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ネタがない(欲求について)
2019/03/16 09:08 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「ルーチン更新だ」「まったく思いつかない」

前書き

 進退窮まった。――という言葉は、前にも後ろにも進めないという状況を示すようだが、時間的意味であれば、前に進むしかない。
 その「時間」という絶対性に対して、例えば、コールドスリープ技術などは、「待った」をかけるものであって、面白いと思う。

 くそ、やる気が起きないモードである。

 どうしたもんか。

 こういうときは、「頭を白紙にしたいときのBGM」を聴くのもよいだろう。

ネタがないとかないとか言ってなかったか

 おいおい、ネタなんて、「感情」があれば、いくらでも書ける。毎日だって余裕だ、なんて前回とかに書いてなかったか。

 おっし、こういうときはコーヒーでも淹れよう。
 ――ふぅ、旨い。

 やる気は戻らず。

「期待」されるということは、重荷でもある。

 その、ストレスチェック的なので、結婚とか、慶事と呼ばれるものであっても、ストレスは大きいものなのだという。
 要は、ストレスは、外圧である。
 んで、人間には、その外圧に抵抗する能力が備わっている。レジデンスとかいうんだっけ。違った、「レジリエンス」だった。レジデンスは住居のことだ。

ジョルジュ・バタイユ内的体験

 もはや、断片となり、記事の文章は意味をなさない。ゲシュタルト崩壊である。

 ふと、書物を手に取る。ジョルジュ・バタイユの『内的体験』P.381だ。
すべての問題はある意味ではその問題の時間割だ。それは先決すべき問いを含んでいる。――ここで(私がじぶんの人間としての個別者としての本質を示しているこの世界において)、そして今、私はなにをなすべきか(何をしなければならないか、あるいは何をするのが私の利益となるのか、またあるいは、私はどんなことをする欲望をもっているのか)という問いだ。
こうして書きながら私は諸問題の根底に触れるつもりだった。そのくせ、この仕事を自らに課しながら、私は眠り込んでしまった。
こういう答え方には、その日一日の疲れが映っていたようだ、だがそれはまた、私の世界を見る見方の忠実な似姿でもある。
かくも深いところから表現されているのは、認識の操作における私という存在の本質である。すなわち、ある種の性向が認識への欲望を妨げるということは、どうでもいいことではありえないのだ。
哲学は、もしそれが自分の限界点にまで達しようと努力するところのものであるならば、まず、哲学者という生身の人間において、一つの緊急な問題を解かねばなるまい。すなわち、この仕事(自分の限界点にまで達しようと努力する仕事)は火急のものなのか、この私にとって火急のものなのか、人間一般にとって火急のものなのか、という問題を。大多数の人間にとって哲学は火急のものではないという事実は、通常、一面ではマズ生キルコトダ(食うことだ)という点に起因し、他面、哲学をやるだけの時間が実際にあるような人々の無能ぶり(知性の欠如、浮薄な性質)に起因する。
 黙読すると、1分かからない程度だが、これ、600字程度あった。

要約(駄約)すると

 フランスの著名な哲学者さんの文章であるが、これは、いくどか書いてきている、

「身体の痛みをしてなお思考できる人を尊敬する」

 ということに関連している。
 上の引用における太字下線部分は、僕が引いたものだが、原書には、「眠りこけてしまった」ところが傍点であった。

 これが意味するところは(おそらく。すべておそらくだが)、思考、哲学という次元は、身体、生理的な次元とは切り離せないということであろう。

 18世紀のヘーゲル氏などは、弁証法ということで、世界の摂理を哲学で明らかにしようとした偉大な方である。
 しかし、「いや、別に世界とかどうでもいいし」とその少し後にキルケゴール氏は実存哲学を打ち出したのである。

 俺は、どっちかというと、「世界とかどうでもいいし」派である。
 何故そうなったのかは、よく分からない。中学生ぐらいの失恋が原因だったと言ってしまえば簡単だが、勉強や部活など、学生時代に「価値」とされるものでの挫折が原因だったともいえる。
 取り敢えずそういうことだと思っている。だが、過去の原因を、フロイト氏の精神療法のように引きずり出したところで、別に心的外傷ほどでもないので、重要ではないとも思っている。

