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役に立つ文章とは
2019/03/05 10:27 | Comments(0) | 思考及び書くこと
役に立つ文章は必要か?
今日の一言「臨時の記事だ」「またスマホからだ」
◇前書き
 前回の記事は、小見出しとの間に改行を挟んでいたが、投稿すると消えてしまった。
 編集の観点からいっても、スマホは適切ではないと思う。
 さて、とある方のブログ記事を読んでいて、文章講座サロンに参加されたということである。それについて、ふと思ったことをメモしておこうと思う。
◇必要性
 個人的に、その方の文章力は卓越しているので、単純に、向上心があってすごいなと思った。よく自己啓発的な云々において、自分と異なる分野の人とか、普段付き合わない人と交流することは大事だという。そういった意味において、脳機能の普段使わない部分がワーキングバーストでレバレッジなサムシングを引き起こすことだろう。
 是非どんなことが話し合われて、どういった方向性が目指される集まりで、そこでどんな気づきや学びがあったのか、続報をお待ちしたい。ちょっと一歩離れたところからの興味津々は野次馬的で好きではないが、まぁ、単純に興味があるというのが自分の感覚のメモしておきたいことだ。
◇役に立つこと
 そこで、キーワードが「役に立つ」という言葉だった。「オタクは役に立たないことに熱中する生き物だ、だから異質な環境でやっていけるのか」(曲解・極解)と述べられていた。
 オタクって何だろうか、そもそも最近、オタクという言葉もきかなくなっている気がする、という、どーどーめぐりの疑問が一つ浮かんだが、まずもって、オタクは役に立たないことに興味を持つ、という定義をしておこう。
 一方で、そのサロンでは、「うける」文章とは、役に立つ文章であるとされているということだ。
 役に立つ、という次元は、二つあると思う。
 実用的な面と、精神的な面。または、物質的な面と精神的な面。もしくは、お金がもうかるという面と、心が満たされる面、と表現してもいいと思う。
 おそらく、そのサロンでは、文章を書くことでお金を稼いで生きていこうと、そういう人たちの集まりなのではないか。で、お金を稼ぐという面での役に立つというのは、上の二元論においては、前者である。
◇お金の価値
 ここで少しわき道にそれて、お金を稼ぐというか、お金という存在自体を考えてみる。教科書的な、価値の尺度です、的なことではなくて、もう少し自分に引きつけて考えてみる必要がある。
 現実問題、お金は、物品取得のためのツールである。そして、物品、生活必需品がなければ、僕らは数日と生きていくことができない。だから、お金を稼ぐ。
 反面、実はお金を使うというのも難しいことである。一ヶ月10万円しかなければ、余剰のお金を捻出するのは難しいだろう。その次元においては、お金は、生活必需品レベルの存在だ。
 しかし、一ヶ月20万、30万ならば、どうだろう。まぁ初月は、贅沢なお肉を食べて使い切ってしまうかもしれないが、しばらくしたら余るだろう。
 そこですぐに、高級車や、高級マンションに住みかえれば、使い切ることは当然可能だが、じゃあ、例えを100万ないし200万にするだけだし、そういう意味ではない。とにかく、お金が余ったとしよう。
 投資する、というのが一つお金の使い道で考えられる。しかし、投資にも積極的な投資とそうでないものがあると思っていて、ある意味で、経済循環の中の投票行為である、という考えが僕は好きである。まぁ実際、株式は、上場された時点で企業に入るお金は決まっていて、いくら株価があがったところでその企業にお金が入るわけではない。もちろん、株主のために株価向上をうたうのだろうが、どこまでモチベーションになるのかは、勉強不足で分からない。
 話が少しそれた。要は、余剰で経済は実は回っているのである。本当に、生活必需品レベルでのお金の量は超えている。もちろんその、どのレベルを最低レベルとするか、というのはある。昔は諦めていた病気も、現代医療で治せるという場合もあるだろう。「昔は対処しようがなかった病気なので、死にました」というのはただの医療過誤とされるだろう。
◇投票活動
 話がそれるので、小見出しを変えて方向転換を試みる。つまり、僕らは、極度の貧困でなければ、余剰資金がある、ということだ。そこをまず認める必要がある。
 いやいや、生活が苦しいんだ、かつかつだ、という人もいるだろう。恐らく、現実が見えていないとか、もっと大変な人はいるとか、批判が大きくなると思われる。落ち着いて欲しい。
 そもそも、投資とか、貯金とか、それは余剰なのだ。
 本当にその日ぐらしでなければ、限界ぎりぎりレベルではない。もちろん、全く余剰がなければ、将来の不安で満足な精神状態を保てないだろうが、まぁそんな議論をしたいのではなくて、おまえ等全員恵まれているんだぜ、と、まずは認めてみよう、という試行である。
◇投票
 文章を書いてお金を稼ぎたい、そのためには役立つ文章を書くべきだ、というときの、役立つというのは、投票したくなるような文章を作り出す、ということである。
 この、投票という言葉は、商品の対価とは異なる。商品の対価、まぁ値段というのは、その物品を手に入れるために必要なお金の量である。
 対して、投資、投票というのは、「これから先」も価値に含めている。
 要するに、株式だったら、これから先もっと株価が上がるだろうと、取り引きしたらもっと大きな利益が得られるだろうと言う期待。投票は、たとえば政治なら、この政治家に投票したら、もっとよい行政をしてくれるんだろうという期待。
 期待、があると、人はお金を払いたくなる。そうでなければ、値切りたくなる。豚肉は、もっと安いスーパーがあったら、そっちで買うだろう。だが、そこでしかないもの、それ以上の価値があると感じられる物には、多少高くてもお金を払う。
 文章だったら、この人は、もっと新しい視点や、もっと新しいことや、気づかなかったことを教えてくれると思う、とか。エンターテイメントとしては、この作品は面白かった、だがきっと、この感動を超える何かも、この先うみだしてくれるんだろうという、期待。
◇後書き
 何の話だっけ……。だめだ、スマホからだと、流れがよく分からない。でも、いったん、メモしたかったことは書けたような気もする。
 書けたっけ。なんだ、その、オタクは役に立たないものを求めるのに、役に立つことだけを目指す文章って、無味無臭の、カフェインレスコーヒーみたいな奴何じゃないかって、そんな方向性を書きたかった気がする。
 この記事だと、役に立つことは必要だ、という結論に思われるかもしれない。そうじゃない。
 むしろ、オタクは役に立たない物を求める、というのが、しかし、それは、役に立つの次元の前者の、お金になる、というレベルであって、後者の役に立つというレベルもあるんじゃないか、と。うまく繋がりを書けないが、本文中で書いた、おまえ等みんな余剰的に生きてるんだぜ、ということを考えたときに、前者の役に立つと、後者の役に立つに、優劣はないんじゃないかと、思うわけである。
 だから、そのサロン的なサムシングにおいて、その役に立つが前者だけの方向性だけが追求されるものであれば、当然違和感があるんだろうし、広い意味での役に立つなら、……まぁとはいえ逆に実践的な講座にはならないかもしれないので、難しいところだろう。まぁそういう意味もあって、興味があることは間違いない。
(かっこ書きである。うーむ、論理的ではない文章になった気がする。推敲できる環境にないので、気が向いたら直すかもしれない。とりあえず、字間隔がくっつき過ぎなのはなおしたい。まぁでもその、俺は、その人の書く文章を面白いと思うのである。それは、「役に立たない」(ここではいい意味で用いているのは当然だが、しかし、面白いという自体が役に立っているともいえる)記事だろうと、魂魄揺さぶられる作品だろうが、どちらもだ。だからその、まぁなんだ、これからも、読ませてもらいたい、と思う、なんだそりゃ。とにかく、現状は言葉が出尽くしたのと、時間切れ)

