今日の一言「19時ぐらい帰宅」
記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
まえがき
学ぶことは、たくさんある、と思う。記憶力のなさを言い訳にしても仕方がない。「考える」ということは、結局、知識がなければ行えないのである。
例えば、今日学んだこととして(時間があったので心の余裕もあった)、経済についてだ。
(以下、特に何も参照しないで書くので、誤ったことを書いている可能性は多分にある。単に考えたことの思考メモとして捉えて頂きたい)
物価と金利の関係について考えてみる。
物価が上がって、お金の価値が下がることをインフレーションという。
それは知識だ。
では、物価が上がると、お金の流通はどうなるのか。
物価=ものの値段が高くなるのだから、お金がたくさん必要になる。そういう意味では、お金の価値が上がった、ともいえるのではないか、と僕は思った。
ただし、100円で買えたものが、200円必要になったのだから、お金の価値は下がった、といえるのだ。
一方で、お金のニーズは高まることになる。
お金のニーズが高まるから、金利が上がる。
金利とは、お金を貸した側がプラスして返してもらえる権利である(僕の独自理解。あってるか分からない。ウィキると違うかもしれないが、混乱するから敢えてしない)。
お金の需要が高まった状態であれば、金利が上がっても、それでもお金が必要な人は借りる、という仕組みである。
しかし、それでもどうしようもなく金利が高くなりすぎると、「抑制」する行動をとるしかなくなるから、景気が抑えられるということだ。
景気とは何か
GDPの前年比のことを、「経済成長率」という。GDPとは、国内総生産のことである。何を生産しているかというと、「財」と「サービス」だ。
要するに、僕らの世界には、財(モノ)とサービス(現象)しかないのだ。
その価値の指標に「お金」が使われる。ただし、お金とは、金融といったりして、キャッシュ(現金)には限られない。株式や債券やら保険やらに姿を変えて、現象(存在)しているのだ。
でもって、景気とは、その流通のことである。
言葉を換えれば、「運動量」である。電気でいえば、アンペアだ。いっぱい電子が流れていると、景気が良い状態。あんまり流れていないと、景気が悪い状態、というわけだ。
電気はともかく、「景気」という現象において、その流通(運動量)とは何か。
財・サービスの移動である。
例えば、サービスで思い浮かぶのは、マッサージ施術所に行ったとする。現金で3000円ほど支払う。そして、施術してもらう。現金と、施術(サービス)の移動である。
サービスの移動というのはいまいち自分の中でも消化できないが、AとBとの関係のことともいえる。
それがイメージしづらければ、現金だけでも動いたことになるから、「流通した」ということになる。
時間と景気との関係
時間という概念も、速度次第で歪む。といった相対性理論は置いておいて、1日は24時間である。マッサージを24時間受けることはあり得ない。だから、流通にも限界がある。
しかし、1980年代からダウ平均株価は上がり続けている。
あと、昭和の時代は、そば一杯15円ぐらいだったようだ。不思議だ。
何が不思議かというと、今、蕎麦屋さんが、いっぱい15円で販売したら、1日もたずに潰れるだろうからだ。
そもそも、原材料仕入れからして無理である。
だから、日本全体の物価が低かったということになる。
ただし、蕎麦の作り方自体と、必要な原材料は、昭和初期と現代で、そこまで大幅に違うだろうか。多分違わない。
作る時間はどうか。多分違わない。
にもかかわらず、物価が上がっても、世界は成り立つようになっているのか。
サービスについて
逆に、過去に比べて、家電なり、コンピュータなり、便利になっているはずなのに、何故人は未だに働き続けているのか。つまり、景気とは――人の活動とは、――経済とは、運動量なのであって、何かしら動いていないと、崩壊するのである。絶滅するのだ。
絶え間なく動き続けることでのみ、人は社会を維持できるのである。
自給自足以外には、たとえ宗教ですら経済の循環からは逃れられない。托鉢して無償でお経を唱えることはあるかもしれないが、それは宗教という精神的支柱を維持するサービスなのである。
また、全員が金融商品に興味を持って、株式トレーダーになれば、産業が空洞化するのは間違いなかろう。
第一次産業(農業)、第二次産業(工業)がやっぱり大事なのである。とはいえ、それについては、機械化が進み、ロボット化が進み、AI化が進みで、「人」自体は不要になるかもしれない。ただ、当該産業に関わる機械やロボットや、その部品生産や、それらを管理するソフトウェアのプログラマーなどを無碍にはできないだろう。
もしくは、大帝国的に、先進国が後進国を支配する構図というのもあるかもしれない。プランテーション、モノカルチャー。ただ、グローバル社会において、そういうのは古い、ということになるだろう。それについては、悲観的には、人道主義などではなくて、単に需要を増やすという経済的な面に思われるが、異論はたくさんあるかもしれない。僕は歴史学者じゃないから分からない。
需要と運動量