 しかし、「自分」というものを追求したとしても、仏教的にいえば、縁起であり、諸法無我であり、確固たる自己というものはありえない。


無価値ではない

 逆にそのこと(諸法無我)は、「無価値」を示すのではない。
 確かに、絶対普遍はありえないが、そこには「関係」というのは存在する。
 関係はしている。
 ということは、相互影響は発生しているのだ。

 世界と自分。
 世界は大きいので、自分の影響は、原子における、素粒子(クォーク)を陽子や中性子に閉じ込める強い力と、それと比べると非常に小さい電磁気力との差のようである。
 しかし、原子というシステムは、強い力も、弱い力も、電磁気力も含めて、総エネルギーなのだ。

 世界に対しての自分の影響は小さかろうが、自分がなくなれば、世界はその一部を失うのだ。


 それでいいじゃないか。という考えもある。
 つまり、家族。大事な人の関係において、自分の価値を感じ続ける方法。
 それが充足できれば、趣味のコミュニティでも、会社でも、社会でも、広げていってもいい。

 広げる、という言葉を使ったが、その、認められたいという欲求、承認欲求ともいうが、それが、家族の範囲では収まらない人もいる。社会や、国など、大きなところで発揮しなければ満足できない人もいる。

 人、それぞれの欲求範囲がある。

 先日かいつか、分からないが前に書いたのは、人の根源は欲求であるということだ。
 その欲求の多寡で、人の生活が決まる。



(かっこ書きである。引用除けば、1600字程度の記事だ。短いな。やる気の低下が原因だ。しかし、ルーチン更新はよい試みだった。そういえば、3月までという期限があった気がする。だが、更新しよう。ええと、いや、取り敢えず目標達成だ! おめでとう、自分! あ、違った、「3月30日(土)まで」と書いてあった。自分で決めたルールは、守らなければならない。「がちがち過ぎない?」「そんなんで疲れない?」とか周囲から言われることはあるが、違うんだ。そういう問題じゃないんだ。逆に、ルールは、俺に生きる希望を与えてくれるのだ。桎梏ではないのだ。最近、仕事面では、ますます期待されたり、褒められたりすることが多くなった。喜ばしいことだと思うか? 否。いや――「だめなやつ」と言われるのは非常に落ち込むわけであるが、かといって、褒められたところで嬉しいのではなく、「ああ、よかった」程度なのだ。プラスではなく、ようやくゼロになったかのような。人の評価を気にしすぎている? ああ、そうだろう。しかし、「気にしない気にしない」と念じたところで、そんなん無駄である。承認欲求ちゅうのは、どこにでも付きまとうのである。ホリエモン氏とか、高い自己肯定感をもっている人は、自由に生きているようであるが、それは、「他者がなんといおうが、俺は俺だし、認めてくれる人は認めてくれるし、生きてくぶんに資産も十分だし困らないし」という超越状態だからである。凡人から超越者を目指すという方法もあるが、果たして。投資の神様のバフェット氏のルールを自分のルールとして行動すると成功するというが、「自分が先例としてルールとしたい人」って、どこにいるんだろうか。俺が不幸なのは、その、人を尊敬するという能力の欠如かもしれない。だがこれは、学ぼうと思って学べるものでもない。探さなければいけない。探して見つからなければ、自分がなるしかない。そのためのルールでもある。――ってあれだな、いつものごとく、かっこ書きになると筆が進むようになってくる。多分、このカッコ書きと本文とでは、文章量は逆転するかもしれないがかかった時間は半分程度だろう。誰かを、尊敬する、か。この尊敬というのはキーワードかもしれない。メンターとか。まぁそういう人がいた方が逆に絶対楽だよな。楽……か。なんか、楽したい、というのも感覚として合わないんだよな。楽、というよりかは、充足したい。それ、表現として違うのか? 分からない、が、違うとは思う。うーむ……目がかゆい……ってこのやる気のなさは、もしや花粉症のせいなのかもしれない。となると、「生理的な云々」という今回の記事と珍しく関連して、かっこ書きも終わることとなる)

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