今日の一言「悪かった」「飲み会は有意義な面もあるが」
とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。
きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。
まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。
それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。
要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。
誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。
一方、文章はそれは不可能だ。
文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。
であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。
だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。
これは何故だろうか。
それは、飲み会が多かったからである。
何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。
僕は、飲み会が好きではない。
勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
これは、仲の良い友人等とでもそうである。
ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
まず、時間が決まっている場合。
逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。
まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。
――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。
だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。
あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。
これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。
だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。
――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。
「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。
そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。
漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。
だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。
いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。
本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。
で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。
何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。
じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。
その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。
なので、要は、面白い人もいるのである。
だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。
それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。
しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。
人生、楽しむべきだ。
これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。
その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。
それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。
いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。
究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。
つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。
要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。
人だからいけないのである。
モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。
(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)
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前書き
よう、俺だ。とかって書き始めるのが、逆噴射聡一郎氏風なのだと書いたら、フォロワーの方々に総スカン&総フルボッコにあうだろう、怖い。
きれいな文章を書きたい……そう思う面はある。ただし、文体というのは、自分の書きやすいように書いて、その結果で洗練されていくものなのだということを、最近音読ルーチンに組み入れている『工学的ストーリー創作入門』に書いてあった――のかは正直分からないが、僕はそう読み取った。
まずもって、わかりやすい文章と、きれいな文章と、ささる文章と、そもそもストーリーとは別だ。
それはともかく、このブログで追及すべきは、そのどれでもない。
この俺自身の思考の「再現性」が最も高いものが正解だ。
要するに、後から読んで、「何故」そう思ったのか、いやそもそも、「何を」思ったのか、それが分かるかどうか、そこに価値が含まれる。
誤字脱字は無いほうがよかろうが、実は、あってもなくても、伝えたいことの「伝達率」は変わらなかったりする。
そもそも、対面コミュニケーションでも、音節(しゃべってる音)が何割かは欠落しているという。完璧な言葉を頭にインプットして、それで解釈しているわけではないのだ。音は途切れ途切れなのだが、それを脳内にインプットすることで、脳内で補完しているのである。
