今日の一言「ものすごく暗い内容のため読む際は部屋を明るくして心が落ち着いたときに読みましょう」
ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
誰か面白いこと書いてくれ
本当に誰か、心から感動して、何か前向きに突き進んで、今後ぶれずに人生全うできるような、考え方でも体験でも作品でも何でもいいから与えてくれよ。ある方が、長期の休みが終わりに近づいて憂鬱だと仰っていたが、まさに自分も、長い夏休みの終わりに学校が始まるようなそんな閉塞感が最近ずっと続いている。
しかたねぇ、誰も助けてくれないなら、自分で、生きる意味、なんて大層なものみつけてやろうと、徹底して考える、と、ブログを始めたが、おい、全然はなしが進んでないじゃないか。
友人の多くが、結婚したり、子供ができたりと、まぁそんな報告が多いのも理由なのか?
そうだとしたら、単なるひがみだが、そういった生活に憧れを今はもてないという、そういう状況というか感覚。
恋に臆病とか、彼女ができなくて悩んでいた、というのは高校生くらいはそうだったが
別にできないことが問題には思えず、それらをやりたいと思えないというのがある。
いやそもそも、彼女をつくろう、というのも、それが恋をしてやりたかったこと、というよりかは、どこかしらその経験自体を求めていた、どっちかというと、勉強に近いような感覚だった気がする。
そういう意味では、恋らしき恋ってのは、中学生ぐらいの初恋が、最初で最後の、女の子を好きになる、という感情だったのかもしれない。
とか、そんなことどうでもいいんだよな。
こういった表現で、なんとなく可哀想な自分、的なのにひたれて満足してたようなときもあったような気がするけど、今は心底どうでもいいと思ってしまう。
そして、このどうでもよさ、というのが、ほぼ生きること生活すること全般にひろがるから大変だ。
そんな状況でも、仕事はせねばならん。
やらねばならん、やる。やればやるほど精神ポイントが削られている気がする。
メンタルポイントの回復
お疲れだね、休みな、という方策は正しい。しかしながら、最初に引用した素晴らしい方のお言葉のとおり、休みそれ自体は、必ずしも心と体を回復させるものではないのである。休みがむしろ、絶望を深める可能性さえある。
そしたら、メンタルポイントは、どうしたら回復するんだ?
宿屋で寝ると全快まで回復するけど、寝ればいいってもんだいでもない。
自己コントロール性、というのもある。
資産があれば自由が買えるから、それによって精神充足する、ってのもある。
しかし、いくら余剰資産があっても、使いたいものもなく、かといってアーリーりタイヤできるほどもなく。
アーリーリタイアした人とか、それを目指す人のブログなんかも結構面白いが、しかし、その後の人生として、何がどう充足して楽しいのかよくわからない。
切り詰めて生活して、慎ましい自由を得てそれの繰り返しで孤独に死ぬ……いやもちろん、とっても魅力的に思えるけど、でも、そういう次元ではいまの生活でも別にいいや、って感じ、難しいけど、そこまでコミットできるほど素晴らしいようにはみえない、ということだ。
物語も同様
東京マグニチュードも面白かった。
けどさ、両親と再開できて和解もできて大切な人生を一日一日過ごしていこう、めでたしでたし、なんだけど、その後、老後になった主人公はどうなった?
ほんとに、人生最高に幸せにまっとうできたのか?
幸せの次元の変化
つまり、
ひっきょう、俺は狂ってしまったのだろう。
多くの人は、苦労しながら、大変なことも乗り越えながら、なんとか人生を歩んで、そして死ぬ。
そこに、そもそも、生きてること自体を懐疑する、というような人はいないだろう。
どこの人も、どこの本も、知人の言葉も生きることそれ自体は自明なものとされている。
いや、ごめん、それは、正しい。
人間の本能は、生きたい、知りたい、仲間になりたい、の三つだ。
進んで死ぬ、というのは、細胞レベルのアポトーシスはあるが、一個の人間として、そんなことあっていいものか。
であれば、本当に、自ずから、やりたいと、理想的な、本当に楽しくて仕方がないそんな生活というのがあるはずではなかろうか?
それへの道のりがあまりにも遠すぎて、いやになってしまっているのではないか?