ということで、最初の話題に戻るが、僕は、経済とは――景気とは、「運動量」だと思う。さっきの植民地時代のような話に絡めれば、植民地の人たちにも、支配する側の国が作った物品などを買ってもらったりした方が、より景気がよくなる――物流が生まれる、ということになる。物流があったほうが、社会は豊かになるということだ。要は僕らは、消費し続けることが「正解」なのである。
絶え間なく作り、そして使って、その循環スピードを速く、早く、疾くしていくことが、経済として正解なのだ。
――ということと、「幸福」という概念は同義にはならないと思われる。
しかし、この経済と幸福に関する議論は、往々にしてかみ合わない。電気学と磁気学は交わっても、電力会社と水道会社はまじわらないのだ(意味不明な例)。
あとがき
(かっこ書きである。今日はここまで。とかってことを考えるためにも、知識が必要である。しかし、昭和25年(1950年)に、そば一杯が15円だったことを覚えても仕方がなかろう。であれば、どういった知識が必要なのか。国民年金の受給できる年齢が65歳で、満額だと年間78万円ぐらいもらえることを覚えておいたほうが役に立つのか。ちなみに、65歳の誕生日の属する月の翌月から受給権が生じて、支給自体は偶数月の15日(2か月おき)にされるようだ。へー。78万円って、月にすると、6万5千円。さすがに、暮らすのは困難そうである。――とかって記憶があっても、意味がない――わけではなかろう。少なくても、未来について、何も分からないわけではなくなる、ということだ。まそもそも、パンデミックやシンギュラリティによって誰も想像だにしないことが起こっているかもしれない。果たして、2回の世界大戦前の人々は、戦争が起きることを予想していたのか。明治維新後の富国強兵や教育や保険・保健に力を入れたのは、国力増強のためなのだろうが、他国を「やっつける」ことが、生き残るために必要だと思われていたからだ。いまや、某国家だろうと、戦争が絶対に必要だ、とは言わない時代になった。ここら辺の話は、『暴力の人類史』あたりをもう一回読んだ方がいいかもしれない。暴力は減ってきているそうだ。その理由は、――なんだっけ、割に合わないから、かな。なんかブログ記事にまとめた気もするが、忘れている。――そう、そういった知識を、ちゃんと記憶しておいた方がいい気がする。ただ、「暴力は減ってきていまーす!」といったことだけ覚えていても、「エビデンスだせ」といわれて終わる。俺は研究者じゃないからそんなもん出せるか! となる。せいぜい出典を挙げるぐらいだ、悔しい、びくんびくん、となる。いやそもそも、誰かと議論をしたいのではない。だからいつも戻りに戻って、結局、大事なのは、このブログのタイトルと思うのである)PR
今日の一言「今しかできないことが分かれば苦労しない」「素直になるってことかな」
今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
前書き
今回の記事は、割とこう、「〇〇について書こう」ということが明確になっている上で書き始める。逆に、いつもの記事は、なんかよう分からん気持ちのままで書き始めるか、ルーチンだから仕方がないかといった形で書き始めている。そのうち筆が進む場合もあれば、憂鬱のまま終わるときもある。今回は違うので、どういった方向や感覚になるかは少し楽しみである。
さて、本題としては、タイトルのとおり、「今しかできないこと」というのに着目しようというわけであるが、まずはこれについて書こうと思った理由に触れる。
3人のコメントだ。
例によって、IM氏、SG氏、KK氏とさせて頂く。まずはポイントとなるコメントを引用。
●IM氏
周りを見渡すと大体の人が欲しいものがわかっているし、どうしたら幸せになれるかわかっているように「感じる」んだよな。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
●SG氏
「ここで自分にしか出来ない何かがあるはず! 発展に貢献できる!」みたいな主張をして就活していくことに割と嫌気がさしていました。
●KK氏
「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がすると仰っていましたが僕は本当にそうなのかなと疑問に思っています。
ついでに、というと失礼だが、もうひとつシロクマ氏の記事も引用させていただく。
●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
――シロクマの屑籠●シロクマ氏
実際には人は変わっていくものだし、人が変わっていくにつれて、書けること・表現できることも変わっていくものだ。変わっていくからこそ、今しか書けないことは貴重で、今書かなければ喪われてしまうものだと心得なければならない。
ペルソナ
ペルソナはユングという方が述べた心理学の用語である。アトラス社のゲームシリーズではない(※)。仮面。
人は、外界で生きていくうえで、外向きの顔をつくらなければならない。
僕は、この辺が、高校生か、大学時代ぐらいか、よく覚えていないが、そのあたりから特に、ものすごく気持ち悪いと思っていた。
気持ち悪いが、仕方がないものだと思った。
だから僕は、「感情のコントロール」的な表現をよく使っていた(自分用の日記の中で)。
今思えば、「適切なふるまい」というものを、いつも強く意識しようとしていたのだと思う。
適切!
