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NOTE登録を期に身の回りを考える
2019/02/10 11:53 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」

前書き

 おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!
 ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。

 それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。

NOTEに登録した

 もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。
 だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)

 断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
 だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。

 これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
 だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。

 いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。


 だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
 一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。

 話がそれた。
 整理をする。そういう記事である。

自分が登録しているサイト等

 創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。

・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)

 こんなところか。
 
 正直、パッと思いつかなかったところもある。
 まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。

 逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。

活動の優先度

 ブログ>自サイト>その他。

 であるべきだと思っている。身もふたもない。
 しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。

 もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。


 ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
 特にない。
 いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
 ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。


 でも、どうなのか、とも思う。
 どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
 例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。

 僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
 それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。

 また話がそれている。

傲慢な気持ちもある

 いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。
 なんかね、「浅い」と思わされるというか……。

 いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
 ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。

 だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。

 きっといると思うのだ。



 いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。

 ……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。

人はみな幸せに楽しく生きるべきである

 僕はネガティブな人間である。
 しかし同時に、ポジティブな人間である。
 アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。

 最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
 まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)

 表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
 たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。

 しかし、本来人は一次元ではない。
 その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。


 せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。

 いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
 何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。

 こんなことがあった→むかついた

 これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
 そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。

さらに第三次元を目指せ

 だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。
 その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。

 僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。

 人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
 当たり前だ。
 意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。


 病気で苦しんでいる。
 上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
 貧乏で明日が不安だ。
 子供が反抗期でどう接していいか分からない。
 40歳近いのに婚活がうまくいかない。
 無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。


 いろんなテーマがあるだろう。
 そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。


 だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
 その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
 これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
 方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。


 だから――。
 それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる
 大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
 これが必然なのだ。

 だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。

 そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。


(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)

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