カテゴリ重視方針にしてから、初めての日常カテゴリ……あ、ないんだった、こういう気分の時は、ええと、どうすんだっけかな。
それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
金曜と土曜が微妙
なんだか気乗りがしないイベントが近いと、憂鬱だよね。それがやってくるのは、まだ先なのに、その前から、何となくテンションが下がっていく
こんなこと書いてどうするの、と思ったが、また閃いた。
そうだ、日々の生きづらさってのも、まさにこの構造じゃなかろうと。
いずれやってくる破局
人は死にますぜ?
というのは、誰しもわかってる。
しかしながら、それが間近に迫っているとは思えない。これが中間派の苦悩である。
しかし、受験とか、就職活動とか、そういうイベントごとは、なんとも憂鬱な気分を引き起こす。
仕事でも、あー、あの調整ごと面倒だなぁ、話し合いとか紛糾するだろうなぁとかあると、憂鬱である。
死ぬ
でも、そんなことに囚われてるのはやっぱり、エラーだと思われる。
だって、いずれ死ぬからといって、人生楽しまない、という選択肢は普通はないわけだ。
本当は、一日一日の時間は、受験とか仕事とかのどーでもいいイベントに関わらず、止まることなく進んでいってるのだ。
そして金曜日が終わる
あー。
あー、ほんと、きりがねぇ、こたえがねえ。
修羅場を乗り越えないと応用力がつかないぞ、とか言われてもだな、はるかに複雑に、高度に、範囲が広くなっていく仕事に、どう対処すりゃええんや。
とか愚痴いっても仕方がないけどね。
どっかで、ここまで、と、きりをつけなきゃいけないんだろうけど、70パーセントの完成度で、それをダメだと怒られたら、やっぱり悔しいよな。
作品創りもそうか
完璧なものを作ろうとするのは大切だが、そのせいでいつまでも完成しないのはよくない。とはいえ、ゴミとか間違いをつくりだしても仕方があるまい。
でも、0パーセントは、次には絶対つながらない。
例えばだ、このゴミみたいな記事を、果たして投稿すべきか、いつもいつも悩む。
かといって、そのときちょっといい感じな記事だな、と思っても、しばらくすると、ああ、変なこと書いてしまったなとか、自己嫌悪になる。
こうなってくると、自分で終わりをみつけるのと、そもそもその考えることが、書くことが、やることがそれ自体楽しいかってのが、唯一の根拠になるのではなかろうか。
いま書いてるのは、すべての行為、思考のことをいっている。
すべて、すべてだ。
絶対的ポジティブ
うひゃーじんせい楽しいな! 幸せだな!!ずっとこんなことばっか言ってる人、アホちゃうか、と思うかもしれない。
しかしながら、この生き方は絶対に正しい。
なぜならば、人に生きる意味なんてないからだ!
矛盾、ブログタイトルと矛盾! 否、そんなこともとより分かってる。分かっているからこそ今まで書いてなかっただけ、いや、書いてたかも。
出発点はそこじゃない。
1 あれ、なんか、生きてんのつらくね?
2 人生楽しむのが生きる意味だ!
3 いや、それにしてはつらいこと多すぎじゃね?
4 あーほんともうつまんねぇ。人生なんて消えてしまえばいい。
5 (どん底、言葉がない状況)
6 あー、まぁ、人は死ぬよな。じゃあ精一杯死ぬ気で色々やってみてもいいんじゃん? それで死ぬならそれはそれでいいし。
7 あれ、意外に色んなことできるじゃん。成功もするじゃん。
8 うひゃひゃ、たのしいねーたのしーねー
9 で、結局なんなの? わかったことって、楽しいこともあればつらいこともあるとか、そんな当たり前なことじゃん?
10 いずれ死ぬまで、こうやって目の前に発生する事案に一喜一憂してりゃいいの? それってそもそも何になるの?
11 頑張れ頑張れって、何のため?
12 あぁ、そうか、やっぱり、僕は、生きることにたいしての意味を見つけなきゃならないんだ。←いまここ
生きる意味というか、目的だよね。
成し遂げたいとことというか、ライフワークというか。
カテゴリちがくね?
一日過ぎてしまったのだ、許して欲しい。
ああ、しかし、苛々というか、おちつかなさは、残っている。
時間がないよね。
書く時間、
ほんと、
どこまで頑張りゃいいの?
