今日の一言「昨日の連載記事の一言とかっこ書きが書けなかった」
成長するという言葉が嫌いであった。
10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。
そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)
学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。
身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。
社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。
「俺が思うスピードで成長しろ」
だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。
これは、しんどい。
それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。
しかし、それだけではない。
ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)
ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。
人生は、どうしてそうではないのか?
それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。
今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。
逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。
人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。
その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。
自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。
しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。
俺は、俺、である。
外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)
だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)
世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。
日和見的だと思う。平和ボケだと思う。
だが、仕方がない。
自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。
人は誰しも、幸福を目指すべきだ。
(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)
閑話休題
連載の予約投稿中であったが、一つ、書いておこうと思ったので、書く。成長するという言葉が嫌いであった。
10代の頃、「生涯学習」なんて言葉が流行った時期があった。
変化に富む現代は、常に学び続けていく姿勢が大切だ、と。
そのころ僕は「勉強」をしていたわけだけれど、どんなに頑張っても(※)学校で一番どころか平均を維持することも大変なくらいであり、しんどいと思っていた。
(※頑張るという言葉も嫌いである。そして、ゲームしたり眠くなったりとだらけてしまうことも含めて、頑張っていた、という意味である。24時間勉強していたわけではない)
学ぶ、とか、成長するってのは、「しんどい」思いをすることだと思っていた。
だから、勉強とか、学習とか、成長とか、そういったのが嫌いだった。
成長しない人間などいない
しかし、今思うに、成長は、時間に対して、不可逆に起こっている。身体能力や記憶力(これに関してはやや疑問)は時間経過に対して衰えていくものだろう。それでも、学び続ける姿勢を忘れなければ、人は自動的に成長するものなのだ。
社会から問われるのは、上司や親やその他周囲から言われるのは、「時間対効果」が意識された「成長」である。
「俺が思うスピードで成長しろ」
だとか、
「この期間でこのレベルまで到達しろ」
といった意味合いが込められた上の、勉強なり成長なのである。
これは、しんどい。
自発的成長
ゲームが何故面白いか。それは、ゴールがあるからだ。勝ち負けや、目的がはっきりしているからだ。
しかし、それだけではない。
ゲームは、自発的にやるから面白いのだ。「やりたい」のだ。
(まぁトートロジーだが、やりたいから面白いともいえる)