一方、文章はそれは不可能だ。
文章の間の言外の意味、というのはあろうが、そこを限りなく正確に伝えるのは、それは芸術の域である。
であるならば、思考や感情を書き残そうと思えば、必ず、「長く」なるのである。
だから、ある程度の文章量が必要である。そう、「事実」のメモであれば、箇条書きでよいのだが、それを目的とはしていないのだ。
飲み会について
さて、珍しく、一週間の振り返りを、「悪かった」と書いた。これは何故だろうか。
それは、飲み会が多かったからである。
何回あったかの具体的な数字は書かないが、僕は、週に2回以上あれば、多かったとこれまでも、これからも書くだろうと思う。
僕は、飲み会が好きではない。
勘違いしないように書いておかねばならないが、これは、会社の飲み会が嫌とか、知らない人との飲み会が嫌とか、そういうのではなく、飲み会自体が嫌なのである。
これは、仲の良い友人等とでもそうである。
ただ、そうはいっても、嫌でもない場合がある。
まず、時間が決まっている場合。
逆に書けば、二次会とか大嫌いである。三次会四次会とか、吐き気を催す(勘違いしないように書くが、お酒の多い少ないではない)。
まず、そもそも、何故飲み会が好きではないかというと、そもそも、人と話して愚痴を言い合うということに一切メリットを感じないことである。
これは、別に飲み会じゃなくても同じである。愚痴が好きではない、いやましてや、他者の愚痴とかものすごくどうでもよい。――いやすぐさま書けば、大事にすべき両親兄弟恋人家族等々との関係においては、あってもいいし、むしろ聞いてあげるべき場面もあるだろうが、しかし大多数の場合はどうでもいい。
――いやいや、すぐさま書けば、「愚痴」は好きである。いやむしろ、このブログ自体壮大な愚痴といえなくもない。
だが、「愚痴る」ならば、本気で愚痴って欲しい。
たかだか、数時間の飲み会で愚痴って、それで翌日すっきりする程度の話の内容なら、ぶっちゃけどうでもいい。(そもそも、それって、一人で話しててもいいんじゃないのか。「俺」である必要はあるのか。愚痴を聞いてくれるAIロボットでも早く開発されればいい(俺はどうでもいいが))。
あと、長時間他者と一緒にいると、「疲れる」。
これは、特に、「評価」が関係する相手だと加速的に疲れる。
だから、どうでもいい相手との飲み会の方が楽である。――しかし同時に、どうでもいい相手だと、そもそもどうでもいいから、その飲み会自体がどうでもいいので、やっぱり総じて飲み会は好きではないのである。
ちょっと役立つかもコーナー
「不立文字」(ふりゅうもんじ)と読む。禅の言葉。達磨大師が残した四聖句の一つ。経典などの文字によらず、坐禅によって真理を直接体験することが重要である、という意味。――「師よ、この魔導書の意味が分からないのですが……」「不立文字。言葉に捉われるのではなく、心で印を組むのです」とかって使う、たぶん。
「鐘楼」(しょうろう)と読む。寺院にある時を告げる鐘がある建物。
じゃあ行かなきゃいいじゃん
そんな愚痴をだな、結局自分は思って書いているのであるが、僕の価値観としては、飲み会での愚痴よりも、よほど文字にすることのほうが重要で有意義であると思う。そもそも、「大変だ」「不安だ」「心配だ」など、いろいろ言う人に限って、「じゃあ、何が大変か、紙に書いてみましょう」というと、「将来」「恋愛」とか、漠然としたものしか浮かばないだろう。
漠然としているから逆に「不安」なのだろうが、そんな状況で、他者が手を指し伸ばしてくれることなんて、無い。差し伸ばして、助けられることも、無い。
だから、「相談」ということの意義が正直よく分からない孤独な人間である。
いやもちろん、相談することで、「ああ、そういう解決策もあるね」となることはあるだろう。――が、それは勘違いである。そういった方策を出してもらえるという状況自体が、本当に切羽詰まった状況ではないのだ。
本当にメンタルやられている時に、他者など何の役にも立たない、と思っている(もちろん、いつものごとく、少々過激に書いているだけだ。「何の」とか「絶対」とかっていう修飾は、真理になどなりえない。論理矛盾だ。そういう表現を使って話をする人を、僕は胡散臭いと思う)。
で、まぁそうね、イライラしていると言葉が過激になってしまうからよくない。
過激な自分を抑えなきゃいけない、って面もあって、飲み会とかが好きじゃないのかもしれない、じゃあ、全力で自分出していけばいいじゃん、というのは、それこそ絶対にダメである。
何故かというと、自分はマイノリティだからであって、そもそも、僕が少し楽しいかなと思うのは、今書いてきているような、「そもそも飲み会とかいらなくね?」といった話なのである。そんなこと言われてもみんな困るだろう。だから、表層的に楽しくする必要があるのだ――それが、つまらないのである。
じゃあ、小見出しの通り、「行かなきゃよくね?」ということだが、しかし、社会人、組織人たるもの、そうはいかない。なにせ、どんな仕事も、人と人とのかかわりあいで成り立っているのだ。
でも良いこともあった
しかし、結果的に、今回参加した飲み会の中で、僕と同じような意見の人と出会うことができた。その人とは意気投合して、いろいろ話したし、楽しかった。
しかし、その人自身も、自分がマイノリティ側だと思っていたようである。いろいろ、つまらないなと思うことも多いようだ。
なので、要は、面白い人もいるのである。
だから、先ほどの、「なんの」とか「ぜったい」とかの修飾はありえない、というように、飲み会全般がつまらないかというと、まぁそういう訳でもないのである。
それに、何より、こうやってブログを書くネタが――ネタ、というよりも、もうこのムシャクシャした感じ(これを単純に「イライラ」と僕は表現しているが、これは何なんだろうか。よく分からない感覚なのである。いい表現が欲しい。焦燥感というわけでもないが、なんか落ち着かない感じ)が提供されるので、それはそれで良いかなと思っている。
しかし、もう一歩大きな視点で考えたとき、これっていらない感情のようにも思うわけだ。
人生、楽しむべきだ。
これは、中学生ぐらいに到達した哲学だが、まわりまわって、やっぱりこれは正しいと「実感」している。
その楽しいというのは、もちろん刹那的な快楽を指すわけではないが、間違っていない考え方だと思う。
それは、くだらない二項対立の、「楽しい方がよいか、苦しい方がよいか」というくだらないレベルにおいて。
それはそうと、そうした哲学的真理においていえば、その、なんか、煩わしい人間関係って必要なんだろうか。
いやいやいや、すぐさま、「そうした艱難辛苦含めて人間なんだよ」という言説や思考がふりまかれるわけだが、しかしそれはそれで思考停止ではなかろうか。
世界平和が大事だとかいっちゃうのであれば、そうした人間関係の軋轢を低減……いやむしろゼロに近づける方法を模索すべきである。
究極、人と人との関係が完全に希薄になればよい。
つまり、折衝系の業務とかは、すべて間(あいだ)にロボット(AIでも何でも呼び方は構わないが、とにかく「人」ではないもの)を介在させるとか。
要は、相手が「人」だから、感情をもつのである。
ドアに足をぶつけて、痛い思いをして、でも、ドアに何時間も延々と怒り続ける人はいるだろうか。
