〇書くべきか、書かないべきか、迷ったら、書こうか。
・JQUERYで目次を付けてみた。
・攻殻機動隊のFPSをやってみた
・攻殻機動隊の実写映画が海外で公開されているようだ
・……あれ、思い出せない
で、インストール完了し、チュートリアルプレイして、チームデスマッチ5本ぐらいやってみた。キルレート(倒した数÷やられた数)1.1ぐらい。オープン間もないし、初めての人が多いからかもしれないが、意外に倒せたりもして楽しかった。しかし、FPSって殆どやったことないんだよな。TPSのあるゲーム(もうサービス終了してしまった)は、学生のころ相当たくさんやり込んだけれど。
ちなみに、FPSは、ファーストパーソンシューターで、TPSは、サードパーソンシューターということで、プレイヤーの視点が違う。FPSの方は臨場感たっぷり、TPSは自キャラが見える状態で戦う。
これが、もうちょっと昔に始めてたら、結構はまってたかも。
映像きれいだし、声優さんとか映画とかアニメーションと同じで、それだけでテンションが上がった。
しかし、正直な感想として、うーん、これ、FPSの意味あるか……? と思ってしまった。
なんだろう、架空キャラで戦う設定ならまだしも、実際原作に登場する少佐とかバトーさんとかトグサくんとかイシカワさんとかを選んで使えるという胸が熱くなる設定なんだったら、そのゲームプレイ中キャラクターが全然見えないFPSの視点って、如何なものなのか?
もう一つ書くと、物語を求める最近の僕としては、いくら頑張ってFPSを鍛えて強くなって、勝ったり負けたり白熱した戦いを繰り広げたところで、結局FPSの腕前以外に何も残らないんだよな。
先日、ゲームだって、単なる消費じゃないんだぜ、とか書いたけれども、FPSとか格闘ゲームは、ちょっと今本気でやろうとは思えなかった。という心境は、何だか寂しいものだったけれど。いやぁ、ほんと、TPSのあのゲームは相当やったなぁ。そこで出会った人たちも、懐かしいなぁ、今でも覚えてる。めっきりまったく音信不通になってしまったけれど。ああそういや、あのころは、メッセンジャーとかあったんだな。あの文化も廃れちゃったんだなぁ寂しいもんだなぁ……と、どこまで懐古すりゃあ気が済むんだ俺は。
ただ、そのゲームで出会った方で、何人か、僕のブログを教えたことがあったんだけれど、その中の一人だけ、「遠藤くんの記事って何か深いよね」とか言ってくれた方がいて、そんときは嬉しかったなぁ。
http://wired.jp/2016/11/14/ghost-in-the-shell-trailer/
うーん、これも、何だか、期待できるような微妙なような……。
折々に、映画のシーンを思わせる場面があって、おーこれ、実写だと確かにこんな感じだよねーという感動はありそうなんだけれど、これも、実写映画にする必要あるんだろうか、という感覚もあり……。
いやいや、必要がどうとか、そんなの関係ないね、面白きゃそれでいいんだ。面白いこと、とても大事。
しかし、進撃の巨人は、実写映画の最初のやつだけ見たけれど、やっぱり漫画の面白さ(感動具合)には勝らなかった。アイアムアヒーローも実写をやるんだっけ? それもあまり期待できない。
そういえば、昔、アバターの映画みて感動した、という記事を書いて、ただ、実写映画だと、その「解釈性」ゆえに、二回見て感動するってのはなさそうだ、ということを書いたような気がする。
本とかアニメーションとか、結構何回見ても面白いな、と思うものはある。
それこそ、攻殻機動隊の映画もアニメも、何回みたか分からないほどだ。けれども、実写の作品を、何度も見ようと思うことがあまりない、ということに気づいたのが、そのアバターの映画がきっかけである。確かに、アバター、面白かった。けれども、2回見ようとは中々思えない。インセプションもすげー面白かった、でも、2回見ようとは中々思えない。
ああ、でも、ワイルドスピードは2回、3回見たな。でもあれは、車がかっこいいからそれでいいんだ(笑)。
昔、サイト構築始めたころ、2005年ぐらいから、javascriptの技術はあったけれども、昔はブラウザクラッシュさせる原因だとか、重くなるだとか、制限が多くて、敬遠していた。しかし、もう最近は、ほとんどのブラウザで対応しているようだし、そもそもPCのスペックが相対的に上昇しているから、javascript程度で重くなるようなことは殆どないだろう。結構できること多いみたいだし、少し学んでみようかな、と思った。うーん、しかし、感覚で何とかなるかと思ったけれども、やっぱり基本はちゃんと学ばないと、オリジナルでカスタマイズするのは難しそうだな。ほんとは、各ページごとに各記事ごとの上部に目次を表示させたかったけれども、何だか、一回ループさせたらアウトプットできなくなって、おかしな表示になっている……。まぁ優先度低めの課題だな。
その、関係ないけれど、「ブラウザ重い」で思い出したけれども、アメーバブログ、あれ、嫌いだ。アメブロ使っているお気に入り登録しているブログさんたち、結構多いから、書くのは大変心苦しいとは思いながら、別にそのブログ記事がいけないとかじゃないので書いてしまおう。
だから、ブログで広告表示して、それで利益になるんだったら、仕方がないと思う(ほんとに利益になるもんだかよく分からんが)。
だが、アメーバブログは、「広告を先に表示させている」(気がする)ので、嫌いなのだ。
HTMLとCSSのWEBの記述さえ気を付ければ、どの順番にブラウザにロードさせるかというのは調整することができる。ので、アメブロは敢えて先に広告を表示させている、ように思えるのだ。しっかり検証したわけじゃないから、僕の環境でそう見えるだけかもしれないけれども、ただ実際、コンテンツの本丸より先に広告が表示されるのである。
それってどうなんだ? と思う。有名人のブログとか、アメーバ使ってる人はこんな芸能人もいるんですよ! とか自慢したい気持ちも分からんではないが、正直、……(閉口)である。
他にも、イイネ的な機能とか、ブロ友的機能も、アメブロ会員限定なところとか、囲い込み的なところもマイナス印象であったりする。
まぁ、忍者ブログも、トラックバック機能がないし、カテゴリの一括変更もできなくて、「えぇっマジかよ?!」と思ったこともあったけれど。
はてブロも使ったことあるけれども、やっぱり、機能面(安定性)としては、FC2が良かったかなぁ……。
しかし、仕事は不調期である、中々上手くいかない、人間関係的な問題が発生している。
しかし、まぁ、想定内である、とか言っちゃうと、負け惜しみみたいなんだけど。
ああ、そうそう、一つ思い出した、何だか、昨日とか、結構長々と書いてしまったものだけれども、
地獄のミサワ、という漫画というか作家さんのキャラクターの中で、「キング」みたいなこと、自分いってるんじゃないかって、そう思ったんだ。苦笑したわなぁ。
キング
http://jigokuno.com/cid_84.html
「あ、俺常に俯瞰視点だから嚙み合わないんだね~」
「そっか~会話レベル相当落としたんだけど、まだ足りなかったかぁ~」
とか、そんなような感じの名(迷)台詞の数々(笑)。
「意識高い系」という言葉が流行る前から、このキャラクター描かれてるんじゃないかな。このクリエイターさんもすごいよなぁ。絵というか、ストーリーというか、キャラ作りがすごい。人間観察というか、人間理解がしっかりしてる人なんだろうなぁって、思うって感想がそもそも「俯瞰視点」か(かっこにがわらい)。
それはそうと、上手くいかなすぎて、苛々することもできずに、WALKMAN忘れたから音楽きくこともできずにトボトボ帰ったわけだけれど、ふと周りをみて思った。
何だか、どの誰をみても、こんなブログみたいなへにょへにょなことを書いてそうな人はいなそうだなって。
というか、白髪まじりのおじさんとかが、「生きる意味とは~」「自分とは~」とか、何か書いてたら、気持ち悪くないか?
試しに、目の前の人、スマホいじってるけど、こういったブログを書いているとする。
うわ、似合わな!!