二つの回答
理想的な生活があるにもかかわらず、それへの道のりが遠いことによる絶望。
もう1つは、理想的な生活を見いだせなくなる絶望。
絶望には二つの形態がある。
では、例えば、仕事が辛くて悩んでる人は、どちらだろうか?
仕事がつらい、上司から無理難題やノルマを課せられる、同僚や客が理不尽だ、単純作業過ぎてつまらない、など。
まぁ理由は様々だろう。
それらの問題が解決すれば、再び、生きる希望を見出せるようになるのか?
理想の生活を想像する
不満があって、時おり楽しくて、大きな変化はないけれども、毎日それとなく充実して、お酒やおいしいものや友人に囲まれて生きていく。お金がたくさんあって、欲しいもの何でも買えて、車も女も抱き放題。酒池肉林に生きていく。
いろんな物語がある。
最近俺は、どの物語に対しても、どうにも本気になれない。例えば、高校時代、最終兵器彼女という作品があって、高校生の男女の切ない恋の物語なんだけど、途中別れたり、すれ違ったりいろいろするのだけれども、最終的には一緒になって、世界最後のときも、物理現実的な身体はなくしてしまっても、心の中でずっと二人は「恋していく」という作品なのだけれども、まぁコミットできないわな!(かっこわらい)
いや、純情的に、好きになった人と、ずーっと一緒に、困難を乗り越えて生きていくって、今も昔も、恋愛作品的なやつの根本命題というか、繰り返しあの手この手で同じテーマを装飾して洗練され続けているものだ。
しかしだ、子供を生めない体になってしまった女性が、強い男を育てることに生きがいを見出すことが、まぁできればそれはラッキーというか幸せだけれども、「やっぱり、自分の子供を自分の手で抱きたかった」という思いがずーっと残り続けているとしたら、その人の人生は、この先、何があろうが、「身体的限界性」によって、不幸でしかありえない、哀しいことだけれども。
身体的限界性による不幸
彼女ができたことがある、結婚したことがある、それらの経験は、もはや何の自慢にも、何の心のよりどころにもなりゃしない、ということが、最近の問題の一つ。いやもともと、何か外属性による問題と、僕の問題視している事象については、きっと関係ないだろうなと、思っていたことではあったけれども、ただそれは、童貞であるという事実がある以上は、もはや何ら理論を積み重ねても簡単に精神が覆ってしまう事態なのであって、僕は全身全霊決意して行動に励んだ。
その結果、「成果」に結び付いたといえようが、結局、最初の方に書いた通り、何か「恋して」「本当の欲求として」の行動であったとは言い難いのである。
いつぞやから、僕は一体、何も望めなくなっていたのだろうか? 簡単な仮の回答を書いておけば、初恋の成就が潰えたことだろう。
どんなに「頑張って」も「努力して」も、世の中、人は空を飛べないのと同じぐらいくだらないほど当たり前のように、成し遂げられないことってのは存在するのである。
だからどうした? そんな小学生みたいなダダをこねてないで、もっと頑張って、真剣に、生きてみろよ。頑張れ、頑張れ頑張れ……。
いいよ、頑張るのはやぶさかじゃない。だが、頑張ってそれがどうしたってんだ? 必死に生きて、40歳なって、50歳なって、60歳なって、70歳なって、それで病気になって死んで、それが何だってんだ?
子どもを育てる? 次世代への継承? 70億人も人がいるのに? 人類とっても反映してない? 自分の遺伝子残してそれがなんだっての?