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通奏低音を求めて
2019/03/04 01:06 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「定期更新だ」「最近土曜日から日曜日になっている」
◇前書き
 目が、かゆい。
 花粉症だろう。先日は風邪をひいていたから、鼻水はどちらが原因か分からない。
 とあるプライベートの問題が起きている。具体的には書かないが、恋人的な云々とは全く関係ない問題だ。自分の身体の問題でもない。まぁそれは、目がかゆいという問題があるけれども、そういう次元ではない。
 そういったバタバタ中であり、土曜日更新ができなかったのであり、これは特に問題ない。免除規定である。ただ、今は、スマホからなんとか書いて投稿できそうであるが、土日どちらも使えなかった場合は、いくら免除規定とはいえ、いかがなものか。月に4回は最低投稿するという、それを、3月中までは続けるという目標を立てているのであれば、平日だろうがくらいついていかねばなるまい。
◇特に書きたいことはない
 今回の記事は、目的先行ではなく、ルーチン先行である。要するに、特に書きたいことはないけれども、「書く」という目標ゆえに書いているのである。
 こういうときはわりかし、珍しく苦痛である。
 だから、文章を書くのが嫌いだとか、面倒だとか、苦痛だという人の気持ちも分からなくもない。
 逆に、だからこそ分かるのだけれども、書くのが面倒だというのは、「タイピングが下手」という次元を超えれば、それは、「書きたいことがないから」なのである。
 ではその、書きたいこととは何かといえば、それは、「思ったこと」「伝えたいこと」なのである。
 しかし、それらが、他の誰かに、対面的なコミュニケーションにおいて伝えることができていれば、あえて、パソコンを立ち上げて、文字を書こうなどとは思わないのである。
◇書きたくないときに書くことは逆にレア
 なので、「書きたくない」でも書く、というのは、レアである。
 たいていのブログなんかは、「これを主張したい」もしくは、「この商品をクリックしてほしい」というわけであるから、「目的」が見えている。
 逆に、目的、が見えている記事は、わかりやすいのだろうけれども、面白くない。
 ストーリーの基本的な構成は、以下のような流れだという。
(パート1導入)
・つかみを入れる
・ストーリーの設定を伝える
・立ち向かうべき問題が発生する
(パート2反応)
・発生した問題に反応する
・問題解決の糸口を見つける
・問題への対処・攻撃を開始する
(パート3攻撃)
・問題と向き合い戦う
・途中ピンチになる
・最後となる新しい情報が示される
(パート4解決)
・問題に主体的に立ち向かう
・問題を解決する
 創作者は、こうした構成に物語をあてはめることを生理的に嫌うという。わからんでもない。僕も上で書いたように、「目的」が見えている記事は面白くないと書いた。
 しかし、実際に物語を書いたことがある人は、一回でも書いたことがある人は分かるだろうが、いくら最初にすばらしいアイディアだと思った内容でも、いざ実際に書き始めていくと、書き進める困難にぶつかる。
 自分で自分の物語を面白いと思わなくなっていくこともある。
 なんども推敲しているうちに、飽きてしまうこともある。
 であれば、ある程度の形を、ストーリーの構成として、それを多くの人はプロットと呼ぶのだろうが、プロットを立ててから書き始めていった方が効率がよいだろうことは想像できる。
 だが、日記はどうか。あえて、ブログという言葉は使わなかった。
 日記は、思考のプロセスの記録である。
 パソコンではないので、マルチウインドウを使えない、辞書をひいて日記という語を調べられない。上の定義は、僕の勝手なものだ。だが、はずれてはいないと思う。
◇日記
 答えや、目的がある場合に、日記など書く必要があるだろうか。
 僕は、その点が明確になるように、昔、「ログ」という言葉を使っていた。
 ログとは、プログラムの処理を可視化できるように、処理時間と処理を行う内容とその結果をテキストファイルなどに書き出したものだ。
 これを、僕は、自分の頭の中の思考や言葉を、そのまま書き出すようなイメージとして、ログと呼んでいたのだ。ゼロ秒思考ともいう。瞬間アウトプットと呼んでもいいかもしれない。呼び方はどうでもいい。
 何故これをしていたかというと、とにかく、不快な状況だったからだ、と一言でいうなら済んでしまう。
 人生、いろいろある。
 そのいろいろは、その人たちそれぞれにおいて違っていて、そしてその感じ方も違う。
 無限大に問題はあふれているのだ。
 しかし、混乱さなかにいると、その問題を問題として認識することも困難になる。
 だから、その問題を可視化するために、ログ等作業が必要になるのだ。
 だから、幸せまっただなかで、不満も何もないような人は、こういった作業は必要ないだろう。
◇生きる意味というのは普遍である
 僕は、個々個別の問題を取り上げて、その対処を考えるということを、このブログにおいて託していない。だから、抽象的な表現になり、読む人は面白くないだろうと思う。
 一般論的なことを読んでも、人は面白いと思わない。
 しかしあえて、僕はそのつまらないことをする。
 恐らく、僕の問題自体も、10代のころとは、変わってきていることが分かる。
 要するに、異性の、女の子から好きになってもらえるのかという、恋愛の問題。感情的な次元では、その頃の方が、よほど精神的には堪えていたのだろうけれども、今思うに、それほど重大な問題には思えない。
 しかしその頃も、生殖によって生物は子孫を残していくのに、自分は異性に認められることがなく、そんな自分は生きている価値はあるのだろうか、といった、現状でも考えていそうなことも思っていたのだ。
 うん? どうなんだ? いま、すごく違和感があった。そんなこと思っているのだろうか? 当時も思っていたのだろうか?
 むしろ、当時は、好きになった女の子がいて、でもその子は他の人のことを好きで、諦めなければいけない、と。しかし、自分の中に生じるその人を好きになったと、大事にしたいという思いが満たされないならば、自分という存在は何か価値があるのかと、そういった感じだったような。子孫がどうこうということではなかった気がする。
 ……というように、もはや、よく分からないのである。
 昔のログでも引き出してくれば、その片鱗は感じられるかもしれない。しかし、それは実際問題、単なる記録に過ぎない。あれだ、物語と同じなのだ。自分のことであるのに、小説やアニメをみるのと同じ程度の感覚なのだ。しかも、自分のつたない文章力によるものだから、もっというなれば、小説やアニメにすら劣る感情再現率かもしれない。
◇物語の重要性
 物語と現実は別だ。
