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つみたてNISAを検討
2019/06/15 13:45 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「先進国株式と新興国株式を合わせるか」

前書き

「よーし、今日は21時に帰ってブログ書くぞー!」

 とか書いておいて、結局23時過ぎになったり、今週も忙しかった。

 忙しかったが、2つ、大きな山を越えた。
 成功だったようだ。周囲からの感想も良かった。

 一つ言えるがあるとしたら、自分ができることは、着実に多くはなってきているのだろう。


 だからといって、終わりはないのである。
 そして、この「良かったよ」という評価が、次の週には落ちてしまう可能性だってある。
 逆に、ある程度「評価」が高くなることによって、求められることも高度になる可能性がある。

 トップに立てばそんなこと気にしなくなる?

 そんなことはない。
 民間なら株主たちにおびえ、公務員なら議員や政治家におびえ、総理大臣も世論におびえる。

「きりがねーな」
 と僕がいつも思っているのはそういうことである。
 この資本主義社会に安寧の立場も場所もないのだ。

つみたてNISAを検討する

 上の「きりのなさ」は、また別の機会に書いていこうと思う。
 先日のブログにいただいたコメントについても別途触れなければいけない、大事なことだ。


 だが、今回のルーチン更新は、時間もないことと、まさに、今書類を手に取っている状態のため、ログという意味としても、つみたてNISAについて書きたいと思う。


 つみたてNISAとは何か。

 2018年1月から始まった、非課税の投資手段である。

 投資とは何か。
 お金をとある機関へお金を預けて、分配金(配当金)を得る手段である。また、お金を預けることによって「証券」という権利が手に入る。証券を売ることによって、買ったときとの差額による利益(または損益)を得ることができる。

 ↑これというほど簡単に書いた。中学生にも分かるだろう。だから、逆に、厳密には意味が異なっているかもしれない。だが逆に、僕の理解はその程度でしかない。

 前書きの話と関係するが、僕が優れているのは、たぶん、「ものすごく単純化」することなのかもしれない。だから、周囲からも、説明が分かりやすいとか言っていただけることが少なくない。
 ――だが、それは、逆に僕が簡単なことしか理解できないからである。数学とか抽象的思考が苦手なのだ。1か、0か、しか分からないのだ。だから、プログラミングは逆にできる。ただ、クラスモジュールとか、オブジェクト指向は苦手かもしれない。ただ、オブジェクト指向というのも、パッケージ化された命令を利用することという理解をしているので、使えなくもない。
 ……1か、0か。だから、「生きる意味」なんて、抽象的なものがよく分からなくて、ずっと考え続ける必要が生じているのである。「わきにおいておいて」ということはできるが、様々な問題や課題が生じる人生において、すぐさまその根本的な問題(レーゾンデートル)が生じてくるのだ。

 閑話休題。

 つみたてNISAとは何か。

 なんか税制優遇されている投資商品である。2018年1月~2037年(12月)までの、20年間購入できる。

 あー、えーっと、思い出せない、なんだっけ、ああ、「どる・こすと・へいきんほう」だ。

 要は、決まった期間に、決まった額を定期的に購入していく方法を用いて、長期的に投資するのだそうな。
 そうすると、平均的になって何かサムシング的にリスクヘッジらしい!!!(適当)

世界はどうなるのか

 リスクヘッジ……安全、ということだが、とはいえもちろん、価値が下がり続ける商品に投資すれば、損するのは当たり前だ。

 要するに、世界は、今後よくなると考えられるかどうか、ということである。

 日本の株価(TOPIX)を見てみよう。

1968年:100
1989年:2490
2009年:800
2019年:1400

 ……おお、リーマンショック(2009年ごろ)って恐ろしかったのね。

 米国株価(ナスダック)を見てみよう。(ざっくり)

1968年:1000
1989年:2000
2009年:6500
2019年:26000

 え、すごくね(小学生並み感想)。

 ネットで急ぎで調べただけだから、見方が間違ってるのかな?
 だが、これだけ見ると、めちゃくちゃ裕福になってる気がする。

 この流れで新興国株式の指数を調べてみたが、すぐには見つからなかった。そもそも、統一的な指数が存在しないのか?

お金に興味があるわけではない

 老後2000万円必要、ということで、炎上しているようだが、ちゃんとみんな元の資料を読んでからあーだこーだ言っているのだろうか。
 大臣が実は読んでなかったとか言ってまたあーだこーだなったようだが、じゃあ他の人たちはみんな読んでいるのだろうか。

https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/tosin/20190603.html

 多分↑の資料のことだと思う。
 要するに、夫婦二人世帯の場合、65歳定年後、月5万円赤字になるから、あと30年生きるとすれば、2000万円必要だ、ということである。
(5かける12かける30だと1800万だけど……まぁそういうことだろう)

 まぁ、あーだこーだ書いてるけど、俺も1分ぐらいしか見てないけど(かっこわらい)。


 でも、これ、75歳で、月に23万円の支出をしている場合になっている。

 高くね?

 いやまぁ、高齢者になると、医療や介護やその他お金がかかることが増えるんだろうが、どうにも、今の感覚で、そんなに支出してないしな。

 ちなみに、34歳未満の支出は、26万ぐらいのようだ。

 そんなに使ってない!!

僕の支出

 おおざっぱだが、インフラで10万、食費で4万、その他1万ぐらいである。

 そのうちのインフラに、ネットも含まれているため、ほぼ娯楽は含まれる。

 もちろん、それを超える月もあるわけだが、平均しても20万いかないだろう。

 それで、なにかこう、切り詰めて苦しい生活しているとか、そういうわけじゃあない。
(ふつーに、松屋やスカイラーク系列の外食店や100円寿司旨いからな。健康に良いかは別として)

 たぶん、今回の報道などで、あーだこーだ言ってる人は、月収10万円以下の苦しい生活をしている人なんだろう。月収10万以下だと、確かに大分生活が苦しいと思う。かわいそうだ。

 だが、正直、独身の俺としては、そんな危機感を覚えるほどのことはなかった。



 なんか、昨今のニュースとか政治家とか……いや、別に昨今じゃないけど、なんかテレビや新聞の報道って、センセーショナル過ぎると思う。
 もと大阪府知事の橋本氏はこの件で、「いや、民主主義なんだから、そういう政治家選んでる国民の責任でもあるんだからね」って言っていた(らしい)。ごもっともだろう。
 ごもっともだろうし、思うに、「2000万円」って数字だけ聞いてわーわー言っても、何にもならんのではなかろうか。少なくても、わーわー言ってる人は、投票には行ってるんだよね? 投票率って50%ぐらいらしいけど。

 仕事してても思ったりイライラすることが多いが、
「じゃあ、どうすればいいの」「自分ならどうするの」
 という視点がない人が多い(気がする)。

 不満ばっかり言って、「ゆるせないぃぃぃ!!」って、許さなかったからなんなのか。

とりあえず口座を開く

 そういうわけで、2000万円でどうこうってわけでもないけれども、逆に今回のニュースなどで、つみたてNISAってものがあることを知った。(2018年1月から既に始まっていたのに、恥ずかしながら知らなかったのであるっ!)