ゲームだって、レベルアップや、情報収集、旅や選択、不条理なイベントなどなどあるはずだ。めんどくさい部分もあるだろう。でも、乗り越えたいと思うのだ。
人生は、どうしてそうではないのか?
それは、目的や成長といったのが、周囲の評価によるものだからだ。
成長はしたい
と、思った、と、それだけの記事。今日思ったというよりかは、徐々に思考に浸透していった気がしたという意味が近い。
逆に、停滞するとか、堕落するというのは、何か嫌じゃなかろうか。
人間なら誰しも、成長したいって思いがあるんじゃなかろうか。
またいつもの極端な例を出せば、犯罪的な集団においても、もっと金を稼ぎたいとか(誤った)成長欲求があるのではなかろうか(いうまでもなく断罪されるべきだ)。
その、成長の方向性を調整するってのは、周囲(指導的立場の者たち)も必要だろう。
しかし、その成長内容や、スピードを、完全に調整するなんてのは不可能なのだ――不可能ではなかろうが、恒久的成長(自発的成長)には繋がらない。
自発的な成長が不要だった時代もあったと思う。
人間が、労働力として、いわゆる「作業機械」として必要な面はあったろうし、今もあると思う。そういった部分は、ロボット(A.I.)などに代わられる可能性はあるだろう。この話とセットなのは、ロボットにできない創造性などを養う必要がある、とかいうことだが、そういう曖昧な言葉を聞くと僕はイラっとする。
成長とは状態の変化である
そりゃあ、隕石が地球に衝突したら、恐竜は滅びる。しかし、そんなアルマゲドン的な事態を想定してもしかたがない。シンギュラリティ(技術特異点)が起ころうと、仕方がない。
俺は、俺、である。
外部と、個人、という分け方は、ある程度絶対である。(阿頼耶識といった、世界と個人との境界を疑う考え方もあるが、普通の人間感覚においては難しい境地である。人間の細胞は、生きたい・知りたい・仲間になりたいという欲求を原理的にもっている)
だから、どんなに外部が変化しようとも、自分の変化が突発的に起こるわけではないのだ。(もちろん、男子三日合わざるは刮目してみよ的なのはあるだろうが、何事も例外から考えては話がまとまらないし、進まない)
世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではないと思う。
しかし、世界の変化に合わせて、自分も大変化してしまったら、もう「自分」という主体である必要などないではないか。
終わり
といったことを、思った。日和見的だと思う。平和ボケだと思う。
だが、仕方がない。
自分を捨て去ってまで生きる必要はないのだ。
それは、不満にすぐに「キレろ」という意味ではない。その抱いた「不満」は大切にすべきだ。
その不満こそが、世界と自分とのギャップだ。そのギャップが不幸だ。そのギャップを埋めるのが、幸福だ。
人は誰しも、幸福を目指すべきだ。
(かっこ書きである。と、本文中のことは実際思うのだが、どうしても、ニュースとか、現実対人関係などしていると、苛立ちや不満が溢れてくる。最近の具体的には、パワハラを記念撮影させて悦に至っている社長とか。バスが橋から転落して全員死亡した事故の原因が客と運転手の喧嘩だったとか。くだらない自己を世界に欲求している奴らに本当にイラつく(じゃあニュースなど見なくていいだろうとかそういう意味ではない。別にニュースを見なくても現実周りにそういう奴らは少なくない)。しかし一方で、「人はだれしも幸福を目指すべきだ(キリッ)」とかいえば、そういう「くだらない自己」も容認せざるえなくなるのではないか、という疑念。しかしそれに対しては、「世界の変化と、自分の変化が真逆に進む、または自分は停滞しているという状態は、健全ではない」ということで、いいんじゃないかと思う。異世界転生ものが受け付けない純文志向の方々も、界隈でそれが求められているなら仕方がないのではないか――という話とまた次元が違うことを押さえておく必要がある。これが、最近の連載記事の目的(なんだと思うが)である、「多様性の許容」である。かっこつけた表現はどうでもいいが、要は、いろんな趣味嗜好があっていいじゃないか、ということである。いろんな「好き」があっていいじゃないか、ということである。イメージとしては、インフラ的な人間思考の基盤があって、その上で多種多様・雑多・魑魅魍魎な創造の世界が広がる感じである。大事なところは、その「基盤」部分も、変化はしていくということである。その「基盤」を換言すれば、風土、理性、イデオロギー、宗教、信条、慣習などそういったもの。それらも普遍ではないだろう、ということだ。話が全く違うが、創作のアウトプットができなくて非常に困っているという愚痴記事の下書きが残っているのだが、あまりにひどいので投稿を躊躇う。まぁしかし、ここ最近の連載が終わったら読み返して今後の生活をまた検討したい)