 だが、現実をつくっているのは物語だ、というトートロジー的なことを、上手に表現したい。分かってくれる人はいるだろうか。
 物、というのは、もう疑う余地もなく、現実に存在している。それがないとか、そういうことではない。しかし、物に意志はない。何か行動するのは、人間に固有の性質だ。
 筋肉を躍動させることだけが行動ではない。
 何か頭の中で考えることだって、行動の一つだ。
 行動するための源泉となるのが、物語なのだ。
 イヤ違うよ、労働契約だよ。就業規則に従って会社に行くのだよ、というのは、それはそれで事実だが、しかし、会社に所属しているのは、それは、自ら選び取った(もしくは与えられた)自分の物語なのだ。
 僕は、あまりにもつらいときに、ゲーム的人生という考えを試みていた。
 つまり、「自分」というのに拘るからつらいのであって、そうじゃなくて、「自分」という名前の存在は、ゲームのプレイヤーなのだと。
 人生というのは、壮大なゲームであって、それを演じているのだと。つらいとか苦しいとか言うのも、そういった仕様、というか、演出なのだと。
 この試みは、成功したのか、失敗だったのか。
 分からないが、まぁ、こんな感覚も悪くないと思う。
 人生の意味、といったときに、「人生なんてのは、壮大な暇つぶしなのだ」という言説も、一定数支持があるようだ。
◇後書き
 何やら、取りとめがなくなった、いつもか。
 まぁその、3000字は超えたから、とにかく投稿はしよう。
 ああ、ばたばたとしていて、結局12時を超えてしまったか。
 そうだな。
 しかし、人はいずれ死ぬ。
 何度も書いてきたフレーズだが、しかしやはり、死ぬよなぁと思う。
 そうした中、自分が生きているというのは、なんとも奇跡的なことだよなとも思うし、長く生きている人たちは、それだけで、まぁまぁ、よくやってきたもんだなぁとも思う。
 歩きたばこをするような奴は死んでしまえと思うわけだが、まぁそれでも、
生きてるってすごい、ああ、表現が小学生並みだが、仕方がない。
 ああ、違う、そうじゃない、最後になって思い出した。
 ニーチェという人がだな、「何故」を知る人は、その殆どの「どうやって」に耐えられる、というようなことを述べていたということだそうな。
 今僕は、生きているだけですごいんだから、別に生きる意味なんて考える必要はないんだよな、って方向で締めくくろうとしたけれども、そもそも、この記事のどこかに書こうと思っていたのは、そうはいっても、「何故」はやはり重要なのだ、ということであった。
 この、書いている瞬間の感情。思考。これは本当に移ろいやすいのである。
「自分」なんて、固定的に書いてしまうが、さも、首尾一貫同じことを考えたり書いていますよと、そういった風体で書いているけれども、全然そんなことないのである。
 この曖昧性を、人の脳の性質は許容しがたいのであるが、いやそれは、自然に対する生存戦略として正しいのであるが、複雑化した社会、高度専門化した社会とか言われるけれども、その曖昧のままに認めるというか、受容することが重要だと思う。
 しかし、それはあまりにもカオスすぎて、人間としては耐え難い苦痛を与えるものなのであるが、だからこそ、生きる意味を徹底して考えることによって、そのカオスの中にも、通底する思想というものを見いだすことはできないのかと、そう思うわけである。
 もっと具体的に書けば、今僕は、30代であるが、これが、過去の10代や、20代、そしてその先の40代や50代といった先にも当てはまるような、根源的な思想というのを、見いだしたいということなのだ。
 更に、これから何が起こるか全く予想もつかないわけである。
 だから、個別具体的に何か対処を考えたところで、それがその先も使えるようなものとは分からないのだ。
 そうしたこともふまえた、何が起ころうとも、いついかなる時代も、自分の身体状態や思考状態がどうあっても、通底するような思想。それを探すことを、生きる意味を徹底して考えると、今は呼びたい。
 遠大、曖昧模糊で、砂上の楼閣のようである。
 だが、役に立つことだとは思わなかろうか。
 そんなことは無理だし、無駄だと、誰しも思うことだろう。
 しかし、もし実現できたら? それが例え自己満足だったとしても、その思想によって、客観的に幻想だとしても、自己が充足されたら?
 悪いことではないと思う。
(かっこ書きである。スマホ投稿で、5000字を超えようとしているのは、きっと初めてだろう。まぁ、エレコム製のBluetoothキーボードを使っているから、厳密にスマホ投稿ではないのだが、やはりデスクトップとは全然感覚が違った。まぁ、キーボードの打ちやすさは、まぁまぁよかったと思う。何が大きく違うかというと、コピペのしやすさと、前に書いた文書の読み返しやすさである。推敲という作業は全く持ってむいていない。メモ、には十分な気はする。なんだっけ、名前が出てこないが、キングジムの、メモだけできる電子機器。あれ使ってみようかと思ったが、たぶん、スマホとほぼ同じ使い勝手になる気がする。ディスプレイの大きさと、持ち運びやすさのちょうどいい感じが難しい。そういう意味で、大画面でゲームしてみたいというのはあったけれど、いざ大画面、40型とかでやってみると、すげー疲れることが分かった。やはり、21型ぐらいがちょうどいいきがする。なんの話だ。とにかくだ、最近ここ数年のことで書いておいた方がいいのは、積極的に死にたいということは思わなくなったということだ。0代や10代のころは、割と死にたいと思っていた。今生きているから、死にたい詐欺になってしまったが、結構本気であった。本気で試みて、いやでも、死んだ後もそれはそれで苦しいかもしれないという思考が働き、恐怖と、しかし現実もつらいし、とで、非常に困っていた。それを「生きづらい」と表現していた。今は、まぁ、この先の異動でどうなるか全然分からないが、まぁまぁ、なんとかはなるだろうと思っている。こんな俺でも、できることはいくつかはあるのだなという自負が芽生えたのと、まぁ仮に職を失うことになったとしても、5年くらいは最低限の生活を維持できそうな資産があるというのもある。まぁこれは物価など経済状態でどうにでもなってしまうが、それでも、しばらくは大丈夫な気がする。それと、これまで、くっそ苛つくことだとか、死にたいくらいイヤなことなどもあったし、それに比べたら、今後起こることって、それ以上なんだろうか、という楽観的な考え。こういうことを書くと、マジでそういう目にあったりするという、マーフィーの法則的なのがあるので、あえて書かないようにしていたけれども、今の精神状態というか、問題の渦中というか、まぁもう書いてしまえという気がしている。まぁ、何とかなる。この何とかというのは、くっそダメな状況も含めて、何とかなるのである。そう、たとえばこういうこと、「何とかなる」というのは、通底して使えそうな思想の一つだ。こういったのを、なんか、もっと、固めていきたいなと、そんなことを深夜に思う)