噴き出してしまいそうだ。いやしかし、当時はえらく真面目だったのだ。
いやむしろその傾向は、今もないとは言えないだろう。
が、しかし、これこそがペルソナともいえる。
自分が見せたい自分ともいう。ペルソナを被るのは社会的要請かもしれないが、その被るペルソナを選ぶことはできるんじゃないだろうか。
※ いや、「ペルソナ」といったとき、それはゲームシリーズのことも指す。今回はそちらについて書こうという意味ではない、ということ。これは、文脈上明らかだが、一部の人には伝わらない可能性がある。――というつまらない言及は、実は重要でもある。これは明らかな例であるが、「感情」的なものを書いていくと、途端に膨大な解釈が生まれ、その共感はより困難なものになるからだ。
自分と他者とのずれ
「今しか書けないことを」という話と、「ペルソナ(役割ベースの顔)」と、一体何が関係あるのか、と思ってしまい、筆が止まる。いやぁしかし、懐かしい思いもある。レポートとか書くとき、至極形式的に書こうとすると「止まる」のだ。ほんとにこれ、説得力あるのか? 論理的な文章になっているのか? ここの表現というか文章は必要なのか? とか、いろいろ浮かぶから。
楽しくない文章たちだ。
もう少し、素直になって書いていくべきだ。
さて、しかし、ペルソナと今しか書けないことは、無関係ではないと思う。思う、がまだ、そこに到達するまでの前提が書ききれていいない。
ええと、まず明らかなのは、「みんな外向きの顔をもって生活している」だろう、ということが、三者のコメントから分かるということである。
(KK氏の引用部分だけでは読み取れないが、方向性的にはそう思われる)
いや確かに、僕は前の記事で「自分以外の人はみな自己を確立してしっかり生きているのだ」(キリッ)的なことを書いて、KK氏から、「そんなことないのでは?」とご指摘いただいたわけであるが、言い訳がましいが、そこまで思ってるわけではないのだ。いやむしろ、IM氏の仰る様に、「相手が幸せがどうかなんて絶対にわからないという命題というか、事実もある」のである。
ただ思うのは、他者存在は、「自分ってこういう人間だ」という認識については、ちゃんとあるのではないかということである。
その「自分ってこういう人間だ」というのは、内面的なものであり、他者に映っている自分、とは違う。ああ、このあたりが話を難しくする。次の小見出しで少し整理しよう。
自分という語を用いるときの注意
一人称における「僕」と、「自分」という語を用いるときに示しているものは、違うと思う。「自分」には、二つの意味がある。・僕が思う「自分」(a)
・他者から見える僕(b)
そして、違う観点からも2つある。
・思考内面的な「自分」(c)
・身体物理的な「自分」(d)
階層化して表現すれば、
1 内面的な自分
(1) 僕が思う自分
(2) 他者から見える自分
2 身体的な自分
というようになる。
今後、どっちの「自分」の意味で使っているかは、明確にしていかないと話が分かりづらくなるだろう(自分にとっても)。
今しかできないことをするべきな理由
話が、まとまらないが、先に結論めいたことを書けば、僕らが使える手段としては、「今しかできないことをする」しかないからだ。理由は、時間は不可逆だからだ。以上。
……もう一つ理由を挙げれば、身体的な自分の規定も無視できないからだ。
身体的、といったときに、すぐさま浮かぶのは「顔」であるが、それだけではない。筋骨隆々具合とか、背の高さとかメタボリックシンドロームなのかとか、皴が多いか、男女どちらかなどなど、身体的属性というのも非常にたくさんある。
そして、そうした身体的属性というのも、時間とともに変化する。
だから、今しかできないことをする……むしろ、するしかないともいえる。
しかしそれは詭弁で、本当に、本当に今しかできないか、というのは、きっと違う。
ロッククライミングをするのは、別に今じゃなくても、70歳になってからでもできるかもしれない。(相応の準備が必要だろうが)
そういう意味で、「今しかできないこと」が何か、というのは難しい。
難しいものの、しかし、僕は、「素直になる」ということで、それに近いことは分かると思っている。
素直になるとは
IM氏の言葉で、「まじで自分の欲しいものって何で、どうしたらよい気分になれるかなんて本当にわからん」というのもあった。本当にそうだ。僕が苦しいというか、目標というか目的が定まらない理由がコレでもある。
とことん素直になるのだ。
思考的な面における解決策としては、とにかく素直に書いていく、ということであり、それがこのブログの目的でもある。
いやこれ、難しいことなんだよ。
最初に書いたペルソナの話のとおり、仮面はなかなか外せない。その中で、素直になれる場所というのは、中々ないのだ。
一つ笑えない笑い話を書けば、僕は彼女とか元妻(妻! って表現が非常に違和感だ。20代での出来事であったが、妻と書くとなんだかもう長年連れ添って――的な印象がある)にその仮面を外すことをしてしまったことが、上手くいかなかった原因なのではないかと思われる。
要は、確かに、文章としてこのブログを読む分には、それほど影響はないが、身近にこういった「変な」人間がいると、非常に具合が悪い、ということなのだろう。
そういう意味で、シロクマ氏は妻子もいて、社会的にも自身のブログもつながっていて、すごい、というか、羨ましい妬ましい(かっこわらい)。
(ただそれは、精神科医という特殊な状況によるものといえる。氏は自分を「凡庸な人間」と仰られているが、まぁ、本人も恐らく本気でそう思っているわけではなかろうし、周りもそんな風にみていないだろう)
僕は今のところ仕事しているから社会的身分(かっこわらい)的なのはあるのだろうが、同じことを、無職のニートが書いていたらどうだろう。途端に気持ち悪さ度が上がるだろう。ニートをでぃすったのはではない、どちらにせよ、こうした文章は一般的に気持ち悪いということだ)
要は、素直になるのは難しい。(けれども、それを目指すべきだ)
あとがき