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今日の一言「未定」
目的の重要性と多様性の不可避
矛盾したことを書いている。
僕は、目的を持つのは大事だと書いている。思っている、素直に。
一方で、多くの人が普遍的に抱ける目的なんて存在しないと書いている。思っている。真剣に。
相反する意見である。
対立したとき、どのように調整するのかというと、「次元」調整である。
アリストテレスのアクラシアの話を思い出してもらいたい。
(エピクロスの「アタラクシア」といっつも混在したキーワードが浮かんでしまうのは、僕の凡人たる所以なのだが、ここでは全く関係ない)
わかっちゃいるけど、やめられない。
アリストテレスは「真理」という概念を示したが、実際に紀元前から「駄目だと分かっていてもやってしまう」ということを人はやってしまっており、これは矛盾ではないか、と。
しかし、ある様相においてはOKであって、他のその高次の様相ではNG、という風に考えればいいんじゃないか、と、社会学者の大澤真幸氏が書かれていた。
下手な引用したせいで逆に分かりづらくなった気がするが、要は、「目的」にも次元があるということだ。
個人の、集団の、組織の、社会の、世界の。
当たり前といえば当たり前である。
が、強調したいのは、より高次の目的に「合わせる」ことが必ずしも重要ではなかろう、ということである。
何故ならば、原理的に無理だからだ。
人は多様な存在であったのだ。
忠義や忠節が大事だと思われてきた。神への信仰が大事だと思われてきた。
実は、人間はそんなもんじゃなかった。カオス、混沌がその真性だったのだ。
(かっこ書きである。未定)
今日の一言「比較している暇があったら代案を示せ」
共通価値の普遍化
すぐに思いつくのは、共通価値を普遍化、つまり、誰もが同様の価値を抱けるようになれば、争いはなくなるのではないか、ということだ。
これは、世界宗教といわれる思想や思考が試している。
もしくは、資本主義や社会主義といったイデオロギーが試していた。
結果、改善に寄与したことは認められるだろうが、根本解決には至らなかったといってよいと思う。
原理的に。人間の本質として、難しいと思う。
徹底した思想統制や、教育によってなせるものではないと思う。
過去の歴史的な人たちと、現代人とをくらべて、過去の人たちは「アホだった」と思ってはいないだろうか。そんなことはない。過去の人たちも、必死に、努力したに違いない。その与えられた環境下で最大限頑張ってきたのだ。それでも、ダメだった。
(古代エジプトかなんちゃらで、「昨今の若者はダメダメだ」とか描かれていたとかなんとやら。同時に、「老害うぜええ」というのもきっとあったに違いない)
何か一つのものを目指そうとしても、そこに到達できないことはある。ついてこれない人もいる。そもそも、その目的そのものに価値を見出せない人もいる。
人とは、どうしようもなく多様なのである。
多様にもかかわらず、個々人は、どうしようもなく「個人価値」を信じてしまうのだ。
こんなこと書いているけれども、僕自身も例外ではない。
ここに書いてあることは、歴史学でも、心理学でも、生物学でもない。その「科学的」なアプローチを踏めていない。だから、これらのことは結局、「個人価値」とみなされてしまうことなのだ。
(かっこ書きである。今回、「人の多様性について」という記事タイトルに近い話がふれられた。共通価値というのは、ひらたく言えば常識的なやつのことだと、先日の記事で書かれたところ。ただ、「常識」というと先入観的なみたいな奴が混じりこむため、あえて「共通価値」という表現にしてみた、と書かれていた。しかし今回、その共通価値ってのは、普遍化は難しいんじゃないのかね、というのが本記事の主題と思われる。俺もそう思う。んじゃあ、だったら、おまえ、その、カオスで混沌で無秩序ででたらめな猖獗極める社会が蔓延るってのか、というのが疑問に思う。その可能性もあれど、それを容認すれば、後世(が残るかは別として)の人たちに、「あー、20世紀から21世紀の人類って、ほんとアホやったんだなぁ」って思われるに違いない。それは、なんか、不満に思わなかろうか。確かに、カリスマ的な統一的な普遍的な何かに、僕らは一つになることは難しいかもしれない。しかし一方、そうはいっても、「何か」には、秩序だって平和を目指せる何かがあるんじゃないかって、そう思いたいわけであるが、そういう方向にこの記事は進むのだろうか。わからない。次は、2、3日後だ)