まったく無意味だ。
復讐としての生き方
全く無意味だ。何ら価値もない。でもさ、だったら、この役に立たない俺が、ずっと生きてることで、このクソみたいな世界に復讐してやってもいいじゃないか。滓のように生きてやるよばーかばーか。
と、いじめられてたとき、もうふっきれて反抗というか抵抗したこともあったようななかったような。それ以降はあぶないやつと思われたのかどうなのか分からないが、あまりいじめられることもなくなったような変わらなかったような。
んー、なんつーか、まぁ、思い出せば出すほど、くそみたいな周りの奴らだったし、まぁ俺自身ももっとクソみたいなやつだったのだろうけれども、何か過去に戻りたいとは一切思わないな。
かといって、今がじゃあ最高に幸せかってのも何か違うけど、取りあえず平穏安寧の暮らしって気もする。
そういう意味ではこう、過去との比較思考って役に立っちゃうんだけど、そんな、過去に対しての不平不満を言いながら毎日生きていくって、それまたくだらない人生だよなぁ。
ここで、「どんだけクソみたいな人生なのか」というのは意味がない。
ダメブロ界の作品なんかを読んでいると、うわ……これはマジきついっすわ、ぱねぇ。と思うのがいくつも読むことができる。それが割り増ししてるのか、創作なのかは分からないけれども、まぁ割かし本当なのだろう。じゃなきゃ、表現できないようなレベルの作品がたくさんある。あのレベルで創作だとしたら、もうそれはそれですげーや、って思うぐらいだ。
まだまだ大したことない
おーい。その程度? 暗い日記だよーとか書いておいて、その程度なの? もっと心底、読んだ人9割ぐらい憂鬱にさせるぐらいのこと書けないの?うわー中途半端だねぇ。ポジティブでもないし、ネガティブなことも中途半端。あっはは、本当に何にもできない半端野郎だな。
この記事読んでさ、読んだ人がさ、「ああ、こんなダメな奴がいるんだ……、俺はまだましなほうだな。よし、もうちょっと頑張ってみっか」とか思わせられるぐらいダメ人間アピールしてみろよ。ほら、ほら!
うっせーはげ! そんなこと目的にしてんじゃねえんだよ。意味を探してるんだよ、ロールモデルだよ!
諸先輩方のだらしなさ
あんまりやったことないことにチャレンジ。人のせいにするよー。あのさ、そもそも、周りの人の生き方で、楽しそうなのがねーんだよ。
上司も、先輩も、友人もその他大勢の人たち、いやもっと広げて、ニュースで称賛される人でもいいし、世界で活躍する人でもいい。
なんか、どれもこれも、いや、「すげー」とは思うけれども、「僕もああなりたい!」と目をキラキラ輝かせて思えないんだよな。
仕事ができる先輩上司とか沢山いるよ。でも、みんな血眼になって、時にお客さんに頭をさげて、使えない部下に苛立ちながらとっても頑張ってるよ。全然楽しそうに思えないよ。
中には、もう仕事なんてツールに過ぎないとして、趣味にはしって楽しんでる人もいるよ。でもそれも何か見習いたいというか、ロールモデルとしては欠陥に思えるよ。
アーリーリタイヤを目指して節制して頑張ってる人もいるよ。実際45歳でリタイアして、自由気ままに一人暮らしを謳歌している人もいるよ。お金を貯めたことはすごいことだと思うけれども、何かその自由になってやりたいことがよく分からないし、あんまり憧れないよ。
批判ばっかだな!
でもそうなんだ。「こうなりたい!」と思えるような人がいないのだ、色々探しているけど。
ある精神科医のブログの作者さんは、結構面白いよ。書いている内容から、結構思考レベルで近くて目指すべき人な気がするよ。でもちょっと、やっぱりブログとかじゃあ分からない部分が多いよ。
こんなこと書いていると、「は? てめー、凡人カスのくせに偉そうになに言ってんだよ、死ねよ」って言われるよ。哀しいよ。でも、そんなこと思う奴には絶対憧れないし、その他にも、憧れるような人がいないってのは、哀しいけれども真実なところだよ。
いやすぐさま書いておけば、他者に感動を与えられるような作品をつくれる人は、本当心の底からすごいと思うよ。かっこいいと思うよ。でも、今回問題になってるのは、特定の技能的な部分じゃなくて、全人格的な、物理現実的な生き方においてのことなんだよ。
創作は楽しいことなんだよ。力になることなんだよ。でも、それと物理現実とはちょっと違うんだよ。映画監督とか、小説家、としての生き方にあこがれるわけではないんだよ、ここがちょっと難しいところなんだ。
え、つまり逃げてるだけじゃね?