(かっこ書きである。うーむ。まとまらなかったな。俺って文章力ないんだな……と落ち込むというよりも、そもそも「表現したいこと」というのが曖昧なのだから仕方がないともいえる。むしろ、明確に言語表現できる程度の悩みなら、さっさと行動にうつして解決をはかったほうがよいのである。よく分からないことを頑張って表現しようとすること自体に意義がある。ああ、だから、そう、誰かと愚痴を言い合って解決する可能性もなきにしもあらずだが、僕はその方法に価値は見出していない。だって消えるじゃん。いや、録音という現代文明テクノロジーを使ってもいいが、逆に無駄が多い。口頭というのは、伝える速度は速いだろうが、しかし、再利用性が低い。文書も、このブログの量になってくるとわけわからん、だが、それでも、口頭よかましだ。――いや、音読した分という意味では、口頭も悪くない。ただ、音読はあくまで音読なのであって、口頭でこれらの文章内容が導かれるための時間的な意味においてであって……ってまぁ、このあたりのことは、これぐらい書いておけば自分には意味が通じるからいいか。そう、素直になるための方法の一つに、「未来の自分にも伝わるか」という視点で書いてみるとよいと思う。2つ効果がある。一つは、分かりやすくなっているかのセルフチェックが入ることと、未来の自分という想定があることによって、今の自分を相対的に視ることができるというメリットだ。――話が変わるが、「コメント」感謝である。「ああ、そう、そうなんですよ!」「ああもう、ほんとよくわかります!」って感じな部分が多いが、しかし、それを返信にするのも如何かと思ったりする。小学生並みの感想。気が利いてウィットに富んだ返信をしたいものだ。難しいのは、「よく分かります」といったときに、「じゃあその分かったことを言ってみろや!」ってなったとき、口頭なら、可能な限りオウム返しすることが、「分かった」ことの証明になるだろうが、文書の場合、じゃあ、相手のコメントをコピペしたら分かったことになるのか、ならない。じゃあ、相手のコメントを要約したらよいのか、違う。要約するよりも、そのままコピーしたほうが、「分かった」度は高いだろう当たり前だ。そうしたとき、コメントの返信って、何をすべきなのか、――とかそういうことを思ったりするのが、僕の思考の無駄部分なのだろうが、しかし、割とそういうのは楽しかったりする)
今日の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」
毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
前書き
先週は、毎日、23時帰宅であった。毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
ゲーム依存に関する記事を読んで
あー、そんなこんなで、休日はほぼ寝て過ごしてしまった。やる気が起きないのだ様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分に向けられない。悔しい。そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
大切な現実とは
某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」(勝手な理解)と仰られていた。いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は創作活動が優先だがブログで済ませている
僕にとっては、上の小見出しの通りだ。反省している。本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
大切な現実なんてない
上のような経験がよくなかったのかもしれない。先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
――番号追記
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
「自分の存在を世界に刻み付けること」 かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。 自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。 子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。 私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。 つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。
自分の存在を世界に刻み付けること
SRGN氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
世界(現実)と自己
なぜか、ということをつらつら書いていくと、中々話しが終わりそうもないし、僕の熱量も下がりそうなので、簡単に書こうと試みれば、そもそも、上に書いてきたように、「大切な現実なんてない」からだ。コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
だから迷ってますという結論
そろそろ1時間経つので、かっこ書きに入っていこうかと思うが、要は、そういうことだ。どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
あとがき
(かっこ書きである。ゲーム依存の話関係なくなったな! いや違うぞ! 関係あるぞ! ゲーム依存と生きる意味、めっちゃ関係あるぞ! 要は、現実がくっそ価値あって、くっそ楽しかったら、ゲームなんてすぐ飽きるやろ? いや、じゃんけん頭破裂の某氏は「滓が。その程度の思考の俗輩が、創作を語るな」と仰られるだろう。天才め! いや、ふつー大半は、現実に楽しいことがあったらそっち中心になるだろう。物語は、現実を彩る単なるわき役に過ぎなくなるだろう。――だが、俺の場合は、能力は凡人クラスなのだが、その「現実」の扱いがどうしてもよく分からないのである。物語がないのだ。いやなんつーか、面白くないのだ。いや、面白さはあるが、それが、「点」なのである。繋がりがない。上手く表現できない。なんだろう。なんか頑張りたいんだが、頑張るに値することが見いだせない。いやそれは違うぞ。ブログ書くことや、創作(随筆含め)は大事だと俺は思っている。それと、「現実」が全然関連してないのがよくないのか。するってーと、やっぱり、今の仕事を辞めて、創作の道で食ってく的なことになるのが必要なのかもしれないが、いやまて、前提をちゃんと見ろ。