(かっこ書きである。今回、「人の多様性について」という記事タイトルに近い話がふれられた。共通価値というのは、ひらたく言えば常識的なやつのことだと、先日の記事で書かれたところ。ただ、「常識」というと先入観的なみたいな奴が混じりこむため、あえて「共通価値」という表現にしてみた、と書かれていた。しかし今回、その共通価値ってのは、普遍化は難しいんじゃないのかね、というのが本記事の主題と思われる。俺もそう思う。んじゃあ、だったら、おまえ、その、カオスで混沌で無秩序ででたらめな猖獗極める社会が蔓延るってのか、というのが疑問に思う。その可能性もあれど、それを容認すれば、後世(が残るかは別として)の人たちに、「あー、20世紀から21世紀の人類って、ほんとアホやったんだなぁ」って思われるに違いない。それは、なんか、不満に思わなかろうか。確かに、カリスマ的な統一的な普遍的な何かに、僕らは一つになることは難しいかもしれない。しかし一方、そうはいっても、「何か」には、秩序だって平和を目指せる何かがあるんじゃないかって、そう思いたいわけであるが、そういう方向にこの記事は進むのだろうか。わからない。次は、2、3日後だ)
今日の一言「実存を目指せども共通価値を無視してはならない」
(かっこ書きである。先日の記事とまた、話が変わっているようだ。先日は、創造性とか抽象的な言葉に惑わされてはならない、ということだった。今回は、共通価値という新しい言葉が舞い降りている。社会通念とか、一般常識、というのと違うのだろうか? 本質は、同じだと思う。しかし、ここが、前回と共通性を見いだせるところだが、一般常識といったときに、何やら怪しげな先入観が生じだすのだ。その、一般とは、何をもって一般なのか。もちろん、共通価値といったところで、その本質を変えられてはいない。しかし、言葉の表現として、ちょっとまて、と。その共通性というのは、決して普遍ではないと、不変ではないと、そう言いたかったのではなかろうか。なかろうか、って自分で書いたはずなのにおかしな表現だが、素直な感覚である。前回の記事が、予約投稿で公開されていて、僕は不思議な感じがした。まだ、一日で書き上げた文章は半分以上残っているはずだ。しかし、次の記事がどんな内容なのか、本当に全く分からない。調べれば分かるのは当たり前だが、あえて、読まないようにしてみよう。次の記事は2、3日後だ)
新聞やニュースを見るべきか
情報収集は必要である。
ただし、情報は、氾濫する。
そこで、重要になるのは、「価値」を探ることである。
これは、個人的に重要視しているものを意味する「価値」ではない。
社会の、人々の、共通した価値を探るという意味である。
よく企業や、団体のトップが不祥事に対して、「常識」に対してズレた発言をして、テレビやネットで炎上することがある。パワハラや、飲酒運転する人がたえないのも何故だろうか。
共通価値とのズレが原因である。
社会で求められている価値と、自分自身の価値が乖離してしまっているのである。
これは、つらいことである。
かわいそうだなぁとすら思う。
けれども、断罪されるべきだと、僕は冷酷に思う。
何故なら、僕も、共通価値とズレているからだ。
今がどうかは知らないが、10代……いや、それ以前から、「生きづらさ」があった。
「生きづらさ」とは、共通価値と、個人価値とのズレが原因なのだ。
しかし、簡単な問題ではない。
個人価値のズレは、病気ではないし、仮に病気と表現しても、薬はないし、治療は困難なのだ。
例えば、よく分からないけれども、イスラム教圏に生まれたけれども、イスラム教を信じられない人がいたら、それは、個人価値と共通価値とのズレが発生しているということである。
学校や会社や、家族の中であってもいい。組織とならずとも、集団には共通価値は必ずある。
多様性は害悪なのか
共通価値は悪いものではない。
共有するものがなければ、対立が生まれやすくなる。言語など、人間の状況認識能力の補助的な役割である。ロボットのフレーム問題を思い出すまでもなく、一つの行動や思考に至るまで、その無意識で行われている判断は、到底言語表現は困難である(文字を打つ間の心臓の鼓動やホルモン調整の意識などできなかろう)。
だから、共感できる行動原則に基づいて、人はコミュニケーションを成立させる。
そこに異物が入り込んだら、排除したくなるのは性であろう。
しかし、それにも関わらず、多様性を認めるというのは、人間としての真価が試されているのではなかろうか。
んなこと、明日の食い物や命が心配な人たちが、考えられるはずはなかろう。
戦争や飢餓、直面する問題を解決することは、無思慮に善といって構わないと思う。
しかし、「それ故に」未だ人は恒久平和を手にできていないともいえる。
場当たり的な解決では、無限に起こりえる問題すべてに対応できるはずはない。