一方、同じ痛みでも、人がぶつかってきた場合は、それは、相手を殺したいと思うほどの強い感情が湧き出る場合もある。
人だからいけないのである。
モノが相手なら、感情は発生しない(たぶん、ね。検証も何もなく思いつきだから、反例ある研究とかあったら面白いと思う)。
であれば、感情労働的な部分に、もっとロボット的なサムシングをどんどん導入していったらいいのではないか。介護分野にロボット導入とか、まぁ実現性はともかく、よいことじゃなかろうか。外国人労働者を増やすというのも、暫定的な措置としていいのかもしれないが、根本的な解決じゃないのはすぐわかることである。
(かっこ書きである。愚痴愚痴した記事だから、強制終了。しかし、こういった、「例えば、人間と人間との関係なんて無い方がいいんじゃないか」とかって言って、「いやでもそれは――」とかって話ができると面白いと思う。仕事のあの部署の誰誰がどうこうで――とか、近所の誰それさんのお子さんがどうこうで――とか、過去に付き合った人がこうで――とか、まぁ、一秒で忘れる(かっこわらい)。あと、話題もそうだけれども、「いやでもそれは――」とかいう議論的なのができる場合も、はなっから感情論とか道徳論的に「ありえない」とかそういうスタンスでも面白くない。ストーリーである。「What If?」である。でもまぁ、いきなりそれほど親しくない人が相手で、そんな話ができるなんて、そりゃあありえないわけである。だから、飲み会って場がそもそも、非効率でしかない。まぁ、要は、楽しきゃいいんだけど。あと、そもそも口頭で話したとしても、すぐ忘れちゃうじゃん(それは俺の記憶力が悪いだけだ)。だったら、いい話とかあったら文書に残さないと、もったいないなと逆に思う。――いやまぁ、分かってるよ。こう、会話の中でスパークが起きて、新しいアイディアが沸いてとかいうのはある。でもそれって、そもそも違う分野の人とかと話さないとあんま意味ない。で、相手がかまってちゃんじゃなければ、それ相応の、自分も提供できる話題や知識がなければ意味がなかろう。マーケティングの話をされても、「へー」としかならないかもしれない。しかし、「へー」ってなってる段階では、何ら成長も発展もない。「ああ、その話はここまでは知ってるけど、こういう場合はどうなの?」とか、質問できるレベルじゃないと、会話としての意義は少ない。少ないし、話し手の方も、そうじゃなきゃ話している実感というか、手ごたえがなくてつまらないだろう。ただ独善的に語って満足できるような人は、自分のブログで発信だけしてればいいだろう。え? 俺? 僕は、まぁそうだなぁ……、とにかく、この手のモヤモヤ(むしゃくしゃ)が発生した場合は、書くこと以外に解消方法が、無い。無い、ことはよくわかった。今回、上のようなほぼ「本音」的なことも踏まえて話せた飲み会が一部であった。その飲み会はとても楽しかった。――楽しかったけれども、結局、そういったことを人に話したとしても、僕のイライラ(モヤモヤ)はナウ晴れなかったのである。で一方で、こうやって、ここまで長々と書いてきたおかげで、まぁ取り敢えず風呂にでも入るか~的な穏やかな気持ちになった、わーい)
今日の一言「臨時の記事だ」「今日の一言が形骸に過ぎる」
ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
前書き
おお、この、書き初めを「前書き」とすることの効用といったら!ゼロ秒思考信者(教祖信徒合わせて1名)としては、これほど書きやすい方法はない。
それはそうと、珍しく、タイトル起因の記事である。要するに、「書いておこう」と思ったことが明確な場合だ。……となると、ゼロ秒思考は大方排除されてしまうのだろうが、それは仕方がない。
NOTEに登録した
もう昨年末あたりから、いずれ登録しようと思っていたのだが、この体たらくである。だが、「新しいところに登録する」というのは、作業量的な問題なのではない。(作業としてはお手軽、1分程度だろう)
断捨離とか敢えて言葉を使うまでもなく、管理できないモノが増えていくと、それだけ生産性が落ちるのだ。在庫管理もコストになる。
だが、物理的な面(お金とか場所とか)もそうだが、それだけでなく、精神的な面も重要である。
これは、人間の、忘却という素晴らしい機能によって、ある程度解決できる問題だ。
だが、変な執着……というか、無意識レベルへのインプットも含めて考えたときに、モノが多いのはデメリットしかない。
いつか使うだろうというものは、たいてい使わない。たいてい、なので、使うときもあるかもしれない。そこが陥りやすい罠である。捨てられなくなる原因だ。
だが、人間は、有限な存在であることを、常に忘れてはならない。
一人の人間が管理できるものは、限られているのだ。だから、組織の縦割りになりがちな面を、あながち否定はできない。某国の統計不正問題に関して、国のトップがその報告資料を読んでいなかったことにがっかりだ、的な意見が議会で出されていたというニュースを見たことがあるが、そんな意見を出すことががっかりである。ばかか。そんなもんいちいち読んでられるはずがない。もちろん、そんな問題を一切把握していなかった、というのは糾弾されるべきだが、所管に任せるというのは、組織や、そもそも専門分化した現代社会において当たり前のことである。
話がそれた。
整理をする。そういう記事である。
自分が登録しているサイト等
創作関連で、自分が登録していたり、活動しているものをまとめてみよう。・小説家になろう
・カクヨム
・NOTE(NEW!)
・自サイト
・メクる
・ツイッター
・ピクシブ
・ここ(ブログ)
こんなところか。
正直、パッと思いつかなかったところもある。
まぁなので、自サイトに投稿していただいた作品とか、やりとりさせて頂いた方々が、気づいたらいなくなってる、とかいうのは、全然ふつーのことだと思っている。まぁ寂しいのだけれども(笑……)。
逆に、ずっといてくれたり、「久しぶりに戻ってきました」的なのが嬉しかったりする。そういうのもあるから、続けていこうというモチベーションになる。って何だか感傷的である、主旨が違う。
活動の優先度
ブログ>自サイト>その他。であるべきだと思っている。身もふたもない。
しかし、これは、非常に「効率」が悪い活動である。
もはや、あらゆる面で、自サイトが、なろうやカクヨムやNOTEあたりに楔を打ち込むことは不可能だろう。可能であったとしても、その投資は成果に見合わないだろう。それを日本語でなんというか、不可能、というやつだ。
ブログは、何か意味があるのか(かっこ笑い)。
特にない。
いやここでいう「ない」は、商業的な意味においてだ。
ブログで儲けようなんてのは微塵にない。むしろ何年か前に、カウンターとかも広告が邪魔になってきたので外したぐらいだ。だからそもそも、このブログ、一般PV的にあるのか分からない……いやないだろう多分。
でも、どうなのか、とも思う。
どうせだったら、もう少し、いままでどおり気軽に記事投稿して、それでいてちょっとたまにはフィードバックがあったりするなんてそんなことを淡く思ったりもする。
例えば、カクヨムで、このブログに書いた内容の抜粋推敲を載せたら、新しい方々からの反応をもらえたのである。特に肯定でも否定でもなく、僕が欲しかった反応だった。