すぐ君はそんなことを言ってくる。頑張れとか、逃げるな戦えとか。
分かってるというのに。分かっていて、どうしようもなく疲れてくるから書いてるだけだろうが。
第一、グチグチした人はきらいなんだ。
愚痴をいうなら、もうそれは本当に表現になるぐらい徹底しろ、といいたい。
ドストエフスキーは読んだことないけれども、どす黒く暗くなれば、それはそれで人類の発明品だ。
それにしてもつまらないなぁ。
つまらないとか言ってる奴がつまらないんだ。負け組なんだ、脳はレッテルはるから、悪い情報ばっかり見えるようになって悪循環になるんだ、とか、まぁ分かってる。
よくないことしてるんだろうと、もっと明るくなれ、楽しくなれ、喜びをこの手に! と思う。知識的には。
でももう、どうしようもなくむなしい。やる気が起きない。つまらない。
もっと暗いこと書いておこう
まだいいよ。取りあえず会社辞めても3年ぐらいは現行生活を続けられるぐらいの資産もある。まぁ本気で自殺するなら、取りあえず会社やめてからだな(かっこわらい)。
それはまぁともかく、今後の、暗い出来事、危機として考えられるのが、親の死というのがあるだろう。
両親は健在だが、いずれ人は死ぬ。
そしたら、俺ひとりやん。
死んでも泣いてくれるひとおらんやん。
無気力やん。
……。
とか、3年経って、資産も潰えて、経済的にも困窮したとする。
おぉう。もう死ぬしかないじゃん、と。
そもそも、セーフティネットとして、「経済的困窮したぐらいで自殺する」というそれ自体が、制度的欠陥というか、自殺する人の精神構造の危機というわけであって、別にお金がなくても再チャレンジできる社会であるのが当然望ましい。
ただ、もう天涯孤独になっちまって、お金もなく、社会的なつながりもなく、という状態になったら、まぁ、もう生きてて仕方がねえや、ってなるだろうね。
それに、ここが重要だが、「大抵の【真面目な】人たち」は、そういった孤独になった人たちに対して、「自業自得」としか思わない。
僕だって、2000万円ぐらい親から借金してギャンブルにつぎ込んで多重債務になったとか、お前、マジ消えていいよ、と思ってしまう。キャバクラとかホストにつぎ込んでエトセトラ、とかも同様にアホとしか思えない。
けどまぁ、そういう図々しい奴らが生きはびこって、一方で責任感が強くて頑張ってきた人が自殺する世の中、ほんとおかしいよね。(いや実際そんなことが起こってるかどうかは、要検討調査が必要。実は、ごくわずかな事例をマスメディアが面白おかしく取り上げてるだけという可能性は十分にある。ただ、そういった社会学的な問題提起について、僕はもはや一切興味はない。他者の心配をしている余裕なんてない!)
もう暗いこと書けません
……もう無理。これ以上はさすがに思いつかない。指が止まってしまったよ。もうこれ以上は、哀しいことも、つらいことも、むかつくことも、ネガティブなことも、暗いことも、書けない。
全力を出し切った。
もうほんと、今日は頑張った!(わらい)
うん、「徹底」した気がする!
よーし。明日はもっと暗くてネガティブな奴を書くぞ!!
いや、冗談ではなく、もう本当に、中途半端に過去に浸って、カタルシスを得て満足して明日をなぁなぁと頑張ろうとか、そんなこと思わねえ。思ってやるもんか。
感動したならそれを本気で、苛々したならそれを本気で、憂鬱ならそれを本気で書いてやるよ。
(憂鬱なときに本気で書く、というのは、甚だ矛盾としか思えない表現。でも、身体が重くて頭が痛くて気分がふさぎ込んでいても、そのこと自体を書きなぐってやりたい)
いやはやほんっと、最悪な気分だ、だがまだ足りない。
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コメント
コメントありがとうございます!