じゃあ、あの人はどうだ、ちょっと若い感じの、きりっとしたスーツのサラリーマンさん。
うーん、やっぱり似合わないなぁ。
と、気持ち悪いことやってて、俺は思った。やっぱり、仲間はいないなぁっと。
寂しい、という感覚には不思議とならなかったけれども、何だかこれまで他者とに違和感を覚えていたのも、致し方なかったと思った。いやそれは、お前がちゃんと自分を開示してちゃんと他者と向き合って付き合ってこなかったからだ、という批判はもっともだろうけれど、やっぱり、それやらなくて正解だったような気がしてならない。
まぁ、その、何だ、自分を押し殺して生きるってのだって、一つ、物語の選択じゃあないかと、思う。
誰しも、ヒーローになんかなれないんだ。すぐさま書いておくべきは、一方で、ヒーローにはなれなくても、誰しも、自分という物語の主人公なんだ(キリッ)。
はぁ……よくもまぁ、歳がいなく、そんな恥ずかしいこと書けるよなぁと自嘲である。
でも、仕方がない、このブログの目的の一つはまさにそれである。思考感覚としては、「バカらしい」というものであっても、それは、一般的、現実環境からのフィードバックによる疑似感覚であって、本来的自己により発生した感覚ではない、という観点だ。
敢えて攻撃的に書いてみれば、「きもい」とか「ばからしい」とか「おこちゃまだ」とか、そんな批判ばっかしてるてめーの人生は、そんなマシなもんなんかと。おめーの生きる意味はなんだ? 言ってみろ? あ? 「日々楽しく一生懸命生きてます」だ? 一生やってろ! 一生楽しく幸せな人生おくって、充実した余生や友人や家族に囲まれて穏やかな気持ちで死にやがれ!!
……あれ、何か、褒めてない? 攻撃的というか、白旗宣言の気が……。
・JQUERYで目次を付けてみた。
・攻殻機動隊のFPSをやってみた
・攻殻機動隊の実写映画が海外で公開されているようだ
・……あれ、思い出せない
攻殻機動隊のFPS
昨日、さぁ寝ようかな、と思ったら、ツイッターか何かかの宣伝で、「攻殻機動隊のFPSついに解禁!」とか何とかあって、えぇ、そりゃあ、取りあえずやる以外に選択肢ないよね……と、眠気を吹っ飛ばし、クライアントのダウンロード、インストールを開始。いくら高性能のPCでも、ダウンロードは如何ともしがたく時間はかかる、ああこれ、24時過ぎるなぁ……と。で、インストール完了し、チュートリアルプレイして、チームデスマッチ5本ぐらいやってみた。キルレート(倒した数÷やられた数)1.1ぐらい。オープン間もないし、初めての人が多いからかもしれないが、意外に倒せたりもして楽しかった。しかし、FPSって殆どやったことないんだよな。TPSのあるゲーム(もうサービス終了してしまった)は、学生のころ相当たくさんやり込んだけれど。
ちなみに、FPSは、ファーストパーソンシューターで、TPSは、サードパーソンシューターということで、プレイヤーの視点が違う。FPSの方は臨場感たっぷり、TPSは自キャラが見える状態で戦う。
これが、もうちょっと昔に始めてたら、結構はまってたかも。
映像きれいだし、声優さんとか映画とかアニメーションと同じで、それだけでテンションが上がった。
しかし、正直な感想として、うーん、これ、FPSの意味あるか……? と思ってしまった。
なんだろう、架空キャラで戦う設定ならまだしも、実際原作に登場する少佐とかバトーさんとかトグサくんとかイシカワさんとかを選んで使えるという胸が熱くなる設定なんだったら、そのゲームプレイ中キャラクターが全然見えないFPSの視点って、如何なものなのか?
もう一つ書くと、物語を求める最近の僕としては、いくら頑張ってFPSを鍛えて強くなって、勝ったり負けたり白熱した戦いを繰り広げたところで、結局FPSの腕前以外に何も残らないんだよな。
先日、ゲームだって、単なる消費じゃないんだぜ、とか書いたけれども、FPSとか格闘ゲームは、ちょっと今本気でやろうとは思えなかった。という心境は、何だか寂しいものだったけれど。いやぁ、ほんと、TPSのあのゲームは相当やったなぁ。そこで出会った人たちも、懐かしいなぁ、今でも覚えてる。めっきりまったく音信不通になってしまったけれど。ああそういや、あのころは、メッセンジャーとかあったんだな。あの文化も廃れちゃったんだなぁ寂しいもんだなぁ……と、どこまで懐古すりゃあ気が済むんだ俺は。
ただ、そのゲームで出会った方で、何人か、僕のブログを教えたことがあったんだけれど、その中の一人だけ、「遠藤くんの記事って何か深いよね」とか言ってくれた方がいて、そんときは嬉しかったなぁ。
攻殻機動隊の実写映画
http://wired.jp/2016/11/14/ghost-in-the-shell-trailer/
うーん、これも、何だか、期待できるような微妙なような……。
折々に、映画のシーンを思わせる場面があって、おーこれ、実写だと確かにこんな感じだよねーという感動はありそうなんだけれど、これも、実写映画にする必要あるんだろうか、という感覚もあり……。
いやいや、必要がどうとか、そんなの関係ないね、面白きゃそれでいいんだ。面白いこと、とても大事。
しかし、進撃の巨人は、実写映画の最初のやつだけ見たけれど、やっぱり漫画の面白さ(感動具合)には勝らなかった。アイアムアヒーローも実写をやるんだっけ? それもあまり期待できない。
そういえば、昔、アバターの映画みて感動した、という記事を書いて、ただ、実写映画だと、その「解釈性」ゆえに、二回見て感動するってのはなさそうだ、ということを書いたような気がする。
本とかアニメーションとか、結構何回見ても面白いな、と思うものはある。
それこそ、攻殻機動隊の映画もアニメも、何回みたか分からないほどだ。けれども、実写の作品を、何度も見ようと思うことがあまりない、ということに気づいたのが、そのアバターの映画がきっかけである。確かに、アバター、面白かった。けれども、2回見ようとは中々思えない。インセプションもすげー面白かった、でも、2回見ようとは中々思えない。
ああ、でも、ワイルドスピードは2回、3回見たな。でもあれは、車がかっこいいからそれでいいんだ(笑)。
JQUERY自動目次作成
この忍者ブログのテンプレート編集とか、HTMLとかCSSとか、反映されるタイミングにラグがあって、自分の設置したJQUERY(javascript)が原因なのか、単にラグで反映されてないだけなのか分からず、非常に導入に時間がかかった。そもそも、javascriptいじるのもコードみるのも初めてである。昔、サイト構築始めたころ、2005年ぐらいから、javascriptの技術はあったけれども、昔はブラウザクラッシュさせる原因だとか、重くなるだとか、制限が多くて、敬遠していた。しかし、もう最近は、ほとんどのブラウザで対応しているようだし、そもそもPCのスペックが相対的に上昇しているから、javascript程度で重くなるようなことは殆どないだろう。結構できること多いみたいだし、少し学んでみようかな、と思った。うーん、しかし、感覚で何とかなるかと思ったけれども、やっぱり基本はちゃんと学ばないと、オリジナルでカスタマイズするのは難しそうだな。ほんとは、各ページごとに各記事ごとの上部に目次を表示させたかったけれども、何だか、一回ループさせたらアウトプットできなくなって、おかしな表示になっている……。まぁ優先度低めの課題だな。
その、関係ないけれど、「ブラウザ重い」で思い出したけれども、アメーバブログ、あれ、嫌いだ。アメブロ使っているお気に入り登録しているブログさんたち、結構多いから、書くのは大変心苦しいとは思いながら、別にそのブログ記事がいけないとかじゃないので書いてしまおう。
アメブロは重いし宣伝が多い
広告が多いのは、無料ブログだったら仕方がないと思う。サーバー管理だって、お金がかかるんだ。だから、他のサイトにおいて、広告なしで使わせて頂いているのは、本当に感謝である。何というか、「無料」が当たり前、というような感覚の人がいるけれども、何するにも結局お金ってかかってるんだ。飲食店で水が無料だってのも、日本では当たり前だけれども、実際は店側が水道代のコストを支払っているのである。いやだからといって、飲食店で水で金とるのが普通だとは全く思わない、そうではなくて、「無料」といったって、実際はコストがかかっているんだ、という話し。だから、ブログで広告表示して、それで利益になるんだったら、仕方がないと思う(ほんとに利益になるもんだかよく分からんが)。
