今日の一言「ゲーム依存は生活に破滅をもたらす」「しかし現実生活に価値はあるのか」
毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
前書き
先週は、毎日、23時帰宅であった。毎回書くが、忙しい自慢でもなければ、「俺がいないと仕事が回らなくて」的なのでもなければ、頑張ってるアピールでもない。
第一、もっと拘束時間が長いブラックな方々は大勢いると聞く。ほんとかどうかわからないが――というのは、実際、帰宅の電車は、最近(別にお盆の時期ではない)、遅い時間ほど空いている。
んで、まぁ、その、やってて楽しい仕事であればいいのだろうが、やれ人間関係的なやつだったり、クレームだったり、「何の意味があるのそれ。表現的な問題でしょ。どっちでもいいし」的なものもあったりと、面倒くさいことこの上ない。
勉強にはなると思う。知識も増える。考え方も参考になる。
が、「楽しい」かどうかと問われたら、別に楽しくはない。
なんかプログラムとか書いてたほうがよほど楽しい。
――プログラム、しかし、じゃあ、SEなりPGなりに転職したら? という正論があるかもしれないが、プロジェクトとして行うそういった業務に興味はない――いや、やってみたら楽しいかもしれないが、基本、むかーっしの人が作ったものをちょびちょち直していくような。
楽しいのは、企画、要件定義から実装、テスト、リリース、利用者への研修など含めて、全部含めてやれると楽しいのである。おっきなプロジェクトのごく一部分の担当とか、きっとつまらないだろう。
ゲーム依存に関する記事を読んで
あー、そんなこんなで、休日はほぼ寝て過ごしてしまった。やる気が起きないのだ様々なことに対して。せっかく、最近、「面白い」コメントなど多く頂いているにも関わらず、思考が、時間を、十分に向けられない。悔しい。そんな、朦朧とした状態で、「【特集】1日20時間、2年間外出せず…『ゲーム依存症』患者の現実」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190817-00010003-kantele-soci
との記事を読んだ。
まず、僕が考える「前提」は以下だ。
・ゲームは楽しい
・ゲームにより暴力的になるというのは正しくない
・一方ゲーム依存は現実生活を脅かすため治療が必要だ
1日20時間は多いと思うが、休日であれば、8時間ぐらいは余裕だ、という人は多いだろう。
ただ、「毎日」というのはすごいと思う。
でもたぶん、全然俺もできちゃうんじゃないかという気もする――いや、睡眠時間は6~8時間は欲しいから、20時間はやっぱりすごいな(笑)。
まぁそんな表面的なことを考えながら読んでいたのだが、コメント欄とかでの、「ゲームより現実のほうが大切だ」という意見が――「やはりあったか」という気持ちではあったが――気になった。
大切な現実とは
某じゃんけんで頭が破裂する作品を執筆中の尊敬する僕の友人氏は、「僻みとか思われるの嫌なんでな、あんまし言わないんだが、現実羨ましいとか思ったことないんだよな。物語の方が格段面白いやろ」(勝手な理解)と仰られていた。いや分かる。
――分かる、といってしまうと傲慢になるが、しかし、思いは分かる。
上の「ゲーム依存」は治療されるべき、ということだが、やはり問題は、「ゲーム」が埋めてくれていた時間を、他に、何の「価値ある時間」にするのか、ということだ。
大切な現実とは何か。
ゲームをやるってこと自体も、現実の一部を成していないか。――というのは、もちろん詭弁だろう。だが、詭弁で片付けちゃいけない気がする。
要は、ゲーム依存の治療の先にあるのは、ゲーム以外のことをする「時間」ということだからだ。
本当は創作活動が優先だがブログで済ませている
僕にとっては、上の小見出しの通りだ。反省している。本当は、創作活動をするのが、僕にとって、大切なことであるはずなのだ。というのは、「現実ってそれほど大事なものなのか」という、某氏の感覚を少し思うところだからである。
これは、若い時に、例えば甲子園を目指して野球部で仲間と必死に汗を流したり、とか、そういう経験が大事なんだろうと思う。
くっそつまんなかった。
いや、友人はできたし、そこでの友人たちのおかげで、クラスで孤立とかもなく、平穏無事に過ごせたといってよいだろう。
が、その、クラブ活動なり、部活動的なのは、嫌々行っていた。
(とかっていえば、親は悲しむかもしれないから、このブログは基本リアルの人には見せるつもりは一切ない)
別に、体を鍛えるのは悪いことじゃないと思うし、そのおかげで、筋トレとかするのも比較的簡単にルーチン化できたのかもしれない。
ま、そういう、「役に立った」的な意味であれば、いくらでも挙げることはできるだろう。
ただ、「現実の価値」的な意味においては、――これを、「生きる意味」と置き換えて表現しても構わない――一切役に立たなかったと書いておいてよいだろう。
大切な現実なんてない
上のような経験がよくなかったのかもしれない。先日、とある友人氏(IMF氏)からコメントを頂いた。
なぜみなさまは生きる意味について考えているのでしょうか。 (1)考える理由 (2)考えて結果どうしたいのか (3)何が目的なのか これは個別の問題なので、人によって異なると思うのですが、ぜひお聞かせいただけないでしょうか?即答レベルで、特に考えずに回答をすれば、以下のようになる。
――番号追記
(1)理由:必要だから。
(2)結果:満足(充足)して(前向きに)生きたい
(3)目的:(2)と同じ。
就職面接においては、理由が足りないと思う。
理由は、本記事の前の小見出しに書いた、「大切な現実が分からないから」になると思う。
――ちょっとばかし、これまた別の友人氏(以下SRGN氏)がコメント欄にて書いてくださっている一つの理由・生き方について、僕が思うところを書きたい。
抜粋して、次の小見出しにて、それへのコメントを書く。
「自分の存在を世界に刻み付けること」 かっこつけた言い方をすれば、この一言になります。以前にも書いた気がしますけれど。 自分という存在を、自分が今ここに存在することを、存在していることを、存在したということを知って欲しい、認めて欲しい、肯定して欲しい。 子孫も残せるものなら残したいとは思う、けれど相手は誰でも良いというわけではなく、自分の理解者あるいは自分を認めてくれる存在であって欲しいし、私がそう思える相手がいないのならば、子孫を残せなくても良い。そういう相手が欲しい、と思う気持ちがあることも自分で否定したりしない。 私という存在をまず自分自身が認めるために、やりたいと思ったことには積極的に、欲しいと思うものには手を伸ばし、したくないことや嫌なものは可能な限り避けようとする。今形成されている社会で生きていく上で支障が出ない範囲で、私自身のその時の思いや気持ちに正直に生きる。 つまるところ、私という存在がこの世界に生きているということを、私自身が肯定し、認めるために、私は生きている。
自分の存在を世界に刻み付けること
SRGN氏は、悩み、答えを比較的早い段階で見出し、それをベースに現実の生き方を構築できた方だと思う。かっこいい。
僕の目指すところである。
いや、そもそも、「生きる意味」的なことを考えずとも、確固たる自己をもち、生活できている人のほうが大半な気がする。
ただ、そこの部分を触れないで、そのプロセスがないまま、現実にどっしり身を構えられた人たち――それを僕は広い意味で「リア充」と呼ぶ――は、どんだけ、現実的な能力が高くても、僕は、「参考にならない」と思うだろう。
だから、SRGN氏のような方と出会えたことは、僕にとって間違いなくプラスで幸せである。
上の僕のSRGN氏に対するコメントは、単に称賛したかったから歯の浮くセリフを書いたというわけでは全くなく、事実思うことである。が、その一方で、僕は、それほど大事な人の記述であっても、完全には咀嚼できない部分がある、という意味で書いている。
何がかというと、「自分の存在を世界に刻み付けること」これについて、僕は真剣になれていない、ということである。――すぐさま書けば! ダッシュで書いておけば、SRGN氏が見出している答えを否定するものでは全くない。急いで書くまでもなく分かってくれる方々しか本ブログを見ている人はいないんだろうが、大事なことなのでダッシュで書いた。
要は、ぼく個人は、今のところは本気になれない答えである、ということである。
結局、まわりまわって、その答えになるかもしれない。
世界(現実)と自己
なぜか、ということをつらつら書いていくと、中々話しが終わりそうもないし、僕の熱量も下がりそうなので、簡単に書こうと試みれば、そもそも、上に書いてきたように、「大切な現実なんてない」からだ。コロンブス卵問題のようだが、要は、現実の重要度を深く感じられない状況において、その現実に対して自己の存在を刻み付けるということは、不安定な砂の土台にひょろひょろの棒を指すみたいな。
いやだから、現実に対しての自己の肯定感が高まれば、おのずとその現実に対しての興味関心も増大する可能性はあるものの、その現実が「どうでもいい」と思ってしまう中で、その行為は中々本気になれないということである。
「どうでもいい」というのはもちろん言いすぎだが。
例えば、アインシュタイン氏レベルになれば、世界に刻み付けられた、と思うと思う。誰でも、何百年たとうが、きっと忘れられないだろう。
しかし、ニュートン氏レベルになると、「写真」ってなかった時代だから、たぶんこんな感じの人なんだろうという肖像画はあるけれども、人物は分からなくなってくる。伝記は残されるかもしれないが、そこから分かることと、その人自身のこととは大きく乖離があるだろう。
ソクラテス氏のことも、誰でも知っているだろう。無知の知。知らないって知ることが大事なんだよ、的な、思考までも、数千年たっても、知ってもらえているかもしれない。
が。
時間という疑いようのない事実の上では、「人物」としての痕跡は、殆ど失われてしまうのである。
ましてや!
これを書き始めると、単に努力の放棄に他ならないが、残念ながら僕は凡人である。
アインシュタイン氏レベルなことが、いかなる分野であろうが、例えこのクッソ長いブログを書き続けるといったことですら、他の多くの人たちと比べて抜きん出られる自信はない。
そんな程度な人間が、「世界に自分を刻み付ける」なんてことが、できるとは思えないのである。
だから迷ってますという結論
そろそろ1時間経つので、かっこ書きに入っていこうかと思うが、要は、そういうことだ。どういうことか。
ええとその、SRGN氏の考え・答えは、きっと正しいし、それはすごいことだが、凡人ではきついッス、的なことだ。
子供作る的なことの例でもいいんだけど、子供作るじゃん? 子孫繁栄したとするじゃん?