僕は自己愛の塊なのかもしれないが、しかし、全肯定してもらいたいとか思っているわけではない。どこか一部分、欠片でも、何か誰かの参考になるようなことが書けていたら嬉しいと思うわけである。
それは、「こんな愚かな奴もいるんだな」というマウンティングの材料にしてもらってもいいとも思う。だがそういう人はどうか、愚かな奴弱者でも愛でるノブリスオブリージュを持っていただきたい。
また話がそれている。
傲慢な気持ちもある
いや、しかし、その、書いておかねばならない醜い感情なのだが、正直、なんかこう、面白くない記事が多いのである。なんかね、「浅い」と思わされるというか……。
いやその、「すごい」人のブログとかってのもあるが、それはそれで、格調が高すぎて面白くないのだ。
ちょうどいいのが中々見つからない(存在しない、とは言っていない。見つけられないだけだ、たぶん)。
だから、「面白い」記事を書ける人たちと繋がりたいという思いもあるのである。
きっといると思うのだ。
いやというか、その前に、何故、何を僕は「浅い」と思うのか、もう少し書かねばなるまい。
……おおぅ、分からない、なんなんだ、何故なんだ。
人はみな幸せに楽しく生きるべきである
僕はネガティブな人間である。しかし同時に、ポジティブな人間である。
アンビバレンス(二律背反)が人の性質(さが)だと思っている。
最近音読に取り組んでいる『工学的ストーリー創作入門』において、「人物」とは、コンフリクト(葛藤・対立)だと書かれていた。
まぁその、現実に葛藤がない人はいるかもしれないが、ストーリーとして人の心を打つのは、やはり葛藤があるものである。(原則は。もちろん、主人公に必ずそれがあるわけでもなければ、必ず必要なわけではない)
表層的な面――すなわち、その人の言動や、癖、生活、趣味嗜好は、第一次の次元である。
たいてい、友人でも会社でも、初期の恋愛関係においても、この第一次の次元でふつー皆付き合っている。
しかし、本来人は一次元ではない。
その一次元の面を生み出している、バックストーリー(背景)がある。それは長年の経験かもしれないし、印象的な出来事、時にトラウマかもしれない。これが第二の次元だ。
せっかくなので、ブログであれば、せめて、第二次元まで触れていただきたい。
「お前はどうなんだ?」って? 僕は、そうだな、なんというか、むしろ第二次元しか書いていない気がする(かっこわらい)。心の闇みたいな(かっこわらい)。
いや、ここは難しい表現だな。愚痴をかけば、第二次元というわけじゃあない。
何でその表層的な反応が自分に現れるのか? という問いをもってしないと、面白くないということだ。
こんなことがあった→むかついた
これは、内面を描いてはいるけれども、第一次元に過ぎないと思う。表層的な反応だからだ。
そこに、「何故むかついたのか?」という「WHY」が混ぜ込められると、少し面白くなっていく。
さらに第三次元を目指せ
だがそれだけ(第二の次元)だけでも、まだ足りない。その後、どうなるのか。どういった方向に向かっていくのか、この視点があると、さらに面白くなる。
僕の場合は、「結局みな死に向かっていくのだけれども、それでも(僕の)人生の意義とは何なのだろうか」という点である。
人が生きて、死ぬということに、何の意味もない。
当たり前だ。
意味とは、自ずからが創り出すものだからだ。
病気で苦しんでいる。
上司とそりがあわなくて心身疲弊している。
貧乏で明日が不安だ。
子供が反抗期でどう接していいか分からない。
40歳近いのに婚活がうまくいかない。
無為に生きてきてふと60歳を過ぎて虚無に襲われた。
いろんなテーマがあるだろう。
そのどれもが、実存的な苦しみである。そこに優劣もなければ、大きい小さいもない。主観において、それは絶対的である。
だが、いくら悩み苦しみがあろうが、唯一絶対普遍なのは、時間である。
その残酷な時間に対すれば、どのような悩み苦しみも霞む。
これは批判の的だろうが、「自殺」という手段だって残されているのである。「完全自殺マニュアル」は有害図書扱いのようであるが、それはそれで、救済だ。方法が述べられているだけだ。自殺の勧奨ではない。
方法の提示と実行には、隔絶たる差があるのだ。
だから――。
それゆえに、ネガティブは、ポジティブに反転せざるを得なくなる。
大事なのは、「せざるを得ない」という回りくどい表現部分である。
これが必然なのだ。
だから、僕は一元的にポジティブな人をそれほど好きではない(いや、この書き方は微妙だ。好きだよ。一緒にいるならポジティブな人の方がいいだろう、たぶん。そうではなくて、「面白いか面白くないか」という部分の話だ)し、だからといって、ネガティブ一辺倒だとそれはそれで面白くないのである。
そういうことを、二律背反(アンビバレンス)という表現をしているのだ。使い方があっているかは知らん。ただ、アンビバレンスって表現がなんかかっこいいっしょ(中二的)。
(かっこ書きである。なんか偉そうな記事になったなぁ……これ、誰宛の文章なんだ。まぁ、いつものごとく、読者の一人は、未来の「俺」である。俺はどこか、10年や、20年前の「自分」に対して語りかけている気がする。自己愛性パーソナリティ障害だ(かっこわらい)。いやまぁその、日記ってそういった面もあることはあるが、どちらかというと、未来に対しての意味がメインな気もする。もう過ぎ去った過去への言葉って、なんか意味があるのだろうか……ある、というテーマで、また一つ記事を書けそうであるのだが、なんかこうとめどない。とめどない故に、ブログを書くことはそれほど苦ではない。それこそ似たようなことは15歳ぐらいからやっていたから、もうそうするとプロフェッショナル(笑)である。いやまぁ、今こんなんになっちまったのは、それが原因じゃないかという反転すべてを無に帰すようなことも同時に浮かぶが、いやしかし、それをやめようとして、実際やめた時期も何度かあって、それもまたしばらくして結局戻ってきているのである。必然。それはそうと、本題の、創作系活動を整理するって全然できていない。よし次の定期更新で少し触れよう)
今日の一言「悪かった」
かなり、炎上必須の記事であったが、よかった、辺境無名の自分の適当ブログでは、天網恢恢なインターネットとはいえ、そこまで大問題にはならないようだ。
とはいえ、一応、補足の内容を書いた方がいい気がしている。また、自分の知識も小学生並みなので、いくつかの記事を参照してみた。
公的支援の理由
で、上の記事を読んでみて、拙い僕の理解力だと、
「LGBTは、かわいそうだから支援が必要なのではない。LGBTは、歴史的にも証明された、人間不変の在り方なのである。また、近代国家は、自由と平等が保障されねばならぬ。であるからにして、LGBTを支援するということは、基本的人権の尊重であり当たり前のことである。結婚制度等から排除されている現状は速やかに解決すべきだ」
という読み取りをした。
繰り返し書くが、僕は、LGBTを認めるべきだと思っているし、差別意識もない。
さらに、表現規制問題(所謂「ザマス」)も同様に、自由と平等であるべきであって認められるべきだという理屈にも繋がると思っている。
いやいや、有害な表現は他者を害するに当たり、LGBTは誰も傷つけないのだから全く別だ、というのは、「いや私はLGBTの存在が不快だ」という、昨今多い政治家等「失言」する方々を許容する方向性であると言え、やはりザマスは変だ、と思う。
