今日の一言「仕事のモチベーションをあげたい」「イライラ対処」
長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
前書き
よし。一週間が終わった。長い、長かった。
身体が、だるかった。
今日とか、朝、ほんときつかった。休みたかった。電車に乗ってもずっと具合が悪かった。
会社について仕事を始めると、少し集中すると忘れられるといえばいえるが、しかし、時間の問題だった。
最近ブログリンクに追加した40代の管理職のこの方の記事が面白い。
何にもなれなかったって? お前、本気で何か目指したことあんのかよ。
http://delete-all.hatenablog.com/entry/2019/02/20/180000
ブラック企業で働いた経験もあるかたで、いろいろ壮絶な体験を、独特の文章で描かれていて面白いなと思った。
ルーチン更新として扱う
多分、24時近くになると思うから、この記事を土曜日のルーチン更新として扱うよ。土曜日に書けるか、ちょっと分からないからな。仕事のモチベーションを高めたい
いやー、やる気が起きない。いや、さぼってないぞ。居眠りもしていない。
だが、楽しくない。
いや、楽しいつらいとかそういうことじゃなくて、気が落ち着かない。
周囲に気を使っている、というのもあるが、何もしていなくても疲れる。
いやほんと、見た目以上につかれているのだ。
疲れた……。しかし、文章でいくら疲れたという言葉を書こうが、意味がない。
コピペしてんのか、と言われてしまうだけだ。
疲れた、疲れた、疲れた、だるい……今僕は、左の内容をちゃんとタイピングしているが、読む場合に、まぁ繰り返しだとして読み飛ばすだろう。そういうもんだ。
なんかその、今日は、自分の確認ミスなのだが、他者の「そんなことしますか……」ということによって注意を受けた。怒られた、と書いてもいいかもしれない。ますます気持ちが沈む。
いや、仕事に気持ちなんて持ち込むな、という人もいるだろうし、俺なんて毎日叱責されてるぜがっはっは、という人もいるかもしれないが、俺は打たれ弱いのである。
問題の本質はそこではない
まぁ、怒られることも、別に構わないのだ、それが大事なことだったりしたら、逆に「ありがとうございます!」って感じかもしれない。いやほんと、なんか、それって意味があるのか……ということを思ってしまうのである。
(今回注意されたことに限らず、だ)
意味。
意味。
意味。
いや、例えば、教師という仕事が、無意味という人はいないだろう。だが、教師の仕事の中にも、それって子供のためになるの? ということはたくさんあると聞く。
会社だってそうだ。その仕事は、いったい誰のためなの、というものがたくさんある。
いやそもそも、その会社の存在自体が本当に必要なのか、というのもある。
俺は、インターネット通販サイト氏は残っていただきたいが、テレビ局氏は別に滅びても構わないと思っている(俺が使ってないからな)。
まぁその、資本主義とは、必要のない会社は淘汰されていくという「原則」がある。
が、実際そのとおりになっているかというと、なっていないというのが、みな、社会人の方々なら薄っすら分かっていると思う。
と、いうか、そこで、結局、僕のこのブログのテーマにたどり着くのだ(やや早急か)。
価値
人間存在に価値があるのか。いやほんと、そういう問題提起からである。僕は最近、それを曖昧にしているのがよくないかもしれない。
某リンクの氏は、自身のブログの説明に、「早く死んでしまったほうがよいのではないか、とも思います」と書かれていた。一発、リンク対象になったことは言うまでもない。
いや、ここでいう「死」を字義どおりにとると、僕の過去の友人のように、「変なことばっかりいっている、人格崩壊者」としか思わなくなり、何ら話に感慨は生じないだろう。
別にすぐさま、人類が滅んでしまえ、と僕は言っているわけではないのである。
ないのだが、きっと、上の表現を経れば、大半の人はそういうイメージをするのだろう。いやするのである。大体、他者の思考というのが、ようやっと分かってきた。
いや、もう、まず、いったん、方向転換しようかな。それぐらい先日の友人との1件は衝撃的であった。
僕は、変わっている。
いや、方向転換というか、元に戻ったというだけでもある。
もともと、他者とのズレ、というのを感じがちだった。それがゆえに、変になったのかもしれないが、卵が先か後かはどうでもよくて、要するに、現状として俺は変なのである。
この、俺は変、ということから思考を始めると、いろいろ、弊害があるのも分かっているので、取り急ぎ、自分は「凡人」であることを前提に、ここ数年は頑張っていた。
変人としての生き方
変だから、正常になるのか、変を貫くのか、まぁ、それは課題である。ともかく、出発点を変、にしていいのではないか、という提案である。
提案。承認。
一瞬で認められた。自己決定がスピーディなのはいいことである。
まぁ、大きな契機にしたい、ということで、カテゴリを「イライラ対処」から「生きる意味」に変えておいた。
仕事の話じゃなかったか
ああ、そうそう。仕事のモチベーションの話である。なんか、別に、だれかと仲良くしたいとか、やっぱり本質的に思ってないんだな、というのもある。
これは不思議なのである。
だって、物語とかで、友情とか、信頼とか、そういうテーマは嫌いじゃないのである。
それなのに、僕自身が、他者との付き合いにおいて、どうしてそれを求めないのか。
それは、現実だから求められないのである。
ああ、これから書くことも、別に新しいことじゃない気がした。気がするが、久しぶりに書く気がする。
要は、二次元(創作)だからこそ、そこに真実がある、と思えるのである。
キャラクターは創作物である。
それゆえに、「表裏がない」。
これは、原理的にないのだ。
つまり、腹黒い敵役であっても、主人公を裏切るライバルであっても、そこに「表裏」は無いのだ。
結果として主人公を裏切った奴は、もともと悪い奴、だったのだ。
逆に、現実存在の人間は、カオスなのである。
「裏切る」のではなく、「裏切るかもしれない」のだ。
その存在に真実性が宿るのは、ようやっと、死が訪れた時だけである。
死は、人の存在を固定化するのだ。
人を救ったまま死ねば、英雄になるのだ。
偉大な行いをしても、晩年失敗したら、その人はダメな奴になるのだ。
死によってしか、人は分からないのだ。
だから人付き合いは面倒
そうなんだなぁ……。やはり、根底として、俺は人を信じていないのだろう。
こんなことを書くことが「エラー」であることは分かっているが、しかし、それでも書かなければならないのだ。