ひいひいひいひいじいちゃん的なのを、誰か、覚えてるだろうか、ってことである。
要は、時間制限があるなかで、誰しも、満足した人生を送らなければならないのだ。一分一秒無駄なく。
IMF氏からの問いの答えを言い換えれば、「満足した人生を送る必要があるため」となる。
「別に満足しなくてもいいんじゃない?」って言われたことがある気がする。うーん、確かにそうなんだけど、でも、つまらなくないか、って思う。
毎日23時に帰ってきて、何やってんだろって思う。
いや、ストレスはあるかもしれないが、別に、究極にギスギスしてるとか、超ど級パワハラにあってるとかではないから、睡眠時間やゲームしたり遊べる時間が足りなくて嫌だなぁぐらいといえばそうだ。
だが、こういった生活が定年(65歳? 70歳?)まで続いて、それがなんだってんだろう、って思う。
「いや、お金ももらえているし、生活に困らないし、いいじゃんか。もっと生活困窮して、意味なんて考える余裕なんてない人たちだってたくさんいるんだぞ!」
とお叱りを受けるかもしれない。
そうさな。
そうだが、そういう問題ではないんだ。分かってもらえるだろうか、いや、俺が上手く表現ができないだけなんだが……。
あとがき
(かっこ書きである。ゲーム依存の話関係なくなったな! いや違うぞ! 関係あるぞ! ゲーム依存と生きる意味、めっちゃ関係あるぞ! 要は、現実がくっそ価値あって、くっそ楽しかったら、ゲームなんてすぐ飽きるやろ? いや、じゃんけん頭破裂の某氏は「滓が。その程度の思考の俗輩が、創作を語るな」と仰られるだろう。天才め! いや、ふつー大半は、現実に楽しいことがあったらそっち中心になるだろう。物語は、現実を彩る単なるわき役に過ぎなくなるだろう。――だが、俺の場合は、能力は凡人クラスなのだが、その「現実」の扱いがどうしてもよく分からないのである。物語がないのだ。いやなんつーか、面白くないのだ。いや、面白さはあるが、それが、「点」なのである。繋がりがない。上手く表現できない。なんだろう。なんか頑張りたいんだが、頑張るに値することが見いだせない。いやそれは違うぞ。ブログ書くことや、創作(随筆含め)は大事だと俺は思っている。それと、「現実」が全然関連してないのがよくないのか。するってーと、やっぱり、今の仕事を辞めて、創作の道で食ってく的なことになるのが必要なのかもしれないが、いやまて、前提をちゃんと見ろ。「能力は凡人クラス」なのである。第一、今いる部署的なのが忙しいのであって、他の部署は定時で帰ってるところたくさんあるからな! だから、いよいよ追い詰められれば、人事とかけあって異動させてもらう方法が漸近的であろう。というか、別に仕事も頑張りたくないわけでもないのだ。頑張ってもいい、だが「だから何なの?」という思いが消えない。評価されてえらくなろうが、給料が上がろうが、そこがモチベーションじゃないんだよな。上司たちに問いたい。「偉くなって何がしたいの?」と。いや、面接でも聞かれるだろう当たり前の質問だ。それを逆に聞きたい。本音ベースのやつをだ! 大方、お金が増える的な問題だろう。あとは、現場業務より指示してたほうが楽だろうとか。くっそつまんねぇ奴らだ。楽しいから上司やれや。面白いから上司をしろ。上司の仕事がしたいからやれ。話がそれたか! 全然書ききれない。いい表現も浮かばない。整理もできない。あああああ、だが、だがしかし、これこそ、これこそこのブログだ。戻ってきた、戦士たちが戻ってきた!!(おっことぬし様風に) これは、最近新しくコメントしてくださったKKA氏のおかげだろう。ありがとうございます。いろいろ書きたいこともあるが、取り急ぎ感謝の意まで)PR
コメント
ゲーム依存がどうの、という話題に関して言えば、「ではその人にとってゲームより面白く価値のある現実ってものを提供してみせてくださいよ」と言いたくなることがありますね。
親や周囲の環境が、「その人がハマり込んで中心に考えられる現実」ってものを提示できなかったというポイントもあったりすると思うんですけれど、そういう部分ってメディアは取り上げないんですよねぇ。好きなものが印象操作されてるのって腹が立ちます。
ゲームは娯楽の1つであり、それもまた現実に存在するスポーツや趣味と同列のものだと思っています。
四六時中本を読み耽っていたり、スポーツにうち込んでいるのと本質的にはさほど変わらないと思うんですよね。
ゲームはプレイヤーが触れて、アクティブに変化させることのできるフィクションですから、小説や漫画や映画といったものの変化系あるいは発展型と言えるものだと思います。
ちなみに、私が「ゲームより現実のが大切だ」と言うとすれば、その理由は「ゲームをするには現実の自分の肉体や精神がなければ楽しめないんだから、そこを疎かにするのは良くないよ」というニュアンスになるでしょうね。末永くそういうものに触れ続けたいならそのための環境構築には気を回した方がいいんじゃないかなと。
>「世界に刻み付ける」
若干大げさに捉えられている気がしなくもないので、補足しておくと、ここには規模の問題があります。
私が「己を刻み付けたい」と思う世界の範囲は、「私が認識している範囲」に限られ、かつ「私が刻み付けたいと思えた範囲」に更に絞り込まれていきます。
友人知人、ネットで知り合い意気投合した顔も名前も知らぬ誰か、その辺りの、「私という存在を認識してくれた誰かの世界」に「私が認めることのできる形で己というものを残しておきたい」と思えている程度に過ぎません。
有名になりたいとか、全世界に名を轟かす、とかは実際のところ結果としてついてきたらラッキー程度で、そういう歴史的偉人とかに並ぶところまで望んでいるわけではないんです。
身近にいる人に記憶してもらいたい、認めてもらいたい、という承認欲求程度のものだと言っていいかもしれません。
私は、「自分は生きていて良いのだ」という実感を「他者に映った(映っているであろう)自分の印象」から得るところと、「自分自身がよしとする」ところとで得ていて、前者は「好ましいと思う人たちから嫌われず、好ましく思われたい」という言わばポジティブなもの、後者は「もはや考えてもどうしようもない(意味なんて人間が後付したもので実質的には存在しない)からどうでもいいか(今こうして生きているのは変わらないんだし)、なるようになーれ」という思考放棄によって形成しています。
そしてここにはある種、「現実が面白くないと思っているからこその発想」からくるところもありまして、「自分が楽しいと思うことをする」「それを自分が好ましいと思う人たちと共有し、共感を得たい」とかそういう感覚もあって、私が創作を趣味として続けているのには、そこに私が思う「素晴らしく夢中になれる現実(=そうあって欲しい現実・世界)」を投影している部分もあるわけです。
体を動かして競争したりスポーツをすることに楽しみや快感を見出せなかった自分の思う、「こんな現実だったらハマれたかもしれないのに」みたいなのが詰まってます。
同時に、他者の創作物にも同じような匂いを感じたりして(当然例外はあったりしますけど)、だからこそそうして作られた娯楽性のあるものが好きで、ゲームや漫画、アニメといったフィクション要素の強いエンターテイメントが楽しく感じたり、それらに触れ続けたいと思っていたりするわけです。
親や周囲の環境が、「その人がハマり込んで中心に考えられる現実」ってものを提示できなかったというポイントもあったりすると思うんですけれど、そういう部分ってメディアは取り上げないんですよねぇ。好きなものが印象操作されてるのって腹が立ちます。
ゲームは娯楽の1つであり、それもまた現実に存在するスポーツや趣味と同列のものだと思っています。
四六時中本を読み耽っていたり、スポーツにうち込んでいるのと本質的にはさほど変わらないと思うんですよね。
ゲームはプレイヤーが触れて、アクティブに変化させることのできるフィクションですから、小説や漫画や映画といったものの変化系あるいは発展型と言えるものだと思います。
ちなみに、私が「ゲームより現実のが大切だ」と言うとすれば、その理由は「ゲームをするには現実の自分の肉体や精神がなければ楽しめないんだから、そこを疎かにするのは良くないよ」というニュアンスになるでしょうね。末永くそういうものに触れ続けたいならそのための環境構築には気を回した方がいいんじゃないかなと。
>「世界に刻み付ける」
若干大げさに捉えられている気がしなくもないので、補足しておくと、ここには規模の問題があります。
私が「己を刻み付けたい」と思う世界の範囲は、「私が認識している範囲」に限られ、かつ「私が刻み付けたいと思えた範囲」に更に絞り込まれていきます。
友人知人、ネットで知り合い意気投合した顔も名前も知らぬ誰か、その辺りの、「私という存在を認識してくれた誰かの世界」に「私が認めることのできる形で己というものを残しておきたい」と思えている程度に過ぎません。
有名になりたいとか、全世界に名を轟かす、とかは実際のところ結果としてついてきたらラッキー程度で、そういう歴史的偉人とかに並ぶところまで望んでいるわけではないんです。
身近にいる人に記憶してもらいたい、認めてもらいたい、という承認欲求程度のものだと言っていいかもしれません。
私は、「自分は生きていて良いのだ」という実感を「他者に映った(映っているであろう)自分の印象」から得るところと、「自分自身がよしとする」ところとで得ていて、前者は「好ましいと思う人たちから嫌われず、好ましく思われたい」という言わばポジティブなもの、後者は「もはや考えてもどうしようもない(意味なんて人間が後付したもので実質的には存在しない)からどうでもいいか(今こうして生きているのは変わらないんだし)、なるようになーれ」という思考放棄によって形成しています。
そしてここにはある種、「現実が面白くないと思っているからこその発想」からくるところもありまして、「自分が楽しいと思うことをする」「それを自分が好ましいと思う人たちと共有し、共感を得たい」とかそういう感覚もあって、私が創作を趣味として続けているのには、そこに私が思う「素晴らしく夢中になれる現実(=そうあって欲しい現実・世界)」を投影している部分もあるわけです。
体を動かして競争したりスポーツをすることに楽しみや快感を見出せなかった自分の思う、「こんな現実だったらハマれたかもしれないのに」みたいなのが詰まってます。
同時に、他者の創作物にも同じような匂いを感じたりして(当然例外はあったりしますけど)、だからこそそうして作られた娯楽性のあるものが好きで、ゲームや漫画、アニメといったフィクション要素の強いエンターテイメントが楽しく感じたり、それらに触れ続けたいと思っていたりするわけです。
満足した、充足した、の更なる階層化は、思考段階では困難だと思うのですね。
トップダウンとしての、目標としての表現と考えてマフ。満足した人生とか、いきる意味とかいってるのは、抽象的な箱、枠組み、境界のような考えであって、具体化を目的としてないのです。
多段階に、満足して生きたいのは何故か、との問いをすることは、実際行動としては大事だと思うのですが、これ以上階層化できないんじゃないかなぁと思ってるんです、思ってるというか、以前も同じ指摘を受けて、そのとき考えたんですが、浮かばなかったんですよね。
と、いいますか、満足して生きる必要があるのは何故か? と問いをしたとき、逆に満足せずに生きる必要はあるのかと。
いやそうじゃねーよ、満足、って表現の中身を考えろや、ってことなのだとしたら、取り急ぎ、満足して生きるため、という目標というか、目的の表現としてはそのまま使えるんじゃないかと思うんですよね。
実際、その中身が何か、ってのは、例えば、人付き合いが、自分はどうしても面倒くさくて、イヤで、避けたいというのが自分の本質なら、それへの生活を具体化していけばいい。
ただ、まだ自分として、そこまでの確証をもてずに、あーだこーだ悩んでるわけですが、目標目的としては、満足した生活、人生なんだと思います。
……そういうことじゃないんですよね!