「能力は凡人クラス」なのである。第一、今いる部署的なのが忙しいのであって、他の部署は定時で帰ってるところたくさんあるからな! だから、いよいよ追い詰められれば、人事とかけあって異動させてもらう方法が漸近的であろう。というか、別に仕事も頑張りたくないわけでもないのだ。頑張ってもいい、だが「だから何なの?」という思いが消えない。評価されてえらくなろうが、給料が上がろうが、そこがモチベーションじゃないんだよな。上司たちに問いたい。「偉くなって何がしたいの?」と。いや、面接でも聞かれるだろう当たり前の質問だ。それを逆に聞きたい。本音ベースのやつをだ! 大方、お金が増える的な問題だろう。あとは、現場業務より指示してたほうが楽だろうとか。くっそつまんねぇ奴らだ。楽しいから上司やれや。面白いから上司をしろ。上司の仕事がしたいからやれ。話がそれたか! 全然書ききれない。いい表現も浮かばない。整理もできない。あああああ、だが、だがしかし、これこそ、これこそこのブログだ。戻ってきた、戦士たちが戻ってきた!!(おっことぬし様風に) これは、最近新しくコメントしてくださったKKA氏のおかげだろう。ありがとうございます。いろいろ書きたいこともあるが、取り急ぎ感謝の意まで)
今日の一言「重要なコメントを頂いた」
そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
前書き
ルーチン更新である。いやぁ、ほんと、最近、仕事が忙しくて苛々する。何というか、「答え」がない仕事の合間に、ほんとに通常業務的な締め切りも近づいてきて、さらに他の方々からの相談事項的な奴も紛れ込んできて、変な苦情も入ってきたりと、「予定」どおりに全然いかないところもイライラを助長する。そういった状況において、とある方(以下「K氏」)から、非常に重要なコメントを頂いていたのに気づいたのは先ほどだ。
――僕の思考は回りだした。「面白い」と思った。いやこの「面白い」という表現が適切かは分からない。ただ、他に思いつくと、「楽しい」とかになってしまう。そういった、浮ついた意味じゃあない。真剣だ。マジだ。マジで面白い。
そして思い出す。俺はこういった刺激(と、書くと適切か分からないが(略))を求めていて、そこにこそ、俺の「物語」があるんだろうということだ。
前書きがよう分からんくなったかもしれないが、要は今回の記事としては、頂いたコメントのポイント(ポイントというのは、「俺的に役立つ点の抽出」という意味であり、コメントの主旨と異なる可能性があるのにも当然留意すべきだ)を整理しておこうということだ。
(久々にカテゴリが「生きる意味」になった)
生きる意味の考える単位
生きる意味の考える単位は、以下4つに分類される。とのことである。
1.宇宙と私
2.人類と私
3.社会と私
4.個人と私
(2と3の違いは生物として歴史を紡いできた、そしてこれからも紡いでいくであろう人類であり、3は現在に生きる社会であるということです。ここを分けているのは自分が観測できるか否かという部分なのではないかと思っています)
僕が以前分類したのは、(これも確か、別の方(某I又はQ氏)のコメントをもとにしたものであったと記憶しているが、宇宙、人類、個人、であった。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
なるほど、K氏の分類の方が分かりやすい。さらに、疑問に思う、2と3の違いについても、質問するまでもなく既に注釈されている点に、知的さと配慮の高さが伺える。
意味の問い方
大事な点なので、そのまま引用。(表記は一部編集)
「生きる意味とは?」と問うことは、個人(私)と何かの関係性についての意味であるということです。そして意味というのは 、「私にとって何かの意味がある」と「何かにとって私の意味がある」という、
「私→何か」と 「何か→私」の二方向の観点があるということです。そして僕は、「生きる意味とは?」と問うことは 、「何か→私」の意味の観点を扱う問いなのだと思います。要は私の意味とは、「私と何か」の関係性の中で何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだと思います。
意味とは関係性のことであり、原因と結果を引き起こす根拠にもなるものだと思う。
そうであれば、K氏のおっしゃる通り、意味を問うというのは、「対象」(者・物)の、双方向からのベクトル(矢印)について考えなければいけないであろう。
僕は、そのあたり、思考が足りていなかったと反省した。つまり、僕は、「私→何か」への問いかけが殆どであった気がする。
何かからの問いかけについて考えている時間は少なかったように思う。
この辺りは、実は気づくきっかけは、あったろうなぁと、今思っている。というのは、V.E.フランクル氏の長い本、「人間とは何か」を読んだ時だ。
その中で、フランクル氏は、「生きる意味はある。それは人生から投げかけられている。使命がある」といったことを書かれていた(うろ覚え。後で調べよう)。
その時僕は、何となく言っている意味は分かったつもりだったが、「納得」はしていなかった。それについて、K氏の、「双方向性」といったところの説明でしっくりきた。
要は思うに、K氏の方が、たぶん、「次の段階」に進んでいる気がする。僕はまだ、「私から何かへの問い」といった方向で考えている気がする。
――しかし、この点には、まだ少し、結論を出すのは保留にしておきたい。
ここで書き残したいのは、意味には、「私から何か」と、「何かから私へ」という方向性が二つあるということを、忘れないようにしたいということだ。
何かから私へ、が、それが目指す方向性なのかはもう少し考えてみたいと思う。
例えば、いつものくだらない例を考えてみれば、本当の神様が神託をくだしたとしよう。
「お前は、いつになっても生きる意味が分からないようだから、私(神)が、教えてやろう」
と仰った。
そうして、本当の意味を知った僕、なわけだが、果たして、それですべて解決、なのか。
どこかしら、何かから与えられた意味というものに、(表現はよくないが)全体主義的な要素を感じてしまい、抵抗してしまう気がする。それだったら、むしろ生きる意味がないほうがよいとまで思ってしまうかもしれない。本末転倒。
上の小見出しの補足