だが、アメーバブログは、「広告を先に表示させている」(気がする)ので、嫌いなのだ。
HTMLとCSSのWEBの記述さえ気を付ければ、どの順番にブラウザにロードさせるかというのは調整することができる。ので、アメブロは敢えて先に広告を表示させている、ように思えるのだ。しっかり検証したわけじゃないから、僕の環境でそう見えるだけかもしれないけれども、ただ実際、コンテンツの本丸より先に広告が表示されるのである。
それってどうなんだ? と思う。有名人のブログとか、アメーバ使ってる人はこんな芸能人もいるんですよ! とか自慢したい気持ちも分からんではないが、正直、……(閉口)である。
他にも、イイネ的な機能とか、ブロ友的機能も、アメブロ会員限定なところとか、囲い込み的なところもマイナス印象であったりする。
まぁ、忍者ブログも、トラックバック機能がないし、カテゴリの一括変更もできなくて、「えぇっマジかよ?!」と思ったこともあったけれど。
はてブロも使ったことあるけれども、やっぱり、機能面(安定性)としては、FC2が良かったかなぁ……。
仕事が上手くいかないが想定の範囲内
あー、何だ、上に書いたようなことは、特に生きる意味を考える上であまり重要性が無い、確かに、無い。そんなことを、書いている暇があるのか、そう思った、思ったから、どうしようかなぁと悩んでしまったから、じゃあ、取りあえず書けば? と。しかし、仕事は不調期である、中々上手くいかない、人間関係的な問題が発生している。
しかし、まぁ、想定内である、とか言っちゃうと、負け惜しみみたいなんだけど。
ああ、そうそう、一つ思い出した、何だか、昨日とか、結構長々と書いてしまったものだけれども、
地獄のミサワ、という漫画というか作家さんのキャラクターの中で、「キング」みたいなこと、自分いってるんじゃないかって、そう思ったんだ。苦笑したわなぁ。
キング
http://jigokuno.com/cid_84.html
「あ、俺常に俯瞰視点だから嚙み合わないんだね~」
「そっか~会話レベル相当落としたんだけど、まだ足りなかったかぁ~」
とか、そんなような感じの名(迷)台詞の数々(笑)。
「意識高い系」という言葉が流行る前から、このキャラクター描かれてるんじゃないかな。このクリエイターさんもすごいよなぁ。絵というか、ストーリーというか、キャラ作りがすごい。人間観察というか、人間理解がしっかりしてる人なんだろうなぁって、思うって感想がそもそも「俯瞰視点」か(かっこにがわらい)。
それはそうと、上手くいかなすぎて、苛々することもできずに、WALKMAN忘れたから音楽きくこともできずにトボトボ帰ったわけだけれど、ふと周りをみて思った。
何だか、どの誰をみても、こんなブログみたいなへにょへにょなことを書いてそうな人はいなそうだなって。
というか、白髪まじりのおじさんとかが、「生きる意味とは~」「自分とは~」とか、何か書いてたら、気持ち悪くないか?
試しに、目の前の人、スマホいじってるけど、こういったブログを書いているとする。
うわ、似合わな!!
じゃあ、あの人はどうだ、ちょっと若い感じの、きりっとしたスーツのサラリーマンさん。
うーん、やっぱり似合わないなぁ。
と、気持ち悪いことやってて、俺は思った。やっぱり、仲間はいないなぁっと。
寂しい、という感覚には不思議とならなかったけれども、何だかこれまで他者とに違和感を覚えていたのも、致し方なかったと思った。いやそれは、お前がちゃんと自分を開示してちゃんと他者と向き合って付き合ってこなかったからだ、という批判はもっともだろうけれど、やっぱり、それやらなくて正解だったような気がしてならない。
まぁ、その、何だ、自分を押し殺して生きるってのだって、一つ、物語の選択じゃあないかと、思う。
誰しも、ヒーローになんかなれないんだ。すぐさま書いておくべきは、一方で、ヒーローにはなれなくても、誰しも、自分という物語の主人公なんだ(キリッ)。
はぁ……よくもまぁ、歳がいなく、そんな恥ずかしいこと書けるよなぁと自嘲である。
でも、仕方がない、このブログの目的の一つはまさにそれである。思考感覚としては、「バカらしい」というものであっても、それは、一般的、現実環境からのフィードバックによる疑似感覚であって、本来的自己により発生した感覚ではない、という観点だ。
敢えて攻撃的に書いてみれば、「きもい」とか「ばからしい」とか「おこちゃまだ」とか、そんな批判ばっかしてるてめーの人生は、そんなマシなもんなんかと。おめーの生きる意味はなんだ? 言ってみろ? あ? 「日々楽しく一生懸命生きてます」だ? 一生やってろ! 一生楽しく幸せな人生おくって、充実した余生や友人や家族に囲まれて穏やかな気持ちで死にやがれ!!
……あれ、何か、褒めてない? 攻撃的というか、白旗宣言の気が……。
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直近三日間ぐらいの苛立ちが今日、最高潮に達した!
しかし、帰ってきたぞ、俺は、帰ってきたぁ! 帰り、いつもvolume10ぐらいのWALKMANからカナル型イヤホンを伝って流れる音楽を、倍のvolume20ぐらいに爆音にして、ユーロビートとかハードロックを流してきた。
周囲の音が一切聞こえなくなって危ないことこの上ないが、この方法、初めて試したけれども、もうどうしようもなく心がざわついているときは、有効な手段な気がした。耳の鼓膜へのダメージはプライスレスだ。
そんな狂ったテンションのまま風呂に入って、ルーチンをこなす。うん、だんだん、少しずつ落ち着いてきた。しかし、何か、何もする気が起きない。……酒だ、酒をもってこい! こんなときは、キンキンに冷やしたグラスに、大きなロックアイスを転がし、ビーフィーター24を注ぎ、グレープフルーツジュースを入れ、最近購入した金属製のちょっとカッコいいマドラー(100均だけどな!)でステア。そして飲む。うん、美味い。落ち着いてきた。
ログ、ローカルな日記を掘り起こす。こういうとき、探してみるのは、同じ月の何年か前の日記。2004年までさかのぼった。
いやぁ、いいこと書いてるじゃないか。え、そうでもない? そうかもしれない。でも、少なくても、10年後の俺は、過去の君の記事が、面白いと思ったよ。
(――なんて、書き方まで似てきた気がする!)
うん、これ、同じようなことが、つい最近も頭をよぎっていた気がするけれど、一週間前に書いた記事と、やっぱり10年前に書いた記事では、重みが違うよ。その重みってのは、書いた瞬間の心の傾けようという意味ではなく、今の自分に跳ね返ってくるずしりとした重み。
それでいて、一応成果をだしているという、結果もあるから、本当に頭が下がるもんだ。
今の俺はどうや? なんかやってるのか? がんばっとっか?
その成果というのが、だいぶ、疲れ果てる原因でもある、というのは、結局、赤門の東京大学ぐらいじゃないと、「頑張ったね」とはならない、という事実。比較してもきりがないのだけれど、自分として頑張ったとしても、ああ、その程度なのね、的な。この感覚、伝わるだろうか、はっきりいって、これ、中卒だろうが何だろうが、このループにかかると、「成果」すべてが無価値になってくる。
小説書いて、アクセス44人ぐらいあって、うれしーな、とか書いている。
この今のブログのアクセス数から考えると、いや確かにすごいんだろうけど、その数字のしょぼさ、ってのは、もう明らかである。いかに、過去はネット利用者も少なかったとか、そんな説明をいくらしようとも、過去の武勇伝なんて、誰もすごいとは思わない。
この流れの記載が、その証左であろう。
「楽しいことする、やりたいことする、それが人生でしょ」
「うん、そりゃあ分かってんだけど、何だかやりたいことが見つからないんだよね……」
「そんなわけないじゃん! 人間、必ず欲求ってのがあるんだよ!」
と、そんな脳内会話だったのだろう。
というか、ほんと、笑っちゃうぐらい、寂しい人間だなぁ。このブログ記事は、いま一応公開してるけれど、上の引用記事って、ほんと、どこにも公開する気も、そんなこと思ってもいなかったわけだ。よくまぁ、飽きずに、ホント書き続けていたもんだ。
いやぁ、その大会、いったい何を基準に審査するんだろうな。
書いた文量?