たぶん、自分が理解できてないんです。
そして、満足とか充足だか、意味とかっていう中途半端な言葉を使ってるうちは、考えてすらいないってことなんでしょう。
ただ、未だにその次の段階に進むための方法というか、考え方が分からないんですよね。
なんというか、満足とか充足って言葉にこだわってるわけでもないんです。
ほかに考えれば、納得、って言葉でも構わない。
たぶん、ほかにも言葉は浮かんでくるはず。
そうじゃなくて、ほんとに、自己の行動や思考の影響が生じてくるような、信念、価値観、そんな何かを構築することが必要だと思うんですよね。それを、生きる意味、という表現をしてるだけと思ってます。
なんかズレてますよね! 分かります! なんかそうじゃないんですよね。分かるんですが、上のようなことしか書けないんですよね……治療が必用か。
トップダウンとしての、目標としての表現と考えてマフ。満足した人生とか、いきる意味とかいってるのは、抽象的な箱、枠組み、境界のような考えであって、具体化を目的としてないのです。
多段階に、満足して生きたいのは何故か、との問いをすることは、実際行動としては大事だと思うのですが、これ以上階層化できないんじゃないかなぁと思ってるんです、思ってるというか、以前も同じ指摘を受けて、そのとき考えたんですが、浮かばなかったんですよね。
と、いいますか、満足して生きる必要があるのは何故か? と問いをしたとき、逆に満足せずに生きる必要はあるのかと。
いやそうじゃねーよ、満足、って表現の中身を考えろや、ってことなのだとしたら、取り急ぎ、満足して生きるため、という目標というか、目的の表現としてはそのまま使えるんじゃないかと思うんですよね。
実際、その中身が何か、ってのは、例えば、人付き合いが、自分はどうしても面倒くさくて、イヤで、避けたいというのが自分の本質なら、それへの生活を具体化していけばいい。
ただ、まだ自分として、そこまでの確証をもてずに、あーだこーだ悩んでるわけですが、目標目的としては、満足した生活、人生なんだと思います。
……そういうことじゃないんですよね!
たぶん、自分が理解できてないんです。
そして、満足とか充足だか、意味とかっていう中途半端な言葉を使ってるうちは、考えてすらいないってことなんでしょう。
ただ、未だにその次の段階に進むための方法というか、考え方が分からないんですよね。
なんというか、満足とか充足って言葉にこだわってるわけでもないんです。
ほかに考えれば、納得、って言葉でも構わない。
たぶん、ほかにも言葉は浮かんでくるはず。
そうじゃなくて、ほんとに、自己の行動や思考の影響が生じてくるような、信念、価値観、そんな何かを構築することが必要だと思うんですよね。それを、生きる意味、という表現をしてるだけと思ってます。
なんかズレてますよね! 分かります! なんかそうじゃないんですよね。分かるんですが、上のようなことしか書けないんですよね……治療が必用か。
posted by 遠藤at 2019/08/19 21:33 [ コメントを修正する ]
白銀さんのコメントタイトルの通り、問題の本質はそこですよね。
要は現実が超たのしきゃいい!
しかし、たぶん、過去人類たちでも、現実たーのしー! 的な人はわずかだったはず。割合的には少なかったはず。たぶん笑
だから、じゃあゲームより楽しい現実みせてくださいよ! とかっていっても、治療者たちは、きっと、じゃあこれはーってきな、献身的な何かをしてくれるんでしょうし、心ない人は、エセ歴史的に、過去と比べて我が儘いってんじゃねーってきなことを言うでしょうね。
土台が、無理というか。
現実がゲームとかサムシングに勝てる要素は僅かで、もちろん、その現実の競争に向かって何かを得るというのは、もしかするとゲームなんかじゃ得られない最高のモノなのかもしれない。
それは示しようがないから、語り得ないもの。
ただ、言えるのは、そういった競争の敗者は間違いなくいるってことです。
そして、そもそも、そうした競争に、ねたみでもなんでもなく興味もない人もいる。
そういった事情を少しでも考えれば、ゲーム依存の治療の困難さがますます見えてくる。
だから、白銀さんの、現実にもケアしないと楽しいゲームもできないんだよ!
というのが、非常に有効なアプローチであると思うんですよね。
まぁ、ゲーム依存状態の人が、じゃあゲームやれて最高ハッピーかというと、そこはそこで、一位じゃなきゃいけないプレッシャーとか、ギルドの人間関係とか、それはそれで大変なのかもしれません。
ゲームをはじめとしたエンタメ全般か、現実か、どっちも中途半端なのはよくない気がしますね。
もう一つのポイントの、生きる意味における自己の証明、といったとこですが、よく分かると思ってます。そう、有名になりたいとかではなく、生きてていいんだといったような実感みたいなものですよね。
私も思うところ、共感するところが多いのですが、ひっかかるところがですね、他者の介在性なのかもしれません。
なんだろう、あと僅かの時間で表現できるか、
えっと、他者からの評価、というか、認められた、という承認欲求的なのが、自分は足りてないようにはあまり思えないというところ。
というより、そうした認められたいといった感情があまりない気がする……気のせいか、代替不可能性とかってのは、まさに承認欲求ではないか、という、きもしつつ
要は現実が超たのしきゃいい!
しかし、たぶん、過去人類たちでも、現実たーのしー! 的な人はわずかだったはず。割合的には少なかったはず。たぶん笑
だから、じゃあゲームより楽しい現実みせてくださいよ! とかっていっても、治療者たちは、きっと、じゃあこれはーってきな、献身的な何かをしてくれるんでしょうし、心ない人は、エセ歴史的に、過去と比べて我が儘いってんじゃねーってきなことを言うでしょうね。
土台が、無理というか。
現実がゲームとかサムシングに勝てる要素は僅かで、もちろん、その現実の競争に向かって何かを得るというのは、もしかするとゲームなんかじゃ得られない最高のモノなのかもしれない。
それは示しようがないから、語り得ないもの。
ただ、言えるのは、そういった競争の敗者は間違いなくいるってことです。
そして、そもそも、そうした競争に、ねたみでもなんでもなく興味もない人もいる。
そういった事情を少しでも考えれば、ゲーム依存の治療の困難さがますます見えてくる。
だから、白銀さんの、現実にもケアしないと楽しいゲームもできないんだよ!
というのが、非常に有効なアプローチであると思うんですよね。
まぁ、ゲーム依存状態の人が、じゃあゲームやれて最高ハッピーかというと、そこはそこで、一位じゃなきゃいけないプレッシャーとか、ギルドの人間関係とか、それはそれで大変なのかもしれません。
ゲームをはじめとしたエンタメ全般か、現実か、どっちも中途半端なのはよくない気がしますね。
もう一つのポイントの、生きる意味における自己の証明、といったとこですが、よく分かると思ってます。そう、有名になりたいとかではなく、生きてていいんだといったような実感みたいなものですよね。
私も思うところ、共感するところが多いのですが、ひっかかるところがですね、他者の介在性なのかもしれません。
なんだろう、あと僅かの時間で表現できるか、
えっと、他者からの評価、というか、認められた、という承認欲求的なのが、自分は足りてないようにはあまり思えないというところ。
というより、そうした認められたいといった感情があまりない気がする……気のせいか、代替不可能性とかってのは、まさに承認欲求ではないか、という、きもしつつ
posted by 遠藤at 2019/08/19 22:07 [ コメントを修正する ]
現在、生きる意味についての文章の続きを書き留めているところですが
ちと、こっちの話題にも触れたいので
重複する部分もあると思いますが
コメントさせてもらいます。
まずは引用から
満足した、充足した、の更なる階層化は、思考段階では困難だと思うのですね。
僕もここ、同意します。
というのも
僕は人間の行動の原点になっているものが感覚だと思っていて
満足したいってなんなの?
