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外連味でも前向きさは見せるべき
2019/02/08 22:37 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「悪かった」

前書き

 前回、臨時で書いた記事において、「LGBTは認めるべきだが、公的支援の必要性まで本当にあるのか、各々が当事者意識をもって考えるべきである」と書いた。

 かなり、炎上必須の記事であったが、よかった、辺境無名の自分の適当ブログでは、天網恢恢なインターネットとはいえ、そこまで大問題にはならないようだ。

 とはいえ、一応、補足の内容を書いた方がいい気がしている。また、自分の知識も小学生並みなので、いくつかの記事を参照してみた。

公的支援の理由

 で、上の記事を読んでみて、拙い僕の理解力だと、

「LGBTは、かわいそうだから支援が必要なのではない。LGBTは、歴史的にも証明された、人間不変の在り方なのである。また、近代国家は、自由と平等が保障されねばならぬ。であるからにして、LGBTを支援するということは、基本的人権の尊重であり当たり前のことである。結婚制度等から排除されている現状は速やかに解決すべきだ」

 という読み取りをした。

 繰り返し書くが、僕は、LGBTを認めるべきだと思っているし、差別意識もない。
 さらに、表現規制問題(所謂「ザマス」)も同様に、自由と平等であるべきであって認められるべきだという理屈にも繋がると思っている。
 いやいや、有害な表現は他者を害するに当たり、LGBTは誰も傷つけないのだから全く別だ、というのは、「いや私はLGBTの存在が不快だ」という、昨今多い政治家等「失言」する方々を許容する方向性であると言え、やはりザマスは変だ、と思う。

個人信条と制度設計は違うと思う

 ただ、上の、真っ当な記事を読んで、まぁ「理解」はした気がするけれども、「納得感」はあまりなかった。
 というのは、政治は再分配だ、という理解があるからである。

 100万円の予算があって、90万円をLGBT支援にまわし、10万円を少子化対策にまわす、という政策は、やはり反対すると思う。(極端なバカげた例だ)

 むしろ、独身で寂しくて子供がいなくて可哀そうな僕ら(「ら」というか俺一人かもしれんが)に対しての支援をして頂きたい。


 というのは、半分冗談で、半分本気であるが、LGBTの人たちがガチで苦しんでいることへの想像力の欠如なんだと思う。しかし、しかしだ、想像力、としたときに、「ああ、そうか、こんな不便もあるんだ、『かわいそうだな』」という意識にしかならないと思う。
 基本的な人権として、当然認められるべきだ――という、きっと理念的に完ぺき無双なのだろうが、そうした崇高な思考には、どうやら、僕のような凡人には難しいようだ。

 なかなか紛争やら、失言やら、いじめやら様々な人間関係の負の問題が、文明が起こってから何千年もたつのに中々解決しない理由だと思う。
 システム設計上の根本的な問題が解決できていないのである。暫定対処で、その都度パッチ対応をしてきているのだ。――いやそれ自体は、先人の不断の努力であり素晴らしいことだ。

前向きな価値を提示する

 なので、「基本的人権が~」とか、きれいなことを言っていてもダメなのである。
 人間、そんなに頭がよくない。頭というか、頭だけで動いているのではない。身体的な痛みをもってして、なお哲学できる人を僕は尊敬する。

 だからだ。
「LGBT支援は、今後活気ある日本をつくりだすために必須です。日本は先進国の中でもLGBT支援が遅れていますが、今後平等を推し進めることで、住みやすい国になり、結果的に子供も増え、外国からの投資も増え、豊かな国になっていくのです」

 とかって、外連味でもいいから、「みんなのためになる」という理念を発出するべきである。

「お兄ちゃんなんだから、我慢しなさい」
 と、弟や妹に注力する親をみて、「そうだ、僕はお兄ちゃんなんだから、我慢しなきゃ」と思うことが「正しい」ことであるが、しかし、内心問題やっぱり悔しいし、寂しいものである。LGBTの人たちを支援しまーっすという言説を、「俺は関係ない」と思う人が聞けば、やっぱり「なんか損した」気分になるのである。

 卑しい人間だと思うだろう。いや実際問題、自己中心的で卑しい人間なのである。
 なのであるが、しかし、そうした汚い心性もまた、人間なのである。

 だから僕が前の記事で書きたかったことは、
「正直、LGBTの人たちの支援の必要性はよく分からない(それは、結婚や医療や子育て等様々な生活でギャップがあるという事実は知った上で)けれども、マイノリティの差別を撤廃する方向というのは支持していいと思う。人間の価値観は多様であり、様々な生き方が認められていいわけであるから、不平等な状態があるというのであれば、それは解決した方がよいだろう」
 ということである。
 一方で、
「まぁそれはそうだけれども、昨今、少子高齢化とか、外交問題とかたくさん「大変だー大変だー」と言われているわけだが、そういった状態でなお、LGBT支援の必要性も語られるということは、まぁまぁ日本もまだまだ余裕があるってことだな」
 とも思うわけである。いいことだが。
 ――とかって、皮肉っぽくなるから、あれだ、さっきの外連味じゃないが、「少子高齢化対策とかにお金使ったとしても、焼け石に水なんで、むしろ新しい動きとしてのLGBT支援を打ち出した方が、それ関連の運動とか保障とかビジネスとか人の「動き」が発生するから、経済的にも良い方向につながるぜ」って言説がもっとあった方がうまくいくんだろうなぁと思う。


 だからだ。ああ、この小見出し長くなりすぎだけれども、とあるお笑い芸人氏も言っていたようだが、「政治家の失言をあげつらってないで、『子供を産まないと生産性がない』って意見に対して、子供を産まない俺(私)がいることで日本にこんなにメリットになってるんだぜとか前向きのこと言ってみろってんだ」という風にも思う。

 生産性のない人間は死ね――なんて、なんともディストピアであるが、しかし、生物繁殖的な低次元において、子供を産まないとその種族は滅びるのは間違いない。その低次元において、その発言は何ら間違っていないのである。失言政治家も、別に日本を滅ぼそうとか、自分の既得権益を守ろうとだけ思っているわけではないはずだ。日本をよくしたいという思いが根底にあるはずだ。そこに歩み寄らずに、人格批判ばっかりしているのは、それこそ「人権(かっこわらい)」侵害だ。

 すぐさま書いておくが、失言を許容すべきだという意味でもなければ、何か貢献しない人間は死ねといっているわけでもない。伝わるだろうか。わからない、最近人にどう思われているかもあまり気にならなくなってくるし、興味がわかない。ちゃんと伝えようという気持ちも薄くなり、できるだけ黙っていようとか思ってしまう。よくない傾向だ。