 ので、証券口座はもっているし(リンク)、ネットで申し込みしたら、書類が来て、署名して免許証のコピーとかつけて返送すれば「つみたてNISA」口座もすぐ開けるようだ。

 逆に、ふつうのNISA口座もってなかったので、いいタイミングな気もした(ふつうのNISAか、つみたてNISAかは年度単位で選択性であるため)。


 そういう意味で、まぁ、今回のセンセーショナルさはあって良かったと思う。
 そう、世界は予定調和なのだ。無駄なものも、感情も、広い意味で(次元を変えれば)無駄ではないのだ。


(かっこ書きである。前も書いたことがあるが、「国の責任だ、国が悪い」とか言う人は多いけれども、その「国」って、税金で回ってるわけだからね。「特定の何か」への賠償をするということは、そこに税金が投入されるというわけである。例えば、教育格差をなくすため、家庭の事情で私塾に行けない子にも補助金を出しましょう、という政策があったとする。無批判に、「イイネ」するべきか、ということだ。子供の教育のため、というと、もっともらしく聞こえて、反対しづらい気がする。しかし、じゃあその補助金の財源はなんなのか、ということである。僕らの税金が1%あがってもいいのか? 消費税増税で、未だにあーだこーだ言ってたりするが、まぁそういう状況でどうなるかは明らかだろう。あと、運用コストってのもよく考えたほうがいい。でっかいシステム作ったはいいが、その運用費も莫大で、かかった費用が回収できなかったりするかもしれない。――あ、ちなみに、僕が本記事やかっこ書きで書いているのは、政治のことではない。一般的なことである。政治や宗教や野球のことは、僕は書かないのである。特定の権益集団に絡まれるのが怖いからだ。今の政治が良いとか、悪いとか言ってるのではない。「考え方」の話だ。――なるほど、そうか。僕は、自己紹介にも「自分の考えを押し付けようとする人」が嫌い、と書いていた気がするが、それに加え、「無責任に批判ばっかりする人」も嫌いなのだろう。間違ってるか、あってるか、ということも重要だが、そこまで重要ではない。信念があるかだ。「こうしたい」という強い思いがあるかどうかだ。2000万円不足する、というのは現状分析なだけである。それに対して批判しても意味がない。じゃあどうすべきか、ということが議論すべきことだろう。それに、その報告書(1分だけだけど)読めば、「こうした方がいいんじゃないの?」ということは書いてある気がするんだが)

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朝30分で書く
2019/06/10 06:43 | Comments(3) | 思考及び書くこと
今日の一言「虚しさの対処」

前書き

 書くべきといったら、仕事が憂鬱だ、ということ。
 期待されていて、人間関係も悪くないのだが、それでも憂鬱なことに変わりはない。

 土日、ほとんど家の中で過ごしたが、具体的には何もできなかったな。
 からくりサーカスを少し見進められたぐらいであった。

「やる気」

 どこかにいってしまっている。

弱い男の生きづらさ

 これも読んだ。メンヘラの男に生きる価値はない、ということである。
https://menhera.jp/7699

 いや、曲解か。
 ただ、メンヘラの女と、男では、生きづらさの質に違いがあるという主張である。

 よく分かる。
 女性の権利が主張されるようになるとともに、弱い男というカテゴリが排除されている気がする。(気がするだけだ。だが、こういう問題は証明などどうせできまい)


 ――だが、上の記事でも(当然わかっていようが)抜けているのは、「女」としても、男に愛される(性欲の対象とされる)女だけではないのである。
 これは、単に不細工だとか太っているとか、そういう次元ではなくて、総合的に、「あ、ちょっと無理です」にカテゴライズされるということだ。そういう人もいる。

 だから、「女は結局逃げ道があっていいよね」(とは書かれていないが、僕はそう読み取った)という主張は、当てはまらないということである。男だから、女だから、イケメン(女性含む)だから不細工だから、といったカテゴライズは特に意味はない。


 もっといえば、「弱い男」というカテゴリも、「じゃあ、お前のスペック全部あげてみろよ」と言われたら、たぶん俺も、弱い男カテゴリからハブられるだろう。
 いじめられたいじめられたいじめられた、と呪いのように最近書いているが、しかし、俺の受けた言動に比べて、もっとひどいことされたという体験は見聞きするところだ。


やる気さん戻ってきてくれ

 だから。
 そのため、誰かと比較して、「ああ、自分はまだ恵まれているんだ」と感じることの無意味さを感じる。
 というか、そもそも感じない。苦しい人もいるんだな、――でも俺も苦しいんだぁぁぁ! と声なき叫びをあげるだけである。

 しかし果たして。
 俺は、どうなったら、「完全無欠に超幸せ」になるのだろうか。これが分からない。

 第一、多くの人たちは、不満を感じ、苛立ちを感じながら、日々充実した生活を送っているはずである。
 自分なんて生まれてこなければよかった、なんて考えて生きている人などいないだろう。そんな人がいたら悲劇だ。


 俺は、以前に比べてたくさんを得てきた。運がよかっただけかもしれない。だが、並々ならぬ苦労の結果であると結び付けてもよい。

 だから、といって、これから先も、同じように苦労しつつ、多少の安寧を得て、それで満足して生きていけばいいというのか。

人と関わらなければよいのか

 いろいろ悩みながら書いてきたせいで、もうそろそろ時間切れである。

 人と関わらなければ幸せなのだろうか。

 何故人と関わると疲れるのか。気を遣うからである。

 気遣い。

 100%フルマックスでいくと、こんなん(このブログ)みたいになる。誰も相手にしたくなかろう。

 だから、気遣う。普通を演じる。疲れる。

 やはり、このスパイラルなのだろう。


 若いころに、フルマックスでいられた人は、ちょうどいい塩梅によって、自分の開示ができるのだろうと思う。
 そうすると、人との付き合い方にそれほどストレスはないのだろう。

