今日の一言「臨時の記事だ」「30分制限」
仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
前書き
くっそやる気が起きないモード継続中だ。仕事&プライベートで片付けなければいけない問題がいくつかあって、落ち着かない。
落ち着かないが、整理した。
プライベート問題も、大きく分けると2つのことだが、実際に作業ベース(タスク)に落とし込むと、実に7つもの作業があった。これは落ち着かないわけだ。この7つを、順序良くこなす必要がある。
そのうち一つが、タイトルに書いてあるネット回線の見直しである。
これ、以下の昔の記事(2017/6/21)で「検討しなきゃ~」って書いておいて、結局そのままになっていた。
格安SIMへの乗り換え
http://unfixation.gjpw.net/arrange/20170621
今回、もろもろの問題が起きたのがきっかけだが、結論として、3年で約10万円ほどのコストダウンが図られる試算となった。
そこに行き着くまでに、様々なタスクがあって、面倒という気持ちが高まる限りであるが、しかし、それによって調べて学んだこともあるし、結果として上々であると思おう。
前向きに
とでも思わないとやってられないぜ、ははは。30分制限、としたが、もう、書くべきことは見当たらない。
ああ、やる気でないなぁ、どこに行ってしまったんだ。
なんのやる気か。
そう、そう、そうだ。
やる気を探す旅をやめたくなるやる気のなさだ。分かりづらいな。
こういうときは、過去の記事を読んでみる。
――2017年3月30日の記事だ。言語、とは、記号である。無限の世界を、分類することである。モノ・コトに、延々、名前をつけていっても、終わりはない。だから、僕が、いくら、僕のことを、こうしてブログに書いていっても、100記事、1000記事、10000記事になろうが、「僕」という表現は、完結しないのである。これについて、「自分」が常に変化しているからである、とコメント頂いたわけであるが、この指摘は非常に鋭くて僕の魂魄に突き刺さった。ただし、その観点とは別に、そもそも、表現できることに限りはないのである。自分というものを正確に完璧に表現できる言語など、存在しえないのである。
面白い。
自画自賛気持ち悪い、と思われるだろうが、でも面白くなかろうか?
全部が全部面白いとは全く思わないのだが、時折、珠玉が光るのである。
書け書け書き続けろ
だから、書き続けろ。やる気が出ない時こそ、書け。こういうときの記事は逆に貴重だ。
間違いなく、異動になるだろうことが、新しい環境になるだろうことが、僕を憂鬱にさせているのだ。
とある先輩が、「栄転とか思ってるんだろうが、俺は認めないからな(意訳)」と言ってきたことも棘が引っ掛かっている。とある先輩は「俺の部下に早く戻ってきてくれよ」と言ってくれたりするし、まぁ要するに、他者の評価とか感想とか気にしていてもきりがないのだ。一喜一憂することほど時間の浪費はない。
小説の世界でもそうだ。「面白い」と言ってくれる人もいれば、「ゴミ以下」と言ってくる人もいる。
そういう時、何をジャイロスコープにすればよいのか。何を一里塚にするべきか。何を結節点とするべきか。何を依り代にするべきか。
いやぁ、「自分」しかないでしょう、と思う。
自分が、「これはくそ面白い」と思うことや、「これは正しい」と思うこと、または、「過去の自分よりも成長している」と感じること、それぐらいっしょや。
誰かを尊敬することも大事だが
先日、「尊敬する能力が必要だ」と書いたけれども、しかし、本当に尊敬されるべき人は、尊敬されることをさほど望んでいない、と勝手に思う。エセカリスマは、信者からの信仰によって、自我同一性を保っている。
しかし、本当に尊敬される人は、ある意味評価軸から自由になっている。
誰かがこういうからこうする、のではなく、「したいからする」だけだと。
そういった姿が、凡人からすれば超越してみえて、結果的に尊敬されるということにつながっているだけだ。
いやーすごいっすねぇ、さすがっすねぇえ、と、にへらにへら近寄ってくる人は胡散臭い。
褒められなれていないというのが単純に原因な気がするが、過剰に褒められても本気に思えない。
まぁ、人を評価するときは、そうじゃいけないのかもしれんが。
(かっこ書きである。つらい。疲れた。今日、絶対文章書ける状況じゃなかった。眠い。もうヤダ。――だが、書いた。偉い。褒める。自画自賛。自己満足。いやぁしかし、「文章」って、その書いている状態が一切わからない。わかる必要がない、というのもある。読み手としては、その「内容」が必要なのであって、その文章が紡がれる作者の状態なんてどうでもいいのだ。小説作品において、作者がつかれているからといって、展開がぐだぐだだったら怒るだろう。しかしちょっとタイムしてみたときに、ブログ、というのは、「作者」自身と密接に関わってしかるべきだと思う。何月何日、晴れ、といった天気はどうでもいいかもしれないが、その書いた時の状況はあった方が面白いと思う。リアルタイム性もあってよい。そう、その「晴れ」というのも、じとじとした前日に比べて気持ちがよかったが、花粉が飛んでいたせいでつらかった、という状態を示すために必要な情報なら書いてしかるべきだろう。そんなもん、誰が読むのか? 俺が読んでやるよ。実際、ぐだぐだな数年前の記事も読んでやった。いいじゃないか、悪くない、悪くないぞ。絶対こんなもん、書店のエッセイコーナーや、自己啓発本なんかじゃ読めなかろう。レアだ。希少価値だ。真面目な話、ぐだぐだしている状況の分析も重要である。ニュースやレッスン本なんかは、「正しい」ことが書かれているかもしれないが、その「正しい」にのっかれない僕ら(「ら」ってのが俺一人かもしれんが)凡人の性質ってのは、十分に考慮すべきだと思うのである。例えば、筋トレを毎日やるのはよくないと言われるが、超負荷超回復のガチ筋トレではそうだろうが、強弱の調整をつけてやっていくなど工夫のしようはある。「毎日やる」といったほうが、むしろ続けられるという人もいるのである。習慣化するというのも、人それぞれのサガによって、方法が異なることだろうと思う。眠い、そろそろ終わっていいか。しかし、まとまりが聞いてない記事の時は、どうにも、終わりが見えずに、「足りない」「足りない」という強迫観念に襲われる)
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