の次なる階層化は感覚が原点な以上、
不可能なのではないのかなと思っています。
ただ、満足というものをどのようなものかをもう少し具体的に表現すると
腹一杯食べたとか、楽しかったな
その日、そのタイミング限りのものではなく、もっと持続性のある感覚だと思うんですね。
この辺は遠藤さんが過去の記事にも書いているように同じようなところだと思います。
(ちなみに僕は思春期を過ぎてから、これだと思う感覚に二度、入ったことがあります。だから僕はこのときの感覚を再現することが生きる目的であったし、生きる意味についての分析はこの感覚に入っていたときの経験から引っ張りだしている部分もあります。でも、その感覚を言葉に現そうとすると難しい面もありますが、持続性のある満足、遠藤さんの言葉を借りるともっというとここにいていいんだ、これでいいんだ、という感覚と言えるかなと思います。)
そして、ひとつ気になったのは
記事中にあるイミフさんの
「別に満足しなくていいんじゃない?」という部分です。
僕は遠藤さんではないので
遠藤さんとイミフさんがどのようなやりとりをしているかは知らないのですが
もしよろしければ
イミフさんが「別に満足しなくていいんじゃない?」といった意図、理由をお聞きしたいのです。
(遠藤さんの思考をもう一段階引き出すためというのならば、その質問の意図や理由はわかるのですが、イミフさん自体が別に満足しなくていいのではないかと考えているとするならば、その理由は何故か、が気になるのです)
次は
承認欲求の話なのですがここも思うところがあり、コメントさせてもらいます。
(遠藤さんの承認欲求がない、というのはどの程度なのか気になるのもあります)
僕は承認欲求っていうのは
ある、ないの二段階で分けられるものではなくて、大きく分けると三段階のものだと思うのですね。
(勿論、本当のところは三段階ではなく、もっと細分化というか無段階なものであると思います。いや、この部分はもうちょっと、後に詰めて考えたいところですね)
ちと、こっちの話題にも触れたいので
重複する部分もあると思いますが
コメントさせてもらいます。
まずは引用から
満足した、充足した、の更なる階層化は、思考段階では困難だと思うのですね。
僕もここ、同意します。
というのも
僕は人間の行動の原点になっているものが感覚だと思っていて
満足したいってなんなの?
の次なる階層化は感覚が原点な以上、
不可能なのではないのかなと思っています。
ただ、満足というものをどのようなものかをもう少し具体的に表現すると
腹一杯食べたとか、楽しかったな
その日、そのタイミング限りのものではなく、もっと持続性のある感覚だと思うんですね。
この辺は遠藤さんが過去の記事にも書いているように同じようなところだと思います。
(ちなみに僕は思春期を過ぎてから、これだと思う感覚に二度、入ったことがあります。だから僕はこのときの感覚を再現することが生きる目的であったし、生きる意味についての分析はこの感覚に入っていたときの経験から引っ張りだしている部分もあります。でも、その感覚を言葉に現そうとすると難しい面もありますが、持続性のある満足、遠藤さんの言葉を借りるともっというとここにいていいんだ、これでいいんだ、という感覚と言えるかなと思います。)
そして、ひとつ気になったのは
記事中にあるイミフさんの
「別に満足しなくていいんじゃない?」という部分です。
僕は遠藤さんではないので
遠藤さんとイミフさんがどのようなやりとりをしているかは知らないのですが
もしよろしければ
イミフさんが「別に満足しなくていいんじゃない?」といった意図、理由をお聞きしたいのです。
(遠藤さんの思考をもう一段階引き出すためというのならば、その質問の意図や理由はわかるのですが、イミフさん自体が別に満足しなくていいのではないかと考えているとするならば、その理由は何故か、が気になるのです)
次は
承認欲求の話なのですがここも思うところがあり、コメントさせてもらいます。
(遠藤さんの承認欲求がない、というのはどの程度なのか気になるのもあります)
僕は承認欲求っていうのは
ある、ないの二段階で分けられるものではなくて、大きく分けると三段階のものだと思うのですね。
(勿論、本当のところは三段階ではなく、もっと細分化というか無段階なものであると思います。いや、この部分はもうちょっと、後に詰めて考えたいところですね)
posted by 加古歩at 2019/08/23 22:18 [ コメントを修正する ]
それは
承認欲求が過剰
承認欲求が皆無
そのままの承認欲求
だと思うんです。
承認欲求が過剰は
もっと認められたい
ある意味、承認欲求の増大を追い求めることだと思います。
そして、承認欲求が皆無は
誰からも認められなくてよい、
となるとある意味、凄く自分勝手な人であり、サイコパス傾向というか
自分の利益のために人を利用できる人ということになると思うんですね。
(ちょっと、捕捉を入れると承認欲求のために人を利用する人もいると思いますが、それとはまた別の目的がある、といっていいですかね)
最後に
そのままの承認欲求というとは
僕はこういう人ですよ。
と、それそのまま、認めてもらうこと、言い換えると理解してもらうことだと思うんです。
となると
白銀さんの言っている内容というのは
世界に刻み付ける
という言い方をしている分、承認欲求が過剰のように見えなくもないですが
どういうものかと内容を読んでいくと
そのままの承認欲求を表している内容だと思うんです。
そして
遠藤さんは承認欲求がない、といってますが、別に本当に承認欲求がないのではわけでないのだと思うんですね。
(というのも、本当のところ、承認欲求がないのならば、このブログにコメントをしても返信などないでしょう)
何故なら、遠藤さんはコメントを書いた分、しっかりとコメントを返してくれる方であるし
そして
僕はこう考えていますよ、という
思考の提示があるということは
それそのままの承認欲求なんだと思うんですよね。
僕だって、このブログにコメントを寄せているのは
僕以外の生きる意味を考えている人に
僕の考えていることがどう見えるかを知りたいからコメントを寄せているのであって
加古さんはよく考えましたね!凄いですね!を求めているわけではないのです。
そして、例にもあったアインシュタインの話ですが
アインシュタインだって、
(これはわからないことなので多分といっておきます)
誰かに認められたいことを目的として
物理学の理論を打ち立てたのではなく
好奇心を元に行動していたら、結果として世に認められる存在となったということだと思うんですよね。
だから、目的論でいうと
内容は違えども
白銀さんも遠藤さんも承認欲求については、実は同じようなレベル感で考えているのではないかなー、と思ったりするのです。
(と、目的論と書いて、やっぱり三段階、いや段階ではなく、その環境に存在する人との関係性、そして目的とするところに違いがあるということになるのかもしれませんね。書き終えたあと、そう思ったのはありますが、上のまま、書き残しておきます。そして、目的論で考えることはまた、後日か、どうかなー、というところで)
最後に
面白さが「点」というのは
非常に理解できるような気がします。
というのも
空しさはあるのだけれども
ただ、全てがつまらない、面白くないわけではないということだと思うんです。
たまに
ふとした瞬間、笑っているということはあるんです。
でも、その瞬間が過ぎると
しかめっ面で思考に戻るって感じですね、僕は。
ただ、これ以上の詳しいことは
別のコメントで続き?関連した話を書くことができればなと思います。
承認欲求が過剰
承認欲求が皆無
そのままの承認欲求
だと思うんです。
承認欲求が過剰は
もっと認められたい
ある意味、承認欲求の増大を追い求めることだと思います。
そして、承認欲求が皆無は
誰からも認められなくてよい、
となるとある意味、凄く自分勝手な人であり、サイコパス傾向というか
自分の利益のために人を利用できる人ということになると思うんですね。
(ちょっと、捕捉を入れると承認欲求のために人を利用する人もいると思いますが、それとはまた別の目的がある、といっていいですかね)
最後に
そのままの承認欲求というとは
僕はこういう人ですよ。
と、それそのまま、認めてもらうこと、言い換えると理解してもらうことだと思うんです。
となると
白銀さんの言っている内容というのは
世界に刻み付ける
という言い方をしている分、承認欲求が過剰のように見えなくもないですが
どういうものかと内容を読んでいくと
そのままの承認欲求を表している内容だと思うんです。
そして
遠藤さんは承認欲求がない、といってますが、別に本当に承認欲求がないのではわけでないのだと思うんですね。
(というのも、本当のところ、承認欲求がないのならば、このブログにコメントをしても返信などないでしょう)
何故なら、遠藤さんはコメントを書いた分、しっかりとコメントを返してくれる方であるし
そして
僕はこう考えていますよ、という
思考の提示があるということは
それそのままの承認欲求なんだと思うんですよね。
僕だって、このブログにコメントを寄せているのは
僕以外の生きる意味を考えている人に
僕の考えていることがどう見えるかを知りたいからコメントを寄せているのであって
加古さんはよく考えましたね!凄いですね!を求めているわけではないのです。
そして、例にもあったアインシュタインの話ですが
アインシュタインだって、
(これはわからないことなので多分といっておきます)
誰かに認められたいことを目的として
物理学の理論を打ち立てたのではなく
好奇心を元に行動していたら、結果として世に認められる存在となったということだと思うんですよね。
だから、目的論でいうと
内容は違えども
白銀さんも遠藤さんも承認欲求については、実は同じようなレベル感で考えているのではないかなー、と思ったりするのです。
(と、目的論と書いて、やっぱり三段階、いや段階ではなく、その環境に存在する人との関係性、そして目的とするところに違いがあるということになるのかもしれませんね。書き終えたあと、そう思ったのはありますが、上のまま、書き残しておきます。そして、目的論で考えることはまた、後日か、どうかなー、というところで)
最後に
面白さが「点」というのは
非常に理解できるような気がします。
というのも
空しさはあるのだけれども
ただ、全てがつまらない、面白くないわけではないということだと思うんです。
たまに
ふとした瞬間、笑っているということはあるんです。
でも、その瞬間が過ぎると
しかめっ面で思考に戻るって感じですね、僕は。
ただ、これ以上の詳しいことは
別のコメントで続き?関連した話を書くことができればなと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/23 22:21 [ コメントを修正する ]
私の承認欲求については加古さんの分析がほぼ正解と言っていいかもしれません。
承認欲求が無いわけではないのだけれど、がっついて求めているというほどでもない、今のありのままの自分をマイナスではない形で受け止めてくれる状況であれば良い、といった具合です。
また、私も遠藤さんに承認欲求がないとは思っていないわけですが、もしかすると遠藤さんが意図している承認欲求とは、「他者から自分への承認に対する欲求(他人に認められたい、認めて欲しい)」なのではないでしょうか?
私が思う遠藤さんの持つ承認欲求は「自分自身に向けられた承認への欲求(自分を認めたい、認められるようになりたい)」の方ではないかと考えてみたのですがいかがでしょうか?