 俺は、中学……から、高校、大学、社会人になっても、自己開示は十分にできなかった、といえよう。
 とすれば、小学校の体験に端を発しているといえるのか。分からないが、だとしたらやや根深い。


 いや、回りくどい。
 そう、人と話していても、「飽きた」ってなるのである。

 これはやばい。
 他人にたぶん興味がないんだろう。
 他人だから当たり前か。

 いやそうじゃない。
 問題は、興味、そう興味である。

楽しいこと

 そうなのだ。「めちゃくちゃ楽しいッ!!!」ってことが不在である。これが問題だ。
 よかった、人付き合いがどうとか、そういう問題じゃなかったのだ。

 だが、それも書かねば分からなかったことだろう。

 とにかく、文字にして、文字にして、文字にしていかなければいけない。さもないと、何時間頭の中で考えていても、悩んでいても、鬱屈していても、無駄

 アウトプットとインプットは、バランスを取らなければいけない。こんな当たり前のことも、たびたび、アウトプットとインプットをしておかないと、忘れてしまうほどの凡夫なのだから、仕方がない。


 楽しいことがない。

 これは、言葉にすると極論になるが、しかし、端的に書くと事実である。
 しかし逆を返せば、俺は、今まで、楽しいことがあったのか。

 あった。
 素晴らしい作品に触れたときなど、その感動と余韻は、代えがたい貴重な体験だ。

 他者から何か得られたことはあるか。ない。――早い。ゼロ秒思考だった、今。
 いや、極論である。他者から与えてもらったものは多い。たくさんある。
 しかし、他者と一緒に何か行って、「めちゃくちゃ感動した!!」ということはないのだ。
 ここが問題だ。

 つまり、俺がむちゃくちゃ感動した、のは、常に、「一人」であったということだ。

時間切れ

 なんか、ここで話が終わったら、ヤバい奴、でしかない。まぁ実際そうだから仕方がないのか。

 いつものごとく、少し極論的に書いている。よくよく考えると、みんなで何か一緒にやって、「やったね!」ということが、なくはなかったのか……いや、あったのかなぁ。

 じゃあ、それって、俺の努力不足なのか、とかいうと、そういうことでもない気がする。
 部活とか、やったりしたけど、いろいろ、向いてなかったんだろう。本気になれなかったからいけない、と厳しく言われるかもしれないが、逆に、本気になれることとは思えなかった、というわけでもあるのだから。

 なるほど。意図せず、なんか新たな課題、というか問題も分かったな。
 誰かと協力して無茶苦茶楽しかった経験、というのが重要なのかもしれない。

 そう、「楽しかった」「充実した」というのは、基本的に、自分の技術や知識において、誰かの役に立った場合は非常に嬉しかったりするのだ。何か作ってそれが分かりやすかったとか、便利だったとか、面白かったとか言われたりするととても嬉しいのだ。

 でもそれは、「自分で作った」からなのだ。

 ……となってくると、自己承認欲求の塊野郎なのかもしれない。メンヘラだ(かっこわらい)。
 時間切れ。

(かっこ書きである。いまさら、そういったこと(団体協力感動)が無理なのだとしたら、果たしてどうすべきか。まぁ、歳をとればとるだけ、誰しも孤独になっていくのだから、より生きやすい世の中になるのかな。それはそうと、この、本当の直近の問題は、朝、やる気が起きずに、かといって眠れずに、もやもやした状態であるということだ。それと、上に掲げた引用記事は、わりと面白かった。この「面白かった」は不謹慎だが。に、しても、毎週毎週、「やる気」を探さなければいけない。困ったなぁ。ごみを捨てるとか、食器を洗うとか、ご飯を食べるとか(昨日は一食だけだった)も、やる気が起きなくなってくる。だが別に、病気ではないのだ。以前からよくあったことだ。だから特段心配はないのだ。ないのだが、憂鬱なことにかわりはない。何かほんとに、過程(プロセス)が「面白えええ」って、継続してできることが必要だ。たぶん、創作なのだ。しかし、平日帰りが遅いと、土日にそこまでの意識が働かなくなる。家事して、部屋を少し片づけるだけで、もう何もする気が起きなくなる。悪循環だ。――そうだ、やはり、平日帰りが遅くて、自分一人の時間が作れていないことが一番悪いのだ。そうだ、そうだ、そうだ!! よし、今日は21時には会社を出る。帰ってきたら、その結果をブログに書くぞ。よし、少しやる気回復)


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30分で書く
2019/06/08 21:34 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「30分で書くルーチン更新」「コメント返信は後程!」

前書き

 いやー一週間が終わった。
 早いような、長いような。よく分からない。きっと早いんだろう。
 24時間×7日=168時間。
 168時間といわれても、そんなに長いのか。

 とある友人のブログにおいて、残り時間がどれぐらいか、というサイトが紹介されていたが、すでに削除済みだったので、どういったものだか分らなかった。

 意外に少ない。

 という結論だと思う。
 そうだと思うが、それと、一日をちゃんとしっかり過ごせるかは別だ。

仕事の話:体調が悪かった

 平日帰りが遅いのが問題だ。
 問題だが、職場全体がそもそも遅いので、それに比べたら割と早い方だったりする。
 新しく職場に入ったという状況もあるし、全体をよくみなければ、非常に苦しくなるのは目に見えている。
 だから、直近、ここ数か月は、状況把握のためにも、できるだけ多くを残し、感じる必要があるだろう。

 とにかく、雰囲気よく働くことが大事である。

 うーん、これは、いったい、ちゃんと表現できているのだろうか、否、できていない。

 びしっと、仕事を終わらせて、他者のことも見てやりつつ、必要ない仕事はカットしながら進めていく。

 まぁ、「理想論」的なのは当たり前である。
 まったく役に立たない。

 商品企画とかって仕事って、本当に俺は向いていないだろうと思う(いや、そういう仕事ではないのだが)。
 別にそれ、本当に必要なのか、って思ってしまうし、そもそも、一般大衆が欲しているニーズなんてものに興味がない。

 そういう意味では、今の仕事のほうがあっている。
 あっているが、それでも、本当にやりたいことかというと良くわからない。「よくわからない」とか表現している時点で、「違う」と思っているのだろう。

 俺としては、「文字数カウントツール」とか、何かものを作っているのが本当に楽しい。

 しかしそれは、一般大衆が欲しているというものではなく、「その人」自身が欲しているか、という点である。
 誰かが困っていて、「こういう解決方法がありますよ」ということの提示できるのは楽しい。