だが、K氏のいうところの、「何かから私が存在する意味を感じとることができることなのだ」という点は、既にそのあたりの問題点も看破しているように思う。つまり、「絶対的な何か」からの受動的な試みなのでは全くなくて、その「何か」からの意味について、主体的に再構築する仕組みなのだろうということだ。
結果的には、どちらも「受け入れる」点で同じになるが、僕はそのあたりは、全く違うと思っている。
確か以前書いたはずの表現でいえば、「裏の裏は表だが、表とは違う」ということだと思う。
生きる意味を考える上で外せないポイント
K氏は、以下3点を挙げられている。1.信仰と虚構
2.環境の影響
3.人間の本質的な特性
2について。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
これは、僕も、ものすごく重要なことだと思っている。そして、これは非常に難しいことでもある。これについては、「社会学」の考え方を僕は取り入れて「理解」しようと試みている。といっても、別に専門的なことではなくて、「ちょっと距離を置いて関係性をみる」ということだ。これは、現代日本の社会制度を知るのも大事だし、歴史を知るのも大事だし、自分の家庭環境を知るのも大事だし、とにかく、周辺的な知見を得るということだ。
むしろ、僕は大学生ぐらいのときは、これらのことによって、自分の「生きづらさ」が解消されると思っていたぐらいだ。まったく役に立たなかった。というのは、大げさだ。当然、こういうことが書けるのだから、役には立った。しかし、知見をいくら得たとしても、それは主体的な、主観的な問題解決とは一致しないのである。そのあたりの経緯によって、僕はよく、「比較思考は嫌いだ」と書いたりしている。だから、キルケゴールさんとかの、実存主義的な、「世界がどうだろうか知ったことか。俺が苦しい、俺の問題が重要なんだ」というスタンスに感銘を覚えたものである。
3について。
これも、非常に大事なことだ。これについて僕は、とある脳科学者の本から引用し、「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」が人間の本質であると理解している。脳細胞はそういった性質があるのだそうだ。それによって、二次的に、「自己保存」と「統一・一貫性」の性質が人の思考には生まれやすくなるということだ。
そして同時に、「僕」というものの特性についての分析も大事と思う。
それは、2についても関係するが、要は来歴。どういった経験をして、そのときどういったことを考え、どういった行動をしてきたのか。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、だったっけ? 経験も大事だと思うけど(かっこわらい)。別に、世界の歴史だけの問題じゃない。自分の歴史だって大事だってことを、もっと意識したほうがいい。
――と、上の2、3については、僕が勝手に書いたことなので、K氏がどのように考えてきたのかということは、非常に興味がある。
同時に、1については、あまりイメージがついていないので、さらに興味がある。
あまりイメージがついていないものの、「信仰」という点は重要であると僕も思っている。
キルケゴール氏は、神への信仰によって、実存問題の解決を成し遂げたわけだが、凡人たる僕はそれはちょっと難しそうである(というより、上に書いた変な例のとおり、神託をもらっても、抵抗したくなる気がする)。が、一方で、信仰はあらゆるところで根付いている。電車や飛行機のような乗り物だってそうだ。お金もそうだ。コンピュータもそうだ。
あんまり書くと単にハードルを上げてしまったり、考えに偏向性を与えてしまいそうだからよくないと思うけれども、いつもどおり、このブログは、自分の思考整理を第一目的としているので、ご容赦いただきたい。
あとがき
(かっこ書きである。が、本文で大方書ききると、カッコ書きは別になくてもいい気がする。とにかく、良いコメントをもらったと思う。最近、カクヨムはおろか、ブログモチベーションも下がり気味だったけれども、ルーチン更新と、やる気はなくても、何とか気持ちを維持する方向にしていたのは良かったなぁ。大げさじゃあないけれども、僕は非常に充足感を覚えているのだ。仕事で、「そんなことまでできるんだ、すごいね」とか「ありがとう、助かったよ」と言ってもらえるよりも、比較にならないぐらい満足し、嬉しいのである。この感覚を忘れないようにしたい)
今日の一言「非常に意義深いコメントを頂けて嬉しい」「そのまさに『満足』について書く」
凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
前書き
まずは引用する。今回は、停滞と、満足、ということをキーに書いていきたい。「完全無欠に超幸せ」というのが本質的に存在するのであれば、人間や生命体は恐らく存在する意味を失うと思います。というのも、生物は恐らく、「自己保存、種の保存のためにより良い状態(環境、感情、状況など総合的に)を求める」という性質が備わっていて、感動したり、良かったり、満足したりというプラスやポジティブな感情は瞬間的、刹那的で、後から思い返すことはできてもその時の快感を同じように得ることはできないようになっていると思うからです。つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
――前々回コメントより
一般人として考えることの放棄
もう一つ、前提を引用する。これは自記事である。凡人として生きることの放棄
周囲に合わせて生きることに拘らないようにしようという宣言である(たぶん)。
能力的な足りなさや衰えがありながら、いかに精神的埋没を回避するのか、といった舵取りである。
ぶっちゃけ、そっちのほうが大変だと思う。
能力的に低い人は、周りに合わせて生きていった方がまし(楽)である。
それで、ある程度幸せに生きられる人だって多いはずだ。
だが僕は、30年とそこそこで、やっぱりそれは合っていないのだ、と認めることにしよう。
で、次に、「じゃあどうするか」といった部分になってくるが、その前に、どのように僕が「変」なのかということを、もう少し分かっておく必要がある。それに対して非常に有意義だと思われるのが、最初に引用したコメントである。
完璧な満足ない