私の場合は、「がっつかなくてもいいか、いいんだ」「がっつくことを求められてるわけでもない」「がっつくのもしんどいしもっと気楽に肩の力抜いて生きよう」「意味や価値は後付けなんだから考えても仕方ない」と達観できるタイミングがあったわけですが、そこに至るまでの感覚や感情の動きは私だからこそ(環境、性格、状況など複合的に)得られたものでもあると思うので、それをある程度説明することはできても、同じレベルの納得に至れるかは難しいところだと思っています。
そして「満足」についてですが、何をもって「満足」という言葉として捉えるかが人それぞれによって違うので、階層化というか細分化していけるものとできないものが出てきている気がします。
感覚として「前向きに生きなければ」「満足のいく人生を」と考えているのだとすれば、それを細分化はできず、逆に「何故そうしなければならない? そうでなくともいいのでは?」と問われても「そう感じてしまっているから仕方がない」としか答えようがないのではないかなと。
感覚の言語化、説明というのは非常に難しいところで、仮に自分が思う最高の説明が組み上がっても、それを読んだ他人が自分と同じ感覚に至ってくれるとは限らないという……。
承認欲求が無いわけではないのだけれど、がっついて求めているというほどでもない、今のありのままの自分をマイナスではない形で受け止めてくれる状況であれば良い、といった具合です。
また、私も遠藤さんに承認欲求がないとは思っていないわけですが、もしかすると遠藤さんが意図している承認欲求とは、「他者から自分への承認に対する欲求(他人に認められたい、認めて欲しい)」なのではないでしょうか?
私が思う遠藤さんの持つ承認欲求は「自分自身に向けられた承認への欲求(自分を認めたい、認められるようになりたい)」の方ではないかと考えてみたのですがいかがでしょうか?
私の場合は、「がっつかなくてもいいか、いいんだ」「がっつくことを求められてるわけでもない」「がっつくのもしんどいしもっと気楽に肩の力抜いて生きよう」「意味や価値は後付けなんだから考えても仕方ない」と達観できるタイミングがあったわけですが、そこに至るまでの感覚や感情の動きは私だからこそ(環境、性格、状況など複合的に)得られたものでもあると思うので、それをある程度説明することはできても、同じレベルの納得に至れるかは難しいところだと思っています。
そして「満足」についてですが、何をもって「満足」という言葉として捉えるかが人それぞれによって違うので、階層化というか細分化していけるものとできないものが出てきている気がします。
感覚として「前向きに生きなければ」「満足のいく人生を」と考えているのだとすれば、それを細分化はできず、逆に「何故そうしなければならない? そうでなくともいいのでは?」と問われても「そう感じてしまっているから仕方がない」としか答えようがないのではないかなと。
感覚の言語化、説明というのは非常に難しいところで、仮に自分が思う最高の説明が組み上がっても、それを読んだ他人が自分と同じ感覚に至ってくれるとは限らないという……。
満足しなくてもいいといった理由は覚えていないです
遠藤さんは、ブログのコメント欄で話していると、モノを握りしめて離せないのでは?と思うことがあるので、放してみたら?という意味で言ったのかもしれないし、満足することがそもそも必要はないと思ったのかもしれない。
満足という言葉や状態が重要ではなく、満足へ至る行動が重要なのではないかと、今は思います。
さらに言えば、どうやったら満足できるかわからないのであれば、別に満足することにこだわる必要はないのではないかと思います。
生存に影響がない限り、苦しんでいる状態もまた良いのではないかと思うわけです。
遠藤さんは、ブログのコメント欄で話していると、モノを握りしめて離せないのでは?と思うことがあるので、放してみたら?という意味で言ったのかもしれないし、満足することがそもそも必要はないと思ったのかもしれない。
満足という言葉や状態が重要ではなく、満足へ至る行動が重要なのではないかと、今は思います。
さらに言えば、どうやったら満足できるかわからないのであれば、別に満足することにこだわる必要はないのではないかと思います。
生存に影響がない限り、苦しんでいる状態もまた良いのではないかと思うわけです。
posted by イミフat 2019/08/24 23:44 [ コメントを修正する ]
文字を打つのはともかく、モバイル端末だとスクロールとかコピペが中々不便ですね。その辺りが解消しないことには、マウスというデバイスはなくならないことでしょう……。遠回しな誤字を許してください、はここまで。
>承認欲求について
1他人から認めてもらいたい
2自分を認めたい
なるほど、僕は一般的に、1のことが承認欲求という言葉だと思ってました。そして白銀さん仰る通り、僕は1より2の方が強いのだと思ってます。
加古さんのおっしゃる通り、1もないわけではないんですが、重要視はしていない、ということだと思います。いや、そこらへんは、諦めているだけかもしれません。実際、今回(先日からのやり取り含め)加古さんからのコメントで、ああ、知ってもらえてよかったなという気持ちが高まりました。これは承認欲求が得られたということだと思います。
白銀さんの、「意味や価値は後付けで考えても仕方がない」は、僕も、思考や価値観のベースとしてもっていると思ってます。できることなら、考えたくはない(かっこ笑い)とすら思っているかもしれません。
>満足について
しかしそれでも、考えてしまうのだから仕方がない、と。
今回大きなテーマになっている「満足の必要性」ですが、ここにも繋がってくる。
恐らくは、加古さんのいう「そのままの承認欲求」なのかなぁとも思います。そして、そのなかでもさらに、「1他者から認められたい」と「2自分で自分を認めたい」があるのでしょう。
取り急ぎの方向性としては、これで、自分の感覚としてはよいかな、と今回思いました。
要するに自分としては、「そのままの承認欲求の内の、自分自身を認めたいということを望んでいる」と。
なので、今後誰かに、「君って承認欲求あるの?」と聞かれたら、「めっちゃあります。ただし、他者からではなく、自分を認めたいって方向ですね」と答えるようにしようかと思います。まぁ、そんな問いされることないですが(笑)。
>満足が必要なのか
「ものを握りしめて離せない」
もの、とイミフさんがおっしゃってくれたのって、多分物理的なものだけじゃなくて、価値観とか、人(者)も含めたやつですよね。
イミフさんのこれまた鋭いご指摘なんですが、これ、なるほどな、と思いつつも、自分の感覚としては違う、となっているんですね。
というより、ああ、たぶん、そう見えているんだろうな、と思い当たる節は多々ある。
ただ、そこで手放せないものというのに、僕自身はそこまでこだわっていないのだという感覚があります。
こだわってないんですが、実際現実的に、手放せてないんですよね、たぶん。
ただ、逆に、です。自己自身がしっかりしていないから、手放せない、という状況でもあると思ってます。要は、イミとか、満足とか、その、自分が大事にしないといけないものが明確になっていないことが原因なのかなと。だから、とりあえず、あれもこれも、となってしまって、身動きがとりづらい状況なのかもしれません。
>承認欲求について
1他人から認めてもらいたい
2自分を認めたい
なるほど、僕は一般的に、1のことが承認欲求という言葉だと思ってました。そして白銀さん仰る通り、僕は1より2の方が強いのだと思ってます。
加古さんのおっしゃる通り、1もないわけではないんですが、重要視はしていない、ということだと思います。いや、そこらへんは、諦めているだけかもしれません。実際、今回(先日からのやり取り含め)加古さんからのコメントで、ああ、知ってもらえてよかったなという気持ちが高まりました。これは承認欲求が得られたということだと思います。
白銀さんの、「意味や価値は後付けで考えても仕方がない」は、僕も、思考や価値観のベースとしてもっていると思ってます。できることなら、考えたくはない(かっこ笑い)とすら思っているかもしれません。
>満足について
しかしそれでも、考えてしまうのだから仕方がない、と。
今回大きなテーマになっている「満足の必要性」ですが、ここにも繋がってくる。
恐らくは、加古さんのいう「そのままの承認欲求」なのかなぁとも思います。そして、そのなかでもさらに、「1他者から認められたい」と「2自分で自分を認めたい」があるのでしょう。
取り急ぎの方向性としては、これで、自分の感覚としてはよいかな、と今回思いました。
要するに自分としては、「そのままの承認欲求の内の、自分自身を認めたいということを望んでいる」と。
なので、今後誰かに、「君って承認欲求あるの?」と聞かれたら、「めっちゃあります。ただし、他者からではなく、自分を認めたいって方向ですね」と答えるようにしようかと思います。まぁ、そんな問いされることないですが(笑)。
>満足が必要なのか
「ものを握りしめて離せない」
もの、とイミフさんがおっしゃってくれたのって、多分物理的なものだけじゃなくて、価値観とか、人(者)も含めたやつですよね。
イミフさんのこれまた鋭いご指摘なんですが、これ、なるほどな、と思いつつも、自分の感覚としては違う、となっているんですね。
というより、ああ、たぶん、そう見えているんだろうな、と思い当たる節は多々ある。
ただ、そこで手放せないものというのに、僕自身はそこまでこだわっていないのだという感覚があります。
こだわってないんですが、実際現実的に、手放せてないんですよね、たぶん。
ただ、逆に、です。自己自身がしっかりしていないから、手放せない、という状況でもあると思ってます。要は、イミとか、満足とか、その、自分が大事にしないといけないものが明確になっていないことが原因なのかなと。だから、とりあえず、あれもこれも、となってしまって、身動きがとりづらい状況なのかもしれません。
posted by endoat 2019/08/25 14:11 [ コメントを修正する ]
はあまり思えないというところ。
とありますが、この想定した場所(環境)はなにかなと推測すると、会社となると思うんですね。
そして、そこにいる人というと
同じ会社で働く人達ということになると思います。
そして、自分の目的、言い換えると
遠藤さんが会社にいて働く目的と言えるでしょう。
となると、遠藤さんの過去の記事の内容を読んで自分なりの解釈をすると
仕事そのものに対しての猛烈な熱意はない。
ただ、しっかりと仕事をすることは必要だと思っていると思うんです。
だから、遠藤さんの仕事の目的って
今の生活を支えること、そして、創作活動や生きる意味を考える時間を支えることになるんだと思います。
ならば、遠藤さんの会社での承認欲求は
会社にいる理由、そして目的を達成することを満たせば充分なわけです。
となると
認められればいい範囲でいうと
ある程度、仕事はしっかりできますよ
周りとぶつかって問題を起こすことなく、仕事をしますよ
こんな感じなんだと思います。
という風に遠藤さんのことを
まず、例として使わさせてもらいました。
そして、前のコメントに書いた
承認欲求の三段階の話なのですが
承認欲求が過剰というのは
目的論で考えると
承認欲求そのものが目的か、もしくはその先の目的を達成する手段ということなんだと思います。
例を出すと
それそのものが目的であるならば
周りから凄いと言われたい
もしくは自分が凄いと思う人に認められることで自分は凄い人間だと思いたい、快感を得たい
といったイメージする自分にたどり着くことであったり
その先の目的であるならば
凄いと言われたり、尊敬される自分であれば、モテるだろう、そしてモテたい
という手段だったりすると思うのです。
そして、承認欲求が本当にないというのはサイコパス傾向があるのではといいましたが
それは飽くまで会社という環境下の話、そして目的によってはそうなる可能性があるというところです。
例えば
社内ニートって言葉がありますが
楽してお金を稼げることができればいい
となったとき、そこに承認欲求は存在しない(ほとんど)と思うんですね。
(全くもってとはいいません。そして、これは難しいところですがその行動をとっているからといって、本当のところ、承認欲求がないのかというのはなんともいえない部分もあります。それは後に書きます)
他には
自分の利益のため、言い換えるとお金や昇進のため、立場を守るために人を利用するということはあるでしょう。
と、環境で変わるといったのは
僕も全く認められなくていい、それはサイコパス傾向でもなく
本当に承認欲求がない状態もあるな、と思ったからです。
というのも
遠藤さんは道ですれ違う人達に認められたいと思ったことはありますか?