 だが、いろんな利害関係者が絡んだうえで、「じゃあ、こういうものを作りますか」というのはつまらない。

 あと、「自分で」作っているのが楽しい。
 厳密にいえば、自分で理解できている範囲で作れると楽しい。完全に理解できている部分をアウトソーシングするのは、「楽しさ」を損なわないと思う。厳密に言っていったら、プログラム言語なんてのも、そもそも、誰かが作ってくれたものだし、このPCという箱だって、中身を完全に分かっているわけではない。なので、この微妙なグレーゾーンも、別に厳密に定義する必要があると思っているわけではない。

体調の話ではなかったのか

 金曜日遅くて、夜更かしすると土曜日がまた昼過ぎに起きてしまい、一日中だるくて何もできなくなるだろうことは分かっていたから、可能な限り早めに寝て、土曜日朝早めに起きたけれども、結局、昼過ぎにどうしようもなく眠い――というかだるくて、頭が痛くて寝てしまって気づくと夕方だった。おうふ。

 一週間が、5時間~6時間ぐらいの睡眠で、半分以上が仕事であると、余裕がない。

 何故そんなに仕事が多いのか。

 やることが厳密ではないからだ。(たぶん、ここまでやっておけば問題ないだろうが、こういうことを考えるとここまでやっておいたほうがいいだろう)

 蓋然性が面倒くさい。
 前任者の通りにやっていたら、先日少し触れたが、まずいことに巻き込まれたりした。結局責任は最終的には取らなければならない。

 まぁそれも、お金的な損害を与えるようなレベルではないから、「あーすいません」ですませられるといえば、られる。

 と、考えたときに、労働時間換算で賃金を考えて、その「あーすいません」で5分で済んだとして、その「あーすいません」が発生しないようなダブルチェックというか、確認はおそらく、1時間以上は要するものである。

 どっちが価値があるか。

 これは、現代思考的には後者、と断定されるだろうが、必ずしもそうではない。
 いや、多くの人は、「いや後者だろう」というだろう。

 だが、「人間関係」という要素と、「評価」という要素を考えたときに、正解とは言えない。

 要するに、信頼感である。

 要するに、評価者の価値観である。


 俺が評価者なら、物事の度合いにもよるが、「あーすいません」でOKにするか、ほかの確認方法を検討するだろう。
 しかし、そうしたチェックが重要と考える人が評価者のときは、前者を選択すべきだ。

からくりサーカス

 面白い話を書きたいなぁぁぁ!!

 一週間生き残って、それで、たいして面白い話もかけないというのは、生きている価値があるのだろうか。

 なんだ、その、「からくりサーカス」のアニメがアマゾンプライムで見れるが、面白いのだが、アマゾンレビューの多くと同じ感想を抱く。
 要するに、原作の重厚さがない、という点だ。

 いや、クオリティは問題ないと思う。
 某けものフレンズ2のような作品も上梓されるこの世の中、よくできた作品だと思う。

 思うが、うーんやはり、尺的に無理があると思う。
 だからといって、数年かけて表現したところで、興行収入があるのかというのもわからんし、手軽に見れないし、そうしたら逆に「尺が長くて飽きる」人も続出するだろうから、難しいと思う。

 だから、僕は、「面白かった」と書くしかない。
 書くしかないが、やっぱり漫画を読むのをお勧めするなぁ、ということになるだろう。

アニメ:サイコパス

 最近話題にあがることもあるから思い出したが、そう考えると、最近みた作品で面白かった、というと、シュタインズ・ゲートは別格として、サイコパスが挙げられると思う。アンゴルモアも、ペルソナ4も面白かったし、Angel Beats! も面白かったが、心ゆさぶられ具合でいくと、サイコパスの方かなぁと思う。

 思うが、まだ足りないんだよなぁ。

 不感症レベルが上がっているのもあると思う。歳をとると、感動しにくくなるのだ。

 エヴァンゲリオンは、高校生ぐらいで見て面白かったが、たぶん今見ると、「面白いんだが……」レベルになるだろう。

------S------
シュタインズ・ゲート、攻殻機動隊

------A------
サイコパス

------B------
ペルソナ4、Angel Beats!、アンゴルモア


 こんな感じになりそうだ。なんか忘れている気もする。見てきた作品も、昔は「オタク」って言われるのが怖いというのもあって、アニメを見てるというのは言いづらかった時代もあったが、まぁほんと、アマプラのおかげで手軽に見れるようになったおかげで、作品数は結構いっていると思うわけだが――逆に、すぐわすれてしまうというのは哀しきかな。

 忘れてしまうというのは、その程度であったと言わざるをえない。

 ああ、ブギーポップだ、最近みたやつだと。まぁまぁ面白かった。しかし「B」かなぁと思う。レクリエイターズも「B」かな。正解するカドも「B」かな……っと、Bは結構いっぱいあると思う。鉄血のオルフェンズも面白かったし。

やっぱりS級が欲しい

 漫画ランキング的には、現時点の推しは、有名どころ過ぎるが、進撃の巨人が面白い。
 しかし、今読んでいるのはそれしかない。
 EDENを描いた遠藤浩輝先生の、元素を使ったバトルものも面白そうだが、巻を家に置くレベルではない。いずれ完結したら、漫画喫茶にいってよみたい。そうそう、狂四郎2030という漫画を、名前だけはずいぶん前から知っていたが、最近1~3巻読んだら面白かったので、続き読みたい。
 あと、シグルイ作者の他の作品も読みたいなと思うところ、だが機会がなかなかなない。
 あと、ラグナクリムゾンという作品も面白そうなので、忘れないようにしたいところ。