経験年数?
それとも、1時間以内とか、決められた時間にどんだけ面白い文章書けるか、とか?
最初に決めたテーマから、関連性は損なわさずに、どれだけ全く関係ない思考に展開できるか、とか。
惨めさとか可哀そうさをどれだけ醸せるかとか。
――ものすごーく、生産性ない大会だなぁ(かっこわらい)。
とにかく、もう苛々して仕方がないときとか、何もやる気が起きなくて、でも眠くもないようなときは、
・無心でルーチンをする
・爆音で音楽を聴く
・過去ログをあさってみる
・くだらないとか気にしないで書き続ける
と、対応してみるのは如何かと、提案しておこう。
いやでもさっきまで、本当に、イラついていたんだ。
過去中学か、高校かぐらいに、「おめーマジ使えねーから消えろよ」と言われたのに匹敵するほどムカついてい……いや、うーん、それらと比べると、全然大したことない気もするな。
このやり方、あんまり好きじゃないんだけどなぁ。いわゆる、他者とか、過去とかと比較して、「ああ、今って結構マシじゃね?」的に慰めるという方法。有効なのは分かるんだけど、何というか、好きじゃないんだよな。何か、「真理的」じゃない。うまく表現できないが、よい方法とは思えない。
じゃあ、爆音で音楽ながして耳を悪くするのがいい方法なのか、と言われると、それは違う気もするのだけれど……。
でも、この、比較思考は、常に自分より下の人間を探し続けるとか、逆に、常に自分より上の人を妬み続けるとか、落ちぶれていく原因だと思うのだ。
ようは、バランスよく使ってみましょう、という、くだらない結論でしかないのだけれど、できるだけ使いたくないと思うわけだ。
……しかし、落ち着いたはいいが、やっぱり、10年前に思った通り、何だか、何をやりたいか、やっぱりよく分からない。
しかし、帰ってきたぞ、俺は、帰ってきたぁ! 帰り、いつもvolume10ぐらいのWALKMANからカナル型イヤホンを伝って流れる音楽を、倍のvolume20ぐらいに爆音にして、ユーロビートとかハードロックを流してきた。
周囲の音が一切聞こえなくなって危ないことこの上ないが、この方法、初めて試したけれども、もうどうしようもなく心がざわついているときは、有効な手段な気がした。耳の鼓膜へのダメージはプライスレスだ。
そんな狂ったテンションのまま風呂に入って、ルーチンをこなす。うん、だんだん、少しずつ落ち着いてきた。しかし、何か、何もする気が起きない。……酒だ、酒をもってこい! こんなときは、キンキンに冷やしたグラスに、大きなロックアイスを転がし、ビーフィーター24を注ぎ、グレープフルーツジュースを入れ、最近購入した金属製のちょっとカッコいいマドラー(100均だけどな!)でステア。そして飲む。うん、美味い。落ち着いてきた。
ログ、ローカルな日記を掘り起こす。こういうとき、探してみるのは、同じ月の何年か前の日記。2004年までさかのぼった。
やっぱり楽しいことをしなくちゃ!人生、たった一度の人生、誰のものでもない。ボクだけの人生。幸い、ルックスも、運動能力、頭の回転だって悪いけれど、僕にはこの、“思考”がある。なんだって可能にする思考が。勉強とは、頭を鍛えることだ。大学に行くために勉強しているんじゃない。自分が一番したいことをする。これこそ生きる意味ではないだろうか。それがないから困っているんだって? そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。生まれたとき“オギャー”って泣いたでしょ?おっぱい飲みたいって思ったでしょ?
生きたいって思ったでしょ?それが人間だ。 これはみーんな同じ。人間の成長とは、欲望の変質の過程といえるのかもしれない。食べたい、寝たい、排泄したいというだけの欲望から、次第に認められたい、愛されたいというものに変わっていくのだ。
感情はないけどやっぱり自分
10年以上前に書いた記事に、ちょっと勝てないと思ったよ。いやぁ、いいこと書いてるじゃないか。え、そうでもない? そうかもしれない。でも、少なくても、10年後の俺は、過去の君の記事が、面白いと思ったよ。
(――なんて、書き方まで似てきた気がする!)
うん、これ、同じようなことが、つい最近も頭をよぎっていた気がするけれど、一週間前に書いた記事と、やっぱり10年前に書いた記事では、重みが違うよ。その重みってのは、書いた瞬間の心の傾けようという意味ではなく、今の自分に跳ね返ってくるずしりとした重み。
それでいて、一応成果をだしているという、結果もあるから、本当に頭が下がるもんだ。
今の俺はどうや? なんかやってるのか? がんばっとっか?
その成果というのが、だいぶ、疲れ果てる原因でもある、というのは、結局、赤門の東京大学ぐらいじゃないと、「頑張ったね」とはならない、という事実。比較してもきりがないのだけれど、自分として頑張ったとしても、ああ、その程度なのね、的な。この感覚、伝わるだろうか、はっきりいって、これ、中卒だろうが何だろうが、このループにかかると、「成果」すべてが無価値になってくる。
小説書いて、アクセス44人ぐらいあって、うれしーな、とか書いている。
この今のブログのアクセス数から考えると、いや確かにすごいんだろうけど、その数字のしょぼさ、ってのは、もう明らかである。いかに、過去はネット利用者も少なかったとか、そんな説明をいくらしようとも、過去の武勇伝なんて、誰もすごいとは思わない。
頑張ることへの心労
と、さも、今考えましたーといったように書いているけれど、恐らく、いや、過去記事読んでいた確信したけど、こいつ、絶対同じこと考えてた、思ってたと思う。>自分が一番したいことをする。
>これこそ生きる意味ではないだろうか。
>これこそ生きる意味ではないだろうか。
>それがないから困っているんだって?
>そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。
>そんなはずはないよ。人間には、必ず、生まれつき、“欲望”という能力が備わっているんだから。
この流れの記載が、その証左であろう。
「楽しいことする、やりたいことする、それが人生でしょ」
「うん、そりゃあ分かってんだけど、何だかやりたいことが見つからないんだよね……」
「そんなわけないじゃん! 人間、必ず欲求ってのがあるんだよ!」
と、そんな脳内会話だったのだろう。
というか、ほんと、笑っちゃうぐらい、寂しい人間だなぁ。このブログ記事は、いま一応公開してるけれど、上の引用記事って、ほんと、どこにも公開する気も、そんなこと思ってもいなかったわけだ。よくまぁ、飽きずに、ホント書き続けていたもんだ。
駄文選手権
うん、何だか、全く自慢にならないけれども、先日書いた、「俺、くだらないことなら永遠にずっと書き続けてられるよ」ってのは、あながち嘘じゃなさそうだ。何やっても一位になれない中途半端な人間だけれども、何だか駄文選手権でもあったら、全国大会とか世界大会に出場してもいいせんいくんじゃなかろうか(かっこわらい)。いやぁ、その大会、いったい何を基準に審査するんだろうな。
書いた文量?
経験年数?
それとも、1時間以内とか、決められた時間にどんだけ面白い文章書けるか、とか?
最初に決めたテーマから、関連性は損なわさずに、どれだけ全く関係ない思考に展開できるか、とか。
惨めさとか可哀そうさをどれだけ醸せるかとか。
――ものすごーく、生産性ない大会だなぁ(かっこわらい)。
でも落ち着いた
まぁ、この、記事の中身自体に一切意味はなくとも、一つ事実として実感として書けるのは、今、ようやく落ち着いたよ、ということだ。(酒のおかけじゃね? いや、違う、やっぱり、こうぐだぐだ書いたことによる効能と思う)とにかく、もう苛々して仕方がないときとか、何もやる気が起きなくて、でも眠くもないようなときは、
・無心でルーチンをする
・爆音で音楽を聴く
・過去ログをあさってみる
・くだらないとか気にしないで書き続ける
と、対応してみるのは如何かと、提案しておこう。
いやでもさっきまで、本当に、イラついていたんだ。
過去中学か、高校かぐらいに、「おめーマジ使えねーから消えろよ」と言われたのに匹敵するほどムカついてい……いや、うーん、それらと比べると、全然大したことない気もするな。
このやり方、あんまり好きじゃないんだけどなぁ。いわゆる、他者とか、過去とかと比較して、「ああ、今って結構マシじゃね?」的に慰めるという方法。有効なのは分かるんだけど、何というか、好きじゃないんだよな。何か、「真理的」じゃない。うまく表現できないが、よい方法とは思えない。
じゃあ、爆音で音楽ながして耳を悪くするのがいい方法なのか、と言われると、それは違う気もするのだけれど……。
でも、この、比較思考は、常に自分より下の人間を探し続けるとか、逆に、常に自分より上の人を妬み続けるとか、落ちぶれていく原因だと思うのだ。
ようは、バランスよく使ってみましょう、という、くだらない結論でしかないのだけれど、できるだけ使いたくないと思うわけだ。
……しかし、落ち着いたはいいが、やっぱり、10年前に思った通り、何だか、何をやりたいか、やっぱりよく分からない。
生きることを決意した者たちは、ただ生きる者を圧倒する!!