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はてなブログに移行しようかと思ってやめた
2019/02/27 19:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「臨時の記事だ」「初心は忘れてはならない」

前書き

 眠れない夜に書く記事。
 体調が良くないのもあり、少し早めに寝たら、午前3時に起きた。そして眠れないので、こういうときはせっかくなので、書こう。

 ふと、イヌジン氏という方のブログを見つけた。

幸せの、ありか。
「書くこと」なんて、手段でしかない。

 面白かった。そうそう、(上から目線をいつものごとく承知で書けば)こういうブログ氏を求めていたのである。
 中々こういった面白い語り口で面白いことを(続けて)書き綴っている人に出会えないものだが、これはブクマ決定だな。

 先日、面白そうだけど、ちょっと惜しいな、というのは、1行目で大体わかる、と書いたけれども、やっぱり、「分かる」。
 で、2、3記事読んでみれば、確信へと変わるもんだなと、そう思った。

はてなブログ面白そうだ

 そいで、はてなブログというものを、僕も登録したことはあるけれども、やっぱり、ブックマーク機能というのは面白いなと思った。
 広い意味でのきっと「トラックバック」的な機能があるんだと思う。

 僕は今、上のように「リンク」を貼ったわけだけれども、トラックバックは、「強制的に相互リンク」的な感じだ。要は相手の記事にも、自分が関連する記事を書いたことが通知されるのだ。
 この機能によって、関連した人の輪が広がっていく、そんな感じ。

 イヌジン氏は結婚されており、お子さんもいて、40代ぐらいということで、自分とは全然環境が違うけれども、でも、(上から目線(以下ry))「参考になる」気がするのである。

 だったら、そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていくというのも、僕の欲求ベースで面白そうだな、と、そう思ったのである。

でもやめた、という記事

 でも、ある機能というか、内容を見て、僕はやっぱりやめようと思った。

 コメントだ。

 上にあげた二つの記事ではないが、「バズッた」(いっぱいブックマークとかイイネされている)記事において、「つまらないコメント」がたくさんついていたのを見て、僕は、今のこの忍者ブログでいいなと思った。

 もちろん、機能的に忍者ブログだってコメントぐらいはあるので、同じような、「つまらないコメント」が大量になることだってありえるだろう。

 だから、要は、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」ということをやめようと思った、ということだ。


 面白そうな試みだ。
 いま、未来(ここ数年だろう)に不安要素を感じて身の振り方を考えている僕にとって、一つ、「楽しいと思える場づくり」に寄与するんじゃないかと、思った。

 でも、それは、きっと眠れない夜の、寝ぼけた考えなのである。

 忍者ブログは忍者ブログ的に、お忍びでよいのだ。


 批判コメントを恐れている気持ちの小さい人間だって?

 うん、それはそうだと思う。
 ただ、それだけじゃない。そもそも、「マイナー」である人間だってことは、先日――いつだっけなぁの記事から、もう認めていいんじゃないかと、いくつか書いていた気がする。
 多くの人に共感的なことを、僕はたぶん書けないんだろうから、多くの人に読まれるようになれば、批判的なコメントも多くなるだろうことは分かっているのである。

 だが、そんなことの確認をするために、わざわざ多くの人に読んでもらう必要があるのか。

 僕は今はないと思っている。

 40代になれば変わるかもしれない。それは分からない、普遍ではなかろう。
 でも今は、ない。

「現実」との輪郭

 むしろ、だからこそ、良い。

 そうだ、僕が「書く」ことを必要としているのは、「あるべき人間像」的なサムシングと、僕の「自己」との境界を明確にする必要があるからなのだ。

 このブログを読んだ人たちは、おそらく、僕のことを変人だと疑わないだろうが、自分で言うと嘘くさいが、でも、「社会的」には、意外とまともに思われているのである。これは、自尊でも傲慢でもないし、そのことが嬉しいかといわれると、別にそうでもない。当然だ、誰しも「自己」として生きたいし、生きるべきだ。