仕事の話のほうが面白いのか

 何を書いたら面白いのか。
 最近、音読と、過去記事のヒアリングができていないから、よくないな。

 一日の大半を過ごしている仕事についてをもっと書いた方がいいのかなぁ。

 日誌的なの(提出義務はなし。タスクリストともいう)みれば、まぁ、やったことは分かるけどな。そんなの何も面白くないだろう。

 あ、30分経ってしまった。


(かっこ書きである。10の推し作品があって、それぞれ10分語れるとする。1の惜し作品があって、100分語れるとする。どっちが、他者をひきこめるのか。前者だ。1の作品が、他者の興味にそぐわなければ、100分は地獄だ。10分ずつなら、もしかしたら興味をもてるものがあるかもしれない。しかし、上の考え方は、若い人向けである。年寄りは、1の専門性の方がいい気がする。ただし、生き方のリスクマネジメントとしては大失敗だ。その1が、通用しなくなる時代がくるかもしれない。とりまず、一つ、思い出すべきとは、「苦労」しようがしまいが、それは他者には何も関係ないということだ。苦しんで出した答えが80点でも、楽々思い付きで出した答えが90点なら、90点が採用される。これは比喩であって、膨大な業務の中で、そんな具体的な点数など付けられないわけだが、要は、悩みや苦労はしない方がいいということだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」が胡散臭いと僕がどうしても思うのは、その点である。「買わざるを得ない」とは思う(思ってしまう)。だが、「するべきではない」という理想も同時にあると思うのだ。「若いころの苦労は買ってでもしろ」的な思考は、思考停止であると俺は思う。次善の策レベルでしかない。苦労から逃げまくっている人は、いずれ大失敗するとか、村八分(ハブ)にされるとか、そういったストーリーが大前提にあるし、僕らもそういったインプットをされているわけだが、しなくてもいい苦労をすべきなのか。――というよりも、リソースは限られている。誰しも、「自分」というリソースを使うしかないのだ。その点において、「頑張る」ことは必要不可欠である。であれば、みじめな境遇の人たちは、その「努力」が少なかったから駄目だったのか。そういう問題じゃないと思う。その議論に未来はないと思う。頑張ったところで報われないかもしれないが、現状リソースを活用するにおいては、頑張る以外に方法はないのだ、こういう言い回しをする人は僕は好感をもてる。ふつう、たいはんは、「面倒くさいやつ」と思われがちな人だろう。でも、僕は、好感がもてる。だから、そういうことを考えてしまったり、いってしまう人は、応援するから、頑張ってほしい(と、結局頑張るしかないというトートロジーで取り敢えず時間超過なので終わる。書きたりねえなぁ))

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無差別に人を殺したいと思う人
2019/05/31 23:13 | Comments(19) | 思考及び書くこと
今日の一言「タイミングがよいのか悪いのか」「ルーチン更新扱いにしたい」

前書き

 正義について、人殺しについて、という内容でブログを書いた当日かその次の日ぐらいに、神奈川県で痛ましい事件が発生した。
 無職の男性が、子供を含む数人を殺傷したのである。

 青猫さんというかたが、5月29日の記事で書かれていたが、「きもいおっさん」は大変である。これは他人ごとではない。
https://kodokunikki.minibird.jp/nikki/

追記

 珍しく、投稿後に追記。
 かっこ書きの部分を書いていて思ったが、なんでもかんでも清潔にする、という方法では、解決しない問題は多いと思う。
 例えば、風俗とか。
 例えば、人殺しをするゲームとか。
 俺は認めたくないが、タバコとか。

 生きていくうえで、困難は避けられない。乗り越えられる問題もあれば、どうしようもない問題もあるのだ。本記事では、「居場所」が重要だと書いたが、同時に「逃げ場所」も必要だと思う。

 俺の場合、ここが、居場所でもあり、逃げ場所でもあり、そして、思考を少し前に進めるための場所でもある。

――以下、本文再開――

ゲームしていたらきもいのか

 ニュース記事のタイトルで驚いたが、「犯人の自宅からテレビとゲームが発見」と書かれていた。
 おいおい、テレビとゲームがない人、どんぐらいおるんねん。他に書くことなかったんだろうなぁ。

 漫画はなかったんだろうか。えっちな小説はなかったんだろうか。
 要するに、二次元的要素があると危険だと、世間は判断したいと思っているのだろうか。
 じゃあ、えっちな実写本ならOKなんだろうか。

 まぁ、そういった大人になってもゲームやってるやつは危険、という露骨なレッテルはりはむしろ、昔からあったわけだし、そんなに驚かないが、「テレビ発見」ってのは、え、なにそれ(笑)と思った。

 減ってきているとは思うが、今のところは、テレビを持っていない人の方が少ないと思う。

死にたいなら一人で死ぬべきは危険

 死にたいなら一人で死ぬべき、というのは避けるべきだ、と、藤田さんという方が主張されていた。
https://news.yahoo.co.jp/byline/fujitatakanori/20190528-00127666/

 きっと上のURLはしばらくしたらリンク切れになるだろうから、抜粋しておけば、
秋葉原無差別殺傷事件など過去の事件でも、被告が述べるのは「社会に対する怨恨」「幸せそうな人々への怨恨」である。
要するに、何らか社会に対する恨みを募らせている場合が多く、「社会は辛い自分に何もしてくれない」という一方的な感情を有している場合がある。
類似の事件をこれ以上発生させないためにも、困っていたり、辛いことがあれば、社会は手を差し伸べるし、何かしらできることはあるというメッセージの必要性を痛感している。
 ということである。
 
 様々な背景や、理由や、条件があるのだろうが、僕は上の意見に全面的に賛成だし、共感できる。
 俺は、歩きたばこや車の運転中にたばこを窓をあけて吸っている奴は死んでもらって構わないと思っているし、よっぱらって路上や車内に吐き散らかす奴も死んでもらって構わないと思っているが、それでも、すぐさま更生の機会もなく処断されるような社会は間違っていると思う(個人的には、死んでもらいたい……おっと、言葉が最近きつくなっている。ストレスという言い訳は通用しまい)。

 そうした機会もなく、殺人というのは、すべての可能性を奪う行為なので、断じて許されるべきではない……って、話がずれている。最近上の出来事に出くわしたせいで挿入されたエピソードだが、本記事の事件についてとは関係なかった。

 まずもって、通り魔殺人の犯人は、許容されてはならない、ということは前提にすべきだ。だが、「幸せな奴らが憎い」という感情そのものは、果たして、発生しては絶対にならないほどのものなのだろうか。

居場所が必要

 人にとって一番大切なものはなにか。
 金ではない。
 金があると、その大切なものを得る手段や可能性が増えるので、金はあったほうがいい。だが、必要条件ではない。(もっといえば十分条件でもないが)

 一番大切なものは、自己肯定感だ。

 自分は存在していてもいいんだという自信だ。敷衍すれば、自分は誰かの役に立っていると思える確信だ。


 それを得るために必要なのは、居場所だ。

 誰しも、居場所が必要なのだ。

 しかしたいてい、人は、親の元で育つ。親は子供を愛する。家族、というのが、居場所ではないのか。

 ……しかし、昨今のひきこもりや、実家暮らしという状況は、そう簡単でもないだろう。
 確かに血のつながりはあっても、世間体が悪い状況が続けば、親ですら、子に対して、嫌悪感を抱くことであろう。