うおぉ! すごい、熱いぜ!!
と、シグルイ全15巻読んで思った。しかし、かなり精神的にえぐられた。最近ふれた作品のなかでもトップクラスだ。
いやなんというか、お殿様のご乱心で、ただ平伏してただけで首に刀刺されて殺されちゃったり、もうほんと人の命なんて身分の違いでゴミ滓のように扱われる。
なんかの思想家が、昨今の男子はナヨナヨしていかん! 武士の心を呼び戻せ! とかいってるが、アホかと思う。
やれ坂本龍馬とか赤穂浪士とか新撰組とか分からないが、そういった時代ものの上っ面のエンターテイメント性だけに焦点をあてて、昔は良かったなぁなんて言ってる奴の言葉に耳をかす必要はない。
昔はよかったとか、くだらない思考である。
スマホとかインターネットとか、いやそれどころか3cと呼ばれる三種の神器とかなんとか、便利な道具やシステムを享受しておきながら、思想分野においてのみ郷愁を覚えるなど、身の毛もよだつおぞましい人種である。
いやぁなんだか、思い通りいかないことが多いと、様々疲れる。そして、何だかずっと熱っぽかった。
鼻水とと喉のいたさも復活だ。
なんだ、これ。昨日、ライフプランだーマネープランだーとか、人生の見通しを立てようとしたら、この疲れである。
だが、これはちょっと、いいタイミングにも思える。つまり、最低な気分なときに、どれだけやれるか、ルーチンをちゃんとこなせるか、その辺りが問われているのだろう。
きっと、グラフ化できないと、ちゃんと理解したことにはならないんだよという教授なのだと思った。
僕は、今日帰ったらやろうと思っていた。しかし、きっと無理だろう。ルーチンをいやいやこなすだけで終わりそうだ。
そして、そんな毎日がずっと過ぎるのだ。
なにか、いろいろ、作曲とか創作とか、ホームページ更新プログラミングとか、本を読んだり、ランニングしたり、色々やろうと思ったことは、きっと何ヵ月かまえにあった気がする。
帰ると、何もする気になれない。
亡霊のようにゲームをやって時間をまぎらわしていたのが、ちょうど一年前ぐらいの今ごろだった気がする。(今はコンシューマー(据え置き機)は引っ越しと同時にすべて売り払った)
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
いやもちろん、優れた偉人の言葉、伝記などは素晴らしいだろう。しかし、この他ならない自分の言葉というのは、違った重みになる。
それは、くだらないことでも、ちょっといいことでも、どちらも役に立つのだ。
そのことを、書き続けること、ここまで書き連ねてきた何年もの蓄積が、そのことを少しでも示せたらよいと思う。
いやおまえ、結局一年前と同じような状況じゃないか、書いてた意味あんのかよ? あん?
ただ、ひとつ、いま時点でもいえるのは、先程までのあのぐちゃぐちゃした苛立ちが、少し緩和されてきたのだ。
うーむ、これ、誰かとの会話で解消できるものだろうか?
僕は、否、と思う。
誰か他の人との会話においては、独白じゃだめだとおもう。教会の懺悔はともかく、キャッチボールが会話には必要だ。
何を話しても、自分の話したいことにむけさせる人もいるが、そんなオナニーに付き合っているのはむしろ余計に疲れることだろう。
という流れから、他者に愚痴るのは徒労に終わる、と表現したのもその一年くらい前な気がする。
そのときは、共感が強すぎる優しい人相手だと、申し訳ない気持ちも発生するからなぁ、ということも書いていたが。
なんという早さだ。秋の夕べは釣瓶落とし、だっけ、いやなんか違う。
恐ろしいほど早い。
子供をもつ人なら、その成長に驚くのではなかろうか。
俺は、自分の成長のなさに驚いてるぞ!かっこわらい
ううむ、あるブログにおいて、数年前と変わっていないとか思うなら、それは「変わっていない」のではなくて、「後退している」(落ちぶれている)ということなのだ、と書かれていた。
うわぁー。
グラフ化、やってみるかな。まぁ、こればかりは、帰ってからの気分次第、ルーチンの実施が最重要事項。考えることとか、そんなことよりも、まず、身体に習慣を作ることが、待ったなしの同時並行に重要。
服を脱ぐ。
筋トレをする。音読をする。ストレッチをする。
そして、グラフを作る。
うーむ。センス無いな。エクセル、マクロは少しコピペで何か作ることはできるけれど、グラフの機能ってほとんど触ったことないんだよなぁ。というか、グラフってこういうのなのか? もっと様々な要素(収支とかその他)が複雑に絡み合ったりした奴のことを指すのじゃあないのか? ほんとによく分からない。
……まぁ、何となく、感覚で、50歳リタイアすると地獄の底へまっしぐらだぜ、って感じが出てる気がする、かっこわらい。お先真っ暗だぜ、しかし、こう見ると、収入がなくなるとたったの数年で資産が底をついてしまうということが分かる。やっぱり、経常的な収入源は大事なのである。
でも、さすが先駆者さんのコメントだなぁと思ったのは、実際グラフ化してみると、表の上だと何となくそうなんじゃないかなぁと思っていたことが、明確に可視化されるのだ。
例えば、③の状態ラインにおいて、赤と緑と紫では、傾きが紫に行く方がきつくマイナスになっている。
これは、昨日の記事において、年金の計算を、リタイア時期に合わせて再計算したことによる。
恐らく、年金額を50歳・55歳・60歳で同じで算出していたら、③の状態におけるグラフの傾きは、同じになっていただろう。
ううむ、しかしこれ、この後どうやって活かしていけばいいのだろう、よく分からない。
おいおい、この程度、もっと頑張ってる人は大勢いるんだぜ? この程度でへばってどうするんだ! さぁ、もうひと頑張り! もしくは、早めに寝て、朝早く起きて仕事しようぜ☆
うるせーうるせー、お前ら、どうしてそう、次から次へと話しかけてきやがるんだ。
静かにしやがれ。少し休ませろや。
休む? あはは、バカなこといってんのは君の方だよ。
君だよ? さっき、もう一年も経っちゃったんだなぁ、早いなぁ、なんて言ってたのは。ここでまたダラダラしてたら、何も始まんないよ?
いや黙れよ、だから、ホントは精魂尽きて……というより何だか体調の悪さとイライラさに悶えていたけれども、ルーチンもちゃんとやったじゃないか、褒めてよ。
うわ、キモ。何? いい歳して、誰かから褒められたりしないと何もできないの? しょうがないなー、はいはい、いい子イイ子でちゅね~。
……。
もう今日は風呂に入って寝る。
(くだらない茶番を書いていたらふと思った。今回のグラフって資産ベースに作ってるけど、幸福度とか何か思考的な要素でグラフ化ってできないもんかな。ブログの書いた文字数の累積グラフとか……いや、それみて何が分かるってんだ却下)
うおぉ! すごい、熱いぜ!!