というのは、政治は再分配だ、という理解があるからである。
100万円の予算があって、90万円をLGBT支援にまわし、10万円を少子化対策にまわす、という政策は、やはり反対すると思う。(極端なバカげた例だ)
むしろ、独身で寂しくて子供がいなくて可哀そうな僕ら(「ら」というか俺一人かもしれんが)に対しての支援をして頂きたい。
というのは、半分冗談で、半分本気であるが、LGBTの人たちがガチで苦しんでいることへの想像力の欠如なんだと思う。しかし、しかしだ、想像力、としたときに、「ああ、そうか、こんな不便もあるんだ、『かわいそうだな』」という意識にしかならないと思う。
基本的な人権として、当然認められるべきだ――という、きっと理念的に完ぺき無双なのだろうが、そうした崇高な思考には、どうやら、僕のような凡人には難しいようだ。
なかなか紛争やら、失言やら、いじめやら様々な人間関係の負の問題が、文明が起こってから何千年もたつのに中々解決しない理由だと思う。
システム設計上の根本的な問題が解決できていないのである。暫定対処で、その都度パッチ対応をしてきているのだ。――いやそれ自体は、先人の不断の努力であり素晴らしいことだ。
人間、そんなに頭がよくない。頭というか、頭だけで動いているのではない。身体的な痛みをもってして、なお哲学できる人を僕は尊敬する。
だからだ。
「LGBT支援は、今後活気ある日本をつくりだすために必須です。日本は先進国の中でもLGBT支援が遅れていますが、今後平等を推し進めることで、住みやすい国になり、結果的に子供も増え、外国からの投資も増え、豊かな国になっていくのです」
とかって、外連味でもいいから、「みんなのためになる」という理念を発出するべきである。
「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
と、弟や妹に注力する親をみて、「そうだ、僕はお兄ちゃんなんだから、我慢しなきゃ」と思うことが「正しい」ことであるが、しかし、内心問題やっぱり悔しいし、寂しいものである。LGBTの人たちを支援しまーっすという言説を、「俺は関係ない」と思う人が聞けば、やっぱり「なんか損した」気分になるのである。
卑しい人間だと思うだろう。いや実際問題、自己中心的で卑しい人間なのである。
なのであるが、しかし、そうした汚い心性もまた、人間なのである。
だから僕が前の記事で書きたかったことは、
「正直、LGBTの人たちの支援の必要性はよく分からない(それは、結婚や医療や子育て等様々な生活でギャップがあるという事実は知った上で)けれども、マイノリティの差別を撤廃する方向というのは支持していいと思う。人間の価値観は多様であり、様々な生き方が認められていいわけであるから、不平等な状態があるというのであれば、それは解決した方がよいだろう」
ということである。
一方で、
「まぁそれはそうだけれども、昨今、少子高齢化とか、外交問題とかたくさん「大変だー大変だー」と言われているわけだが、そういった状態でなお、LGBT支援の必要性も語られるということは、まぁまぁ日本もまだまだ余裕があるってことだな」
とも思うわけである。いいことだが。
――とかって、皮肉っぽくなるから、あれだ、さっきの外連味じゃないが、「少子高齢化対策とかにお金使ったとしても、焼け石に水なんで、むしろ新しい動きとしてのLGBT支援を打ち出した方が、それ関連の運動とか保障とかビジネスとか人の「動き」が発生するから、経済的にも良い方向につながるぜ」って言説がもっとあった方がうまくいくんだろうなぁと思う。
だからだ。ああ、この小見出し長くなりすぎだけれども、とあるお笑い芸人氏も言っていたようだが、「政治家の失言をあげつらってないで、『子供を産まないと生産性がない』って意見に対して、子供を産まない俺(私)がいることで日本にこんなにメリットになってるんだぜとか前向きのこと言ってみろってんだ」という風にも思う。
生産性のない人間は死ね――なんて、なんともディストピアであるが、しかし、生物繁殖的な低次元において、子供を産まないとその種族は滅びるのは間違いない。その低次元において、その発言は何ら間違っていないのである。失言政治家も、別に日本を滅ぼそうとか、自分の既得権益を守ろうとだけ思っているわけではないはずだ。日本をよくしたいという思いが根底にあるはずだ。そこに歩み寄らずに、人格批判ばっかりしているのは、それこそ「人権(かっこわらい)」侵害だ。
すぐさま書いておくが、失言を許容すべきだという意味でもなければ、何か貢献しない人間は死ねといっているわけでもない。伝わるだろうか。わからない、最近人にどう思われているかもあまり気にならなくなってくるし、興味がわかない。ちゃんと伝えようという気持ちも薄くなり、できるだけ黙っていようとか思ってしまう。よくない傾向だ。
上のようなことは、正直、僕の中でものすごく優先度が低い。
低いけれども、ただ、表現規制問題については、これは実存問題に直結するから、めんどくせーが戦う必要があると思っている。軍(でもいいし政府でもいいし何でもいいが)が検閲したものしか出版できないとか、最悪の世界だ。そういった最悪な存在も含めて、神のような善き存在も含めて、カオスなのが人間なのである。ここは譲れない。
まぁその頑固な信条のせいで、どっちかというと「人間嫌い」という表現をときたま使ってしまうけれども、でもでも、良いひとだってたくさん(?)会ってきたし、人に助けてもらったことだってたくさん(?)あるし、好きな人たちはたくさん(?)いるのである。
まぁその……、肉体的はともかく、精神的にリアル系で助けられた記憶はそんなにないのが、俺が変人な所以なのかもしれん。こっぱずかしいから挙げないけれど、僕がいつも「助けられた」ということで浮かぶのは、時折このブログにコメントくださる方々と、社会人1~2年目ぐらいに出会った思考の達人である。
まぁその、そういった普通じゃない遍歴があるから、「SNSやらなんちゃらで、昨今の若者は現実的な付き合いを軽視している」とか「まっとうじゃない表現は規制すべきだ」みたいな意見が生理的に受け入れられないのだろう。ま、もうそもそも若者じゃあないけどね(かっこわらい)。
「挙って」(こぞって)と読む。残らず、みんな、という意味。
「琳瑯」(りんろう)と読む。美しい玉(宝石)や詩文のこと。「徐に立ち上がった男の青い目は、琳瑯のごとく輝いている」とかって使う、たぶん。
というか、役に立つコーナーといいつつ、なんかこれなんて読む漢字コーナーみたいになってきたな。しかし他に思いつかないからもうしばらく続けよう。
ある程度うまくやる自信は、もういい歳した大人(仮)なので、あるのだが、しかし、精神的な消費は避けようがないのである。それが「成長だよ」とか、リア充コミュ充たちは言うだろうが、しかし、結果と、それに対しての「努力」は、見えにくいということは、みな想像力に逞しくなって頂きたい限りである。まぁ期待なんてしていないのだが。
だが、まぁそんな気が重い話とは別に、某方が、50万超の作品を完結させ、プレ公開してくれる可能性があることを示唆された。これは楽しみである。
感想や批評の書き方講座について書こうという記事を書いて、実際途中まで書いているが、そっちも止まってしまっているが、最終的には、感想や批評をポイントを押さえて全力で書くということは、自分の読解力や創作力にも繋がるのだという方向にもっていきたい。