実存重視は変わらない

 ああああ、くだらないことを書いた。
 上のようなことは、正直、僕の中でものすごく優先度が低い。
 低いけれども、ただ、表現規制問題については、これは実存問題に直結するから、めんどくせーが戦う必要があると思っている。軍(でもいいし政府でもいいし何でもいいが)が検閲したものしか出版できないとか、最悪の世界だ。そういった最悪な存在も含めて、神のような善き存在も含めて、カオスなのが人間なのである。ここは譲れない。

 まぁその頑固な信条のせいで、どっちかというと「人間嫌い」という表現をときたま使ってしまうけれども、でもでも、良いひとだってたくさん(?)会ってきたし、人に助けてもらったことだってたくさん(?)あるし、好きな人たちはたくさん(?)いるのである。
 まぁその……、肉体的はともかく、精神的にリアル系で助けられた記憶はそんなにないのが、俺が変人な所以なのかもしれん。こっぱずかしいから挙げないけれど、僕がいつも「助けられた」ということで浮かぶのは、時折このブログにコメントくださる方々と、社会人1~2年目ぐらいに出会った思考の達人である。
 まぁその、そういった普通じゃない遍歴があるから、「SNSやらなんちゃらで、昨今の若者は現実的な付き合いを軽視している」とか「まっとうじゃない表現は規制すべきだ」みたいな意見が生理的に受け入れられないのだろう。ま、もうそもそも若者じゃあないけどね(かっこわらい)。

ちょっと役に立つかもコーナー

 忘れてた。唐突に入れる。

「挙って」(こぞって)と読む。残らず、みんな、という意味。

「琳瑯」(りんろう)と読む。美しい玉(宝石)や詩文のこと。「徐に立ち上がった男の青い目は、琳瑯のごとく輝いている」とかって使う、たぶん。

 というか、役に立つコーナーといいつつ、なんかこれなんて読む漢字コーナーみたいになってきたな。しかし他に思いつかないからもうしばらく続けよう。

来週

 来週は、ちょっと忙しそうである。時間というか、精神時間的に。要は、イベントごとというか、普段と違うこと(普段と違う人と会う)をする必要があるのだ。
 ある程度うまくやる自信は、もういい歳した大人(仮)なので、あるのだが、しかし、精神的な消費は避けようがないのである。それが「成長だよ」とか、リア充コミュ充たちは言うだろうが、しかし、結果と、それに対しての「努力」は、見えにくいということは、みな想像力に逞しくなって頂きたい限りである。まぁ期待なんてしていないのだが。


 だが、まぁそんな気が重い話とは別に、某方が、50万超の作品を完結させ、プレ公開してくれる可能性があることを示唆された。これは楽しみである。

 感想や批評の書き方講座について書こうという記事を書いて、実際途中まで書いているが、そっちも止まってしまっているが、最終的には、感想や批評をポイントを押さえて全力で書くということは、自分の読解力や創作力にも繋がるのだという方向にもっていきたい。

 特に、全力で書かれた作品には、激辛批評として全力で当たりたいと思う。
 特になんかその、おべんちゃらというかお世辞というか、そういうのは求められてないと思う。そもそもそういったの苦手である。

 全力出せるってのは、大人になっていくと、なかなかそういった場面がなかったりする。
 まぁその、常に全力だったら力尽きてしまうのだが、たまには自分の力を目いっぱい使うってのも必要だろう。
 ――と、なんかさも、大きなことをできるような風に書いてしまったが、まぁいい、そういった気構えというか、ウォーミングアップである。創作するのも大変だが本気で作品にあたるというのもまた割と大変である。


(かっこ書きである。うーん、なんか、今回はゼロ秒思考ではない部分も多々あり、書くのに結構疲れた。思ったのだが、外出し、帰路において、「よし、今日も終わった。帰ったらあれやって、これやって……」と思いいざ家にかえると、「ぐでー」ってしてしまうのは、家に帰ってきてからやることが、無意識部分で結構あるのだからだと思った。家の玄関に立つ。鍵を出す。鍵を開ける。家に入る。鍵を置く。靴を脱ぐ。コートを脱ぐ。スーツを脱ぐ、手を洗う、うがいをする、部屋着を着る、暖房をつける、朝布団がしきっぱなしだったら寄せる……とか。一つ一つは短い時間だが、いろいろやっているうちに、「あれやって! これやって!」と希望に満ちていた気持ちが、帰ってきた疲れもあわせって失われていくのである。本気で何か仕上げようとかいう場合は、家に帰る前に時間を作るというのが必要だろうなと思った。――全く関係ないが、MIB(メンインブラック)3をアマプラで見た。そげん期待していなかったが、面白かった。ストーリーとしてダレがなかった。一気に見れてしまった。そしてギャグ風なのに感動もさせてくれやがって……。グリフィムという異星人がいるのだが、彼の超常スキルがすごい。すごすぎて、常人(彼は人間ではないが)では精神異常まったなしだろう。要は、多次元解釈、並行世界線を同時にみることができる能力である。未来の様々な結果も、知る――ではなく視ることができるのだ。それでも、世界が帰結しようとする運命には抗えない……うーむ、やっぱり僕は時空モノが好きなんだろうか)

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後出しじゃんけんに苛立つ
2019/02/05 21:14 | Comments(0) | イライラ対処
今日の一言「臨時の記事」「土曜日も書く」

前書き

 精神的に弱っているときは、インプットが足りていないときである。

 自己啓発的な本や記事において、「人間の気力ってのは、単に減るもんじゃない。使うことで逆に増えることだってあるのだ」的な、「はぁ? 何体育会系的なこといってんの、きも」とは思わなかったが、類する「暑苦しさ」は感じたわけだけれども、まぁ言いえている部分もあることは認めざるを得ない。悔しいけれどびくんびくん。

 本当にまいっちまったときは別だろうが、何かこう精神的にきついときは、その直面する問題とは別の何かに取り組んだほうがいい。心理学用語の「昇華」的な。
「休め……」
 と心優しい人たちは言うだろうが、しかし、僕は少し疑問だったのだ。「休む」ということは、その直面する(如何ともしがたい)問題に対して、距離をとることにはなろうが、ただ厳然と、その問題は不動としてそこに在るのである。

 ここで僕は、フィジカル(身体)的なことと切り離している。あくまでメンタル(精神)的な面である。身体の疲労は、これまた如何ともしがたく、それは往々にして、精神の苦痛を凌駕する。身体的な痛みを得てなお、それでも哲学する人を僕は無条件に尊敬するだろう。

議論における後出しじゃんけんは卑怯だ

 全然、自分とは関係ない(当事者)ではないのだけれども、ある会議において、事務局が、
「こういった問題があるので、こういったルールにするのはどうでしょうか?」
 と提案したところ、
「そういった問題があるのは、既に分かっていたことなんですから、なんで最初からそういったルールにしなかったのですか」
 と意見が出た。