と、シグルイ全15巻読んで思った。しかし、かなり精神的にえぐられた。最近ふれた作品のなかでもトップクラスだ。
いやなんというか、お殿様のご乱心で、ただ平伏してただけで首に刀刺されて殺されちゃったり、もうほんと人の命なんて身分の違いでゴミ滓のように扱われる。
なんかの思想家が、昨今の男子はナヨナヨしていかん! 武士の心を呼び戻せ! とかいってるが、アホかと思う。
やれ坂本龍馬とか赤穂浪士とか新撰組とか分からないが、そういった時代ものの上っ面のエンターテイメント性だけに焦点をあてて、昔は良かったなぁなんて言ってる奴の言葉に耳をかす必要はない。
昔はよかったとか、くだらない思考である。
スマホとかインターネットとか、いやそれどころか3cと呼ばれる三種の神器とかなんとか、便利な道具やシステムを享受しておきながら、思想分野においてのみ郷愁を覚えるなど、身の毛もよだつおぞましい人種である。
ものすごく疲れている
何だか攻撃的なのは、精神的にも身体的にも疲れているからだろう。いやぁなんだか、思い通りいかないことが多いと、様々疲れる。そして、何だかずっと熱っぽかった。
鼻水とと喉のいたさも復活だ。
なんだ、これ。昨日、ライフプランだーマネープランだーとか、人生の見通しを立てようとしたら、この疲れである。
だが、これはちょっと、いいタイミングにも思える。つまり、最低な気分なときに、どれだけやれるか、ルーチンをちゃんとこなせるか、その辺りが問われているのだろう。
グラフ化
ある先駆的な方からコメントを頂いて、プラニングはグラフにすることが大事だよと教えていただいた。きっと、グラフ化できないと、ちゃんと理解したことにはならないんだよという教授なのだと思った。
僕は、今日帰ったらやろうと思っていた。しかし、きっと無理だろう。ルーチンをいやいやこなすだけで終わりそうだ。
そして、そんな毎日がずっと過ぎるのだ。
なにか、いろいろ、作曲とか創作とか、ホームページ更新プログラミングとか、本を読んだり、ランニングしたり、色々やろうと思ったことは、きっと何ヵ月かまえにあった気がする。
帰ると、何もする気になれない。
亡霊のようにゲームをやって時間をまぎらわしていたのが、ちょうど一年前ぐらいの今ごろだった気がする。(今はコンシューマー(据え置き機)は引っ越しと同時にすべて売り払った)
過去の言葉
奇跡的に最初の話に戻るが、過去はよかったと、そんなことを思うのはおろかなことである、と言いながら、過去の、歴史は、とても役に立つものである。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
いやもちろん、優れた偉人の言葉、伝記などは素晴らしいだろう。しかし、この他ならない自分の言葉というのは、違った重みになる。
それは、くだらないことでも、ちょっといいことでも、どちらも役に立つのだ。
そのことを、書き続けること、ここまで書き連ねてきた何年もの蓄積が、そのことを少しでも示せたらよいと思う。
いやおまえ、結局一年前と同じような状況じゃないか、書いてた意味あんのかよ? あん?
精神の安寧
指摘はごもっともである。この書くことによる示唆というのは、僕自身がハッピーエンドにならなければ示せないものだろう。ただ、ひとつ、いま時点でもいえるのは、先程までのあのぐちゃぐちゃした苛立ちが、少し緩和されてきたのだ。
うーむ、これ、誰かとの会話で解消できるものだろうか?
僕は、否、と思う。
誰か他の人との会話においては、独白じゃだめだとおもう。教会の懺悔はともかく、キャッチボールが会話には必要だ。
何を話しても、自分の話したいことにむけさせる人もいるが、そんなオナニーに付き合っているのはむしろ余計に疲れることだろう。
という流れから、他者に愚痴るのは徒労に終わる、と表現したのもその一年くらい前な気がする。
そのときは、共感が強すぎる優しい人相手だと、申し訳ない気持ちも発生するからなぁ、ということも書いていたが。
一年前の感覚
いや驚くべきはやはり、その時間経過の感覚。もう一年前なのだ。なんという早さだ。秋の夕べは釣瓶落とし、だっけ、いやなんか違う。
恐ろしいほど早い。
子供をもつ人なら、その成長に驚くのではなかろうか。
俺は、自分の成長のなさに驚いてるぞ!かっこわらい
ううむ、あるブログにおいて、数年前と変わっていないとか思うなら、それは「変わっていない」のではなくて、「後退している」(落ちぶれている)ということなのだ、と書かれていた。
うわぁー。
グラフ化、やってみるかな。まぁ、こればかりは、帰ってからの気分次第、ルーチンの実施が最重要事項。考えることとか、そんなことよりも、まず、身体に習慣を作ることが、待ったなしの同時並行に重要。
帰宅後
帰った。服を脱ぐ。
筋トレをする。音読をする。ストレッチをする。
そして、グラフを作る。
うーむ。センス無いな。エクセル、マクロは少しコピペで何か作ることはできるけれど、グラフの機能ってほとんど触ったことないんだよなぁ。というか、グラフってこういうのなのか? もっと様々な要素(収支とかその他)が複雑に絡み合ったりした奴のことを指すのじゃあないのか? ほんとによく分からない。
……まぁ、何となく、感覚で、50歳リタイアすると地獄の底へまっしぐらだぜ、って感じが出てる気がする、かっこわらい。お先真っ暗だぜ、しかし、こう見ると、収入がなくなるとたったの数年で資産が底をついてしまうということが分かる。やっぱり、経常的な収入源は大事なのである。
でも、さすが先駆者さんのコメントだなぁと思ったのは、実際グラフ化してみると、表の上だと何となくそうなんじゃないかなぁと思っていたことが、明確に可視化されるのだ。
例えば、③の状態ラインにおいて、赤と緑と紫では、傾きが紫に行く方がきつくマイナスになっている。
これは、昨日の記事において、年金の計算を、リタイア時期に合わせて再計算したことによる。
恐らく、年金額を50歳・55歳・60歳で同じで算出していたら、③の状態におけるグラフの傾きは、同じになっていただろう。
ううむ、しかしこれ、この後どうやって活かしていけばいいのだろう、よく分からない。
エクトプラズムの放出
と、帰宅中から、帰宅後ルーチン、グラフを作ってここまでやって、何だか魂が抜けた気がする。おいおい、この程度、もっと頑張ってる人は大勢いるんだぜ? この程度でへばってどうするんだ! さぁ、もうひと頑張り! もしくは、早めに寝て、朝早く起きて仕事しようぜ☆
うるせーうるせー、お前ら、どうしてそう、次から次へと話しかけてきやがるんだ。
静かにしやがれ。少し休ませろや。
休む? あはは、バカなこといってんのは君の方だよ。
君だよ? さっき、もう一年も経っちゃったんだなぁ、早いなぁ、なんて言ってたのは。ここでまたダラダラしてたら、何も始まんないよ?
いや黙れよ、だから、ホントは精魂尽きて……というより何だか体調の悪さとイライラさに悶えていたけれども、ルーチンもちゃんとやったじゃないか、褒めてよ。
うわ、キモ。何? いい歳して、誰かから褒められたりしないと何もできないの? しょうがないなー、はいはい、いい子イイ子でちゅね~。
……。
もう今日は風呂に入って寝る。
(くだらない茶番を書いていたらふと思った。今回のグラフって資産ベースに作ってるけど、幸福度とか何か思考的な要素でグラフ化ってできないもんかな。ブログの書いた文字数の累積グラフとか……いや、それみて何が分かるってんだ却下)
先日書いたメモ
この感覚は、足りない、表現が足りない。夜にでもまた考えてみよう、そう書き残した。
しかし、本当に足りなかった。いま、酒が入り少し疲れて帰宅中では、そのとき、何を思って、何を表現したいのか分からない。
喉もいたい、鼻水もでる。風邪である。インフルエンザも含めると、少なくても三回目だ。もっとかかってたかもしれない。おかしい、免疫が弱ってるのか。
なんとか、しかし、帰るときにこうして、ブログを書けるのは、多分、帰ってルーチンができる余裕があるのだろう。
しかしそれにしても体調が悪い。
そして一夜明け
気付いたら昼過ぎ。体調の悪さは残っているが、少しよくなった気もした。しかし、昼まで寝ると、残りの時間の効率がものすごく低くなるのである。それは経験上分かっているが、過ぎてしまったものは仕方がない。何せ、体調が悪いという「言い訳」が自分を納得させてしまうのである。
居は気を映す、だったっけか。違った、居は気を移す、だった。部屋を片付けた。先週の土日が家の仕事を何もできなかったため、荒れに荒れていた。何故こうも、部屋は荒れていくのだろう。掃除機は毎日かけたいぐらいだ。
最近、ものが少しずつ増えてきている気がする。何年かおきに、一気に大量にモノを捨てるのだけれども、本当に、ほんとーにもっと最小限にしたいもの。しかし、最近、着るものが結構ぎりぎりの状態になっており、洗濯をさぼると下着も何もないということになっている。それが洗濯をさせる動機にもなるから、やはり、追いつめられると人は行動する、ということなのだろうか、何の話だ、所詮が家事の話しで大げさすぎる。
家事
しかしだ、会社での仕事は重要で、家事は重要ではない、というと、それは違うんじゃないかと思う人も少なくないのではなかろうか。昔、男性が会社に行き、女性は家庭を守った(家事をした)。そんな時代は、とうに終わった、……のか?
