今日の一言「20時ぐらいに寝ると24時ぐらいに目が覚める」
一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
前書き
最近、ルーチン更新が崩壊しているが、まぁその、一応免除規定(一人でゆっくり思索できる時間が少ない)に当たると思う。一人でゆっくり思索、というのが大事だ。
カフェとか、新幹線の中とかでも、まぁいいのだが、その環境によっては、落ち着けなかったりする。そうすると、全然書けない。
頑張って書いても、大した情報が出てこない。
1時間かかってこの程度
●抜粋
仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな。俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。
先日、とはいえ、まぁなんかメモぐらいしておくか、考えよう、ということでやってみて、たしか、1時間弱ぐらいで、上ぐらいの内容だ。
よく分からないし、面白くないな。
なんかこう、このブログ書いているのって、もっと面白かった気がするのだ。
それはこう、自虐的な、ぬるま湯につかっているような感覚なような気もするけれども、あの大学入試のために寒い冬に石油ストーブのゴーっという音と、朝の4時とか5時とかに起きて勉強しようと、その前に紙のノートに色々書いていたような、あの頃のサムシングが、このブログにおいてあるような気がしたのだ。
それでいて、当時の完全なる孤独と違い、一人じゃない、でも、一人でいられるという不思議な楽しさがあったはずなのだ。
家か部屋大事
ゆえに導かれるのは、やはり、「おうち」でいる時間なのである。いくらどこかに、タブレット片手に繰り出していっても、それは、十分ではないのだ。
今は、変な時間だが、とりあえず、眠気もそれほどないし、体の調子もそれほど悪くないので、「書く」条件がそろっている。貴重な時間だ。ありがとう。この時間を与えてくれたすべてにありがとう。
と、まぁ、そんな環境的分析はともかく、今回は、上の抜粋……1時間の成果について、もう少し意味あるものに考えてみよう。
今後の方針について
>仕事を離れて少し思ったが、今後の、方針的なんを考えられなくもないな仕事は重要である。
賃金がもらえるからだ。
何故賃金が必要か。生活するためだ。
働かなくても賃金がもらえるベーシックインカムの制度はまだ実現していない。
と、いうのは欺瞞だ。いや、ベーシックインカムの部分じゃなくて。
仕事は、生活するために必要だったはずなのだ。
要は狩猟採集は仕事である。
賃金というのは、中間者である。生活するために賃金が必要というのは、近代の話だ。
日本昔話の村人たちは、年貢を納めるために働いてるのではない。(勝手な決めつけ)
彼らは、ただ、日々の生活のために働いているのだ。(山に行ったり畑を耕したり)
……なんてなことを、今なら思ったりするのだが、カフェ的な状況であれば、思えないし、仮に思っても「書こう」という気にならないから不思議なものである。
いやしかし、上の話は全く関係ない。
要するに、仕事をしなくてもいい時間がないと、――大事なことなので正確にかけば、「仕事を考えなくてもいい時間」がなければ、思考できない、ということである。
そして、今は、仕事を考えなくてもいい時間、だと、上の抜粋記事では書きたかったのである(たぶん)。
自己分析
>俺は、どこまでいっても、考えることをやめられないし、気にしたり、遠慮したりをしてしまう。似た人はいるかもしれないが、理解してもらえる可能性は低い。そこを考えた上で、生きやすい方法を考えていかなければいけないだろう。ふーん。で?