 でもそれは、ある意味、「意識的に」やっていることである。――もちろん、この意識的というのは、毎回毎秒考えて行動しているという意味ではない。
 それと、ある精神科医氏のブログでも述べられていて、僕もそう思うが、道徳、様式、マナーなんてものはくだらないが、しかし、それすら一定の基準を満たせない人は損をする、ということだ。――ここで、「くだらない」と書いたが、当然「価値」はあるのであって、でも僕の本心的なサムシングにおいては、「くだらない」という表現が適切だと思ったから、そう書いただけだ。だが、「バズった」状態になると、そういう一つ一つの表現に対しての不快感を抑えられなくて、攻撃的になる人が必ずいる。これはインターネットだけでなく、現実でも当然そうであり、だからこそ、マナー的なのが大事なのだ。

 という、上の段落のような感覚が僕にはあるので、だからブログ(書くこと)が必要なのである。
 上の段落のようなことは、真綿で首を絞められるようにじわじわと、でも確実に心が蝕まれていく。自己が侵食されていくようである。エヴァの使途の精神攻撃的な奴だ。


 まぁだから結論として、このまま現状維持しますよ、という記事となる。
 ただ、「そうした人たちとの繋がりを、このインターネットという世界で広げていく」というのも悪いことではないと思っているので、それはそれで、カクヨムとかNOTEとか、別の方向で模索していくとしよう。



(かっこ書きである。イヌジン氏の記事、ほとんど関係ないやん、という記事になった。いや、書かれて述べられていることは、もちろん100%ではないが、納得したり感心したりを多くしたのである。ただ、それは特に、僕が書こうという気にはならないだけだ。コメントってそういう性質かもしれない。つまり、「違う」と思ったことを人は書きたいと思うということだ。ただ、僕はそれとはちょっと違う。「違う」ことはとても多くあるので、いちいち目くじらを立てたくならない。むしろ「共感」したことを書きたい。これには表現が難しいところがあって、以前とある友人との会話の中で、「会話に共感しか求めてないなんてつまらねえな」と友人がおっしゃっていたが、僕はそれに「いや、大半の人は共感を欲しているはずだ」といって議論になった。そこで僕がいった「共感」と、僕が前に書いた「共感」は違うのだ。難しい。分かりづらい。カタルシス、という意味ではないのだ。いや、その意味もあるんだろうけれども、「そう! そうだよ! だからね、僕はこう思うんだ」的な感じなのである(あいまい)。ああ、そんなことを書いていて少し思った。未来が不安だなぁと書いたのは、それが、当然新しいプロジェクトだということはあるが、まぁそれは今までもそうだったし、まぁそんなものだろうなという気もするが、それだけじゃなくて、「多くの人を説得する必要がある」という内容が多く含まれている、ということが気を病んでいる面がある。僕は新しく資料なりツールなりフローなり作ることは好きであり、それを説明したり使ってもらったりするのも好きである。ただそれは、人の「欲求」がある程度方向づけられている場合においてである。興味のない人に興味をもたせるとか、反対意見の人を説得するとかは、好きじゃないのである。反対意見というのがそもそも大嫌いだ。反対するんじゃなくて、「じゃあどうすべきか」をもってもらいたい。原発も、辺野古移設も反対したほうがいいのかもしれない(すぐさま書いておけば、僕はそれらを述べるだけの知識も見解もない)。だが、事実、そうした「問題」「課題」は発生しているのだから、単に「反対」しただけでは、問題等は何も解決しないはずなのだ。もちろん、既得権益的なサムシングにおいて、実はその問題自体がねつ造された可能性を疑い続ける必要は大事だが、それはそれで、そういった「指摘」でなければいけない。――ということは、まぁみんなきっと分かっているんだろう。本当に感情的に「反対」する人なんて、実は少数なんじゃないかっても思う。野党が与党に対して攻勢を強めているのに支持率が下がらないことで攻めあぐねているといったニュースをみたが、そりゃあ、野党側が明確な代案を示していないからじゃあなかろうか。やれ責任だ、辞めろ、とかしか言ってない気がする(ニュース的な印象だけだ。きっとちゃんと調べれば、いいことたくさん言ってるんだろうと思う。だが、問題はそこじゃなくて、要は、多くのお忙しい方々は、政治のそういったなんちゃらに時間を十分に避けないということである。だからこそ、そこでこそ、マスメディアがしっかり頑張らなくてはいけなくて、それは、偏向報道せよということではなくて、問題の本質と、それに関する解決策が与党側はこうしようとしていて、野党側はこうしようとしていて、それぞれの支持母体はこういう人たちで、それぞれの案を採用した時のメリットはこうで、デメリットはこうあって――ということの整理である。そういった整理をもとに、国民が判断していく、それが間接民主政治(ちょっと使い方違うだろう)だ。当たり前のことだと思う。まぁもっとも、今の書いたことはきれいごとであって、森羅万象全部整理なんかしきれないし、そこに偏向的な何かが含まれる可能性だって永遠に否定できない。だからこそ、いずれは絶対に「信頼」という概念が立ち現れてくる。であるからにして、その「信頼」を崩すようなこと(例えば統計の不正)は許されない、ということは分かる。そういう意味で、批判はいったんはすべきであるが、要は「行動」であって、どう改善すべきかという点だ――って、かっこ書きの方が長くなる場合があるのは、これは何故なのか)

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ストーリーの6つのコア要素
2019/02/24 21:39 | Comments(0) | 創作について
今日の一言「定期更新だ」「土曜日じゃなかったの?」

前書き

 なんか、いいこと書いてありそうなブログさんを見つけても、それが、「どこが君の意見で、どこが引用なんだい?」というのが、一行目で分からないと、ちょっと残念感が漂う。
 あと、文字が、ブラウザの100%拡大率で、12ポンド? 以上ないと、見づらい。あと、文字の間隔が、せめて、0.5文字分ぐらいは空いていて欲しい。もしくは、適切な段落分けをして欲しい。