ダメな思考というか、いわゆる自分で考えられない人は、そういった言説をすぐに信じる。
年収300万円だと結婚できないとか、そういうテレビなどの台詞をまにうける。
しかも、それが、いわゆる「一般常識」として、会話のネタになるもんだからたちが悪い。
ワイドショーとか、噂話とか、世論形成って本当に悪徳だなぁと感じるわけだけれど、じゃあ、お前が何か価値ある思想信条を皆に説けるのか、というと、いやぁ何もありません、となるので、もう、テレビとか新聞とかに流されるしかないのは仕方がない。
仕方がないのだけれども、ある種呪われた人は、それを信じることが中々できない。
もちろん、それは頭が悪いから、インプットが十分にできないという欠陥であることは一つ理由なのだけれども、「人の輪に入れない」というのは、社会という、組織という、人間社会という集団の中で生きるには、中々困難な能力不足であるのだ。
え、家事の話しじゃなかったっけ?
そう、部屋を片付けて、掃除をしたら、少し体調もよくなった気がした。
まずは、ちっぽけな自分の家ぐらい、しっかりと管理していきたいものだと、そう思ったというメモなのだけれども、何故いつもこう余計なことを書きつつ長くなってしまうのか。
その理由の一つに、何だか、昨日と今日とは、書くことにあまり、意欲を高められなかったのだ。
ネットサーフィン
何をしていたかというと、ネットサーフィンである。最近、他の方のブログをよく読むようになったのだけれども、それにかこつけて、何だか全然趣旨が違う動画や画像や記事を読んだりしてしまっている。
これは、よくない、うん、よくない。
ということで、先日から、サイトの更新チェッカーを導入してみた。
DiffBrowser (ディフブラウザ)
http://www010.upp.so-net.ne.jp/suede/diffbrowser.html詳しい説明は時間がもったいないから書かない。感想として、非常に便利だった。
自分のブラウザ、クロームとかIEとかのお気に入りなんて、いらないじゃん、とおもった。
全部これで管理すれば、余計なサイトに時間を使うことも減りそうな気がする。
(まぁ、その管理に時間を使うことが、そもそもどうかという問題はありそうだ)
お金のこと
ただ、その無益に思えるネットサーフィンも、一つ、「セミリタイア」という言葉を知ったことは、有益だったと思う。いや、その意味はよく分からないのだけれども、僕の解釈では、早期退職、ということだ。
何も、60歳、65歳の定年まで働き続ける必要はないと、そういう風に考え、人生プランをしっかり練って、いやーな仕事に耐えつつ頑張る、というような記事、これも件のダメブログ界と同じようにたくさんあることが分かった。
いろんな人がいる、いろんな生き方がある、なるほどなぁ、と。
僕は取りあえず、生きるか、死ぬか、という次元から検討しているが、働くか、働かないか、みたいな選択を考えるのも、一つ現実方策としていい気がしてきた。
いやぁ、今すぐ自死するなら、取りあえず会社辞めて、退職金もらって(果たして、今辞めて退職金が出るのか、それすらも分かっていない。その辺り、生きることを徹底的に考えられていないボケナスである)、取りあえずお金が尽きるまで好きなことして、後は死ぬ、みたいな方法だってあるわけだ。
(いや、すぐさま思うのは、その「好きなこと」って何だ? というものなのだけれども、あくまで思考実験である)
ということで、先日、終身保険と個人年金保険にも入ったことだし、しばらく、お金の面からのプランを検討してみようかと思う。あ、今日はもう寝る。でないと、また、明日昼まで寝て、具合が悪くて……という悪循環である。しかし何故だ、こう、寝る時間になると色々思考が動き出す。朝は何故か、あまり考えたくない。これ、逆であるべきだと思うが、これって、何か理由があった気がする。思い出せない、まぁいいや。
経費と心的満足
とりまず、スーツ上下をクリーニングに出すと、750円ぐらいかかるということだ。(いや別に、これまでクリーニングを使ったことがないとかではないが、あまり意識したことがなかった。毎月定常的にかかるインフラ代とかは何となく覚えているが、たまに使う経費に意識は薄いのだ。割引券やポイント使ったりしていると、なおさら通常料金がよく分からない。安いのか、高いのか)
例えば、最近コンビニのコーヒーをよく利用するけれども、自分でカフェラテ作れるし、それを代用したらどうなのか? とか考えてみる。
そもそも、コーヒー豆、いつもいくらぐらいで購入しているかよくおぼえていない。たしか、200g600円ぐらいだと思う。
200gで何杯つくれるのか? 調べてみる、ふむふむ、いっぱい約10gとのことだ。ということは、20杯つくれる。え、それしか作れないの? 意外だなぁ。
すると、一杯あたり、30円である。ほぅ、安い。コンビニのコーヒーは、ブラックは100円、カフェラテでも150円~200円である。
カフェラテを作るには、牛乳も必要だ。牛乳は1L200円ぐらい。大体、一杯に、150mlぐらい使うとすると、あー計算面倒だから、200ml使うとすると、5杯分、1杯40円だ。おお、コーヒーより牛乳が高い。
水代とか、コーヒーメーカーの電気代とか、牛乳の電子レンジでスチームドミルクにする電気代とかを除いて、単純に計算すると、
30円+40円で、70円となる。
ふむふむ、そうすると、150円のカフェラテを月に20日間買ったとすると、
80円×20日間で、月に1600円の節約になるということだ!
おお! 1600円!
……それが、高いか安いか、例えば、重い水筒をもって移動する手間と体力を考えて、どうなのだろうか。
実際、細かい計算をしてみないと、それが本当に得なのかどうなのか、分からない。
で、なんでもかんでもコスト意識、となると、当然1600円のコストダウンは「正解」となるわけだけれども、毎朝早めに起きてカフェラテを作る時間を考えたときに、その体力的影響はどうなのかとか、そういったことも鑑みる必要がある。
ライフプランとマネープラン
小見出し、いつも、結構無視しながら書いてしまうが、タイトルってのはやっぱり重要である。生きる意味を徹底して考える。
考えるのは、思考も、当然であるけれども、
生活それ自体についても考える必要がある。
そして、やっぱり、ジンは美味しいと思うんだ。最近、ウィスキーとか、日本酒とかが流行っているようだけれども、ジンのあのジュニパーベリーの香りとすっきりとした飲み口は、他の酒では味わえない。
だが、タンカレー※、おめーはダメだ。
※ジンの銘柄の一つ。何だか独特な、薬臭い臭いと刺激が強すぎる味で、正直もう二度と飲まなくていいと思った。(一回食べたり飲んでみてダメでも、その時の気分とか、その店がよくなかったりする可能性があるので、僕は、最低3回ぐらいは試してみることにしている。だが、タンカレーは何度試してもやっぱりまずかった。好きな人ごめんなさい)
あれ、ライフ&マネープランの話しじゃなかったっけ? もう寝る時間である。また明日。
↑こっちはおいしい
ヴィトゲンシュタインという哲学者さんが、自動筆記といった表現をされていて、あぁ、これって僕がログと言って普段書いていたことと同じなんじゃないか?