 親と子。
 という関係は、例えばの数字だが、50歳ぐらいと、18歳ぐらいで成り立つのだ(てきとーな数字だ)。

 70歳と50歳は、親子ではないのだ。(戸籍上は親子だ。いっぱんに「言語」としてイメージされる親子ではない)

居場所がなくなるとき

 誰からも必要とされなくなった(と、自分で思うようになった)とき、人は凶行に奔るのだろう。

 だから、上の藤田さんがいうところの、「社会は何もしてくれないと思わせてはいけない」というのは、正しいことだと思う。


 が、しかし。
 正直言って、こっからは、個人的なことなのだが、なにかこう、「社会」ないし「他者」に対しての信頼感がものすごく薄い人を扱うのは、非常に難しいことだろうと思う。

 おそらく、そういう人は、「プライド」は非常に高いのである。

「もっと俺はできるんだ」「何者かになれるのだ」

 という思いだけはあるのである。
 実際は大した能力はないのである――いや、ふつーの能力はあるのだ。ある程度はできることがあるのだ。だが、そのある程度のことで評価されうる程度では、「承認欲求」が満たされないのである。

 そのギャップ。

 ゆえに、ずーっと前から、10年前ぐらいから書いてきているが、「理想と現実の差異を埋めることが重要」なのである。

 適切に自己評価して、その評価を甘んじて受け入れられる人じゃないと、生きづらさは一生解決しないのだ。

 が、もちろん、その、評価に満足できないがゆえに、奮起して成果を出す人もいる。
 が、それは、「基盤」があればこそである。
 自己肯定感の基盤、戻れる居場所、が重要なのだ。

 一切の基盤がなくて、さらにそのギャップが広がり続ける人は、もうすべてが嫌になるだろう。そして、すべてを壊したくなるかもしれない。

殺人のコスパの悪さ

 いや、気持ち悪いと思われるのを覚悟で書けば、殺人で得られる快楽は、どう考えてもコスパが悪いのである。

 仮に、1人殺せば、10ptの快楽を得られるとする。爆弾をコンサート会場にしかけて、数千人を殺せたとしよう。それは、快楽ポイントは、10pt×1000になるのか。ならない。手ずから殺さない場合は、1pt程度しか得られないだろう。数千人死んだ、というのを、自ら確認するすべがないのだ。

 じゃあ、トラックで歩行者天国に突っ込んで、そのあとナイフで襲いまくる、という方法で、秋葉原の事件では、7名が死亡した。それぐらいの大きな事件を起こせば、必ず逮捕され、絞首刑になるだろう。
 川崎の事件では、2名が死亡した。犯人は自殺した。

 帰結は、死である。
 秋葉原の事件で犯人は、やや後悔した記述もしていた。


 殺人で、犯人たちは幸せになったのか。否である。

 そもそも、彼らは、人を殺して快楽を得たというわけではないだろう。
 津山30人殺しの犯人も、快楽を得たわけではないだろう。
 ロンドンの切り裂きジャックは、もしかすると楽しんでいたのかもしれない。

 津山、秋葉原、川崎の犯人は、怨恨であった。
 浮気した妻か、間男を殺すのと同じような、「憎しみ」という感情による殺人である。それは、マイナスを、少しでも埋めようかというものであって、プラスになどならない。30人でも、100人殺したところで、決して幸せになどなれないのである。

快楽殺人犯は例外にする理由

 いつも、念頭には置くが、快楽殺人犯については、いろいろなことを考える際に、例外として切り捨てている。
 それはもはや、地震や台風などの、自然災害と同じである。思考の埒外である。

 一方、怨恨――自暴自棄による凶行は、僕は、何か救える手立てがあるんじゃないかと思うのである。
 僕自身が、承認欲求が中々満ちない穴だらけの容器的人間だからなのかもしれないが、しかしそれは、現代的な病理の一つであると思う。

 もうほんと、人を殺すのが楽しくて楽しくてしょうがない人は、人の社会から退場いただくしかないだろう。

 しかし、秋葉原の人も、川崎の人も、弱い人間を虐げて喜んでいるような人間や、いじめをしていじめ被害者が間接的に死亡しても死刑にもならずにのうのうと幸せに生きているような人間よりかは、僕は同情したくなるのである。(もっとも、そんな同情できるような感情的余裕などほとんどないわけだが)

 ↑のことをもう少しわかりやすく書こう。
 例えばの話だが、パワハラによって、もう何人も心の病におちいらせて、一方自分は出世して金ももって、美人な妻もいて、子供にもめぐまれて、ベンツ乗って庭付き一戸建てに住んでいる奴と、なんか分からないけどテレビとゲームしか持ってなくて独身で発作的に子供を含む多くの人を切りつけた人とを比べた時、僕は、前者の人の方を憎いと思う、というわけである。

 別に、どっちが良いとかじゃないからな。どっちも許されない。死ぬべきだ、と思うのだが、それはそうとして、俺が神で、どちらにチャンスをやるかといえば、間違いなく後者を選ぶ、というわけである。

(もう一つかっこがきしておけば、「死ぬべきだ」と書いたが、同時に僕は最初のほうで、「すぐさま社会が人を処断するようなことは避けるべきだ」とも書いている)

とはいえ役立たずはやはり排除される

 だから、みんなが必要とされて、弱いものも守られて、生き生きと、自分らしく生きられる社会にしよう!

 とはいえ、仕事でいっつもミスをして、足を引っ張り、それでいて卑屈で成長する気もなさそうな奴は、やっぱり排除されるだろう。


 みんなが必要とされているんだ。のけものはいない。みんな大切だ。

 とはいえ、役立たずは、「あいつ、うぜーよな」って言われるのだ。怖い。

 だから俺は、そうならないように、余計な気苦労をしながら頑張ってきたのだが、ほんと余計な気苦労である。


 そして何より、世界的真実において、別に人の数人が死のうが、たいせいに影響はないのである。
(とかいうことを、大学時代から言っていたから、「お前、変なことばっかいってたようなぁ」と言われたのだろう。当たり前である。だが、そこじゃあないのだ。違うんだ。そっから先が重要だったのだ、俺の気持ちが、全然伝わっていなかったのだ、それが悲しかったのだ)