(かっこ書きである。先日の記事とまた、話が変わっているようだ。先日は、創造性とか抽象的な言葉に惑わされてはならない、ということだった。今回は、共通価値という新しい言葉が舞い降りている。社会通念とか、一般常識、というのと違うのだろうか? 本質は、同じだと思う。しかし、ここが、前回と共通性を見いだせるところだが、一般常識といったときに、何やら怪しげな先入観が生じだすのだ。その、一般とは、何をもって一般なのか。もちろん、共通価値といったところで、その本質を変えられてはいない。しかし、言葉の表現として、ちょっとまて、と。その共通性というのは、決して普遍ではないと、不変ではないと、そう言いたかったのではなかろうか。なかろうか、って自分で書いたはずなのにおかしな表現だが、素直な感覚である。前回の記事が、予約投稿で公開されていて、僕は不思議な感じがした。まだ、一日で書き上げた文章は半分以上残っているはずだ。しかし、次の記事がどんな内容なのか、本当に全く分からない。調べれば分かるのは当たり前だが、あえて、読まないようにしてみよう。次の記事は2、3日後だ)
今日の一言「言葉の本質を考え、探れ」
創造性とは何か
創造性という言葉が嫌いである。
言っていることが反転しているようだが、そうではない。
事実、嫌いなのだ。
就職活動などのとき、ハイパーメリトクラシー(超能力主義)とか、コミュニケーション力とか、創造力とか、人間力とか、よく分からない言葉 がオンパレードしていた。クリエイティブってのも嫌いだ。何だそりゃ。
何かといえば、「よく分からないもの」が嫌いなのである。
テスト、は分かりやすいと思う。「答え」がある。
しかし、僕は、「よく分からない」から面白いものもたくさんあると思う。
反転したことを書いているようだが、そうではない。
何かといえば、「評価」と癒着するから嫌いになるのだ。
創造性は大切で、創造することは僕は好きである。
ただ、その「創造力」といったものは、人間それぞれ、バラバラのイメージをもつのである。
「人間力」といったところで、それは、60代の人が考える、対面コミュニケーション重視のものと、10代の人が考えるものは全く違うだろう。
要は、抽象的な言葉を使っている自覚がないにもかかわらず、それが大事とか簡単に思っちゃうような人たちが嫌いである。
いや、そういった人たち相手でも、たまたま、僕の考える、僕の感じる価値観と近しいものがあれば、お付き合いは可能である。
しかし、そうした人は、ちょっとでも「自分と違う」ことがあれば、簡単に相手の人格を否定する。そういう人よりかは、「相対価値」の何たるかを知っている人のほうが、例えその人と趣味が全然合わなくて、食事の好みも生活リズムも全然違ったとしても、恐らく居心地は悪くないのである。――すぐさま書いておかねばならないのは、他者(家族含む)と一緒に暮らすというのは、簡単なことではない。
創造性とは何か2
創造性とは何か。
そんなもの、答えなどない。というのが答えだ。
答えがないにもかかわらず、「創造的な人材を欲します!」とか言っちゃってるのに腹が立ったというわけである。嫌いだった、というわけである。
ただ、創造性は、新しいことを学ぶとか、過去を調べて現在に活かすとか、人の話を肯定的に聞くとか、そういった、誰にでもその「姿勢」として示すことができることとしては、とても重要なものだ。
自分の考えに固執し、独善的な人はお断りです、ということであれば、それはむしろその通りだ。そういった内実を、「創造性」という言葉を、キャッチーに使っているというのであれば、何ら問題なかろうと思う。
パワハラフレーズとして、
・やる気あんの?
・なんでできないの?
・意味ないことしてるね
・無駄だね
・まだできないの?
とか。上の中で、ダメなのはどれだろう。全部というのでもいいが、よく考えてみたい。一番よくないのは、「やる気あんの?」だと思う。
「なんでできないの?」
は、言い方にもよるだろうが、大事なアプローチだろうと思う。原因を追求して、解決方法を探るのは適切なアプローチだ。
一方で、「やる気あんの?」は、「やる気」なんていう抽象表現を、さもあるかのように誤認していることが断罪すべき点である。
いや、明らかに不真面目な態度を取っていて、「むかついた」という感情は分からないでもない。
ただ、それは、最初のほうに書いたが、「感情的」なことである。
行動や活動が伴わない言葉は無意味だ、と書いたはずである。
やる気があれば問題が解決するわけでもなかろう。
もちろん、あった方がいいのは当たり前だが、むしろ、「できていない」事実に目を向けたほうが有意義なのである。
(かっこ書きである。前回は、だらだらしてないで、目的をはっきりさせてそれに向かわなければダメだ、と書いた。何故なら、人は創造的であらねばならないから、と。そんな流れの中で、いきなり、創造力なんて嫌いだ、とのたまうのが今度の記事である。人格分裂してないだろうか、この作者。しかし、よくよく、我慢して読んでみれば、なるほど、言葉の内実性を表現したかったんだろうと読み取れる。抽象的な表現で世界を、社会を、人を恐れる必要はないという、励ましの記事だったのか。いや、しかし、どうだろう。次の記事はどんな方向に流れていくのか。次は2日、3日後である)