 意見?
 俺はそれを意見だとは思わない。もはやクレームでもなく、ただの感情の吐露だ。

 だからその問題があるんだから、こういった方法で解決しましょうか? という提案について、なんでその問題にそもそも気づかなかったんですか? って、そんな馬鹿げているのではなかろうか。
 いやまぁ、そういった問題があることに、事前に気づけなかったという落ち度を責めたいのだろう。しかし、それを言ったところでどうなるというのだ。ましてや、大勢の参加している会議の中での発言としたら、その機会時間を奪っていることに、どう責任をとるのか。


 まぁこの件は、自分は単に傍聴する立場だから、事務局側も意見者側もどっちでもなかったのだが、しかし、自分に関係ないにも関わらず、「いらっ」とした。
 ましてや、こういった意見が自分が関係する内容で発生したら、僕は冷静な対応ができるのか、疑わしい。「いやあなた、そういいますけれども、ではもともとちゃんとそういった問題があるのを貴方は分かっていたのですか? 分かっていたなら、何故それを事前に問題提起しなかったのですか? 問題解決に時間がかかってしまったことは申し訳ない面もあるかもしれませんが、貴方も当事者の一人なんですよ」――とか言ってしまうだろうか。しかし、今こうして書いてみて、「立場上」言えない場合もあるかもしれない。しかししかし、であればなおさら、対等の立場でもないにも関わらず、そんな言い方をする人の品位をやはり疑ってしまうだろう。


 いやもちろん、その「当然気づくべき」こともあるかもしれない。マニュアル化されているか、されていなくても慣習的に当たり前だとか、そういった前提があれば、非を責めるのも分からなくもない。だが、まず今回は「未来」のことであるし、そもそも「未然」であることだということだし、責めるにしても大勢の会議の場で言うべきことかというのが納得がいかん。

最近話題のLGBTについて

 その、要するに、「当事者意識」がない人に苛立つ。

 いやまぁ、その、専門分化した社会の中で、責任の境界を明らかにしておくってのは大事なことだし、その責任が守られなかったときに批判するベースがなく「約束」が果たされなければ、信頼崩壊となる。

 で、あるとしても――ということだ。


 例えばだ、あるLGBTのカップルが、役所に婚姻届けを提出し、それが受理されなかったと。
 で、それに対して、「役所は横暴だ」とかいうのは、そういう問題なのか。
 公務員の肩をもつわけではないが、ルールはルールなんだから仕方がない(――すぐさま書いておけば、ルールなんてのは所詮人間が決めた条件に過ぎない、ということはいつも書いているつもりである)。さっさと政治活動をすべきである。むしろ、一般大衆の無責任な批判(横暴だ、縦割りだ、融通がきかない)を浴びつつも、整然と現行ルールに則って受理しなかった対応は認められるべきである。

 ……ということはまぁ、どうでもいいが、要は、LGBTの婚姻を認めるべきかということを、もう少し考えてみたらどうか、ということを書いておきたい。

 社会制度の維持は、「税金」である。
 まず、ここについて、しっかり認識すべきだ。
 この話をすると、「無駄な税金の使われ方がしている!」とかいう話になるが、そういう政治的な話は僕は興味がない。それは事実なのかもしれないが、ともかく、社会制度――正確に書けば、社会保障かもしれないが、まぁとにかく、財源は税金だ。

 税金を運用するのは国だ。国の構成は国民だ。だから、「国の責任だ!」というのは、僕ら国民の責任でもある(これは詭弁かもしれない。一部の悪徳政治家の責任が100%なのかもしれない。しかし、特殊な「事件」を除けば、行政は国民の合意のもと行われているといえる)。

 そこで、婚姻をすべきメリットを考えたときに、社会保障だとか、財産相続の面が考えられるわけであるが、しかしながら、「子供を産み育てる」という家庭機能を除外しした婚姻を認めるということが、社会設計上正しいことなのか、ということを書きたいわけである。

 おおお、やばい、炎上しそうな記載だ。許してほしい、違うんだ、LGBTの人たちを攻撃する主旨ではないのである。怒りをこらえて、次の小見出しを読んでいただきたい。

独身税制控除制度を設けるべきだ

 むしろ、逆である。

 今回の記事として書きたかったのは、独身の哀れな男女たちに対する税制優遇措置をして欲しいということである。

 え、馬鹿なの? って? まぁバカなのだが、もう少し付き合ってくれ。


 子供というのは素晴らしいものだろう。
 自分の血を分けた、まだ一人では何もできない生命体。
 衰え行くだけの自分に比べて、無限の可能性に満ちている。
 子供の成長は、自分の成長なんかと比べて格段に早い。
 子供と過ごした時間は、かけがえのない思い出になっていく。
 幸せな人生だ。


 という前提があるだろう。
 もっと前提を書けば、その素晴らしい子供をもうける相手は、愛おしい恋人だ。一生幸せにすると誓って相思相愛。
 エデンや極楽浄土を体現した悦楽の上に成しえるその結果。

 幸せな家庭、夫婦とその子供。

 ああ、何と羨ましい法界悋気!


 ――という前提を立てたとき、そうした幸せを得ることができなかった哀れな独身者たちも、救われるべきではなかろうか。
 そうした哀れな人たちと、幸せな家庭をもつ人たちとが、同じ制度上で生活を営むというのは、ああ、なんと不平等な社会なのだ!!


 とかって、何となく、言いたいことが分かるだろうか。
 同時に僕は、不細工還付金とかあっていいんじゃねーかとかも思った(かっこわらい)。

ちょっと役に立つかもコーナー

(唐突に入れる)

「星霜」(せいそう)と読む。歳月・年月のこと。星は一年で巡り、霜も年ごとに積もるから、らしい。「幾星霜もかけて、ついに、俺は辿り着いたのだ!!」みたいに使う。たぶん。

「悠遠」(ゆうえん)と読む。悠久。時間や空間がはるかに遠いこと。「悠遠の中に忘れられたその刀剣は、未だその暗黒を内に持ち主を待っていた」とかって使う。たぶん。


マイノリティはマイノリティで尊い

 累進課税制度と、限度額を設けた、社会主義的で、かつ資本主義的な制度は、現状、これを超える納得感が得られる考え方はないと思っている。
 いろいろ社会制度は複雑だが、要はその「金額」多寡(と、適用される条件)の調整に過ぎない。
 配分されるべきパイ(俺、この表現あんまり好きじゃないんだが、よく使われる例えだから使うけど)の総体は変わらないのだ。