おうちに帰った遠藤が引き取ります
お疲れ様。うん、完全に弱ってるね。何というか、終わりのない仕事というのは、徒労となる。いやまぁ、終わりはあるんだ。当たり前だ、何せ、「人」自身に終わりはある。いやそんな長期的なこと言わなくても、別に本当にダメなら「首」になる。クビになったところで、まだまだ生きるすべはある。資産があれば、何もしなくても生き延びられる。
だが、本当にそうか? もし、ただ生きることだけが目的なのであれば、何故、とある大企業の年若き乙女は自殺しなければならなかったのか。「頑張ること」、それは、いったい、どこまでやったら、「頑張った」ことになるのか。結局、環境、他者次第だ。くだらない、ああ、本当に、他人という奴はどうでもいいものだ。
と、感情エラーが発生するのが、非常に疲れたときである。
あれをやらなきゃ、これをやらなきゃ。
いいよ、できるよ、そつなくこなせる。だが、それの更に深いところ、どこまで求める? 所詮、いくらきれいごとをいっても、品質と、時間と、コストの関係は、相互作用するしかないのだ。
とかいうと、今度は、「時間外労働は削減すべきだ」「時間をかければよいものができるわけではない。効率がすべてだ」とか言われ始める。
これを、「時代の変化だ」「流行に乗り遅れてはならない」とするのは、果たしてまともな判断だろうか?
時代の変化を問う
ある筋トレブログ何か見ていると、やっぱり、仕事は最前線で頑張るべきだとか、逃げたところで何も得るものはないだとか、修羅場を潜り抜けてこそ人は成長するだとか、そんな言葉がありふれている。中でも、時代の流れに取り残された人はクズのように死ぬしかない、というようなことも珍しくなく言われることである。
本当にそうか?
僕はまだ、食糧生産革命あたりの1万年前ぐらいまでしか、件のサピエンス全史は読んでいないけれども、ある尊敬する信頼できる方のブログ記事によると、「文化や文明の発展と人の幸福は一致しない」という点と、「いずれ時代の変化は我々の感覚を現実から引き離す」という点が結論であるようである。今完全に僕の言葉で置き換えたため、多分意図が異なっている気がする(特に2点目はそんなこと書かれていなかった気がしてならない)が、まぁ、その結論というか考えというか、実感というかは、僕がまさに最近、ここ何年かで強く感じていることであり、それを、「生きづらさ」とか、「頑張った先に何があるのか」とか「生きる意味を求めざるをえない」とか、モヤモヤした感覚を様々な表現で、明確化しようとする試みであったわけだけれども、そうした感覚を、このサピエンス全史という本は、明瞭にしてくれるのではないかと、期待しているわけである。
(とか思ってる割に、全然先に進んでない! 時間がない!)
時間がないとは何か?
おめーはよ、時間がないとかいいつつ、何故こんなブログ記事書いてるんだよ?明日も、気乗りがしない用事のため、早いんだろ?
うむ。ところで、書いておかねばならぬことに、「時間がない」というのは、「主観的」な問題であるということである。
え、だって、時間は、24時間、ちゃんと平等に流れているではないか。時間は決して無くならない。無いのではない、「過ぎる」のだ。
「あー、思った以上に過ぎてしまった」
この感覚が、我々に「時間がない」という言葉を発せさせるのである。
繰り返すが、なくなったのではない、過ぎてしまったのだ、この違いは大きい。
時間がない、とか言ってるうちは、それは、本当に主体的に生きていないということだ。
「やるべきこと」「やらされていること」ばかりのときは、そんな台詞が頭に浮かぶ。
そんな人生、そんな生きる時間を、認めていいと本当に思ってるのか?
貴様は、本当に、グダグダ言いながら、寿命、残された時間が暫くも留めることができず、ただ絶え間なく過ぎ去っていくことを、本当に分かっているのか?
うつ病はアホの子なのか?
という、煽りを間にうけると、「必死に」「頑張って」生きていかなければならない、という結論になりがちである。短慮だ。浅はかだ。そうじゃねぇだろうよ。鬱々としている人、ぼーっとテレビ見て過ごしている人、たわいない話おしゃべりをしている人、みんなそれぞれ、自分の時間を生きている。
それを、どの上から目線で、「もったいない」「無駄に時間を使ってる」とか言えるのだ? お前は誰だ? 社長か? 神か?