間違ったことを書いているのは、ほんと、わかっているんだ。
なーんのいいこともない。
誰が読んでも、不快になるようなことを書いているのである。自分にとってすらメリットは本来ないはずなのだ。
しかし、それでも、書かなければならない。
俺はゼロ秒にアウトプットしなければならないのだ。
さもなければ、時を経ずして、俺の精神は死ぬ。生きるために必要な叫びなのである。
恋人の必要性
恋人はいたほうがいい……ということを、帰りながら考えていたのだが、だんだん、違う方向であることが分かってきた。まずもって、上のような内容は、恋人は愚か、家族にも言うべきではない。これは絶対だ。
いや本来。ふつーの人たちは、上のようなことを思わないのである。だから、「本音で語り合うことは大事だ」「思ったことを伝えるべきだ」「直接話すべきだ」とかいうアドバイスが存在するのである。
ふつーの人向けのアドバイスだ。
俺には一切役に立たない、ことを理解すべきだ。改めて、あらためて実感すべきだ。
(なぜなら、上に書いてきたとおり、俺は「変」だからだ)
つまるところ、世の自己啓発本とか、周囲の人との飲みニケーションとか、そういうのは俺が生きるのに役に立たない。
俺は、やはり、こうやって、俺自身で、俺が必要なことを探し続けていくしかないのである。
孤独な戦いで苦しいけれども、しかし、そうするべきなのだ。
(かっこ書きである。あーひどいことを書いたなぁと思う。だが、だいぶ、本音に近いというか、良かったんじゃあなかろうか。要するに、俺の周りの人たちがダメなのじゃないのだ。俺がいけないのだ。俺に責任があるのだ。――そのことは、逆に俺を少し、今、楽にしてくれた。くそったれ、と、少しモチベーションが生じた。いやそれは、「人に気に入られなければいけない」「気を使っていかなければいじめられる」という気負いを少し軽くしてくれたからだったのかもしれない。それは、やはり、俺は異常者であるのだと、認めてもよいと、自分の中で決断されたからなのだ。ここ数年、僕は、僕を「凡人」であるとしてきた。一般ピーポーだと。その意味に、何かを成し遂げられる能力、という意味を含めるとしたら、相も変わらず凡人なのだろうが、「精神」的な意味においては、僕はやはり変なのである。そうじゃなければ、どうしてこうも世界は生きづらいのか。モチベーションが上がらないのか。おかしい。「あー今日も疲れたなー」「仕事めんどくせーな」「あの上司のやつがよー」とか、凡人たちは、何故そうも言い続けながら生き続けられるのか。苦痛すぎる。なんやかんや、そういった平和をみな楽しんでいるのではないか。俺も、そういいながら、40代、50代になっていって、「いやぁ、若いときは血気盛んだったなぁ」って思うのだろうか。いや、思わない気がする。下手に凡人に合わせる作戦はやめだ。やっぱり俺には向いていない。――もうひとつ書いておこう。大学のころだったか、3年、4年生のときか? これまた別の友人を見習って「特に思考もせずに感覚的に生きていこう」として、ブログも日記も書かず、日々の中での生活に全力的に生きていったことも試したことがある。結局、上手くいかなかった。「感覚的に」といっても、その感覚を生じさせる欲求が欠如していったのだ。それに、現代社会に理性的な生き方は必要不可欠でもある。それを感覚的にやってのけることができる人もいるんだろうが、俺には無理だった。思考によって行動を検討しなければ、「普通」になれないのである。それでも、普通に生きることが大事だと思った。そうすることが一番コスパがいい、ことだと思った。否。否定しよう。俺は、俺独自のやり方を編み出さなければ、この先も未来はない。――っと、最後の文字を、小指でエンターキーで、タッーン、とした時点で、23:57だった。もう数分まって、予定通り、ルーチン土曜日更新ということにしておこう。とにかくここまで読んでくださった皆さん(または未来の自分さん)、一週間お疲れさまでした)
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今日の一言「臨時の記事だ」「初心は忘れてはならない」
体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
前書き
眠れない夜に書く記事。体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。
ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。
・幸せの、ありか。
・「書くこと」なんて、手段でしかない。
面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。
先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。
はてなブログ面白そうだ
そいで、はてなブログというものを、僕も登録したことはあるけれども、やっぱり、ブックマーク機能というのは面白いなと思った。広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。
僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。
イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。
だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。
でもやめた、という記事
でも、ある機能というか、内容を見て、僕はやっぱりやめようと思った。コメントだ。
上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。
もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。
だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。
面白そうな試みだ。
いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。
でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。
忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。
批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?
