今日の一言「臨時の記事だ」「しかしルーチンは完了している」
いや、実際、思ったよりも周囲の方々が親切で、よいのだが、人間不信の俺としては、少々書くべきことを模索する必要があるだろう。
何って、そりゃあ、借りてきた猫のような状態でいたら、ストレスもたまるってもんである。
いや、その、気にしなきゃいいじゃない、とか、そういうくだらないアドバイスする奴はどうでもいい。
気にしてしまうから気にすることを悩んでしまうのだ。気にしない人はそもそも気にしないのである。
しかも、気にするべきである。
大いに気にするべきである。気にしたところで、避けられない事態は多々あるとはいえ、気にできる範囲では気にしまくるべきである。
疲れる。しかし、それもまた仕事のうちである。
いやいや、成果と関係ないものは仕事じゃないとか、そういう発言もどうでもいい。ああ、本当にどうでもいい。分かってる、「正論」的なのは分かっているからこうやって、無駄なことをとにかく書きたくなるのだ。
ああ、ええと、貴重なことを書こう。
ええと、支離滅裂である。
思考がまとまらないが、要は、上手くやっているが、その上手くやっている状態が非常にストレスであるということである。
というよりも、「どこまでやるべきか」という点が非常に悩ましい。
人に任せる、ということも必要ではないか。そうしたとき、自分は、どこまで手を出せばいいのか。なぞだ。
ええと、そうだな、率直にいって、数日過ごした感覚として、自分の知識・技術的に、何とか対応できそうだなという感覚である。
すげー傲慢なことを書いている。危険だ。危険ゆえに、ここに書いた。
何が危険かといえば、そういうおごった勘定というのは、すぐに他者に伝わるのである。そして、その傲慢さが実力よりも上、であれば人は特に何も思わないが、実力程度であったときに、傲慢な奴だ、と思うのである。「より」という点が強調だ。傲慢さは、実力よりも上の結果を出さなければ認められないのである。
それは逆に疲れる原因になる。
長期的に、上手くやっていくためには、今の「気にする」ことによる疲れは致し方ないのだ。
1か月、2か月、半年か。分からないが、とにかくもう少しばかり、謙虚さ全開でいくべきである、ということは書いておこう。
その勉強というのは、業務知識的な意味よりも、「風土」を学ぶことである。
その職場がどういったことが求められているのか、どういった仕事の進め方が好まれるのか、どういったコミュニケーションが必要なのか――など。
俺、一部、社交的というか、礼儀正しいとか、そういったことを言われたりもするが、まったくもって人見知りである。コミュ障である。
頑張って頑張って人並みレベルの状態を維持しているのである。
そういう「疲れること」をたくさんしていることは、他者は分からない、し、分かる必要もないと思っている。そういうもんだ。
だから、せめて、このブログ界においては、愚痴を書かせていただきたい。
難しい。
そもそも、いっつも書いているが、そんなに他者の情報に興味はないのである。
興味はないが、ある程度情報収集が必要だからやっているのだ。
そんなとき、どこまでの情報が開示していいのか、非常に判断が難しい。困ったもんである。
(かっこ書きである。おっけえええ! 分けのわからない記事になった。書きたい気分ではなかったが、とにかく、書かねばならないといった強迫観念による記事だ。とにかく、ストレスを感じているんだなぁということが伝われば合格だ。あと、なんか、他者を気にしすぎじゃない? って、多分あとで読んだりしたら思うだろう。思うだろ? が、しかし、思ってしまうんだから仕方がない、ということを抑えておく必要がある。それこそが、この記事の価値である。心理学とか自己啓発とか、役に立たないときは立たないということが分かればいい。それにしても疲れたなー。とりあえず明日いけば一旦休みだ)
前書き
遠藤である。新しい職場である。居場所はまだない。いや、実際、思ったよりも周囲の方々が親切で、よいのだが、人間不信の俺としては、少々書くべきことを模索する必要があるだろう。
進捗