ああ、分かっている、お前の言いたいことは分かってる、どうせあれだろ、そんな考える間もなく、ジャングルのゲリラとか、戦争中の兵士だとか、紛争で餓えた人々だとか、そんな例えにおいて、思考ができることは幸せだ、とかいうのだろう?
それもまた短慮だ。
俺は、「頑張ってきた」よ。だが、それを誰か、認めてもらえないと、それは単なる慢心となる。
「え、その程度で頑張ったの? もっと大変なひといっぱいいるよ? もっと頑張れよ」
はい、分かりました、頑張ります。せっせ、せっせ。「頑張りました!」
「え、まだその程度なの? あー、ほんと、センスないねぇ。使えないなぁ。もっと頑張れよ」
はい、わかりました。せっせ、えっさほいさ、はぁ、はぁ……「が、頑張りました」
「おまえ、マジでやってんの? ふざけてんなら帰っていいよ? もっと頑張れよ」
はい……分かりました。せっせ、えっさ、ほいさ、はぁぁぁあああ! めんどくせぇぇぇ!!
と。
この、「頑張る」という行為が、全く持って理にかなっていない、バカげたものだということの片鱗が、少しは読み取れるだろうか。
すぐさま、書いておかねばならないのは、「ストイック」なことが決して悪いことではない。
というか、逆転して、「頑張らない奴は所詮その程度だ」とすら俺は思う。どういうことか、完全に矛盾したことを書いている。
頑張ることとは何か?
僕が必要だという「頑張る」と、一般的に言われる努力だとか頑張るということの違いは、一つだけだ。主体だ。
簡単なことで、その頑張る行為自体が、楽しいもの、充実したもの、生きがいとなるものであれば、それは大いに自分自身を成長させるし、パフォーマンスになるし、充足を与えてくれるものである。
つまり、だ。「頑張る」という言語表現に、「苦労して」「辛いけれども」「必死になって」「くらいついて」とか、そうしたマイナス言語が付随する場合に、「くそくらえ」と僕が言うわけだ。
これは前から何度も書いているが、「インプット」はとっても重要だ。アウトプットだってそうだ。
何かするのに、知識は重要だ。筋トレという、身体へのインプットだって重要だ。
インプットも、アウトプットもできない人は、そりゃあダメだ。というか、そんなの生きてるといえない。そう、だから、厳しいことを書いているようで、アウトプットやインプットは、誰にでも、普遍的にできることなのだ。
ただ、それが、「他人」という存在を介在させたときに、その「インプット」は、その「アウトプット」は、時に凄まじい「頑張り」を要求するのである。
まとめ
ああ、もう、疲れたよ! 何でこんなこと書かなきゃいけないんだよ! 当たり前だろ? 何でみんなわかんねーんだよ。アホかよ! 何で世界は平和じゃないんだよ。争って人を殺して、奪って富を得て、それで何になるんだよ! バカか!ほんっとに、くだらない人間ばかりだ。いや、人間ってもんがそもそもくだらないのか。サピエンス? 賢い? 傲慢にもほどがある!
……今日はまだ、ルーチンもやってない。
それだけは、やろう。
せめてもの、他者や環境に翻弄されようと、それだけは、僕の主体的な行為、支柱、なのだと……まだ始めて30日ぐらいだけれども、行為が僕自身の一部になるように、これからも、続けたい。
どこがこれのまとめなのだ? うん、つまり、書いたこと自体にあまり、意味はない。ただ、疲れて、苛々して、そのイライラの対処を行った、というだけの軌跡。
うん、少し、ようやく落ち着いてきたか。
やっぱり、あれだ、その、「イライラ対処」カテゴリの場合に、「頑張って」短くしようとするとダメだこりゃ。
ノンストップで好きなだけ書かせてやらなきゃダメなのかもしれない。
何だろう、運動した後の疲れは何だか心地いいのと同じなのかもしれないが、ノンストップで書きなぐった後の疲れは、いやそもそも、書き始めたときから既に疲れていたわけだけれども、同じ疲れだけれども、何だか、少し、落ち着くというか、安心するというか、心地よいような、そんな気がする……。
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