 と、他者のブログにケチをつけられるほどのことを書けるわけでもないが、大事なことだと思う。いや、字間が詰まっていても、1画面に収まるぐらいなら「読もう」という気持ちにもなるんだけどね。


 あーその、なんだ、あと、やっぱり、ブログという形態をもつならば、その人はどんな人なのかという前情報(バックストーリー)は欲しい。それは、もちろん、男女という別がどうこうという属性的なことではない。そのブログがもつ「テーマ性」に関連する情報は必要だということだ。
 例えば、「婚活」のブログだとしたときに、それは、男の書き手なのか、女なのかは重要情報だ。一方、アウトドアに関するブログだったら、男女はさほど重要ではない。逆に、「女性がアウトドアを始める際の注意点!」とかって内容なら、書き手がどっちだろうかというのはやや重要性がある――が、さほど重要ではあるまい。女性に対してのエクササイズのコーチが、男性であっても構わないように。


 さて、今回の記事だが、前回の臨時記事を受けて少し何か書こうかと思う。
 前回の記事は、ぼく個人的な「転機」が訪れそうな予感、前触れ的な奴と、体調がすこぶるよくないということであった。

音読目標達成

『工学的ストーリー創作入門』の音読が終わった。約314ページ。
 時間にして、5時間13分47秒。

 後半は、喉を傷めながらでつらかったが、何とか、当初目標の2月中というのは達成だ。ぱちぱち、拍手。

 ちょうど、2月1日の記事から開始したことが分かる。
 なんかいいね、こういう使い方をすると、「ブログを活用している」感があってよい。

 当初は2月末まで、というところだったので、予定より4日ぐらいは早く終わったことになる。
 振り返ると、やはり、前半はハイペースで、後半のモチベーションの下がり具合が厳しかった。平日はやはり10分~1時間使えたらよいほうだった。メインは土日で進めたが、土日が使えない場合もあって、「間に合わんじゃないか」と思ったりもしたが、今週で頑張れた。


 音読は、脳の使用部位も多く活性化しやすく、かつ録音されたものを通勤通学で聞き返すこともでき、かつ目に見える勉強した時間が記録されるという良いことが多い。あと、誰にでも簡単に取り組めるし、難しい問題を考えて結局ノートが白紙とか、暗記した割に次の日にたくさん忘れていてモチベーションが下がったりとかいったこともないので、非常に有効な手段だ。付加要素として、意識すれば発声練習や、プレゼン力向上にもなる。ダイエットにもなるかもしれない。

 デメリットは、家で、一人でいるときしかできないことと、意外に体力と喉を使うことだ。誰にでも簡単にできるが、長時間やるとなると、ある程度慣れが必要だ。初めのうちは5分といわずに、1分でもいいから、毎日実践するようにして、体を慣れさせるといい。

 そして、今回の記事は、一冊読み終えて、どれだけアウトプットできるか試してみようと思う。

6つのコア要素

 まず、ストーリーとは何か。ストーリーと、物語は同義だ。
 物語とは何か。人生もまた、一つの大きな物語といえるけれども、ここでは、フィクションのこと、創作物のことに限定しようか。

 前掲書は、その物語を作るにあたって大切なことが6つある――そういう本である。


 僕のサイトでも、感想や批評をするときに、6つの要素を指標にしている。これは、その作品の要素のバランスを考えるうえで役立つからだ。
 僕のサイトでは、
・ストーリー
・人物描写
・キャラクター
・風景描写
・ウィット
・感動
・リアリティ
 を指標にしている――あれやべぇ、6つじゃなくて7つだった(にがわらい)。

 対して『工学的ストーリー創作入門』においては、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
・シーンの展開
・文体
 の6つである。

 言葉が異なっているが、一致している部分もあるので少し整理する。エクセルであれば、表にしたいところだが、文章ですまない。

【本】――【俺】
・コンセプト ――感動・リアリティ
・人物    ――人物描写・キャラクター
・テーマ   ――ウィット
・構成    ――ストーリー・リアリティ
・シーンの展開――ストーリー
・文体    ――人物描写・風景描写

 こんな感じだ。つまり、重複しているが、一応、網羅性はある状態。

 まず、僕が反省すべきは、「ストーリー」という言葉を、僕は、「構成」という意味で使っていたことである。「物語の流れ」という意味で使っていた。
 一方で、前掲書では、ストーリーはあくまで、物語全体を示す用語としてあって、構成は別に「構成」という表現をしている。

 さらに特筆すべきは、「構成」をさらに、「シーンの展開」として階層化している点である。
 いわゆる、「起承転結」というのは、あくまで「構成」レベル――「プロット」「骨格」ともいわれる段階――であり、それはあくまで建造物の「設計図」状態だ。
 その設計図から、実際の建物を資材を用いて建てていくのが、「シーン」であり、「文体」だということだ。

パンツァー(いきなり書く人)はダメ

 終始一貫して述べられているのは、パンツァーという、戦車かと思ったが、「勢いで書いちゃう人」のことをそういうとのことだが、それはよくないということであった。
 しかしすぐさま書いておけば、絶対ダメというわけでもなければ、プロでその方法で書いている人もいるということだ。

 ただ、パンツァーは熟練工の失われし技術のようであり、素人がやろうとしても、まず物語は完成しないのだということだ。理由はいろいろ述べられていて、僕は納得した。

 対して、パンツァーでないやり方とは、6つの要素をしっかりと考えたうえで書き始める方法だということだ。
 その、6つがないままに書き始めてはいけない。そうすると、途中で大幅に書き直す羽目になったり、そもそも完結に至らなくなったりするということだ。界隈でいわれるエターナルってやつになるのだ。

 もう少し具体的に書けば、6つのうち、
・コンセプト
・人物
・テーマ
・構成
 これははっきりさせておいた方がいいということだった。
 僕はさらに、「テーマ」は少し優先度を下げてもいいかなと思った。というのは、「売れる」作品には確かに「テーマ」は必要だろうが、趣味的要素が高い場合――と書くと失言を免れないが、要は「俺が書きたい物語を書きたいのだ」という目的を第一主眼にする場合は、あえてテーマを優先させなくてもいいだろうと思ったからだ。逆にその、「俺が表現したいんだ!」という思いがそのままテーマかもしれない。