特に、全力で書かれた作品には、激辛批評として全力で当たりたいと思う。
特になんかその、おべんちゃらというかお世辞というか、そういうのは求められてないと思う。そもそもそういったの苦手である。
全力出せるってのは、大人になっていくと、なかなかそういった場面がなかったりする。
まぁその、常に全力だったら力尽きてしまうのだが、たまには自分の力を目いっぱい使うってのも必要だろう。
――と、なんかさも、大きなことをできるような風に書いてしまったが、まぁいい、そういった気構えというか、ウォーミングアップである。創作するのも大変だが本気で作品にあたるというのもまた割と大変である。
(かっこ書きである。うーん、なんか、今回はゼロ秒思考ではない部分も多々あり、書くのに結構疲れた。思ったのだが、外出し、帰路において、「よし、今日も終わった。帰ったらあれやって、これやって……」と思いいざ家にかえると、「ぐでー」ってしてしまうのは、家に帰ってきてからやることが、無意識部分で結構あるのだからだと思った。家の玄関に立つ。鍵を出す。鍵を開ける。家に入る。鍵を置く。靴を脱ぐ。コートを脱ぐ。スーツを脱ぐ、手を洗う、うがいをする、部屋着を着る、暖房をつける、朝布団がしきっぱなしだったら寄せる……とか。一つ一つは短い時間だが、いろいろやっているうちに、「あれやって! これやって!」と希望に満ちていた気持ちが、帰ってきた疲れもあわせって失われていくのである。本気で何か仕上げようとかいう場合は、家に帰る前に時間を作るというのが必要だろうなと思った。――全く関係ないが、MIB(メンインブラック)3をアマプラで見た。そげん期待していなかったが、面白かった。ストーリーとしてダレがなかった。一気に見れてしまった。そしてギャグ風なのに感動もさせてくれやがって……。グリフィムという異星人がいるのだが、彼の超常スキルがすごい。すごすぎて、常人(彼は人間ではないが)では精神異常まったなしだろう。要は、多次元解釈、並行世界線を同時にみることができる能力である。未来の様々な結果も、知る――ではなく視ることができるのだ。それでも、世界が帰結しようとする運命には抗えない……うーむ、やっぱり僕は時空モノが好きなんだろうか)
前書き
前回、臨時で書いた記事において、「LGBTは認めるべきだが、公的支援の必要性まで本当にあるのか、各々が当事者意識をもって考えるべきである」と書いた。かなり、炎上必須の記事であったが、よかった、辺境無名の自分の適当ブログでは、天網恢恢なインターネットとはいえ、そこまで大問題にはならないようだ。
とはいえ、一応、補足の内容を書いた方がいい気がしている。また、自分の知識も小学生並みなので、いくつかの記事を参照してみた。
公的支援の理由
で、上の記事を読んでみて、拙い僕の理解力だと、
「LGBTは、かわいそうだから支援が必要なのではない。LGBTは、歴史的にも証明された、人間不変の在り方なのである。また、近代国家は、自由と平等が保障されねばならぬ。であるからにして、LGBTを支援するということは、基本的人権の尊重であり当たり前のことである。結婚制度等から排除されている現状は速やかに解決すべきだ」
という読み取りをした。
繰り返し書くが、僕は、LGBTを認めるべきだと思っているし、差別意識もない。
さらに、表現規制問題(所謂「ザマス」)も同様に、自由と平等であるべきであって認められるべきだという理屈にも繋がると思っている。
いやいや、有害な表現は他者を害するに当たり、LGBTは誰も傷つけないのだから全く別だ、というのは、「いや私はLGBTの存在が不快だ」という、昨今多い政治家等「失言」する方々を許容する方向性であると言え、やはりザマスは変だ、と思う。
個人信条と制度設計は違うと思う
ただ、上の、真っ当な記事を読んで、まぁ「理解」はした気がするけれども、「納得感」はあまりなかった。というのは、政治は再分配だ、という理解があるからである。
100万円の予算があって、90万円をLGBT支援にまわし、10万円を少子化対策にまわす、という政策は、やはり反対すると思う。(極端なバカげた例だ)
むしろ、独身で寂しくて子供がいなくて可哀そうな僕ら(「ら」というか俺一人かもしれんが)に対しての支援をして頂きたい。
というのは、半分冗談で、半分本気であるが、LGBTの人たちがガチで苦しんでいることへの想像力の欠如なんだと思う。しかし、しかしだ、想像力、としたときに、「ああ、そうか、こんな不便もあるんだ、『かわいそうだな』」という意識にしかならないと思う。
基本的な人権として、当然認められるべきだ――という、きっと理念的に完ぺき無双なのだろうが、そうした崇高な思考には、どうやら、僕のような凡人には難しいようだ。
なかなか紛争やら、失言やら、いじめやら様々な人間関係の負の問題が、文明が起こってから何千年もたつのに中々解決しない理由だと思う。
システム設計上の根本的な問題が解決できていないのである。暫定対処で、その都度パッチ対応をしてきているのだ。――いやそれ自体は、先人の不断の努力であり素晴らしいことだ。
前向きな価値を提示する
なので、「基本的人権が~」とか、きれいなことを言っていてもダメなのである。人間、そんなに頭がよくない。頭というか、頭だけで動いているのではない。身体的な痛みをもってして、なお哲学できる人を僕は尊敬する。
だからだ。
「LGBT支援は、今後活気ある日本をつくりだすために必須です。日本は先進国の中でもLGBT支援が遅れていますが、今後平等を推し進めることで、住みやすい国になり、結果的に子供も増え、外国からの投資も増え、豊かな国になっていくのです」
とかって、外連味でもいいから、「みんなのためになる」という理念を発出するべきである。
「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
と、弟や妹に注力する親をみて、「そうだ、僕はお兄ちゃんなんだから、我慢しなきゃ」と思うことが「正しい」ことであるが、しかし、内心問題やっぱり悔しいし、寂しいものである。LGBTの人たちを支援しまーっすという言説を、「俺は関係ない」と思う人が聞けば、やっぱり「なんか損した」気分になるのである。
卑しい人間だと思うだろう。いや実際問題、自己中心的で卑しい人間なのである。
なのであるが、しかし、そうした汚い心性もまた、人間なのである。
だから僕が前の記事で書きたかったことは、
「正直、LGBTの人たちの支援の必要性はよく分からない(それは、結婚や医療や子育て等様々な生活でギャップがあるという事実は知った上で)けれども、マイノリティの差別を撤廃する方向というのは支持していいと思う。人間の価値観は多様であり、様々な生き方が認められていいわけであるから、不平等な状態があるというのであれば、それは解決した方がよいだろう」
ということである。
一方で、
「まぁそれはそうだけれども、昨今、少子高齢化とか、外交問題とかたくさん「大変だー大変だー」と言われているわけだが、そういった状態でなお、LGBT支援の必要性も語られるということは、まぁまぁ日本もまだまだ余裕があるってことだな」
とも思うわけである。いいことだが。