あー無駄なことを書きたい。ものすごい無駄なことを書きたい。何って、そりゃあ、借りてきた猫のような状態でいたら、ストレスもたまるってもんである。
いや、その、気にしなきゃいいじゃない、とか、そういうくだらないアドバイスする奴はどうでもいい。
気にしてしまうから気にすることを悩んでしまうのだ。気にしない人はそもそも気にしないのである。
しかも、気にするべきである。
大いに気にするべきである。気にしたところで、避けられない事態は多々あるとはいえ、気にできる範囲では気にしまくるべきである。
疲れる。しかし、それもまた仕事のうちである。
いやいや、成果と関係ないものは仕事じゃないとか、そういう発言もどうでもいい。ああ、本当にどうでもいい。分かってる、「正論」的なのは分かっているからこうやって、無駄なことをとにかく書きたくなるのだ。
即戦力としての異動
新人的な時代は終わってしまったのだ。そろそろ、若手としては誰も見てくれないのだということが、人数の多い部署に異動すると分かってくるもんである。ああ、ええと、貴重なことを書こう。
ええと、支離滅裂である。
思考がまとまらないが、要は、上手くやっているが、その上手くやっている状態が非常にストレスであるということである。
というよりも、「どこまでやるべきか」という点が非常に悩ましい。
人に任せる、ということも必要ではないか。そうしたとき、自分は、どこまで手を出せばいいのか。なぞだ。
ええと、そうだな、率直にいって、数日過ごした感覚として、自分の知識・技術的に、何とか対応できそうだなという感覚である。
すげー傲慢なことを書いている。危険だ。危険ゆえに、ここに書いた。
何が危険かといえば、そういうおごった勘定というのは、すぐに他者に伝わるのである。そして、その傲慢さが実力よりも上、であれば人は特に何も思わないが、実力程度であったときに、傲慢な奴だ、と思うのである。「より」という点が強調だ。傲慢さは、実力よりも上の結果を出さなければ認められないのである。
それは逆に疲れる原因になる。
長期的に、上手くやっていくためには、今の「気にする」ことによる疲れは致し方ないのだ。
1か月、2か月、半年か。分からないが、とにかくもう少しばかり、謙虚さ全開でいくべきである、ということは書いておこう。
勉強の時期
とにかく、今は、特段緊急的な案件とか、超重要案件が任されることはないから、十分に時間を有効に使いつつ、勉強にあてるべきだ。その勉強というのは、業務知識的な意味よりも、「風土」を学ぶことである。
その職場がどういったことが求められているのか、どういった仕事の進め方が好まれるのか、どういったコミュニケーションが必要なのか――など。
俺、一部、社交的というか、礼儀正しいとか、そういったことを言われたりもするが、まったくもって人見知りである。コミュ障である。
頑張って頑張って人並みレベルの状態を維持しているのである。
そういう「疲れること」をたくさんしていることは、他者は分からない、し、分かる必要もないと思っている。そういうもんだ。
だから、せめて、このブログ界においては、愚痴を書かせていただきたい。
噂話の是非
どこまでの情報をすべきかはよく分からない。難しい。
そもそも、いっつも書いているが、そんなに他者の情報に興味はないのである。
興味はないが、ある程度情報収集が必要だからやっているのだ。
そんなとき、どこまでの情報が開示していいのか、非常に判断が難しい。困ったもんである。
(かっこ書きである。おっけえええ! 分けのわからない記事になった。書きたい気分ではなかったが、とにかく、書かねばならないといった強迫観念による記事だ。とにかく、ストレスを感じているんだなぁということが伝われば合格だ。あと、なんか、他者を気にしすぎじゃない? って、多分あとで読んだりしたら思うだろう。思うだろ? が、しかし、思ってしまうんだから仕方がない、ということを抑えておく必要がある。それこそが、この記事の価値である。心理学とか自己啓発とか、役に立たないときは立たないということが分かればいい。それにしても疲れたなー。とりあえず明日いけば一旦休みだ)
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