前回のつみたてNISA的記事の中で、その前に、「じゃあ社長になったからって、他者を気にしなくてよくなるのか。否。社長は、株主照会にびくびくする」と書いた。民主主義社会では、絶対王政は存在しないのだ。
違憲立法審査権って、中学生ぐらいで習ったろう。
みんなが恐れる「法律」ってのを司っている裁判所という怖い機関も、弾劾裁判(裁判官を辞めさせる)ことができるのだ。
つまり、人類は歴史の中で、(人間はろくでもないから)権力を持ちすぎると悪いことになる、ことを学んだのである。
かといって、絶対王政>衆愚政治である、とどこかの偉い人も言ったそうな。
まぁ、ここは考え方になるだろうが、僕も納得する部分もある。
ただ、もっと厳密には、
絶対王政(良い感じ)>衆愚政治>絶対王政(悪い感じ)
って感じ、だと思う。
ダメな奴に権力渡ったら、衆愚政治でなだらかに破滅していくよりも、もっとひどいことになるだろう。
話がそれている、戻そう。
完璧な満足について
であるからにして、話がそれたが、要は、現代社会において、誰からの評価も恐れずに生きていくことは、原理的(政治的)に不可能なのである。それは、どんなに権力を手にしても、どんなにお金を手にしても。
――いやしかし、お金があると、実はかなり自由になる。
何故ならば、働かなくても済むからだ。
しかし、投資の勉強をし、投資先を検討し、リスクに精神をすり減らす……というのは、働くといって過言ではなかろう。働き方の違いだ。
最近、ツイッターなどでバズっていた(使い方あってるのか? バズるってなんだ。バズワード? 何故そんな言葉が必要なのか)が、「写真家(漫画家、等々)は写真とってお金がもらえて楽しそうでsね」って「じゃあお前がやってみろ」という。
投資家も働かなくて楽しそうですね、という感想をもつ人がいるかもしれないが、僕の感じ方は違っている。それだって十分に働いている。
働く、というのは、要はお金を得る手段である。
何百年か前は、働くといえば、農業をする、という意味だった(ということを思い浮かべる人が多い)かもしれない。
一方、昨今は、第一地産業(農業林業漁業)は、ほとんどないんじゃなかろうか。調べた。
1950年ぐらいは、50%だったが、2000年ぐらいは、5%らしい。
ええええ、こんなに少ないんか。意外。やっぱり、データをみるって大事だね。
いやともかく、机に座って仕事することを、「お前らなぁ、そんなのは仕事じゃないんだ。足を使え、足を!」的に思う人もいるかもしれない。そういう風にして、「今の人たちは楽だなぁ」って思うのか。
そんなことを思う人は少ないかもしれない。だが、投資家に対して、「楽だなぁ」って思うのと、構造的には同じだ。
要するに僕が言いたいのは、生きるのに楽な方法などないのだ。
完璧な満足についての話じゃないのか!
本題に入れない。満足の話、に入りたいのだが。だが、大事なことだ。生きるのに楽な方法はない、ということだ。
これはつらい。
楽に生きることが人類の究極的な目標じゃないのか。いや、実現とか抜きにして。
「苦しいこと」
が、本来的に必要だというなら、まじでキリスト教的世界観に、みな脳がやられている。
(やられている、と書くと不謹慎かもしれないが、別に悪い意味で書いているつもりはあまりない。あまりない、のだが、こういう感覚が、あまり他者に理解されずに、イライラすることが多い。ちょっと表現的に過激にしてるだけじゃないか、ねぇ……)
キリスト教的世界観とは、要は、アダムがリンゴ食っちゃった、ということである。
それによって、男は――なんだっけ、わすれた、女は産みの苦しみが与えられたのだ。――男はあれか、食料を得ることに苦しむようになったんだっけか。調べればすぐ分かるだろうがこれも本筋ではないから置いておく。
つまり、人間とは、苦しむ生き物なのだ、ということ。
それを、認めていいのか。
完璧な満足は存在しない
そこで、頂いたコメントの部分に入っていくのである。――認めざるを得ない……。
これが、現時点率直な感想である。
>つまるところ、新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
>「誰もが満足する完璧な作品があれば新作は生まれなくなる」というのと発想的には同じです。
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)
なるほど……。
いやぁ全くその通りだなぁ、と思った次第。
しかし、人類も叡知で溢れている。ここで実は、袋小路ではないのだ。もう一つの生き方があるのだ。
それが解脱の道である。
ゴウタマ・シッダールタさんは、王子様で、めちゃくちゃ快楽しまくった結果(大げさに書いているだけだ)、やっぱり苦悩だな、ってことで、悟りを得るために出奔したのだ。
僕は正直、キリスト教の必要性はあまり思わないが(毎回書くが、宗教のことを書いているのではない。キリスト教を排斥する意図もない)、原始仏教の教えを正しく後世に伝えていくという役割は、あって然るべきだと思う。
繰り返し書くが、僕は宗教のことを書いているのではない。考え方であり、生き方の話である。
仏教とは、生き方であり、哲学であると思っているのだ。
そういう生き方もあるんだよ、ということは、決して忘れるべきではなかろう。
――だが、僕はまだ、世俗的な生き方においても、何か救済を模索したいと思っている。
何故ならば、食料やシステムがなければ、人は生き永らえないのである。仏教にも、典座という仕事があって、畑を耕したり、修行僧への食事を作ったりしたりするが、しかし、そこの割合が増えていけば、結局階級社会になりそうである。
それに、人間皆我欲にまみれているので、人類全体が仏教徒になるというのは、あまりにも現実的ではないと思うからだ。
(――そうしかし。「あまりにも現実的ではない」というのが、逆に物語、作品のアイディアとしては面白かったりする。現実的ではないが、それを愚直に求めようとする存在が、いい感じの悪役になってくれたり)
なので、世俗的な中にも、救済が求められなければいけない。
救済とは何か
ここで、救済といっているのは、次の構造にもとづく。人間は完ぺきな満足ができない → 永遠に次なる刺激を求め彷徨う存在 → 不幸である
ということだ。
最後の結論が、おそらく、その他多くの人たちと、僕の感覚とのズレ、なのだと思う。
上の構造であっても、「別にそれが人間じゃん」と思う人たちのほうが多いのだろう、たぶん。
俺は、虚しさを感じる。
なんで?