僕はないです。
なぜなら道を歩くということは基本的にどこかの目的地に向かうためであり、道ですれ違う人達が介在する必要のある目的でないからです。
そして
それそのままの承認欲求を目的論で考えると、一緒にいて楽しいだとか
この場のように生きる意味について考えるために情報交換をする
そこに競争や立場を守るためといった目的が存在しない
ある意味横並びの人間関係ってことだと思うんですね。
だから、白銀さんのいう
「がっつかなくてもいいか、いいんだ」「がっつくことを求められてるわけでもない」「がっつくのもしんどいしもっと気楽に肩の力抜いて生きよう」
というのも理解できるな、と思うのは
その横並びの関係であるということに見える内容だからだと思います。
とありますが、この想定した場所(環境)はなにかなと推測すると、会社となると思うんですね。
そして、そこにいる人というと
同じ会社で働く人達ということになると思います。
そして、自分の目的、言い換えると
遠藤さんが会社にいて働く目的と言えるでしょう。
となると、遠藤さんの過去の記事の内容を読んで自分なりの解釈をすると
仕事そのものに対しての猛烈な熱意はない。
ただ、しっかりと仕事をすることは必要だと思っていると思うんです。
だから、遠藤さんの仕事の目的って
今の生活を支えること、そして、創作活動や生きる意味を考える時間を支えることになるんだと思います。
ならば、遠藤さんの会社での承認欲求は
会社にいる理由、そして目的を達成することを満たせば充分なわけです。
となると
認められればいい範囲でいうと
ある程度、仕事はしっかりできますよ
周りとぶつかって問題を起こすことなく、仕事をしますよ
こんな感じなんだと思います。
という風に遠藤さんのことを
まず、例として使わさせてもらいました。
そして、前のコメントに書いた
承認欲求の三段階の話なのですが
承認欲求が過剰というのは
目的論で考えると
承認欲求そのものが目的か、もしくはその先の目的を達成する手段ということなんだと思います。
例を出すと
それそのものが目的であるならば
周りから凄いと言われたい
もしくは自分が凄いと思う人に認められることで自分は凄い人間だと思いたい、快感を得たい
といったイメージする自分にたどり着くことであったり
その先の目的であるならば
凄いと言われたり、尊敬される自分であれば、モテるだろう、そしてモテたい
という手段だったりすると思うのです。
そして、承認欲求が本当にないというのはサイコパス傾向があるのではといいましたが
それは飽くまで会社という環境下の話、そして目的によってはそうなる可能性があるというところです。
例えば
社内ニートって言葉がありますが
楽してお金を稼げることができればいい
となったとき、そこに承認欲求は存在しない(ほとんど)と思うんですね。
(全くもってとはいいません。そして、これは難しいところですがその行動をとっているからといって、本当のところ、承認欲求がないのかというのはなんともいえない部分もあります。それは後に書きます)
他には
自分の利益のため、言い換えるとお金や昇進のため、立場を守るために人を利用するということはあるでしょう。
と、環境で変わるといったのは
僕も全く認められなくていい、それはサイコパス傾向でもなく
本当に承認欲求がない状態もあるな、と思ったからです。
というのも
遠藤さんは道ですれ違う人達に認められたいと思ったことはありますか?
僕はないです。
なぜなら道を歩くということは基本的にどこかの目的地に向かうためであり、道ですれ違う人達が介在する必要のある目的でないからです。
そして
それそのままの承認欲求を目的論で考えると、一緒にいて楽しいだとか
この場のように生きる意味について考えるために情報交換をする
そこに競争や立場を守るためといった目的が存在しない
ある意味横並びの人間関係ってことだと思うんですね。
だから、白銀さんのいう
「がっつかなくてもいいか、いいんだ」「がっつくことを求められてるわけでもない」「がっつくのもしんどいしもっと気楽に肩の力抜いて生きよう」
というのも理解できるな、と思うのは
その横並びの関係であるということに見える内容だからだと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/27 20:33 [ コメントを修正する ]
だから
本当のところは(僕の捉え方は)
承認欲求は
過剰
それそのまま
ない
の3つにわけるものではなくて
その環境において、関わる人達の中で自分がどういう目的を持っているかということなんだと思います。
というのも
承認欲求が過剰、ないというのは自分が想定している承認欲求イメージから比較で考えたり、外の人を見て自分との比較で判断していて、多いや少ないといってるんだな、と思うんですね。
そして、白銀さんのコメントの中に出てきた
「自分で自分を認める」がありましたが
そのことについて僕の思うことを書いていきたいと思います。
僕は自分で自分を認めるということがあんまりしっくりきません。
(というのも、相談したときに、まるっと自分を認めることだよ、だとかあるときは向き合うことだよ、といわれたんですが、そもそもまるっと認めるとはどのような状態か、そしてどのような手段をとるのかがわからないのです。というかそこを聞けばよかった…と思っています。そして向き合うことも同様のことを思っていました)
で、しっくりこないといったのは
僕は~の理由でこうだったから仕方ない、仕方なかったのだ、とそこまでは思えるのですが
その反面、でもなー、という気持ちもあるのです。
そして、でも仕方ない、でもなー、が延々とループする。
だから
自分で自分を認めるって、ある種、諦めの部分もあるのではないかなとおもうのです。
そして
自分で自分を認められないということは
実は自分が他人と関わるなかで
こうできたらいいのに、こうありたい
という目的があって、ある意味
他人がどう考えているかわからない部分があり(うまくやるためにほんとのことをいわない、お世辞、建前)
そこに自分が達していないかもしれないと不安に思うからこそ、自分を自分で認められないそういった部分もあるのではないかと思います。
例えばでいうと
容姿の問題で
自分で自分の顔が嫌だというのは
自分で自分を認められていない状態だと思います。
ただ、それって
モテたいけれども
他の人の容姿と比較したところ、劣っているであろう
だから
上手くいかない可能性が高いのではないか
という、多分、他人の承認を得られないであろうという推測の下、自分で自分を認められない、ということが起こるんだと思うんですね。
同様に、これって年収や仕事、学歴など色んなコンプレックスに関連していることなんだと思います。
だから、実は自分で自分を認めるということはある部分に関しては他者が介在しているものだと思います。
(上で書いた
承認欲求があるのか、ないのか、本当のところはわからない
というのは
他人に認められないと自分で思っているからいいのだ
か
他人に認められなくてもいいよ
と思っているのかが判別つかないからだと思うからです)
となると
遠藤さんのいう
「理想と現実の乖離」が問題になってくる。
取ることが出来る選択肢は
大きく分けると
理想に現実を近づけるか
理想を諦めて現実を生きるか
の二つになると思うんです。
(勿論、度合いはあると思います。最高の理想は無理だけれども、少しでもそこに近づくということは可能です。)
だから
自分で自分を認めるということは
今の自分を認めること
すなわち
理想を諦めて現実を生きる側面が強いということなのだと思います。
さて、そうなったときに
イミフさんのコメントの内容が関係してくると思うんです。
(イミフさん、質問にお答えくださってありがとうございます。)
本当のところは(僕の捉え方は)
承認欲求は
過剰
それそのまま
ない
の3つにわけるものではなくて
その環境において、関わる人達の中で自分がどういう目的を持っているかということなんだと思います。
というのも
承認欲求が過剰、ないというのは自分が想定している承認欲求イメージから比較で考えたり、外の人を見て自分との比較で判断していて、多いや少ないといってるんだな、と思うんですね。
そして、白銀さんのコメントの中に出てきた
「自分で自分を認める」がありましたが
そのことについて僕の思うことを書いていきたいと思います。
僕は自分で自分を認めるということがあんまりしっくりきません。
(というのも、相談したときに、まるっと自分を認めることだよ、だとかあるときは向き合うことだよ、といわれたんですが、そもそもまるっと認めるとはどのような状態か、そしてどのような手段をとるのかがわからないのです。というかそこを聞けばよかった…と思っています。そして向き合うことも同様のことを思っていました)