うん、それはそうだと思う。
ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。
だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。
僕は今はないと思っている。
40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
でも今は、ない。
「現実」との輪郭
むしろ、だからこそ、良い。そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。
このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。
でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。
という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。
まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。
(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)
今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」
ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
前書き
おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
NOTEに登録した
もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
自分が登録しているサイト等
創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
活動の優先度
ブログ>自サイト>その他。であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
傲慢な気持ちもある
いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
人はみな幸せに楽しく生きるべきである
僕はネガティブな人間である。しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
さらに第三次元を目指せ
だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
今日の一言「今日も20分だ」
そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
前書き
最初の書き出しが、「前書き」と決まっていると、導入は簡単でよい。そうだな、しかし、何を書こうかというのは逡巡する。
先日の、メインストリームと本音思考について書こうか。
あれは、たまたまLGBTのニュース記事を読んだから関連付けて書いたのであるが、それと実際自分の興味は全く別の方向だった。
要するに、「生きづらさ」とは何故生じるのか、ということを分析したいのであった。
もっと書けば、メインストリーム――横文字の意味は特にない。主流という意味で使っている――と「本音」が近ければ、とても生きやすい世の中なのに、ということである。
これは、以前から、相当以前から書いている、幸せとは、「理想と現実の差異の少なさ」であるということと同類である。
メインストリーム思考
モラルとか、道徳とか、ルールとか、「正しい」と思われていることが多数ある。それがメインストリーム、主流の思考だ。風潮とか、イデオロギーとか、慣習とか、「空気」とか、そういったものの中に存在するもの全般を指している。
一方で、「いま・この場」で生じる、代替がきかない思考がある。それが本音だ。
感情、と書いてもいいかもしれない。リアルタイム、ゼロ秒思考だ。
つまり、「己自身」と書いてもいいかもしれない。アイデンティティ。自我同一性。
自分と、主流となる思考が一致しているというのは、概念的に、とても住みやすく、暮らしやすく、生きやすいだろうと思われる。
そうしたものを目指すのがよいのではないか、というのが一つ提案となる。
主流が発生する場
で、とはいえ、その主流って概念的には分かったけれども、具体的にどんなものなのだろうか、ということをすぐさま考える必要がある。人類の。世界の。日本の。企業の。地域の。家庭の。趣味の。
様々な集団(2人以上の人間の集まり)において、主流は必ず発生するものだ。
これが意味するのは、主流と自分との一致というのは、その所属する集団によって変化するものであり、万理普遍ではないということだ。
よく耳にするのは、所属集団は、3つ以上もったほうがいいというもの。
仕事だけでも、家庭だけでも、趣味だけでも、人生は安定的には送れないということだ。
自分の開示は最小限であるべきか
まぁ、いろんな、セーフティネットを持っておいた方が安全というのは当たり前の話である。投資の世界でも、基本は分散投資だと言われるようだ。
生命保険や介護保険や自動車保険、保険というのは、同一のリスク、保険事故を有するだろうと考えられる集団において、共同でそのリスク軽減を図る仕組みである。
――上の話と思考の話に関係はあるのか?