 そうしたとき、マイノリティに対しての保障って、どこまで認めるべきなのか。


 マイノリティを排除するとか、まったく次元が違う。
 先般の表現規制問題に関してもそうだが、「人から認められないような趣味」とかであっても、断然認められるべきである。
 不思議なのは、「ザマス」系の思想というのが、LGBTとか(過去には、「女性」だとか、「低所得者」だとか)マイノリティの権利は主張する一方で、「エログロは認めない!」とかいうところである(わからんよ? そう主張する人たちはかぶっているかもしれないし、全然別の勢力かもしれない。まさにこれが、政治の難しさ(代議制)であって、政治の無気力さ無関心さに繋がる)。

 ゆえに、僕は、LGBTとかも認めるべきだと思う。
 思うけれども、社会設計上で保障すべきかどうかは、別だ、ということを書きたい(というか、勝手に思う)のである。

 むしろ僕は、LGBTよりも哀れな僕らを保障して頂きたいわけである(かっこわらい)。

 そう。その「哀れさ」という定義。それがルールであって、それをみんなで決めて、合意するべきものなのだ。うまく主張できていないな、でもまぁ、いい。なんとなく自分で何を書きたかったか分かればいい。
 いやまぁ、だからね、「LGBTカップルは、子供を産み育てる可能性が少ないから、人口の再生産性に寄与しないから認められません」って主張がまかり通り始めたら、「独身でいること」というのが批判され始める可能性を少し頭を巡らせてもいいということである。「独身でいることは、その人が勝手に自分でそう決めたんでしょ? 恋愛とか婚活する努力を放棄したんでしょ? 自業自得」とかって論調が大半を占め始める可能性だってあるのだ。怖くね?

 馬鹿げた妄想?
 そうだろうよ。でも、「お金」は有限。政治(というか、今回の記事では「行政」という意味だっただろうか。まぁそこら辺の厳密さは埒外)は、有限のお金の再分配だ。


(かっこ書きである。「結局お前はLGBTに賛成なの? 反対なの?」と言われたら、「賛成」としておくよ。何故ならば、「多様性」を認めるべきだと思っているから。が、しかし、「制度」「システム」というのを考えたときに大事なのは、「持続可能性」だ。でその、最初のこの記事の動機的な「いらいら」であるが、その「当事者意識」というのも、非常に難しい概念であることも分かっている。「国民が制度を作っているのだ!」という建前はあったところで、実際問題、政治的決断を下すのは特定の人物である。僕らはそれを、「国民の総意」として受け取り、理解し、納得し、それに基づいて行動しなければならない。矛盾的な部分である。「大人って汚い!」って若者に言われちゃう部分である。でも、「多様性」の中に、誰もが普遍に「納得」することなんてのは、論理矛盾である。いまだ世界平和が実現しないのは、根源的なシステムエラーに起因するのだ。しかし、根本的な対処が誰も思いつかないので、パッチパッチで暫定対処を繰り返しだましだましやってきているのである。とかって書くと、お前も他人事のようだな、と思われるけれども、いやだから、せめても、という意味で面倒くさくても考えているのである。まずもって、「欠陥」があるということを、みな認識すべきである、問題認識しないと、そもそも解決する方向にも向かわないのだ。とはいえなぁ、難しいよなぁ。とかって書いてたら、イライラは雲散霧消した。わーい、今回の記事は大成功だ(ごく個人的に))

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到着駅は未だ見えず
2019/02/02 20:04 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「良かった」

前書き

 週間更新が、習慣更新になってきた。おやじギャグ。しかし、おやじギャグとは何なのか。おやじギャグとは、安直で下世話で、つまらないものを指す言葉遊びのようだ。すると、週刊が習慣だ、ってのも相当なおやじギャグな気がする。

 しかしまぁその、「アルミ缶の上にあるみかん」とかって、そんな現実があるんかぃってものは確かにつまらない(TPOに合っていない)と思うけれども、場に即した言葉遊びであれば、ある程度の面白さはあると思う。
 え、じゃあ、「お手洗い行ってきます」「おうおう、トイレにいっといれ」はどうか?
 つまらない。しかし、「週間が習慣になった」は、別にそんなに悪くない気もする。そもそも、ギャグとして思っていない。笑わせようという意図はない。そうか何か? 動機がなければ、悪いことしてもいいってアレなんか? いやそういうわけじゃ……とか、どうでもいいことをつい書いてしまう。前書きである。

少し役に立ちそうなコーナー

「嶺渡し」(ねわたし)と読む。高い峰から吹き降ろす風。「村の北に聳える山からの嶺渡しが、厳しい冬の訪れを感じさせる」とかって使うんだと思う。

「瑞風」(みずかぜ)と読む。みずみずしい風。喜ばしい風。同名の特急列車がある模様。「ずいふう」と読むと、能楽で天性の理想的な風体を示すという。

 ――なんか、あれだ、その文脈ぶっちぎって、情報だけ詰め込むってのが違和感がある。
 しかし、それも仕方がないか。そもそも、自分の記事は、しょっちゅう話題が変わって統一感ないし。

今週を振り返って

 今日の一言も、随分形骸的だな。「良かった」っておいそりゃなんだ。何が良かったんだ。いやそれが分かれば苦労しない。
 しかし、仕事のストレスは割かし少なめだった気がする。
 来週は……うーむ。
 再来週は……うーむ、うーむ……。
 再来週は特にイベント(仕事・私事)が多くてやっかいだなぁ。

 まぁしかし、「良かった」理由を挙げれば、少し「インプット」に生活を割り振りできそうな気がしたことである。
 ちなみに、軽々に「インプット」「アウトプット」という用語を独自に使っているけれども、例えば、小説を書くというのは、どちらに当たるのだろうか。当たると、僕は思っているのか。その場合は、インプットアウトプットという言葉ではなく、「生産」という言葉がピンとくる。ゲームするのは「消費」という認識である。――すぐさま書いておかねばならぬのは、「消費」も悪いことではない。

 中庸だ。
 インプットもアウトプットも両面が大事だし、生産も消費も双方が大事だ。
 ただ、バランスが崩れるとよくない。


 例えば、「仕事」は、通常、「生産」であるはずなのだが、しかし、「無生産的」であると思ってしまうことが多くある。わからずやを説得することなど。しかし、物事の進め方において、「納得感」をもってやってもらうことは大事だし、「調整ごと」というのも仕事の大事なことの一つだ。
 しかし、「調整」自体は、生産的には僕は思えない。調整の先にある行為が生産なのだ。
 だから、大きな意味において、広い範囲においては、調整を含めてその仕事は「生産」なのだろうけれども、しかし、しかし、しかし。

 昨今の若いもんは生意気だ、という言説もあるのだろうけれども、「成長感」がない行為は苦痛である。
 いや、書類の紙をめくる単純作業だって、成長間は十分に感じられるはずだ。そのめくるスピードの向上は、自分の能力として獲得できることだ。紙をめくることの意味はここでは度外視だ。