で、しっくりこないといったのは
僕は~の理由でこうだったから仕方ない、仕方なかったのだ、とそこまでは思えるのですが
その反面、でもなー、という気持ちもあるのです。
そして、でも仕方ない、でもなー、が延々とループする。
だから
自分で自分を認めるって、ある種、諦めの部分もあるのではないかなとおもうのです。
そして
自分で自分を認められないということは
実は自分が他人と関わるなかで
こうできたらいいのに、こうありたい
という目的があって、ある意味
他人がどう考えているかわからない部分があり(うまくやるためにほんとのことをいわない、お世辞、建前)
そこに自分が達していないかもしれないと不安に思うからこそ、自分を自分で認められないそういった部分もあるのではないかと思います。
例えばでいうと
容姿の問題で
自分で自分の顔が嫌だというのは
自分で自分を認められていない状態だと思います。
ただ、それって
モテたいけれども
他の人の容姿と比較したところ、劣っているであろう
だから
上手くいかない可能性が高いのではないか
という、多分、他人の承認を得られないであろうという推測の下、自分で自分を認められない、ということが起こるんだと思うんですね。
同様に、これって年収や仕事、学歴など色んなコンプレックスに関連していることなんだと思います。
だから、実は自分で自分を認めるということはある部分に関しては他者が介在しているものだと思います。
(上で書いた
承認欲求があるのか、ないのか、本当のところはわからない
というのは
他人に認められないと自分で思っているからいいのだ
か
他人に認められなくてもいいよ
と思っているのかが判別つかないからだと思うからです)
となると
遠藤さんのいう
「理想と現実の乖離」が問題になってくる。
取ることが出来る選択肢は
大きく分けると
理想に現実を近づけるか
理想を諦めて現実を生きるか
の二つになると思うんです。
(勿論、度合いはあると思います。最高の理想は無理だけれども、少しでもそこに近づくということは可能です。)
だから
自分で自分を認めるということは
今の自分を認めること
すなわち
理想を諦めて現実を生きる側面が強いということなのだと思います。
さて、そうなったときに
イミフさんのコメントの内容が関係してくると思うんです。
(イミフさん、質問にお答えくださってありがとうございます。)
posted by 加古歩at 2019/08/27 20:35 [ コメントを修正する ]
それがどのように関係してくるか
僕の考え方を書かせてもらいます。
(というよりも、僕の言いたいことがあるということですかね)
僕は言葉よりも行動が重要というのはわかります。
言葉であれこれいうよりも
行動を起こして現実のものにする方が重要だと思うからです。
(そして、現実に起こさないと意味がありません)
ただし、状態よりも行動が重要というのは僕はちょっと、賛同できないです。
なぜなら状態(感覚)が重要だと思うからこそ、そこ向かう行動も同様に重要になってくるのだと、僕は思っています。
(だって、その状態が重要でなければ
そこにむかう必要もない、すなわちそこに向かう行動も重要ではなくなるということです)
そして、どうやったら満足できるかわからないならば
そこにこだわる必要はない
も同様に賛同できないです。
なぜなら
その感覚が重要だと思っているからこそ
そこに向かう行動がわからないことに困っている。
そこをわからないから仕方ないというのは
遠藤さんの言葉を借りると
ある意味、いいこと、わるいこと、あるよねとなんとなく生きることになります。
そして、そのなんとなく生きているのが
空しくて、精神的につらいからこそ
どうしたらいいのが考えるのだと思います。
そして、
わからないからこそ考えるのは
そこがわかればどのような行動をとればいいかもわかるはずだということです。
でも、こんな否定的なコメントを残しておきながら
僕の出した生きる意味についての
答えは良くない答えです。
(というか、なんとなく生きることができなかったからこそ考えた、ということなんでしょう)
だから、僕は今、
理想と現実の乖離に苦しんでいて
理想に死ぬのか
現実に生きるのか
大きな2つの選択肢のどちらを選ぶのか
その葛藤に悩まされています。
と、まだ生きる意味について
の内容は途中なので
追々、書いていきたいと思います。
僕の考え方を書かせてもらいます。
(というよりも、僕の言いたいことがあるということですかね)
僕は言葉よりも行動が重要というのはわかります。
言葉であれこれいうよりも
行動を起こして現実のものにする方が重要だと思うからです。
(そして、現実に起こさないと意味がありません)
ただし、状態よりも行動が重要というのは僕はちょっと、賛同できないです。
なぜなら状態(感覚)が重要だと思うからこそ、そこ向かう行動も同様に重要になってくるのだと、僕は思っています。
(だって、その状態が重要でなければ
そこにむかう必要もない、すなわちそこに向かう行動も重要ではなくなるということです)
そして、どうやったら満足できるかわからないならば
そこにこだわる必要はない
も同様に賛同できないです。
なぜなら
その感覚が重要だと思っているからこそ
そこに向かう行動がわからないことに困っている。
そこをわからないから仕方ないというのは
遠藤さんの言葉を借りると
ある意味、いいこと、わるいこと、あるよねとなんとなく生きることになります。
そして、そのなんとなく生きているのが
空しくて、精神的につらいからこそ
どうしたらいいのが考えるのだと思います。
そして、
わからないからこそ考えるのは
そこがわかればどのような行動をとればいいかもわかるはずだということです。
でも、こんな否定的なコメントを残しておきながら
僕の出した生きる意味についての
答えは良くない答えです。
(というか、なんとなく生きることができなかったからこそ考えた、ということなんでしょう)
だから、僕は今、
理想と現実の乖離に苦しんでいて
理想に死ぬのか
現実に生きるのか
大きな2つの選択肢のどちらを選ぶのか
その葛藤に悩まされています。
と、まだ生きる意味について
の内容は途中なので
追々、書いていきたいと思います。
posted by 加古歩at 2019/08/27 20:56 [ コメントを修正する ]
なんていうんだろうか、伝わっているのか伝わっていないのかわからない
なんだろ、生きる意味なんて考えなくなくていいんじゃないか?ってことなんすよね
これは語弊があって、考える必要がないって言いたいんじゃなくって。なんかもうすでに終わっているんじゃないかっていうことなんだよね。
答えにたどり着く前に、もう、すでにその過程で十分手に入れているんじゃないかな
これでも語弊があるんだけど。大体そんな感じか。
私の感覚的には、考えてもいいし、考えなくてもいいし、満足してもいいし、しなくてもいいって感じなんだよな。
これを言葉に表すのは難しい
べつにありがままが良いって言いたいんじゃないんだよな
なんかすでに手に入れているものあるんじゃないか?
だから満足しなくてもいいんじゃねって感じなんだ
ちなみに自分は満足したいから満足できるほうに向かうけどね
でも、別に満足できなくてもいいんだわ
現に今満足してもいないし、真に幸福だなんて感じてないんだわ
でもそれでいいんじゃね?
別にあきらめているわけじゃないんだよ
途中で何を手に入れたかって言われたら難しいけど、まだ何も手に入れていない自分がいるんだわ
そういうことなんだよ
っていうのが自分の実感なんよ
まさに今で、たぶん1週間たったら忘れてしまうかもしれない
なんだろ、生きる意味なんて考えなくなくていいんじゃないか?ってことなんすよね
これは語弊があって、考える必要がないって言いたいんじゃなくって。なんかもうすでに終わっているんじゃないかっていうことなんだよね。
答えにたどり着く前に、もう、すでにその過程で十分手に入れているんじゃないかな
これでも語弊があるんだけど。大体そんな感じか。
私の感覚的には、考えてもいいし、考えなくてもいいし、満足してもいいし、しなくてもいいって感じなんだよな。
これを言葉に表すのは難しい
べつにありがままが良いって言いたいんじゃないんだよな
なんかすでに手に入れているものあるんじゃないか?
だから満足しなくてもいいんじゃねって感じなんだ
ちなみに自分は満足したいから満足できるほうに向かうけどね
でも、別に満足できなくてもいいんだわ
現に今満足してもいないし、真に幸福だなんて感じてないんだわ
でもそれでいいんじゃね?