あまりない。言いたいことがズレそうなのでもう一度考え直すと、ええと、「本音」のズレは、かなり慎重に認識しておく必要があるということだ。
主流と本音に差異があることを認識していれば、それは、安全な運用が可能となる。
しかし、主流と本音のズレが分からない人は、「失言」を発生させてしまうのである。
――というわけで、前回の記事で、「失言」が発生するメカニズムを書いてみよう、というのが、このことである。
さて、これを防ぐには、どうしたらよいか。……仕方がなかろう、「主流」を知るしかない。知るための努力は必要だ。
じゃあ具体的にどうやって知っていけばいいのか。インターネットの意見が主流なのか? テレビなのか? 新聞なのかラジオなのか。友人なのか、上司なのか、家族なのか。
答えとしては、すでに書いてあるが、「集団に拠る」ということになる。つまり、つまらない答えだ。
しかし大体20分に近づいている。そろそろかっこ書きに入ろう。
(かっこ書きである。どちらかというと、今日は、「真理なんてないのが真理なんだ」と、ふとトイレに向かいながら思ったことをメモしたかった。真理なんてない、というのは、これまでも自分でも書いたし、まぁよく目にする言葉だろう。「大きな物語の終わり」とかそんなんもある。しかし、真理なんてない――というのが逆に真理だ、という、「クレタ人はうそつきだ」的なことを書きたかったのである。先日の記事において、「LGBTだって認めるべきだ!」と書いたわけだが(そうは書いてない)、さらにそれに加えて、「そういった多様性を認められない大人は滅びてしまえ」と書いたわけだが(そうは書いてない)、逆転的に、コペルニクス的転回(単に思いついただけ)的に、そうした(多様性が認められない)大人が存在するということ自体も、多様性の中に含まれるのではないか、と思ったということである。つまり、多様性というのは、快楽殺人犯も認める概念ではないのか、という誤謬。そんなことを思ったりしていたときに「NOTE」というサイトに投稿されているある方の作品において、「社会に管理され許容された虐殺は罪という概念にはならなかったのだ」といった表現がびびっと面白かったのであった。そのこととはあまり関係ないのだが、「本当に正しいことなんて、何もないんだ」というのは、ある意味正解で納得感はあるが、一方で非常に無責任で投げやりにも見えるわけである。「何もない」という悉皆全否定は嘘っぽい。現象学を少し参照してみよう。あれは、(僕の拙い理解力によれば)絶対に正しい事柄や普遍の意味・条件なんてのは存在しないが、しかし、現に目の前に生じている事象・事柄というのは、ないとは言えない。現象している。あるもんはある。だからそのメカニズムに視点を向けよ、というものである。デカルト氏の「我思う我あり」と似ているようだけれども、デカルト氏は、「思ったって自分があるんだから、自分ってのは絶対あるんやで」という認識だったんだろうという点で、ちょっと違うんだろうなと思う(勘)。フッサール氏は、「自分ってのもあるか分らんけど、取りあえず「思った」って事象はあるんだろうから、それが発生したのは何故かは考えていいんじゃん?」という点なんだろうと思う。哲学者さんたち、違ったらごめんなさい)
今日の一言「未定」
社会悪を多様性はどう考えるべきか
この一連の記事の最後に、いつものごとく、極端な例を考えてみよう。
人を殺すことが、命を奪うまでに残虐な拷問を加え、苦しむ姿を見ることが大好きでやめられない人がいたとする。
排除すべき悪であることは間違いないが、「多様性」の考え方は、これに対してどう回答すべきか。
前提として、ルールも、共通価値も、否定されるものではない、ということだ。
上に書いた通り、ルールも、人の偉大な発明の一つだ。
だから、人に害をなす存在は排除する、というルールはあって然るべきだろう。
しかしそれでは、ルール>共通価値>多様性(個人価値)という図式とならないだろうか、なってしまいがち、であろう。
だから、ルールは可変であるべき、ということについては、共通価値として、「教育」されなければならないと思う。逆に言えば、ルールと教育はセットでもある。だからゆえに、特定の国や価値観を排除する反教育は、全くもって下劣で理に反しているといえる。
教育は、「仕組み」を教えるにとどまるべきであって、思想の埋め込みであってはならないのだ。
いや、過去にそれが共通価値として正しい時代もあったので、過去永劫間違いであるという意味ではない。
ただ、ここまで書いてきた通り、何か一つの目的や価値に全人類を合わせる、というのは、根源的に不可能である、と思われる、ということである。
それが可能であると思う人も多いのだろうが、歴史を学んでもう少し考えて欲しいと思う。歴史が嫌いな人は、身の回りの組織や、集団(家族や、友人たちとのことだっていい。いろんな人がいなかったろうか)のことを考えて、少し敷衍できる能力があれば分かるだろう。
ここで、個人的な価値レベルと、宗教とか、資本主義とかそのレベルの大きな目的や内容であれば、共通性をもたせられると考える人もいるかもしれないが、それが、こののち数万年単位で普遍であると、どこまで信じられるかが問題である。
(かっこ書きである。未定)