 それではさっそく、その要素一つずつについて、書いてあったことと僕が思ったことを書いていきたい……といった時点で、すでに3000字に到達しようとしており、やや疲れてきた。

 まぁそのなんだ、今書いてきたことは、ほぼ一か月前に読んだ冒頭の方の内容で、すでに忘却の彼方かと思っていたが、意外に覚えていることは分かった。これが音読(かつ、リーディング(ウォークマンでの流し聞き))の効果だともいえる。そんな、「覚えるぞっ!!」という意気込みなくて、仕事から帰ってきてイヤイヤ、「あーめんどくせー」と思いながらやっても、半分寝ながら聞いていたとしても、ある程度残るものがあるのである。この、モチベーションに反した効果があるという意味で、音読は中々いい方法なのだ。見て、聞いて、書いて、発声して、と、インプットもアウトプットも総動員することが大事なのだ。――と、本の内容よりも音読の効果をうたっている記事になってしまった。


(かっこ書きである。役に立つかもコーナーはお休みした。ストーリーは、コンセプト、人物、テーマ、構成、シーン展開、文体、の6つの要素で出来上がっている、ということがお役立ちポイントとしておこう。まぁその、アウトラインをきめてから書くということを毛嫌いする人も多いだろう。創作なのに形式ばっていいのか! と。かくいう僕も、このブログを、起承転結しっかり型に当てはめて書きなさい、その方が多くの方に読んでもらえて成功しますよ、と言われたら、「うっせーばーかばーか」と低脳になるだろう。ただ、知識として知っておいて損はないと思ったし、自由に書きつつ、その理想形に近づけていくことを念頭においてもいいかもしれない。何より、編集者的な人たちがどういった基準をもっているのか知ることは、出版を目指すにあたって重要であることは間違いなかろう。編集者という仕事が、いったいどういった評価がなされているか僕は知る由はないが、しかし、「仕事」とするのであれば、必ず「効率」が付きまとう。僕は、「効率を追求する」という言葉に生理的嫌悪があるが、しかし、本当の意味での効率は当然追求すべきだと思う。表面的な知識や技術を継承しただけで現場業務を回して、人員削減しようという方策は、短期的には効率的だろうが、リスクに弱い。それは本当の効率化なのだろうか。効率と「ゆとり」は、両輪として重要だと思う。まぁその、ゆとりと「さぼり」の境界もあいまいだし、難しい。そう、難しいのだ。難しいからこそ、「6つの要素」とか、まずは基準が必要だ。その基準がつまらないものと思うかもしれない。その感覚は重要だ。だが、つまらないから、「なくてもいい」ものではない。つまらないと思ったら、別の軸――仮説を立てなければならない。それは結構労力だ、だが、同時に楽しいことでもある。楽しいと思えない人は、前例の基準を、ひたむきに守ろうとするだろう。それはそれで、ある程度成功する。なにせ、先人が長らく考え作り出した基準なのだから、エッセンスがつまっている。だが、だからといって、無批判に、自己の思考なくその基準を守るだけであれば、いずれ頽廃する。現状維持とは、漸近的な成長のことであるということに気づかなければいけない。――あーなんか、偉そうなこと書いたけど、カッコ書き内だから許されるはずだ(こんきょなし)。でも、なんかまさに今思いついた「現状維持とは漸近的な成長である」って言葉は、なんか自画自賛したい。けど、明日読んだら赤面する気もする。おもしろき、いとおもしろき)


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生き方を考えるということ
2019/02/22 17:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「臨時の記事だ」「体調が良くない」

前書き

 転機、というのは、しばしば運命的に降りかかるものである。
 これは、自らの行動で引き寄せるものもあれば、まったく無関係のところから湧いて出てくることもある。

 しかし何れにせよ、どちらも、自分の身に起こったことだ。

 それに対しての、反応は必ず必要になる。
 逃げるか、戦うか、情報収集するか、呆然とするか、行動は複数考えられる。
 何もしないということも含めて、行動になる。


 さて、自分に起こった転機を、どう対処するか。
 ここで、物語であれば、フックとなるようなイベントを提起するのだが、自分については、単に異動になりそうだということでしかない。

 拒否する明確な理由もなければ、進んで異動先でやりたいことがあるわけでもない。
 そういう意味では、与えられた機会だと考えて、進んで精いっぱいやるのがよいことだろうと思う。

 思う、のだが、果たして、僕は、本当にそう思っているのだろうか。

これまでを振り返って

 特に転職したこともないので、キャリアなんて言葉を使うと烏滸がましいが、これまで、新規プロジェクトを任されることが多かった。多かった、と書くとまた抽象的だから、具体的には3回だと思う。3回とはいえ、それぞれ3~4年だと考えると、まぁまぁの頻度だと思う。

 で、まぁ、一応、成功と失敗というくだらない二分で考えれば、今のところそれぞれは動いているのだから、成功と言っていいと思う。しかしすぐさま書けば、まぁまぁ、いろいろ、大変なことも多かった。――多かった、具体的に書けることは、きっと多くない。記録を探せば思い出すかもしれないが、潜在的に刻まれた「多かった」という感覚を立証する程度ではなかろう。

 でもまぁ、大変だったのだ。
 それで、次も大変だろうと思われる。

 いやここで、「大変」という抽象的な言葉は無意味であって、じゃあ、今の所属のままであれば大変じゃないか、といえば、それはそれで大変だろうし、とはいえ、今と比べたら、大変だろうというだけだ。そして、その「だろう」は、分からないから推測に過ぎない。実は大変じゃないかもしれない。今の所属のままのほうが大変かもしれない。分からない。誰も。

相談することの無意味性

 先日の、飲み会の話に関連する。
 先日は、その、イライラ度が高かったから過激な言葉になっていたが、別にそんな、人類の敵だと思うほどに飲み会が嫌ではないのだ。適度に、2か月に一回ぐらいあってもいいと思う(そりゃ少ないよ、と言われるかもしれんが、まぁ僕としてはそれぐらいでいい気がする)。