別にあきらめているわけじゃないんだよ
途中で何を手に入れたかって言われたら難しいけど、まだ何も手に入れていない自分がいるんだわ
そういうことなんだよ
っていうのが自分の実感なんよ
まさに今で、たぶん1週間たったら忘れてしまうかもしれない
posted by イミフat 2019/08/28 22:40 [ コメントを修正する ]
いるか、いないか、でいうと、伝わってないと思います。
ただ、以前もどこかで書きましたが、この、生きる意味という表現から派生する問題(実存的空虚感)は、誰しも抱くものではないと思います。
何故発生するかについて、当然普遍的な答えは持ち合わせていませんが、一つ原因と思われるものはあります。また覚えていたら記事にしようと思います。
というと、俺とお前は価値観が違うから分かり合えないんだ、と聞こえる危惧はありますが、そうではなくて、多分、感覚的な違いの部分と、外部表現の部分の違いとが分かりづらくなってるんだと思います。
イミフさんの、考えてもいい、考えなくてもいい、満足してもいい、しなくてもいい、しかし諦念とは違う、という言葉自体の意味は分かりますが、感覚、が伝わってないのです。
私も、その方が、そうできたらいいなと思いつつ、感覚としては、考えざるをえない、と。
何故か、となったとき、加古さんの仰るとおり、感覚が起点のものに理屈付けしても解決にはならない、という点が重要かと思います。
一方で、既に得ているものがあるんじゃないか、という点は、またしても斬新だなと。
もう少しじっくり考えみたい部分ではありますが、これも以前書いた、漫画エデンの、オートマタ氏が、色々得てきたが、一番欲しかったモノが手に入らなかった、と言っていた方向になるのが心配となります。
ただ、漸次必要なこととも思います。
ただ、以前もどこかで書きましたが、この、生きる意味という表現から派生する問題(実存的空虚感)は、誰しも抱くものではないと思います。
何故発生するかについて、当然普遍的な答えは持ち合わせていませんが、一つ原因と思われるものはあります。また覚えていたら記事にしようと思います。
というと、俺とお前は価値観が違うから分かり合えないんだ、と聞こえる危惧はありますが、そうではなくて、多分、感覚的な違いの部分と、外部表現の部分の違いとが分かりづらくなってるんだと思います。
イミフさんの、考えてもいい、考えなくてもいい、満足してもいい、しなくてもいい、しかし諦念とは違う、という言葉自体の意味は分かりますが、感覚、が伝わってないのです。
私も、その方が、そうできたらいいなと思いつつ、感覚としては、考えざるをえない、と。
何故か、となったとき、加古さんの仰るとおり、感覚が起点のものに理屈付けしても解決にはならない、という点が重要かと思います。
一方で、既に得ているものがあるんじゃないか、という点は、またしても斬新だなと。
もう少しじっくり考えみたい部分ではありますが、これも以前書いた、漫画エデンの、オートマタ氏が、色々得てきたが、一番欲しかったモノが手に入らなかった、と言っていた方向になるのが心配となります。
ただ、漸次必要なこととも思います。
posted by 遠藤at 2019/08/28 23:40 [ コメントを修正する ]
なんというか、今仕事にきりがつき、帰るところで、本当に時間が十分にとれないという、いいわけをどうしても書いておきたいほどに、
本当に、私の過去の記事も含めて読んで頂き、理解、認識してくださったのだと、本当に嬉しいを通り過ぎて驚きました。
100%とはいいがたい分野ですが、もう99%は少なくても文章としては伝わってるなと思いました。
いやまぁ分かってます、そんなことは起点であって、ここから先が大事なんですよね。
ただ、本当にこのあたりの、ここでは敢えて感覚、という言葉を使いますが、この感覚が近い人と出会えるのは稀だと思っていて、感謝しています。
イミフさんへのコメントを例に出すのは、イヤではありますが、たぶん、起点、または座標の始まり、そういったのが異なってるんだと思ってます。
思考、とか、X軸とY軸で表したとき、その移動した距離と、向かう方向、傾きなんかは似ている場合があれど、その開始地点が違うのかなと。
……全然中身のないコメントですが、取り急ぎ読ませて頂いているというご返信まで。
いやほんと、仕事に対しての感覚とか、まったくもってその通りです。
そこと、承認欲求との関係あたりは、もう少しじっくり確認したいと思ってます。
本当に、私の過去の記事も含めて読んで頂き、理解、認識してくださったのだと、本当に嬉しいを通り過ぎて驚きました。
100%とはいいがたい分野ですが、もう99%は少なくても文章としては伝わってるなと思いました。
いやまぁ分かってます、そんなことは起点であって、ここから先が大事なんですよね。
ただ、本当にこのあたりの、ここでは敢えて感覚、という言葉を使いますが、この感覚が近い人と出会えるのは稀だと思っていて、感謝しています。
イミフさんへのコメントを例に出すのは、イヤではありますが、たぶん、起点、または座標の始まり、そういったのが異なってるんだと思ってます。
思考、とか、X軸とY軸で表したとき、その移動した距離と、向かう方向、傾きなんかは似ている場合があれど、その開始地点が違うのかなと。
……全然中身のないコメントですが、取り急ぎ読ませて頂いているというご返信まで。
いやほんと、仕事に対しての感覚とか、まったくもってその通りです。
そこと、承認欲求との関係あたりは、もう少しじっくり確認したいと思ってます。
posted by 遠藤at 2019/08/29 00:08 [ コメントを修正する ]
自己承認も、他者承認も、結局のところ、「自他」を意識しているが故に発生しているものだと思います。
自分で自分を認めたい、も加古さんが言っているように「他人に映る自分」が少なからず影響しています。その影響のダイレクトなものが、「他人に認められたい」という直接的な承認欲求で、「自分を認めたい」は影響が小さい、あるいは影響の経路が複雑になっていて他者に直接承認を求めなくなっているパターンなのかなと。
人間関係というのは「自分に影響を与えうる他者」という部分が重要で、道端ですれ違った人に承認欲求が生じなかったり、自分に関係ない他人の死にさほど感情が動かされないのは「自分に影響を与える他者ではないから」なのだと思います。
その「他者が自分に与える影響」がプラスになるように「他者に認められたい(=ポジティブな感情を相手に持ってもらうことで自分にプラスの影響や行動を返させる)」という感覚や心理が働くようになっているのだろうと思います。「自分に対して良い影響や行動をしてくれる人だからこちらもプラスになることをしよう」という連鎖が人間関係の基礎部分なんだと思います。
私が大切にしたい、友好関係を維持したい、自分の存在を記憶や意識に留めておいて欲しい、と思う相手は大抵の場合その連鎖をくれる人たちなわけです。
そして、理想と現実の乖離と諦念についてですが、私は過去にこれについての哲学を盛り込んだ作品を書いたことがあります。
その作品の当時の結論としては、「理想とは実現できないから理想であって、完全に一致する現実は手に入るものではない。だから少しでもそれに近付けようとする」という一つの回答が最初にあり、最後は「だからといって諦められるものでないのなら最後まで妥協せず足掻き抜こうという意思こそが重要だ」という、結論としては大差ないのですが前者のネガティブさを反転させたようなものを提示しました。
意識、感覚の持ちようと言いますか、どこをどうネガティブ/ポジティブに捉えるか、同じものでもポジティブに捉えることもできる、といったものを描いて、当時の環境変化や自身の価値観変化をも盛り込んでいました。
理想に死ぬのか、現実に生きるのか。
作品内では大層な結論を振りかざしましたが、実際の私はどちらも選べず、結果的に現実をずるずると生きている感じでしょうか。
その中で、「現実もそこまで悪くはないな、ある程度好きなことできてるし」と思えたのが大きいのかもしれません。あと、「理想に向かったとして、今のようにある程度余裕ある生活、好きなことを好きなようにやれる生活が出来ただろうか?」と考えた時に、肯定し切れない自分もいたりします。
諦めてはいない、を言い訳に現実を生きることで、自分を納得させているところはあるかもしれません。
ただ、「自分の意思として理想よりも現実を選んだ」とも言えるのは確かです。
というか、私には他の何もかもを投げ捨ててまで理想に向かうほどの度胸はなく、手にしたものもある現実を手放してまで追うほどの熱意ある理想を思い描けていなかった部分もあり、思い描いていた自分の中の理想と実際の理想に当たるであろう生活とのギャップを知ったり、そこに至る取っ掛かりとしての運や力がなかった自分自身に挫けたりなんかも色々あったわけですが。
感覚としては、現状に不満がないわけではないんですが、満足している部分もあって、わざわざそれを壊す必要性も感じていないので現状維持あるいはそこから繋がっていくであろう未来でいいかな、と妥協に至っています。
それも自分の選んだ道だし、自分らしい選択、あるいはそういう選択をするからこその自分なのだろう、と。
何だかもうちょっと違うことを書きたかったような気もしているのですが、折角書いてしまったし消すのも勿体無い気がするのでとりあえず送信してしまうことにします。
自分で自分を認めたい、も加古さんが言っているように「他人に映る自分」が少なからず影響しています。その影響のダイレクトなものが、「他人に認められたい」という直接的な承認欲求で、「自分を認めたい」は影響が小さい、あるいは影響の経路が複雑になっていて他者に直接承認を求めなくなっているパターンなのかなと。
人間関係というのは「自分に影響を与えうる他者」という部分が重要で、道端ですれ違った人に承認欲求が生じなかったり、自分に関係ない他人の死にさほど感情が動かされないのは「自分に影響を与える他者ではないから」なのだと思います。
その「他者が自分に与える影響」がプラスになるように「他者に認められたい(=ポジティブな感情を相手に持ってもらうことで自分にプラスの影響や行動を返させる)」という感覚や心理が働くようになっているのだろうと思います。「自分に対して良い影響や行動をしてくれる人だからこちらもプラスになることをしよう」という連鎖が人間関係の基礎部分なんだと思います。
私が大切にしたい、友好関係を維持したい、自分の存在を記憶や意識に留めておいて欲しい、と思う相手は大抵の場合その連鎖をくれる人たちなわけです。
そして、理想と現実の乖離と諦念についてですが、私は過去にこれについての哲学を盛り込んだ作品を書いたことがあります。
その作品の当時の結論としては、「理想とは実現できないから理想であって、完全に一致する現実は手に入るものではない。だから少しでもそれに近付けようとする」という一つの回答が最初にあり、最後は「だからといって諦められるものでないのなら最後まで妥協せず足掻き抜こうという意思こそが重要だ」という、結論としては大差ないのですが前者のネガティブさを反転させたようなものを提示しました。
意識、感覚の持ちようと言いますか、どこをどうネガティブ/ポジティブに捉えるか、同じものでもポジティブに捉えることもできる、といったものを描いて、当時の環境変化や自身の価値観変化をも盛り込んでいました。
理想に死ぬのか、現実に生きるのか。
作品内では大層な結論を振りかざしましたが、実際の私はどちらも選べず、結果的に現実をずるずると生きている感じでしょうか。
その中で、「現実もそこまで悪くはないな、ある程度好きなことできてるし」と思えたのが大きいのかもしれません。あと、「理想に向かったとして、今のようにある程度余裕ある生活、好きなことを好きなようにやれる生活が出来ただろうか?」と考えた時に、肯定し切れない自分もいたりします。
諦めてはいない、を言い訳に現実を生きることで、自分を納得させているところはあるかもしれません。
ただ、「自分の意思として理想よりも現実を選んだ」とも言えるのは確かです。
というか、私には他の何もかもを投げ捨ててまで理想に向かうほどの度胸はなく、手にしたものもある現実を手放してまで追うほどの熱意ある理想を思い描けていなかった部分もあり、思い描いていた自分の中の理想と実際の理想に当たるであろう生活とのギャップを知ったり、そこに至る取っ掛かりとしての運や力がなかった自分自身に挫けたりなんかも色々あったわけですが。
感覚としては、現状に不満がないわけではないんですが、満足している部分もあって、わざわざそれを壊す必要性も感じていないので現状維持あるいはそこから繋がっていくであろう未来でいいかな、と妥協に至っています。
それも自分の選んだ道だし、自分らしい選択、あるいはそういう選択をするからこその自分なのだろう、と。
何だかもうちょっと違うことを書きたかったような気もしているのですが、折角書いてしまったし消すのも勿体無い気がするのでとりあえず送信してしまうことにします。
>「満足した人生を送る必要があるため」となる。
ある程度、繰り返してください。
(繰り返すと階層になるから、各階層で考えることができるよ)
満足(充足)して(前向きに)生きたい
↓
満足して、前向きに生きたいのはなんでなん??
ってこと
あるいは、満足、前向きって別の言葉で表すと何?ってこと。
生きる意味って言葉を、「生きる」とか「意味」とかって言葉を使って説明すると、説明としてあまりよくないのと同じっす。