 故にその「成長感」というのは、己で見定めるというか、定義していかねばならない。

ストーリー作りが大事だ

 だから、これからの世の中で、大事になるスキルって何だと言われたら、ストーリーを作る技術だと言える。(言えないかもしれない、もっと大事なもんがある、マーケティングやプログラミングだ、という人もいるだろう、そういう雑多なことはすべて除外した上で、差し当たり言い切らせていただく)

 先の、「納得感」というのも、ストーリーを共感させるということが必要となる。

 適当なことを書くが、「恋愛」だって同じだ。

「俺と付き合うと、こんな生活が待ってるよ」

 ということを感じさせることが重要だ。
 いや、それを「口」でいうと、「うぜえナルシス男」となってしまう。それは、なんとなくそんな雰囲気をつくりださなければいけない。


 というわけで、「ストーリー作り」といっても、二次元媒体の場合と、三次元媒体(己の身体)とで、分けて考える必要があるだろう。

 ここで、浅慮であれば、「ああ、どうせ三次元媒体の方が大事で、会得するのも難しいんでしょ」となるだろうが、そういうつまらないことを僕は今までも、これからも書きたくはない。

 今回の記事の中でも書いてきただろう、インプットもアウトプットも大事だ、中庸だ、バランスだと。――ああ、それ自体つまらない考えなのだけれども、しかし、納得感は強いので仕方がない。

二次元と三次元のストーリー

 二次元は、基本的に、絵と文字で創り出される。技術の進歩で、写真や動画も含まれるようになった。虚構、という呼称もされる。

 三次元は、基本的に、己の心身で創り出される。変えがたきルックスや、声の抑揚・高低、身振りしぐさ筋肉など。


 どれもが大事だ。

 いくら緻密な正論であっても、大きな声で威圧されてしまうこともあるかもしれない、許されない、間違っていることは間違っていると主張せねばなるまい。そのとき、病弱で見るからに怯懦であれば、間違いなく舐められる。

 心も、体も、思考も、感情も、すべてバランスよく鍛えていかなければいけない。


 何故か? 戦うためだ。

 え、何と?? というか、何の話だよこの記事。

続けることである

 大体において、先日の記事で、「俺の記事、たまに面白いぜ」とか書いて、恥ずかしくなかったのか、いや、きっと恥ずかしくなるだろうと思いながら書いた。逆に言えば、そのときは全く恥ずかしくなかった。今すげー恥ずかしい赤面紅潮だ。

 仕方がない。

 道半ばである。まだ到着駅がみえない。いやそもそも、線路通ってない。あぜ道だ。オフロードだ。

 だから、こういうときは、勉強するしかないのである。
 俺は、高校生、ないしは、中学生ぐらいから、「何で生きてんだろう……(肯定的な意味でこういった問いを持つ人は少なくないが、一方俺は否定的な意味だった)」と思っていた。そんときの対処方法は、とりあえず勉強する(進学する)程度のものだった。いやまぁそれで東大などに入れたらそれはそれでかっこいいと思うが、――実際、東大生の人が「やりたいことがわかんなかったのでとりあえず東大はいりました」的なことを言っているのを聞いて「くそぉぉ」と思ったりしたが(笑)、しかし、方法としては流石と思う。

 要は「可能性」ということだと思う。
 差別的な言葉遣いと知りつつも分かりやすく書けば、底辺大学よりも東大の方が選べる人生の幅は広いのではなかろうか。いやこれは、底辺大学よりも高卒のほうが実は良い暮らしなんだぜ、とか、そういう学歴どうこうの意味で書いていない――のだけれども、早とちりな「ザマス」系の人たちはきっと差別的にとらえることだろう。そういうバカげた自体になる可能性が思い浮かぶので、「ザマス」(表現規制派)は許容できないのである(※)。


※しかし、確かにこれは難しい問題であって、誰かを傷つける目的は俺は一切ないのだけれども、その「一切ない」ことが証明できないばかりか、実際に傷ついた結果に陥った人がいた場合どう責任がとれるのか、ということを言われ始めると、「はいろんぱー」的になりそうである。そうは思ってもなお、やはり表現規制の動きは反対なのだ、これは単なる意固地なのか。かっこいい言葉を使えば、信念なのか。いやいやそれとも、「俺もいじめられたり、嫌な思いたくさんしてきたし」という被害者意識――というか、報復精神なのか。


 ――と、長くなってきたな案の定。今日はここまでだ。(続けることを目的にした場合、全力を出し尽くさない方がいい場合がある。120%出して力尽きるより、70%ぐらいの力で、数か月、数年と続けられた方が、トータル成果は高い)


(かっこ書きである。面白い記事を書きたい。というか、昨年、11月ぐらいからめっきり更新が少なくなっていた気がする。で、その間も、「書こうと思えばできるけれど、やる気が起きないな」みたいに思っていた気がする。「うちの子は、やればできる子なんです!」みたいな。それって逆に、「今できていない」という証明ともいえる。ゴウタマ・シッダールタ氏も言っている。「今ナウが大事なんだぜ」と。――まぁしかし、やはり、長年続けてきた甲斐があってか、週間更新程度であれば、このぐらいの文量ならそれほど苦労なく書けることは分かった。誰かの役に立つのかとか、そもそも自分のためになるのかとか、そういうことは今は見ざる聞かざる言わざるだ。だが、それでもやはり、どっちかというと、役に立ったほうがいいし、面白いほうがいい。どうしたら面白くなるんだろう。いや、ベストセラー作品を生み出すとかいうことではなくて、この苦労レベルにおいて、よりよくするにはどうしたらよいのか、という、妥協的思考である。ただ、しかし、そうはいっても、一ついえることは、「ゼロよきゃ、絶対書いてた方がいい」というのは、僕は納得レベルで思う。皆さん(何処を向いている)、10年前の自分が、どんな状況で、どんなことを考えていたかって、覚えていますか? 「え、10年前か、ああ、あのときはな……」と自分語りが始められる人はいいけれども、僕の凡人記憶装置では、正直全然分からない。分からない中で、読み返したりすると、――ああ、この過去の思考に触れた時の感覚は、ちょっと表現が難しい。要するに「へー」っという感覚なんだけれども、俺はこれが結構大事なものだと思うのである。何故かというのは上手く表現できないが、きっとおそらく、人間が、時間的存在だからじゃあないかと思う)

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インプットが足りないのである
2019/02/01 20:56 | Comments(0) | ポジティブ思考
今日の一言「ルーチンとは別に書く」

前書き

 土曜日更新とは別の記事である。それはそれとして書く。
 今回、思ったことを書く。

 何故「思った」かというと、自分のブログの音読を聞いていて、だ。

 そんなことやってるのか、と。中二病でなくても、痛い人じゃないかと。まぁ、大半の人はそう思うだろう。そんな変態なことをしているのはきっと、70億の人類のうち、1000人もいないんじゃないか。