と言われても、そりゃあ分からない。それが分かったら苦労しない。
とはいえ、
>人の場合であれば、完璧な頂点に至ってしまえばそれ以上生きるという理由がなくなってしまう。
というのも、よーっく分かるのである。
その通りだと思うのである。
その上で、しかし、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こうとするように出来ている。
というのは、どこかしら、呪いのように感じられてしまうのだ。アダムめえええ! 余計なことをしてくれおって(原罪)!(不謹慎だ)
グノーシス主義ってのがあってだね、これも概要は知っていたが、とある友人に勧められた本を読んで面白かったのだけれども、要は世界は「不完全」なのである。
不完全だから、いろいろ問題が多くても仕方がないねっ(てへぺろ)。
ということだ。
だから、救済が必要だと思うのだ。
俺にとっての救済でいい
が。その救済なるものを、全人類的に当てはめようとすると、失敗するように、できるだけ高度なシステムが作り上げられている――要は資本主義だったり、民主主義だったり。人類、すごいよ。
文句ばっかり言う人を、僕はほんと蔑んでいるが、歴史なり、物理学なり、ちゃんと勉強すれば(ちゃんと理解は、凡人だからできないんだけどね!てへぺろ)、なかなか、人類はすごいなぁって思う。
そのすごい成果は、「現状に満足せず、新しいことに好奇心をもって立ち向かっていった」からである。
だから、「完璧な満足」を求めるのは、人類にとって、間違い、なのだ。
人という生き物としては、やはり、
>新たな快感、より良い快感を求めて生命活動を続け、生きて行こう
ということになるのだろう。
ここで一つ気づいたが、僕自身も、そうした人間の営み自体に、嫌悪感があるわけではないのだ。
そういえば、「成長」と「貢献」は大事なのだと、いつぞやかに書いたはずだ。
成長や貢献をしない役立たずは死んだ方がいいか
問題は、「安心」という概念なのではなかろうか。つまり、「失敗」したら死ぬ(ないしはボロボロになる)可能性を、僕は恐れているのではないか。
他者の評価、というのを恐れるのは、そして、評価されても、それが一時的なものとしか思えないし、逆にもっと高度なことを要求されるのではないかという薄ら寒さすら覚えるというのは、そういうことなのではないか。
つまり、ぼくは、通常は、60%ぐらいの力を発揮しつつ、余剰分の10%ぐらいを、投資(ここでいう投資はお金のことではなく、能力や知識・技術的な面において)にまわして、合計70%ぐらいで生きていけたらいいのではないか、ということかもしれない。
だから、僕は、「がんばる」という言葉が嫌いなのだ。
がんばるということは大事だと思いつつ。
その余剰分の10%が頑張るということなのだ。
110%を発揮するということではないのだ。
110%発揮してたら、いずれ壊れる。
%ではなくて。
がんばっていることで、総量が、最初が500HPだったのが、600HPになるということはあると思う。だが、500HPしかないのに、110%の、550HPを使ったら、「死ぬ」のだ。
120%がんばろう!
とか論理矛盾だ。馬鹿か。100%以上できるはずなかろう。
電車の乗車率200%とかってのは、あれは数字マジックだ。
ぎゅうぎゅう押し込めれば乗れるのだから、現実の100%は超えていないのだ。単に、座席とつり革の数に対しての比率だ。「当社比」的な怪しい数字なのだ。
そこらへんを、まず、みんな勘違いをなくしたほうがいい。
100%は100%なのだ。
(かっこ書きである。結論的なことはともかく、大事なことを書いた、気がする。まだ気持ちが熱いうちに、更に整理して、カクヨムのまとめにでも投稿しようかな。「人生一生勉強だよ」とか言われて、うわぁそんな人生くそみたいだ、死のう、と思ったわけではないが、それって楽しいの、とは思う。ただ、「勉強」という言葉自体も、少し感覚を変えれば、一生勉強、というのも悪くないと思う。ただ、勉強=苦しい、という感覚があるとして、それが一生続くとしたら、「人生一生苦しんだよ」という意味になるだろう。それは嫌だろう(笑)。でも一方で、今回の記事の問題は、「人生は一生苦しい(こともあればたまに楽しいこともある)」ということを、認めるしかないのか、ということだ。思ったのだが、「再チャレンジ性」が重要なんじゃなかろうか。要は、失敗しても、次またやってみよう、と思えるか。――話はものすごく飛躍するが、じゃあ、失敗し続ける人、はどうなるのか。学習性無気力になる、という心理学的なことは置いておいて、失敗し続ける人は、おそらく許容されないだろう。無価値だ、邪魔だ、となるだろう。そうならない仕組みがありえるのか。おそらく、失敗し続ける環境を変えるしかないだろう。失敗し続ける人も、違う環境なら、自分の能力を生かせるかもしれない。だが、僕はそういう答えはクソつまんねえ、と思ってしまう。それは解決になっていない(対処ではある)。そうなると、ベーシックインカム、という発想が出てくるかもしれない。生活保護とは少し違う。共産主義ともちょっと違う。例えば前回の記事で、夫婦だと23万円、だっけ? が必要だとしたら、23万円は、全世帯に配布するのである。要は、誰一人働かなくても、「ふつーの生活」――これは、食べるためにギリギリな生活、という意味ではなく、本当に充分ふつーの生活ができる水準で生きられるようにするのである。そうすると、自分の能力を生かせる場所で、楽しく働けて、失敗しても、失敗し続けても、まぁなんとかなるから、落ち込んじゃったら、しばらく休んで、また頑張ればいい……みたいな。――とか書いておいて、残念ながら、正直、僕は人間があまり信用ならんので、うまくいかない気がしてならない。でも発想としては悪くないと思う)