 数人死のうが影響ないが、ないのだが、それでも、人の命は尊重すべきで、大切なのである。
 大切なのだが、別にどうでもいいことなのである。

 この矛盾が、俺が非常に苦しい理由なのだ。

 いや、論理的に、両者は矛盾しないのかもしれない。次元が違う話で、極論で、詭弁なのかもしれない。
 だが、俺の感情的に、その問題は、解決不能になっているのである。

 そこが問題だったのだ


(かっこ書きである。きもいおっさんの話にならなかったな。5月も終わりである。いやその、俺の関心はそこにはもはやないのだが、ないんだけど、表現的に、文字にしていくと、どうしてもそのレベルの話を書かなくてはならなくなる。なにせ、今のところ、妻と子供に恵まれた人が、通り魔事件なんか起こしてないからな。先日、恋人の必要性について書こうかと思って飽きてしまったと書いたが、要は異性の承認というものがないと、人格が狂いだすのではないかということである。つまり、若いころでも若くなくてもいいが、「女の子と付き合えた」という事実(ここでいう事実は、「実感」という意味)が必要だということである。だから、独身男性でも、風俗やキャバクラやガールズバーなどで充実した時間を過ごせている人は、きっと通り魔事件は起こさないのではなかろうか。本文の中で、殺人はコスパが悪い、と書いたが、風俗でとにかくエロいことするのじゃあ、満足できなかったんだろうか、と思う。行くお金がなかったのかな。じゃあやっぱりお金が諸悪の根源なのか。でもどうなのか、50代ぐらいになると、性欲はなくなるのだろうか。性欲がなくなってしまって、しかし、異性からの承認欲求が満たされていないと、もうどうしようもなく他者を殺したくなるのだろうか。わからない。俺は今回の記事でも、相当変なことを書いてきたし、おそらく世間的に気持ち悪いことを書いてきたし、こいつやべーなと思われるのだろうが、しかしそれでも、誰でもいいから人を積極的に殺したいという気持ちにはならないし、なったこともない。「死んでしまえ」とはよく思う(危険だっ!)のだが、「殺したい」とは思わないのである。しかし、この違いは結構重要だと思う。「殺したい」というのは、相当激しい欲求である。人を憎むのも、結構精神も、体力も使うのである。「死ね」というのは、危険でひどい言葉だが、ある意味、無責任な言葉である。命令しているだけなのだ。自ら責任取って排斥しようとはしていないのだ。だから、「死ね」と言われているうちは大丈夫である。その言ってくる奴は、大した力はないのだ。「殺してやる」と言われたら危険だ。そのときは逃げよう(もう何の話だよ……(かっこ乾いた笑い))

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人類ネットワーク・システム(眠れぬ夜に書くこと)
2019/05/28 19:00 | Comments(5) | 創作について
今日の一言「眠れなかった」「午前二時」

前書き

 午前二時に踏み切りに望遠鏡を担いでいこうかと思った。

 眠れない。
 昼夜逆転か。

 日中帯の生産性が落ちることだろう。まずいな。栄養ドリンクで何とかバランスを取ろうか。

 正義と、死について。

正義について

 人を殺してはいけない、それは何故なのか。
 たくさんの答えがあるだろうが、その一つは、人類という種の存続に適切な行為ではないからだ。
 社会のルールだからだ、といってもいい。
 要するに、人を殺すことが許容される社会は、いつ殺されるか分からないということだ。

「何故だと? 殺し、奪うことが人間の性(さが)だからだ。貴様らこそ何故、人として生まれ、殺さない、奪わない!」

 と悪役なら言うだろう。そういう社会において、「生産」が重要視されないことは明白だろう。

 作っても、育てても、それを奪われる可能性が高いのならば、暴力、武力を蓄える方がよほど得になるだろう。


 そうした社会が、人類の発展に適していないとされているから、人を殺してはいけないのである。――厳密にいえば、人を殺すことにルールがあるのである。


 そのルールの源が、正義といわれる。

死について

 我々は皆死ぬ。

 遅いか、早いかだけだ。

 限りある人生の中で何をなすのか。何もなさないのか。

 望んで生まれたわけではないかもしれない。
 それでも、生得的に、我々は、生きることに執着するようにできている。

死がない世界

 脳の機能をすべてマッピングできて、思考も感情も、記憶も、すべてが電子データとしてストックすることができるようになったら。

 僕らは、死という概念を超越するかもしれない。

 肉体は時間経過とともに衰えていく。
 頭、脳も同じく衰えていく。

 アルツハイマーなど、脳の機能が萎縮すれば、いずれ記憶のアクセスができなくなり、自己は消える。
 自己とは、記憶による、自我同一性によって立ち現れるものだからだ。

 その衰えは、記憶を、電子データとして扱えるようになれば、止めることができる。サンプリング精度によっては、本来保持していた情報の欠落があるかもしれない。
 しかし、有意味性を担保できる程度のサンプリングができれば、十分な意思疎通は可能となるだろう。音、は、周波数で表現されるが、人間の耳がとらえられる低周波・高周波の範囲外は、例え取得しなくても、結局聞こえる音は同一になるのだ。

記憶と思考

 自我同一性は、記憶によるところだ。

 心理学的に、自己啓発的に、スピリチュアル的に、「いやなことは忘れましょう」とか「気にしすぎないようにしましょう」という方針は、正しくあろうとも、しかし、記憶の制御は、精神論でなせるものでもない。

 記憶。
 記憶があるから、僕は、僕として存在を認識できるのだ。

 しかし、その記憶にアクセスする主体は何なのか。

 それが思考――ないしは、感情である。

 記憶をすべて、脳の海馬を含む大脳辺縁系から取り出せたとして、それだけでは、ただのデータに過ぎない。
 思考や、感情といった機能を、どのように移行することができるのか。

 桶の中の脳の思考実験。脳だけを取り出して、身体フィードバックがない状態で、そこに思考は生じるのか。

 自己とは、かくも不思議な現象なのである。

脳機能のすべてを取り出せたとして

 故に、仮定は、思考も感情も記憶も、すべて脳から取り出せるようになったとして、それが、人間が死を超越した瞬間になるだろう。

 データは、不死である。

 ストレージ、データの保存機構が壊れない限り、永遠に残る。
 そして、データの特徴は、バックアップ(データの移行)ができることだ。

 技術的に可能であっても、思考が生じる仮定を保存するのに、現在の技術や物資では到底なしえないほど、カオスなデータ容量が必要であれば、それは不可能ということになる。
 そのため、データ容量は、現実的に扱える容量であると仮定する。

 そうしたとき、同一の思考や記憶をもつ人間を、コピーすることができるということになる。

 もちろん、環境因子によって、同一の筐体と同一の中身(脳データ)をもつ人間であっても、その反応は異なることだろう。
 自然(大地とか森林とかそういう意味の自然ではなく、すべての起きうること。森羅万象)はカオスなのである。自然を保存することはできない。