 だが、音読は有用なのである。
 何故なら、疲れていて、眠くて、やる気がないときでも、「聞く」ことは割かしできる(身を入れて「聴く」のは難しくとも)。
「読む」のは難しい。


面白くないことも多いけれども

 恥ずかしいこと書くぜ?
 書いちまうぜ。
 あのな、俺のブログ、たまに面白いよ。

 全部とは到底素直に全く思えない。が、たまに「おっ」と思うことが書かれている。

 膨大な過去記事を「読もう」とは思わないが、いくつか、音読をした記事が携帯音楽プレーヤーに入っていて、眠くてボケーっとした頭の状態で、電車の中で聞いていた。
 そしたら、「ほう……、ほうほう、ほほーぅ」となった。

 2017年ごろの、いつの記事かは、ほんとにボケっと流していただけだから分からなくなってしまったが、とにかく、面白かったのである。


 なんだか最近、全般的にやる気が起こらない状況だった。
 帰ってきてからも、気力が起こらない。気力が起こらないときは、呆然とゲームをしたりする。呆然とネットサーフィンしたり。

 ゲームも、ネットサーフィンも、僕は「ザマス」ではないから、全然OK良い趣味だ思っているが、「呆然と」は失礼に思っている。「真剣に」やりたいものである。

 まぁ、正直今も、家に帰ってきて、「疲れた……」という思いというか、体の重さがあるけれども、それを補うほどの精神的(気分)が回復している。


インプットを増やそう

 それで、少し思い出したのだ。
 やる気が起きないというときも、やる方法はあるのである。

「機械的に」やるといい。

 ルーチンに組み込む、というと、まぁ言葉としては簡単だから、そんなもんか、となってしまうが、もう少し具体性がある方法だ。

 僕らのような(「ら」に誰を含めたかは……)行動よりも思考が先に来てしまう人は、思考を意識的に止める必要がある。
 僕は、以前、まじめに勉強とか自己改善を図らなければならないとき、細かい時間管理をして、行動のチェックリストなんてのも作っていた。チェックリストなんて、仕事のTODOのようだが、そうではなく、単に、毎日するようなことも含むのである。
 勉強や仕事だけではない、食事やら、ゲームやら、読書やら、そういった生活の要素を落とし込むのである。
 そのうち、アヴェイアブル(笑)とか書くと中二的だが、可用時間を算出し、そのうち「本来すべきこと」にどれだけ割り当てられたかとか、睡眠時間の記録とか、まぁそんな面倒なことをやっていた。

 面倒である。今はできん。
 だが、その「要素」は使うことができる。というよりも、有用である。

 何故かというと、生活を機械化できるのだ。

 ルーチンの免除規定とか、それらもそういった生活改善作業の中で何となく感じ取っていったものの一つだ。



 何でそんな機械化が必要なのか。
「感情的」だからだ。

 疲れたやら、眠いやら、体のどこが痛いとか。
 知るか。関係ない。何がなんでもやれ。

 スパルタである。ブラック上司である。

 しかしだ、フルメタルパニックというアニメで、米軍(退役軍人?)のキャンプで修業することになった主人公に、病み上がりなのにハードなワークを課す教官に対して、主人公の知人が「無理させすぎなんじゃないか」という。
 それに対して教官は、「おう、若いの。フィジカル何ちゃら理論やらは、敵陣の中、支援も何も得られず、弾薬も尽き、怪我もして十分に動けない状況になったら、糞ほどの役に立つんか。どうしようもなく追い詰められた中で役に立つのは、己のファッキンガッツじゃ!」とかいう。

 現代において簡単には受け入れられない言ではあるが、しかし、言い当てている部分もあるだろう。
 極論だから、それを前提にシステムが設計されるのはよくないけれども、しかし、大事なことでもある。

機械的インプット方法

 音読だ。

 音読をしようと思った。今回はそういう記事である。

 音読は、機械的にインプットを図れる方法である。
 特に、新しい概念を取り入れようとか、知識を得ようという目的の時は有意義だ。何せ、「残る」のである。残ったのを、後で自分で聞くことができる。聞くのは、冒頭書いたように、少しハードルが低い。

 それで、差し当たって選んだ本は、先日購入した『工学的ストーリー創作入門』である。

 316ページほどなので、これを、一日10ページずつ取り組んでいく。基本毎日だ。
 そうすると、32日で読み終わることになる。

 2月いっぱいかかる見込みである。しかし、これはかなり厳しい計画だ。数字にすると簡単そうだが、相当厳しいというのが、前にやった『人間とは何か』のときに実感している。
 そもそも、10ページ読むのに、約10分~15分かかる。――これも、数字にすると簡単そうだが、音読をこれだけ(平日も)するのは、相当意志力がないと難しい。


社会人の勉強について

 社会人になって、何を勉強すればいいのか。

 仕事について、というのはそうだが、仕事以外では何をすべきか。

 ある人の書いた文章を読むと、「お金につながるのが正解」だとあった。
 具体的には、プログラミングと、マーケティングと、なんかと、なんかだってさ(うろ覚えすぎる)。

 しかし、何をすべきかってのは、多様だと思う。正解なんてなかろう――いや、あるんだが、その正解は、自らが選び取らなければいけないだろう。
 そもそも、勉強するって行為は、主体性がなきゃいけない。


 役に立つ、って何なのか。お金になることが役に立つことなのか。
 そうか確かに、資本主義社会において、価値の尺度はお金だ。

 しかし、お金は何のために必要なのか。生きるため――さらに、「よく」生きるためだ。安心や見栄や虚栄も含めて、幸せになるためだ。

 不思議なことだ。
 幸せを快楽と読み替えたときに、「気持ちいい状態」を作るのに、勉強という大変なことをしなければならないということだ。
 筋トレと同じだ。筋トレは、理想の肉体を得るために、筋肉を傷めつけて、「超回復」することで強くなるのだ。

 理想って何だ? 幸せってなんだ?