 ただ、要は、誰に相談したところで、結局、矢面に立つのは自分だという意識が強い。

 この考え方を、そもそも、心理学とか、メンタリティとか、スピリチュアルとか、行動科学とか、その他いろいろな方法では排除しようとするんだと思う。

「自分」「自分」「自分」

 ってこだわることは、百害である。
 自分を捨てて、公共の精神を身に着けることが、大人であり、素晴らしい人間であり、それがひいては自分のためでもある――それは分かっている。
 分かっているが、凡人として、悟りの境地はまだ遠い。

 その前提において、誰かに相談して、そのアドバイスが仮に大正解だったとしても、そのアドバイスを選択し、行動するのは自分だということに変わりはない。

 その正解かもしれないアドバイスを得るために、誰かとコミュニケーションをするというのは大事かもしれない。
 しかし、それは、時に、選択肢を広げるだけで、余計に惑う可能性があることは忘れてはならない。

 他人のせいにする人がいるかもしれない。そういう人は、ある意味幸せである。
 自分の責任を放棄して、相手を攻撃することに時間を使うことができるのだ。

 僕は、できない。

自分の人生は自分のものだ

 ちょっと違う、という人もいるかもしれない。
 社会のため、家族のため、子供のため、いろいろ意味はあると思う。

 必ずしも、自分の人生は、自分だけのものではないのだ。

 でも、自分のものでもあるはずだ。

 であれば、何か起こったことを他人のせいにして、自分は悪くないと殻にこもることを僕はよしとしない。
 もちろん、その「他人」を叩き潰さなければ自分がつぶされてしまうような状況であれば別だ。それは、責任の放棄などではなく、戦闘である。戦いだ。戦わなくては勝てない。逃げるが勝ちというのもあるが、それは戦略的撤退といって、ある意味での戦いだ。

 ただ、そんな戦いが発展する前に対処するのが、本来賢い生き方である。「賢い」ことが、少年漫画的には、「悪い大人」的に描かれる場合もあるが、それはミスリードである。賢いことは正しい。簡単だ、楽しいのと苦しいのはどっちがいい? 楽しいのだ。では、賢いのと愚かなのはどちらがいい? 賢いのだ。以上証明終了、だ。

 いや待ってくれ、愚かなこともある意味幸せな場合がある、と?
 そう、それは、僕がずっと書き続けていることの一つでもある。「知らなくてもいいことがある」というわけだ。それはそうだ。だが、もうまさに、目の前に迫った転機、機会、事象に対して、さぁもう知らなかったことにはできないのである。

ちょっと役に立つかもコーナー

「擬宝珠」(ぎぼし)と読む。橋や寺社の柱の上に取り付けられた、先が尖った円形の装飾。木の腐食を防ぐ役割もあるらしい。金属のケースが多い。如意宝珠を模して(擬して)作られたという。如意宝珠とは、仏教における霊験を表す珠で、意のままに願いを叶える宝という意味があるという。それ自体が信仰の対象となる。仏像が手にもっていたりする、雫みたいなやつ。Fateの聖杯みたいなやつ(というのは僕の勝手な付け加え)。

 擬宝珠の説明から離れたな。

今後について

 というわけで、この記事は、今後の自分の方策についての、感情的基盤を確立する意味になる。

 ――と書いてきたことで、大分もう、気持ちとしての整理はついた。
 不思議なことで、特に、その異動先のこととか、具体的なサムシングは別に不要なのだ。

 要は、その仕事に対して自分がどう立ち向かうかの「姿勢」の問題であり、そこで実際何をするかは、その場で、その時間で対応していくことであるのだ。逆に、今できることは、その「姿勢」の確認程度しかない。

 その、予想される仕事の内容に関する関連情報を調べるとか、そこに属していた経験のある人から情報を聞くとか、体調を整えるとか、様々やるべきことはあるが、そうした個々の行動の上に立つものが、「気持ち」だと思う。


 心とは、しなやかであったほうが、ストレス耐性が強いとされる。
 ストレスフリーな世界が望ましいとされる現代と反するが、しかし、しなやかさという表現においては、「意志」が感じられない。

 何かなそうという、強固な意志、決意。動機。

 

 本来、そういったことを、友人や家族、同僚たちと話し合うべきなんだろうか。
 しかし、しかし、しかし……。

 どうにも苦手だ。何故か。弱みをさらすようなものなのか。信頼していると口では、思考では思っていても、他者という存在を身体が拒否しているのか。過去に諸々あった事柄が、雲のように曖昧模糊としながらも、じわじわと僕の身体にまとわりついているからなのか。



(かっこ書きである。ブログのエディタに、文字数チェッカーがついていたらいいな。もしくは、ワードに貼り付けながら書いたほうがよいか。まぁどちらにせよ、強制的にアプリケーションが落ちて消えてしまうということは何度も経験済みだ。小まめなバックアップが何より大事。ところで、このかっこ書きの手前までで、約3000字である。以前、1000字ぐらいにおさめたらどうか、ということをやっていた気がするが、ちょうどいいのは3000な気がする。口頭(早め)で1分で話せるのが、400字ぐらいということなので、7~8分ぐらいだろう。これを口頭で聞いたらどうか。10分を、一方的に話されたら、たいてい人はうんざりする。会話とは、おそらく、30秒~1分程度の短い内容の応酬なのだと思う。ストップウォッチ片手に今度はかってみようかな(冗談)。一方で、文章で(3000字)書くと、これも推測だが、30分~1時間程度だと思う。ということは、口頭の方が断然情報効率は良いはずなのである。が、僕はそうは思わない。そういう面もあると思うが、文章にするにはするで、「残る」という意味が大きい。それと、口頭で言ったことって、実際問題相手に伝わっていないという可能性が大いにあるだろう。「頭の回転が速い人」とかいう表現があるが、あれは、話題となる事象についての予備知識・本知識があるからである。または類縁する内容について知っているか。もちろんそれらを瞬時にカテゴライズし、発言に結び付ける能力の速さはあるだろう。しかし、どんなに頭の良い人でも、回転が速くても、門外漢の話題にそこまでの能力は発揮できない。――というのはどうでもいいか。何だろうその、新しい環境になることに対しての不安の描写だったわけだが、上手く書ききれたのだろうか、分からない。分からないが、3000字超えたら機械的に投稿しよう。きっと何かは表現できているはずだ)

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