――とかって、皮肉っぽくなるから、あれだ、さっきの外連味じゃないが、「少子高齢化対策とかにお金使ったとしても、焼け石に水なんで、むしろ新しい動きとしてのLGBT支援を打ち出した方が、それ関連の運動とか保障とかビジネスとか人の「動き」が発生するから、経済的にも良い方向につながるぜ」って言説がもっとあった方がうまくいくんだろうなぁと思う。
だからだ。ああ、この小見出し長くなりすぎだけれども、とあるお笑い芸人氏も言っていたようだが、「政治家の失言をあげつらってないで、『子供を産まないと生産性がない』って意見に対して、子供を産まない俺(私)がいることで日本にこんなにメリットになってるんだぜとか前向きのこと言ってみろってんだ」という風にも思う。
生産性のない人間は死ね――なんて、なんともディストピアであるが、しかし、生物繁殖的な低次元において、子供を産まないとその種族は滅びるのは間違いない。その低次元において、その発言は何ら間違っていないのである。失言政治家も、別に日本を滅ぼそうとか、自分の既得権益を守ろうとだけ思っているわけではないはずだ。日本をよくしたいという思いが根底にあるはずだ。そこに歩み寄らずに、人格批判ばっかりしているのは、それこそ「人権(かっこわらい)」侵害だ。
すぐさま書いておくが、失言を許容すべきだという意味でもなければ、何か貢献しない人間は死ねといっているわけでもない。伝わるだろうか。わからない、最近人にどう思われているかもあまり気にならなくなってくるし、興味がわかない。ちゃんと伝えようという気持ちも薄くなり、できるだけ黙っていようとか思ってしまう。よくない傾向だ。
実存重視は変わらない
ああああ、くだらないことを書いた。上のようなことは、正直、僕の中でものすごく優先度が低い。
低いけれども、ただ、表現規制問題については、これは実存問題に直結するから、めんどくせーが戦う必要があると思っている。軍(でもいいし政府でもいいし何でもいいが)が検閲したものしか出版できないとか、最悪の世界だ。そういった最悪な存在も含めて、神のような善き存在も含めて、カオスなのが人間なのである。ここは譲れない。
まぁその頑固な信条のせいで、どっちかというと「人間嫌い」という表現をときたま使ってしまうけれども、でもでも、良いひとだってたくさん(?)会ってきたし、人に助けてもらったことだってたくさん(?)あるし、好きな人たちはたくさん(?)いるのである。
まぁその……、肉体的はともかく、精神的にリアル系で助けられた記憶はそんなにないのが、俺が変人な所以なのかもしれん。こっぱずかしいから挙げないけれど、僕がいつも「助けられた」ということで浮かぶのは、時折このブログにコメントくださる方々と、社会人1~2年目ぐらいに出会った思考の達人である。
まぁその、そういった普通じゃない遍歴があるから、「SNSやらなんちゃらで、昨今の若者は現実的な付き合いを軽視している」とか「まっとうじゃない表現は規制すべきだ」みたいな意見が生理的に受け入れられないのだろう。ま、もうそもそも若者じゃあないけどね(かっこわらい)。
ちょっと役に立つかもコーナー
忘れてた。唐突に入れる。「挙って」(こぞって)と読む。残らず、みんな、という意味。
「琳瑯」(りんろう)と読む。美しい玉(宝石)や詩文のこと。「徐に立ち上がった男の青い目は、琳瑯のごとく輝いている」とかって使う、たぶん。
というか、役に立つコーナーといいつつ、なんかこれなんて読む漢字コーナーみたいになってきたな。しかし他に思いつかないからもうしばらく続けよう。
来週
来週は、ちょっと忙しそうである。時間というか、精神時間的に。要は、イベントごとというか、普段と違うこと(普段と違う人と会う)をする必要があるのだ。ある程度うまくやる自信は、もういい歳した大人(仮)なので、あるのだが、しかし、精神的な消費は避けようがないのである。それが「成長だよ」とか、リア充コミュ充たちは言うだろうが、しかし、結果と、それに対しての「努力」は、見えにくいということは、みな想像力に逞しくなって頂きたい限りである。まぁ期待なんてしていないのだが。
だが、まぁそんな気が重い話とは別に、某方が、50万超の作品を完結させ、プレ公開してくれる可能性があることを示唆された。これは楽しみである。
感想や批評の書き方講座について書こうという記事を書いて、実際途中まで書いているが、そっちも止まってしまっているが、最終的には、感想や批評をポイントを押さえて全力で書くということは、自分の読解力や創作力にも繋がるのだという方向にもっていきたい。
特に、全力で書かれた作品には、激辛批評として全力で当たりたいと思う。
特になんかその、おべんちゃらというかお世辞というか、そういうのは求められてないと思う。そもそもそういったの苦手である。
全力出せるってのは、大人になっていくと、なかなかそういった場面がなかったりする。
まぁその、常に全力だったら力尽きてしまうのだが、たまには自分の力を目いっぱい使うってのも必要だろう。
――と、なんかさも、大きなことをできるような風に書いてしまったが、まぁいい、そういった気構えというか、ウォーミングアップである。創作するのも大変だが本気で作品にあたるというのもまた割と大変である。
(かっこ書きである。うーん、なんか、今回はゼロ秒思考ではない部分も多々あり、書くのに結構疲れた。思ったのだが、外出し、帰路において、「よし、今日も終わった。帰ったらあれやって、これやって……」と思いいざ家にかえると、「ぐでー」ってしてしまうのは、家に帰ってきてからやることが、無意識部分で結構あるのだからだと思った。家の玄関に立つ。鍵を出す。鍵を開ける。家に入る。鍵を置く。靴を脱ぐ。コートを脱ぐ。スーツを脱ぐ、手を洗う、うがいをする、部屋着を着る、暖房をつける、朝布団がしきっぱなしだったら寄せる……とか。一つ一つは短い時間だが、いろいろやっているうちに、「あれやって! これやって!」と希望に満ちていた気持ちが、帰ってきた疲れもあわせって失われていくのである。本気で何か仕上げようとかいう場合は、家に帰る前に時間を作るというのが必要だろうなと思った。――全く関係ないが、MIB(メンインブラック)3をアマプラで見た。そげん期待していなかったが、面白かった。ストーリーとしてダレがなかった。一気に見れてしまった。そしてギャグ風なのに感動もさせてくれやがって……。グリフィムという異星人がいるのだが、彼の超常スキルがすごい。すごすぎて、常人(彼は人間ではないが)では精神異常まったなしだろう。要は、多次元解釈、並行世界線を同時にみることができる能力である。未来の様々な結果も、知る――ではなく視ることができるのだ。それでも、世界が帰結しようとする運命には抗えない……うーむ、やっぱり僕は時空モノが好きなんだろうか)
今日の一言「臨時の記事」「土曜日も書く」
自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。
本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。
ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。
「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
と意見が出た。
意見?
俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。
だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。
まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。
いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。
いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。
で、あるとしても――ということだ。
例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。
……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。
社会制度の維持は、「税金」である。
まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。
税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。
そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。
おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。
今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。
え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。
子供というのは素晴らしいものだろう。
自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
幸せな人生だ。
という前提があるだろう。
もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。
幸せな家庭、夫婦とその子供。
ああ、何と羨ましい法界悋気!
――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!
とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。
「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。
「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。
いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。
そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。
マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。
ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。
むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。
そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?
馬鹿げた妄想?
そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。
(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))
前書き
精神的に弱っているときは、インプットが足りていないときである。自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。
本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。
ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。
議論における後出しじゃんけんは卑怯だ
全然、自分とは関係ない(当事者)ではないのだけれども、ある会議において、事務局が、「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
と意見が出た。
意見?
俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。
だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。
まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。
いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。
最近話題のLGBTについて
その、要するに、「当事者意識」がない人に苛立つ。いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。
で、あるとしても――ということだ。
例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。
……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。
社会制度の維持は、「税金」である。
まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。
税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。
そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。
おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。
独身税制控除制度を設けるべきだ
むしろ、逆である。今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。
え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。
子供というのは素晴らしいものだろう。
自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
幸せな人生だ。
という前提があるだろう。
もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。
幸せな家庭、夫婦とその子供。
ああ、何と羨ましい法界悋気!
――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!
とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。
ちょっと役に立つかもコーナー
(唐突に入れる)「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。
「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。
マイノリティはマイノリティで尊い
累進課税制度と、限度額を設けた、社会主義的で、かつ資本主義的な制度は、現状、これを超える納得感が得られる考え方はないと思っている。いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。
そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。
マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。
ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。
むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。
そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?
馬鹿げた妄想?
そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。
(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))
今日の一言「良かった」
しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。
「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。
――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。
しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
来週は……うーむ。
再来週は……うーむ、うーむ……。
再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。
まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。
中庸だ。
インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
ただ、バランスが崩れるとよくない。
例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。
昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。
故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。
先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。
適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。
「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」
ということを感じさせることが重要だ。
いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。
というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。
ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。
今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。
三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。
どれもが大事だ。
いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。
心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。
何故か? 戦うためだ。
え、何と?? というか、何の話だよこの記事。
仕方がない。
道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。
だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。
要は「可能性」ということだと思う。
差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。
※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。
――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)
(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)
前書き
週間更新が、習慣更新になってきた。おやじギャグ。しかし、おやじギャグとは何なのか。おやじギャグとは、安直で下世話で、つまらないものを指す言葉遊びのようだ。すると、週刊が習慣だ、ってのも相当なおやじギャグな気がする。しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。
少し役に立ちそうなコーナー
「嶺渡し」(ねわたし)と読む。高い峰から吹き降ろす風。「村の北に聳える山からの嶺渡しが、厳しい冬の訪れを感じさせる」とかって使うんだと思う。「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。
――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。
今週を振り返って
今日の一言も、随分形骸的だな。「良かった」っておいそりゃなんだ。何が良かったんだ。いやそれが分かれば苦労しない。しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
来週は……うーむ。
再来週は……うーむ、うーむ……。
再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。
まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。
中庸だ。
インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
ただ、バランスが崩れるとよくない。
例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。
昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。
故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。
ストーリー作りが大事だ
だから、これからの世の中で、大事になるスキルって何だと言われたら、ストーリーを作る技術だと言える。(言えないかもしれない、もっと大事なもんがある、マーケティングやプログラミングだ、という人もいるだろう、そういう雑多なことはすべて除外した上で、差し当たり言い切らせていただく)先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。
適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。
「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」
ということを感じさせることが重要だ。
いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。
というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。
ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。
今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。
二次元と三次元のストーリー
二次元は、基本的に、絵と文字で創り出される。技術の進歩で、写真や動画も含まれるようになった。虚構、という呼称もされる。三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。
どれもが大事だ。
いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。
心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。
何故か? 戦うためだ。
え、何と?? というか、何の話だよこの記事。
続けることである
大体において、先日の記事で、「俺の記事、たまに面白いぜ」とか書いて、恥ずかしくなかったのか、いや、きっと恥ずかしくなるだろうと思いながら書いた。逆に言えば、そのときは全く恥ずかしくなかった。今すげー恥ずかしい赤面紅潮だ。仕方がない。
道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。
だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。
要は「可能性」ということだと思う。
差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。
※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。
――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)
(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)