 おうおう、そういったすべての禅問答的な疑問をシャットアウトし、行動へと変換する装置が「機械化」対応だ。


(かっこ書きである。あー、疲れた、眠い、けど、頑張って、書いた。あと、音読もやった。ちなみに、筋トレもちゃんとやっている。「そんなこと書く意味あるのか」とか、昔の記事で言っていたが、「ある」。日常的なのも織り交ぜといた方が、後から読んだとき分かりやすくてよいし、「ああ、そこまではやってたのか」という記録の意味にもなる。その、来週、というか、今週の定期更新のネタとしては、「結婚すべきか」「子供を作るべきか」とか、そういうめんどくせえことを書こうかと思っていたのだけれど、それは流れるかもしれないな。なんだかやる気がでない……という状況が続いていたわけだが、昨日、なんだっけ、何で読んだか忘れたけれども、「眠くなるじゃん? 眠るって、意識がないってことじゃん。そうしたら、『死ぬ』って状態が、実は人間にとって最高の状態なんじゃん?」みたいなの。ハリーポッターの登場人物が、「死は何をなしてきたかの集大成」とか……ん? それはなんか心に響かないな。なんだっけか、そのしかし、死にたくないとか皆思うし、先日僕も死ぬ夢について書いて怖かったなぁって、そうなんだけど、でも、そんなに悪いもんじゃないかもしれないって考え方もいいんじゃないかなって。しかし……ああ、しかし、何を言ってるのかと、誰も分かってくれない――のは当たり前なのだが――けれども、意識の断片だけが取り残された死ぬ夢は、滅茶苦茶怖いんだよ。自然災害も、人間も怖いけれども、でも、あれほどの恐怖は、その夢以外に僕は感じたことはない。本当に、僕は「無」を望む。……だが、まぁ、その……、残された時間、もっと主体的に使っていきたい)

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不快なコンテンツの発信は許されるのか
2019/01/26 21:00 | Comments(4) | 思考及び書くこと
今日の一言「良かった」「いや逆に何があったら『悪かったなのか』」

前書き

 いいぞいいぞ、続けられている。週刊更新。
 実は、「毎日〇〇を続ける!」というのはあるけれども、週に1回とか、月に1回とか、そういった作業はあまりやったことがない(それか、記憶に残っていない)。

 土曜日に更新する、という規定が良かったのかもしれない。基本休日であるという条件と、曜日が決まっていると覚えやすいという条件によって。
 あと、「前書き」から始められるというのは心理的負担が少ない。結構いつも、最初の小見出しをどうしようか悩んでいたのである。

今週の役に立つこと

 何か役に立つことをちりばめたいと書いた。今回は、
「埒外」と「怯懦」である。

「らちがい」と「きょうだ」と読む。

 想像の埒外だ――などと、「枠から外れたこと」を指す。
 怯懦な性格だ――などと、「おくびょうできのよわいこと」を指す。

 正直に書こう。
 どちらも、意味としては分かっていた(あっていた)が、一番目は読めていたが、二番目は、「ほうじゅ」と読んでいた。お恥ずかしい。「きょうだ」と読むのか。自分の無知さに怯懦で強打。

 まぁ、埒外はともかく、「怯懦」は、言葉として知らなくても、日常生活もビジネスでも困ることはないだろう。これらは「教養」部分だと思う。

 何故勉強しなければならないのか?

 この疑問は、日本人なら誰しも抱くものだが、しかしながら途上国・後進国においては、発生しない疑問だろう。いわゆる教育が義務かどうかによるだろう。

 国は教育を受けさせる義務があり、我々は教育を受ける権利がある。
 だから、個人の主義主張感覚思考問わず、みんなが教育を受けるから、「何故?」という疑問が発生するのだ。
 教育が義務でなければ、「勉強しなくてもいいから、さっさと働け」である。

 まぁそれはそうと、何故勉強しなければならないかに対しての答えの一つとして、「教養を身に着けるため」というのがある。ただ、これは、実感に乏しい説明だろう。「何故勉強を……」などと思う人にとっては、「教養なんてなくても生きていける」と思う。

 しかし、現代においては、実用的な知識と、教養上の知識についての境界が、グレーになっているといえる(勝手に思いついただけなので、エビデンスを出せとか言われても分からない)。

 まぁ思い付きでも、理由があるから書いていけば、仕事というのが、「価値をつくる」というものであるからだ。
 経済の対象は、モノとサービスだが、どちらも、付加価値が利益となる。しかし果たして、最低限生きていくのに必要な仕事というものを想定し、それに有する知識やスキルを「実用的な知識・スキル」と定義したときに、「最低限生きていくのに必要な仕事」というのは何だろうか。

 人は水を飲んで、エネルギー源を摂取できたら生きられる。エネルギーだけじゃあ病気のリスクが高いから、じゃあ、ミネラルやビタミンも必須だとしても、「食」があればよいということになる。
 服と建物がないと寒い。衣住も必要だろう。

 んじゃあ、農業と、水道業と、アパレルと、建築業界があればいいのか。それ以外は贅沢品なのか。

 たぶん、半分正解で、半分間違い。

 定義の問題に過ぎない。
 何の?
「生きる」
 ということのだ。

 現代社会で忘れてはいけないのが、「電気」だろう。
 電気がなければ、スマホもパソコンも使えない。
 でも、本来的には、電気がなくても、人という種は生きることができるはずなのだ。

小見出し変える

 役に立たないことが大半を締め出したので小見出しを変える。

 要は、勉強というのは、個の処理能力を高めるための方法の一つである。勉強だけしててもダメだ。体もメンテナンスしとかんといかんだろう。

 んでその個の処理能力を高めるというのに、「競争」という手段が、現状は最適とされているけれども、行き過ぎた競争は破綻する。

 要は、自分との闘いである。

 A氏が100%で成し遂げたことを、B氏は50%でやってのけるかもしれない。
 絶対評価では、B氏は100点で、A氏は50点。
 相対評価では、A氏は100点で、B氏は50点。

 評価の難しいところである。
 しかし、問題はそこだけじゃなくて、評価の「対象」もそうだ。
 カオスな自然に対しての「数値化」は、あくまで人為的なものであることを認識するべきである。
 もちろん、それはとても役立つことで否定されることではないが、それが常に絶対条件ではないことに気付くべきだ。


 という、根本的に評価が非常に難しいという前提があるから、「人と比べても仕方がないよ」という励ましが有用になるのだけれども、その前提が知らない人に、「自分は自分、人は人だよ」と慰めたところで、心には響かない。
「でもだって、自分は周りと比べてあんなことも、こんなこともできないんだ……」


 ここで僕は、日和見的に、「役に立たない人なんていない。みんな、何かしらの役に立っているんだ」なんて風に思えない。

「役立たずは、役立たずだ」


 ――なんだけれども、しかし、最初の方に書いたことを思い出してほしい。
「生きる」定義ってなんなのか。

 食べて、寒くなく寝て、繁殖するだけなら、世の大半の仕事は不要だ。


 もう一つ、慰めを書けば、個人事業主以外で仕事をしていて、職場に馴染めず、自分の意義が感じられない人は、給与明細をみてみればよい。たくさん「控除」されている。税金だ。税金とは何か、国や地方公共団体に収めるお金だ。税金は、公共のサービスのために使われる。そう、あなたがいくら会社で「役立たず!」呼ばわりされていても、給料をもらっている以上は、日本社会に貢献できているのだ!!