とか言っちゃいけない。かわいそうだろ?(かっこ笑い)
いやしかし、「で?」としか思えないんだよな、今となっては。
いや、言ってることは分かるのだが、いまさら? とかって思う。
そんなの、分かりきってたんじゃないのと。何のために何百の記事を書いてきたのと。
でもまぁ、軽く、「前提」として書く分にはいいと思う。何がダメかって、これを書くのにも、非常に時間を労していたことだ。
サラッと書いちゃえよ、と思う。今ならサラッと書けちゃうだろう。
では、何が悩ませたのか。
「考え続けてしまう」「遠慮しがち」「人に理解されがたい」
これらを、「認めたくない」「認めてもいいのか?」という葛藤故だろうか。
ここで、「理解される必要があるのか?」という疑問も当然立てられる。が、それは考慮する必要はない。理解されたほうがいい。理解されなくてもいいかもしれないが、されるならされたほうが良いに決まっているのである。
いやいや、理解されたがゆえに、変に利用されてしまうのでは、とか、そういう言葉遊びをしても仕方がない。そういう、言葉尻を捉える人も少なくなくて、もうほんと、できるだけ他者とコミュニケーションを減らしたいという裏の思いが最近強い。まぁそれも脱線なんだが、要は、ここでいう「理解」とは、他者を尊重するという当たり前の原則に基づいているのだ。その前提においていえば、理解された方がいいのだ。そのほうが生きやすいはずなのだ。
脱線だ、そんな自己分析いるのか? と思う。
だがまてよ、と。
こういった当たり前の前提をして考えていけば、「考え続けてしまって遠慮しがちで理解されがたい」ことを、僕は悩んでいたのではないかと。
「変えたい」という意思の表れなのではないか、と。
そうも捉えられないか。
起承転結の承
>しかし、本当に、家族を作る、ということについて、何の責任もないのだな。まあ、30代ということになれば、恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。しろくま先生はどう考えるのか。時間を濃密に使っていく他あるまいが、その時間が、様々、面倒な調整ごとであることが多いわけであるが。で、なんだけど、次の承け(うけ)の、つながりが全然みえてこない。
家族?
どうしてここで家族が出てくる?
――よくよく考えると、多分当時は一切思ってなかったろうが、「自己」→「家族」という単位の変遷はまぁ分からなくもない。
そもそも、「自己」という単位だけで考えてもどん詰まりするというのはよくある話で、人間は、相互関係、互いに干渉しあいながら成長(悪い意味でも良い意味でも)するのだ。
ただしかし、大学入試ごろの完全なる孤独、と違い、この場も、不思議な相互作用の場なんではないかと思ったりもしたりする。まぁこれも脱線だ。
「家族」はまぁ、分かった。が、「恋こともなかろうな。そうなると。それは、一体、誰の責任なのか。」とは一体何なのか(かっこ笑い)。
今度は「責任」とな。
責任。
責任?
えーっと、その、家族を作ることの責任、ってことか。
なるほど、社会的な要請、長男だったら結婚し、男児をつくれ、ってやつ、か。
そういうんが、昨今なくなってきてるよね、ということを言いたかったのか。
昨今がどうか分らんが、取り敢えず、個人的に何かそういう外圧は、今のところ一切ない。これがいいことなのか、悪いことなのかも分からないが、別にない。
親は、孫の顔が早く見たい、と思ってるかどうかわからんけどね。
ただ、それはとかく、実際、数百キロ離れたところで暮らして、正月ぐらいしか顔を見せないような親不孝者である。仮に孫ができても、その程度しか会わせられないんだろうと思う。それでも、いいのかな? 写真送ってあげて、成長をみせてあげたりすると、喜んでくれるのかな。
とか、ね。
そういうことを書きたかったのかな。分からん。
親には感謝しないといけないと思う。東京の大学に通うようになり、――覚えている、2年目ぐらいからは、学生寮的なのを出てアパート暮らしを始めたが、仕送りを月11万円してくれた。(昨今は高額と見なされる額だそうだが、当時としては平均的なものだそうな)
年間、132万円である。それを3年間。1年目は分からないが、同じだとすれば、4年で、528万円。
帰省の切符代も出してくれてた気がする。それ以外に、大学の授業料。242万円ぐらいだそうな。
足すと、770万円。実際は、もっともっとかかる要素があるだろう。
高額である。
今となっては、「全額返せ!!」と言われたら、返せなくはないが、まぁその、厳しいわな。
子供にお金がかかるというのは、本当なのだなと実感。
責任とは
だから、子供としての責任を果たせ、ということになるのか。責任とは、結果に対して、自分が原因である、ということだ。
「育ててもらった責任」
ということになるのだろうか。
ん? よくわからないな。「今自分が存在していること」の責任?