 コピーが可能であれば、人の多様性は必要だろうか。

 ましてや、人は今、不死となった。

 リスクがあるとすれば、同一の機構をもつ脳データを破壊するマルウェア(コンピュータウイルス)であろう。

ディストピアかユートピアか

 エネルギーの確保が優先される。
 電子データを機能させるには、電力が必要だ。
 太陽光、地熱、風力、原子力、しかしそれらは、すべてオートメーション化されている。
 人間はすべて、巨大な電子演算機の中に入っている。

 クラウド化されネットワークによって繋がったデータベースは、もはやその特定の場所をもたない。必要に応じ、必要な量の思考が巨大なネットワークの中で行きかうのである。

 その人類ネットワーク・システムの外的な、物理的な維持管理は、ロボットたちによって行われる。アーティフィシャル・インテリジェンスによって、新人類の制御もほとんど不要だが、イレギュラーが発生したときのために、新人類の思考によって、外部のインタフェースとして作業を行うことも可能になっている。


 データ人類は、死ぬことがないため、その技術が発達してから、ますます増加していく。
 旧来の土に還る思想をもつものや、既に脳機能に異常をきたしたもの以外は、自らの肉体を捨てて、人類ネットワークシステムの中に入っていった。


 エネルギーは、電力だけである。
 水も、食料も必要ない。
 肉体がないのだから当然である。

 インフラストラクチャーの優先度は、電力の確保が最優先となる。
 だが、既存の交通、商業、工業などの必要性が低下するにつれて、電力の確保はそれほど難しいものでもなかった。

子どもたちは

 少子化によって、既に、旧人類の生産人口は、ロボットを大きく下回っている。

 それでも、子供たちは、肉体を捨てることはできない。
 人類ネットワークシステムに、成長はないのだ。

 子供たちの世話や教育は、すべてロボットたちが行っている。大人たちはみな、人類ネットワークシステムの中に入っているのだ。

 人格の形成が十分になされたとされる20歳程度で、人は人類ネットワークシステムの中に入るようになる。
 これまでは、体が限界になったころ、死の直前に人類ネットワークに入ることが多かった。
 時代が変わることで、肉体が十分に使える状態であったとしても、人類ネットワークに入ることが増える。何せ、もはや、肉体をもつ人類は不要なのだ。むしろ、資源を大量に消費することから、コストパフォーマンスが悪い。

 脳機能マッピングが完全になされた後に、肉体は、目覚めることなく破棄される。

記憶の連続性

 目が覚める。
 そこは、仮想世界が広がる。これまでの、荒廃しだした世界とは異なる、洗練され美しい世界。

 すべては、脳機能に電気信号によって生じさせるバーチャルリアリティであるが、しかし、すでに肉体がない新人類にとっては、その世界こそが真実の世界である。

 肉体は、破棄されなければならない。
 さもなければ、「死」の恐怖に発狂してしまうだろう。

 このネットワークの世界には、死は存在しない。永遠に、自由に、そして幸せに生きることができるのだ。
 死もなければ、老いもない。

 永遠の世界。理想郷。ユートピア。

 新人類は、原人類の数をはるかに超越した。990億人。数年で、1000億を超えるだろう。
 ストレージ容量は大丈夫だろうか。しかし、ここ数十年においては、新人類の増加も格段に緩やかになっている。新人類へ移行する原人類が、もはやほとんど存在しなくなったのである。

 最後の原人類がいなくなったとき、人類という種の進化は完了するのだ。

殺人

 すべてが満ち足りて、すべての娯楽が提供される世界において、犯罪など発生しない。
 スリルを味わいたければ、それを感じられる信号を受け取ればいい。
 脳に与えるダイレクトな信号は、現実感を超越する。たいていは、その制御をおこなわなければいけない。強度を高めすぎると、「自己」「精神」は破損してしまう。

 だが、破損したところで、その多くはバックアップによって保持されている。

 故に、完全な殺人を行うためには、その「自己」に対するすべてのバックアップを破壊するということが必要だ。
 しかし、自己のセキュリティ区画は、分散され、さらに厳重な機密として扱われているため、実効性は限りなく低い。

 人が殺し、殺されるという、原人類の野蛮な習性は完全についえたのだ。ここに正義が完成した。


(かっこ書きである。あー、なんか、眠れずに、布団の中でもぞもぞしながら考えていたら、余計に眠れなかったが、2時間ぐらいしか布団に入っていないが、もういっそのことと思い、書き出した。物資に恵まれていれば、人は争わないのか、といえば、きっとそんなことはない。刺激も必要なのだ。セックスの快感や、生死をやり取りするスリルなど。だが、そのスリルなどの感覚も、すべて脳に対して、肉体の現実感以上に与えることができれば、人は人と争う理由がなくなる。永遠を与えられた人類は、おそらく、退屈しだすだろう。だが、エンターテイメントは、それこそ、永遠の時間と、無限のリソース(過去の知識や技術に、だれでもダイレクトにアクセスできる)によって、いくらでも生み出されるのだ。「死」という概念も超越した今、誰もが生死を分けた戦いを行うこともできる。たとえ、その刺激によってデータが破損したとしても(死)、バックアップによって意識をよみがえらせることができるのだ。それは、眠りについて、夢の中で死んで、そして冷や汗でびっしょりになりながら目が覚めるのと同じだ。データが破損するぎりぎりの状態を、バックアップとして再起動するのだ。――だが、そこに、記憶の連続性はあるといえるのか。いや記憶は連続しているといえるだろう。だが、そこに生じる、自己は、同一なのだろうか。ここまでは創造上の話だが、僕らも、夜に寝て、目が覚めた時、はたして、それは同一の意識なのだろうか。昨日の自分は死に、そして、まったく同じ記憶データにアクセスできる、まったく新しい自分が生じているのではないか。つまり、眠りとは、「自己の死」なのではないか、と。そんなことを考えていると、わくわくもするし、怖くもなる。そんな感じの物語を描きたいのだけど、設定と、ストーリーとはまた全然違うので難しい。まず、新人類にスポットするのか、旧人類にスポットするのか。既存の人類ネットワークシステムを肯定するのか、否定するのか。とりあえず完璧なシステムなのだとしたら、もはや永遠に問題なく存続していくのだろうから、何の物語にもならない。とか思ったら、物語と設定の違いは、「事件性」なのかとも思った)

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