっこ書きである。未定)
今日の一言「未定」
ルールと共通価値とは違う
ルールと、共通価値とは、違う。もちろん、個人価値とも全く違う。
ルールは、あくまでも、異種間で対立が起きないように、または起きた時に円滑に解決できるような事前の取り決めである。事前というのが大事だ。明文化されているかどうかは別として、前々から決められていた、という「建前」が大事である。
一方で、価値というのは、思考も、感情も、信念もすべてひっくるめた、人自身である。
それがある程度類似の方向性があれば、共通価値になるし、そうでなくても、個人価値は誰しも持っている。
それとルールは別問題なのは、徐々に見えてくるだろう。
だから、ルールに違和感をもつことは悪いことではない。
共通価値に違和感をもつことは悪いことではない。
あなたが、「生きづらい」と感じることは悪いことではないのだ。
孤独、を思うかもしれない。
誰も自分を理解してくれないと思うかもしれない。
しかし、原理的に、人は孤独なのだ。
何故ならば、人は、多様性をもつ生き物なのだ。
(かっこ書きである。未定)
今日の一言「未定」
対立には排除なのか
昔の人たちがそれに気づいていなかったわけではなかったろう。
古代ギリシアでは、都市国家が乱立していたが、同じギリシア人はヘレネス、周辺の蛮族はバルバロイといって区別していたという。
自分たちと異質な、しかし姿かたちは似ている存在は認識できていたはずだ。
しかし、戦争といった、排除するという行動しか取れなかったのは、「理解可能性」まで思慮する時間も認識もなかったからだ。
とはいえ、時代が進むにつれて、殺し殺し合いを続けていることは、非効率であることには気づき始めた。自国内でも問題が発生したとき、上手く統治する必要があった。
だから、「ルール」を開発した。
ものではないが、発明といってもいいだろう。
火や文字の使用や、農耕の開始、印刷機の開発、インターネットなどが文化的な刷新といわれるが、そもそも、「ルール」というのも偉大な発明だ。
しかし、ルールに関しては、「慣習」といったものもあるので、あえて発明とはあまり思われない。自然に、人が生じたときからあったような気がする。
そうはいっても、意識的・無意識的にかかわらず、人は「ルール」の中に生きている。
ルールといえば、「学校の廊下は走っちゃいけません!」的なのや、道徳的な、車内マナーみたいなものも想像されるが、ありとあらゆるところにルールがある。
ルールはもはや、「共通価値」と似たような意味をもつときもある。
ルールがあるから、人はそれに従うべきだと、妄信的に考える人も、少なくない。厳格に、きまりを守ることが大事だと考える人は多い。コンプライアンス、それは当たり前なことだろうか。
(かっこ書きである。未定)