日本の国民の3大義務を言えるだろうか。
納税の義務。労働の義務。子供に教育を受けさせる義務。
そう、だから、中学校までは義務なのだが、高校生以上は義務じゃない。「好きでやってること」である(悪意を持って書けば、の話)。
親が好きでやったことなんだから、子供に果たすべき責任なんかねぇ! と(悪意もって書けば、ね)。
そんなこと子供に言われたら、親は悲しむというか、怒る人もいるだろう。
ま、でも、ドロドロ、失敗している親子関係ってのもあるし、実際あるだろうね。「生んでくれなんて頼んでない!」なんてのも。
まぁ、生まれてこなければ、確かに、色々考えることもなかったし、苦しみも恐怖もなかったんじゃないかというのもある。ただ、生まれてきてしまったのであればしゃあないことであるし、繰り返し書いておくが、感謝こそあれ、親を怨む気持ちはない。
お父さん、お母さん、ありがとう。
直接言ってやれや
いやまぁ、後悔しない程度には伝えているつもり。だが、確かに面と向かって、「育ててくれてありがとうね」とは言ってないか。しかし、どこまで、育ててくれたことになるのかな。親と暮らしていたのは高校生までだが、先ほどの通り、お金の問題でいけば、大学まで、となる。社会人になってからも、じゃあ、影響がゼロなのかといえばそうではなかろう。
……と、まぁ、このように、部屋で一人でいれば、色々思うところも出てくる。
だがまぁ、間違いなく、カフェ的環境では、上のような内容は一切出てこなかったろう。せいぜい、上の引用文ぐらいのレベルなのだ。
例によって、1時間ぐらい書いた。1時間ぐらいで、これぐらいは書けるのだ。
全然量が違うな。
ま、その、結論としては、結論なんか特にないのだが、この記事のまとめとしては、家族に対して特に責任はない、ということでよかろうか。
よくわからないか。家族を作る、必要性、はわからんが、取り急ぎ、責任はない、ということだろう。
眠気と疲れがドッときたので唐突に終わる。
あとがき
(かっこ書きである。比べられるものでもなく、完全に失言なのだが、完全に個人的感覚として書かせて頂くと、京アニの放火は、秋葉通り魔とは比較にならないくらい酷いと思う。犠牲の多さとかではなく、「もう世の中自体が憎い」ということで無差別殺人をするのと、「特定の誰かへの恨み」で無関係な人まで巻き込むのとでは、俺の中ではなんか違う。何がどう違うのか、よく自分でも分からないが、単に「京アニ」が被害者だからなのか分からないが、何か違う。――というか、加害者も、創作者の端くれであったのなら、実効的手段によって何かするというのは、ほんと狂ってやがる。失言だが、秋葉の加害者への同情心は、当時の自分のイライラ状況も相まって、あった。が、今回の事件に関しては、一切ない。行為は許されないが、気持ちは少しは分かる気がする……的なのが一切ない。全く理解不能である。当たり前だが、自分で思うとかじゃなくて、考えてみるにしたとき、「特定の誰かが憎くて殺した」→分かる。「漠然とすべてが嫌になって誰でもいいから殺した」→分かる。「特定の誰かが憎くて、関係ない人を殺した」→わからない。いや、犯人にとっては、「関係ある奴ら」だったのかもしれないが、うーむ、分からない。あれかな、NHKに就職したくて、何度も採用試験受けたけれども落とされて、それでNHKの会社に放火した、みたいな感じかな。そう考えると分からないでもないか。いやでも、分からないのは、「好きなんだか嫌いなんだか分からない」ということだ。好きが転じて憎しみに変わる、というのも、人間なんだろうか。変な生き物だな、人間って。いや、何でこの話になったかというと、本文の家族のあたりで、こんな同情のかけらもない事件を自分の子供が起こしたら、もうそりゃつらいなと思う。親もクソ野郎どもだった、というオチがあれば、少しは溜飲が下がるかもしれないが、至極ふつーの親だったら、居た堪れなく思う。まぁなので、俺の親も、俺は変な奴で孫もみせてやれていないが、それに比べたらマシだと思って頂きたい……なんてのは、俺が嫌いな比較思考であるが、まぁ仕方あるまい)PR