と思ったのが2008年以降のいずれかだった気もするけれども、その行為自体はもっと前からやっていた。
何故こんなことを書いておこうかと思ったかというと、昨日二つばかしリンクを追加したが、そのブログも品質が非常に高いのだ。
ひとつは、現代事象などを、自らの視点で、自らの言葉で、分かりやすい構成と文法で記述されている。
ひとつは、自分で調べたことを、独自の視点を踏まえ分かりやすくビジュアルも工夫して構成されている。
そして、もうひとつ、ある方が、分かりやすく文法まもって書かれた文章なんてみんな同じだよ、オリジナリティとか言って夢見てないで現実みろよ! と言っていて、これまた鋭い視点だな、と、いつもの上から目線的に思った。
いやぁ、本当に、三つともすげーなぁ、って思ったのは事実なんだが、でも、それを実際表現するって難しいことだ。
素晴らしかったです! 見習いたいです!
なんか、違う。
だから僕は、感情を伝える文章と、事実を伝える文章と、二種類は違うベクトルを向いてると思う。
自慢ではないが、多分みるひとからすると自慢になるのだが、仕事上、いわゆるビジネス文書的なのを書くことは多いし、文章を取り扱うサイトを運営していることもあるから、文章の基本的な文法とか、分かりやすく伝える技術、例えば起承転結の構成を意識するとか、一文を短くするとか、接続詞や語尾を意識するとか、まぁ単純なことだけれども知識はあって、経験もある。
けれども、いってるそばから、上の文章はダメな例である。
そして、見出しが、上から目線となっていて、そもそも話がずれている、ダメダメだ。
だから、これまで、いやぁ、こんなこと、公開したって意味ないよな。グーグル先生の社会においては、価値ある情報だけが発信されるべきだな、そう思ってきた。
違うと、僕は、いまの僕は、言い切れる、と……思う、やっぱり断定まではいけない。
ただ、最近他の方の、いわゆるダメブログとかも読んでみて、そのなかである方が、
いいとししたおっさんどもが、ダメさを衆目にさらして寂しさをまぎらわしてるだけであり、未来ある若者に害悪の集団と判断されようが仕方がない
と仰っていて、うーむ、なるほどなぁ、と腕組みして考えさせられた。
で、これが、感情を伝える文章だ。
僕は最近、事実よりも、実感を優先してインプットしたいから、これらの文章は価値があると思う。
でも、てっとり早く何かの解決を願うひとの場合、誰か知らない人の、だらだらやたら長文の、思考の垂れ流しみたいなものは、それこそ害悪なのである。
時間がないので、珍しくまとめをしてみよう。
文章には、事実を伝える文書と、感情を伝える文書の二種類がある。
僕は現時点後者を重要視している。
感情を伝えるには、敢えて思考を廃してアウトプットするのも有効である。
それを僕はゼロ秒思考メモと読んでいる。(あれ、これ、本当に自分で考えた言葉だっけ? 何だか最近引用して頂いたことがあり、そちらに引き寄せられてるだけ? そもそも、正確に言うなら、ゼロ思考メモじゃないか? 秒って何? 必要? ……正確な表現を考えるというのは、他者に伝えるに当たって大切なことだが、実に様々な想定をしていく必要があり、それは時に本当に書こうとしたこと、伝えようとしたことを蔑ろにする場合があり、注意が必要だ)
しかし、グーグル等SEO的には、前者が優先され後者は淘汰されるだろう。
うわー、中身薄いな。他の方々のブログに比べるとなんて矮小なんだ……
ただ、それは事実として、例えば、死んだらどうなるかとか考えたところで無駄であることはその通りだが、ポジティブ思考が正しいのは当たり前だが、日々の生活を大切にすることは前提だが、だがそれでも、だ。
僕は、もうこの数年のうちに、人生という物語の、エンディングのプロットを立てようと思っている。
ここ数年、とか言っちゃうところが、まだまだ子供であまちゃんなのだが、これは未来の自分への言葉でもある。
なんだろう、たいていの人がそうであろうと、僕はやっぱり、日々の生活が楽しきゃいいや、っという考えにはなれなかった、し、きっとこれからもそうな気がする。
いや、この表現、足りない、足りなすぎて、きっと誤解を与える、他者はもちろん、自分にとっても。そうじゃない、けれど、時間がない、この点は、今日の夜にでも考えたい、覚えていれば、だけれども。
と思ったのが2008年以降のいずれかだった気もするけれども、その行為自体はもっと前からやっていた。
何故こんなことを書いておこうかと思ったかというと、昨日二つばかしリンクを追加したが、そのブログも品質が非常に高いのだ。
ひとつは、現代事象などを、自らの視点で、自らの言葉で、分かりやすい構成と文法で記述されている。
ひとつは、自分で調べたことを、独自の視点を踏まえ分かりやすくビジュアルも工夫して構成されている。
そして、もうひとつ、ある方が、分かりやすく文法まもって書かれた文章なんてみんな同じだよ、オリジナリティとか言って夢見てないで現実みろよ! と言っていて、これまた鋭い視点だな、と、いつもの上から目線的に思った。
上から目線
いやぁ、本当に、三つともすげーなぁ、って思ったのは事実なんだが、でも、それを実際表現するって難しいことだ。
素晴らしかったです! 見習いたいです!
なんか、違う。
だから僕は、感情を伝える文章と、事実を伝える文章と、二種類は違うベクトルを向いてると思う。
自慢ではないが、多分みるひとからすると自慢になるのだが、仕事上、いわゆるビジネス文書的なのを書くことは多いし、文章を取り扱うサイトを運営していることもあるから、文章の基本的な文法とか、分かりやすく伝える技術、例えば起承転結の構成を意識するとか、一文を短くするとか、接続詞や語尾を意識するとか、まぁ単純なことだけれども知識はあって、経験もある。
けれども、いってるそばから、上の文章はダメな例である。
そして、見出しが、上から目線となっていて、そもそも話がずれている、ダメダメだ。
思考メモ
だから、これまで、いやぁ、こんなこと、公開したって意味ないよな。グーグル先生の社会においては、価値ある情報だけが発信されるべきだな、そう思ってきた。
違うと、僕は、いまの僕は、言い切れる、と……思う、やっぱり断定まではいけない。
ただ、最近他の方の、いわゆるダメブログとかも読んでみて、そのなかである方が、
いいとししたおっさんどもが、ダメさを衆目にさらして寂しさをまぎらわしてるだけであり、未来ある若者に害悪の集団と判断されようが仕方がない
と仰っていて、うーむ、なるほどなぁ、と腕組みして考えさせられた。
で、これが、感情を伝える文章だ。
僕は最近、事実よりも、実感を優先してインプットしたいから、これらの文章は価値があると思う。
でも、てっとり早く何かの解決を願うひとの場合、誰か知らない人の、だらだらやたら長文の、思考の垂れ流しみたいなものは、それこそ害悪なのである。
まとめ
時間がないので、珍しくまとめをしてみよう。
文章には、事実を伝える文書と、感情を伝える文書の二種類がある。
僕は現時点後者を重要視している。
感情を伝えるには、敢えて思考を廃してアウトプットするのも有効である。
それを僕はゼロ秒思考メモと読んでいる。(あれ、これ、本当に自分で考えた言葉だっけ? 何だか最近引用して頂いたことがあり、そちらに引き寄せられてるだけ? そもそも、正確に言うなら、ゼロ思考メモじゃないか? 秒って何? 必要? ……正確な表現を考えるというのは、他者に伝えるに当たって大切なことだが、実に様々な想定をしていく必要があり、それは時に本当に書こうとしたこと、伝えようとしたことを蔑ろにする場合があり、注意が必要だ)
しかし、グーグル等SEO的には、前者が優先され後者は淘汰されるだろう。
うわー、中身薄いな。他の方々のブログに比べるとなんて矮小なんだ……
ただ、それは事実として、例えば、死んだらどうなるかとか考えたところで無駄であることはその通りだが、ポジティブ思考が正しいのは当たり前だが、日々の生活を大切にすることは前提だが、だがそれでも、だ。
僕は、もうこの数年のうちに、人生という物語の、エンディングのプロットを立てようと思っている。
ここ数年、とか言っちゃうところが、まだまだ子供であまちゃんなのだが、これは未来の自分への言葉でもある。
なんだろう、たいていの人がそうであろうと、僕はやっぱり、日々の生活が楽しきゃいいや、っという考えにはなれなかった、し、きっとこれからもそうな気がする。
いや、この表現、足りない、足りなすぎて、きっと誤解を与える、他者はもちろん、自分にとっても。そうじゃない、けれど、時間がない、この点は、今日の夜にでも考えたい、覚えていれば、だけれども。