定義

 詭弁っぽい。
 しかし、半分正解ではある。

 要は、定義の問題だ。

 いっくら公共サービスに貢献していようが、その会社の中で役立たず呼ばわりされていたら苦痛である。
 もっといえば、消費活動だって、消費税があるんだから、貢献している! と思おうと思えば、思ってもいいのだ。

 ただ、そういった(屁)理屈と、自分との感覚のギャップは問題にすべきである。

 どんなに正論でも、もっともらしい理屈でも、自分に合わないものは「間違い」なのだ。
(ここでいつも、快楽殺人犯を例に挙げたくなる。この問題が、僕は中々しっくりくる「納得感」が得られないところだ。「自分」は大事だと思うが、しかし、多種多様な「自分」を総体的に認めるということは、いったいどういう現象になるのか。――という僕の考えや感覚はともかく、現代社会においては、「切り捨てる」という手段が取られている。死刑や監獄への隔離。それは十分機能しているといえる。じゃあ恒久普遍の正解なのか? それは疑義を呈してもいいと思う)

不快なコンテンツの創造について

 では、関連して、先週書けたら書こうとしていた、
>「人を不快にするコンテンツの発信は許されるのか」

 について、考えてみたいと思う。

 いやぁ、許されるでしょ。


 と、僕は取り敢えず、創作者の端くれとして言いたいと思う。
 ただこうなると、先入観にとらわれて、うまく情報が整理できないかもしれない。しかし、上に書いてきたように、まず、「自分」を基準に考えないと、結局きれいな理屈が構築されても、「納得」できなくなる。だから、取り敢えずこのまま進めよう。

 で、その、何故許されるのか。

 創作だからだ。
 というのが、初めに思いつく理由である。

 グランド・セフト・オートというゲームがあって、オープンワールドのクライム(犯罪)アクションだ。
 現実に、市街地を200km/hで爆走したり、無辜の市民をロケットランチャーで爆殺したりしたらダメ、ゼッタイ。
 しかし、ゲームはゲームである。
 5作目は、リアルな映像と相成って、結構な没入感があるけれども、だからといって、「おーっし、現実でもセブンイレブンで強盗すっか!」とはならない。
 なる人もいる! というのが、否定派の主張だが、しかし果たして本当か。

 残虐拷問の歴史をちょいと見てみたまえ。歴史じゃなくて、今でもそういう国がある。インドのサティーという風習をご存じだろうか。現代ではさすがにないのだろうが、19世紀ぐらいまでは続いていたらしい(WIKI)。

 津山30人殺しは、20世紀の事件だ。テレビも十分に普及してなかったろうし、ましてやコンシューマ型ゲーム機やパソコンなんてない時代だ。


 残虐なゲームの有無はともかく、人間は残虐な心(も)をもっているというのが、僕の人間観である。
 もちろん、それだけじゃなかろうが、逆に、「面白い(残虐な)ゲームによって、現実の事件の抑止力になっている」とかって可能性もあるんじゃなかろうか(これも根拠薄弱だろう)。


現実と二次元

 要するに、現実と二次元は密接に関わりながら、全く異なるものだ、という、当たり前のことである。
「うるせえ!! 人の気持なんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。――螺旋のモノリス

 氏は、その差を「目的」であると書かれていた。
 前者は、故意に嫌がることをしているのに対し、後者は故意ではない(嫌がらせることを目的としていない)違いであるということだ。

 なるほどそのとおりと思う。
 しかし、氏も触れられているが、「目的(動機)の違いがあっても、人を不快にさせたという事実は事実」でもある。

 僕はこの部分に、改めて、現実と二次元は違う、ということを持ち出したいと思う。
 コンテンツの発信は、あくまでも二次元なのである。実写だろうが、文字媒体だろうが、絵だろうが、二次元という媒体は、そこに、受信者の選択制が介在する。
「いやなら見るなバーカ!」は、正当な主張なのである。

 いやまて、コンテンツ発信という手段を通じて「嫌がること」が発生したのだとしたら、それは手段の違いであって、直接手を下したのと間接的に攻撃したのとの違いで、どっちもどっちではないか。いやそういうことではない。

 例えば、18禁コンテンツを見るときに(さらっと普段から見ているような書き方になったが、そういう意味じゃないんだからね! みてるけど)、「あなたは18歳以上ですか?」とワーニングされるだろう。あれは、法律がどうこういう問題とは関係なく、非常に重要なのだ。フィルタリングなのだ。見たくない人は、みないことができるのだ。


 僕は、「歩きスマホ」と、「歩きたばこ」どっちが重罪かというと、断然、問答無用に後者だと思っている。歩きたばこは、避けようがないのだ。歩きスマホは、ちょっと避ければいいだけだ。その、「自己回避可能性」の概念は、僕は非常に大きいと思うのである。

 なので、「人が嫌がるコンテンツ」を、誰の目にも回避しようなく映るような発信の仕方は、僕も認められるべきではないと思う。

あと一つ

 しかし、もう一つの疑義を、僕は書いておきたい。
 つまり、大層な「現実」様であるが、しかし、その現実における「正しい絶対普遍の条件」というものも、また存在しないのである。――というのは、僕が諸行無常・諸法無我という考え方に近しいから、という個人思考的な問題であるのだけれども、ただ、覚えておいて良い観点の一つだとは思う。

 稚拙なたとえになるが、昨今、エスカレータで右側(関西では左側)を空けるのをやめようという方向性になっているようだ。理由、危ないから。
 僕は正直、そんな、危ないんだろうか、注意して歩けばいいんじゃないかと思ってしまうが、まぁ、それがルールになるなら別に従ってもいいかなぐらいに思う。
 つまんない、些末な例えのようだけれども、問題としては似ていて、「エスカレータを歩く」というのが「嫌だ」という人が増えたから、そういうルールになろうとしているのだろう(増えた、というのは、単純な人数ではないことは分かっている。「風潮」というか、「リスク」に対する考え方の変化も関係する)。でも、「急いでいる人のことを慮って、片方を開けておく」というのだって、大切な考え方の一つだったはずなのだ。そのマナーが生きていた頃は、聳え立つ要塞のようにエスカレータの真ん中に立つ人は「嫌な奴」だったはずなのだ。


(かっこ書きである。珍しく……もないけれども、本文が長くなったので、かっこ書きはやめておく。ただ、書いておきたいのは、「不快なコンテンツ」というのは、これは主観概念だ。僕は山椒とかの「しびれ」の味覚が不快だけれども、好きな人もいるのだろう。山椒を世界から排除せよ、という主張は成り立たない。不快なコンテンツといったところで、それが不快どころか感動する人もいるかもしれないのだ。「不快」の基準をだれが決めるのか。決められるのか。決められないなら、ゾーニングした上で認めるしかない、と思うのである。甘ちゃんかなぁ、でも、今のところそれぐらいしか思い浮かばない)

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