何だか、冬の寒さで涙腺が緩くなっているのでしょうか、温かいお言葉にうるっとしてしまいました。
>彼女が欲しいか欲しくないか、結婚したいかしたくないか、私の正直な感覚としては「できてもいい」が正しいところかもしれません。欲しくない、したくない、という思いはあまりないけれど、だからと言って「作ろうとしてまで欲しいものか」というと何だか違う気がしてしまうんですよね。
大事な、重要な感覚に思います。
そこに、大多数とか、「世間一般」というプレッシャー(空気感)が発声すると、なおのこと複雑になると思います。自分の感覚や思考がどんどん分からなくなっていくような感覚。とはいえ、外界との関係性もまた、一つの自分自身の様相であるため、はっきりと無視することもできません。
>それでも大多数の人は、本当に作ろうとして作ってしまう。そしてそのまま本人的には幸せになってしまったりする。
この視点も鋭く重要と思います。
作ってしまうということは、努力やテクニックで可能性がありますが、その後の感覚として、「実際に幸せになる」というその関連性が非常に難解な概念です。いや、「難解」と思ってしまうのがまさに、「大多数」との乖離であるように思われます。
普通多くの人は、目的と感覚が一致している。それは、焦燥や苦しみから逃れたいという思いであれ、もっとより良いものを手に入れたいという欲望であれ、希うものは一致しているのだろうと思います。
>結局、私が生きている理由はごく単純な理屈で、「今はまだ死にたいと思わない」ので、「じゃあとりあえずやりたいことをやれるだけやっていようかな」という程度のものなんだと思います。
私たちが(勝手に「たち」としてしまいましたが……)問題視しなければならないのは、その、「どっちでもよさ」なのかもしれません。
死にたいわけでもない、しかし、生きたいわけでもない(敢えて対比的に書きましたが、生きたいわけでもないというのは、「本来的理想的な生き方」という意味においてであり、これは必ずしも否定的な表現ではないと思います。)という中間的な感覚が問題であろうと思います。
>私の場合はそれがたまたま、創作やゲームといった、あらゆるエンターテイメントの中で自分の趣味や趣向に合うものに触れ続けていたいという欲求という形をしているだけなのかもしれません。
素敵な考え方だと思います。
私もまだ、素晴らしいと思う作品は多くあります。それらに触れられているうちは、安易な選択はとらないことと思います。現実的な物理時間の拘束(物理的及び精神的な囚われを含む)が支配的にならない限り……。
>それは嫌だなぁ、淋しいなぁ、悲しいなぁ、と思う人がここに一人はいますよ(´・ω・`)
ありがとうございますありがとうございます。サイトの運営は、本当に好きなことの一つです。その好きなことをして、誰かに楽しんでもらえたり認めてもらえたりするというのは、本当に貴重で嬉しいことです。
>こんな時間にコメント書いてるせいで言ってること滅茶苦茶かもしれませんが率直に思ったこと書いてみました。
いえいえ、すとんと心に染み渡るような感じでした。ありがとうございます、お気持ちとてもよく伝わりました。これからも宜しくお願いいたします。
何だか、冬の寒さで涙腺が緩くなっているのでしょうか、温かいお言葉にうるっとしてしまいました。
>彼女が欲しいか欲しくないか、結婚したいかしたくないか、私の正直な感覚としては「できてもいい」が正しいところかもしれません。欲しくない、したくない、という思いはあまりないけれど、だからと言って「作ろうとしてまで欲しいものか」というと何だか違う気がしてしまうんですよね。
大事な、重要な感覚に思います。
そこに、大多数とか、「世間一般」というプレッシャー(空気感)が発声すると、なおのこと複雑になると思います。自分の感覚や思考がどんどん分からなくなっていくような感覚。とはいえ、外界との関係性もまた、一つの自分自身の様相であるため、はっきりと無視することもできません。
>それでも大多数の人は、本当に作ろうとして作ってしまう。そしてそのまま本人的には幸せになってしまったりする。
この視点も鋭く重要と思います。
作ってしまうということは、努力やテクニックで可能性がありますが、その後の感覚として、「実際に幸せになる」というその関連性が非常に難解な概念です。いや、「難解」と思ってしまうのがまさに、「大多数」との乖離であるように思われます。
普通多くの人は、目的と感覚が一致している。それは、焦燥や苦しみから逃れたいという思いであれ、もっとより良いものを手に入れたいという欲望であれ、希うものは一致しているのだろうと思います。
>結局、私が生きている理由はごく単純な理屈で、「今はまだ死にたいと思わない」ので、「じゃあとりあえずやりたいことをやれるだけやっていようかな」という程度のものなんだと思います。
私たちが(勝手に「たち」としてしまいましたが……)問題視しなければならないのは、その、「どっちでもよさ」なのかもしれません。
死にたいわけでもない、しかし、生きたいわけでもない(敢えて対比的に書きましたが、生きたいわけでもないというのは、「本来的理想的な生き方」という意味においてであり、これは必ずしも否定的な表現ではないと思います。)という中間的な感覚が問題であろうと思います。
>私の場合はそれがたまたま、創作やゲームといった、あらゆるエンターテイメントの中で自分の趣味や趣向に合うものに触れ続けていたいという欲求という形をしているだけなのかもしれません。
素敵な考え方だと思います。
私もまだ、素晴らしいと思う作品は多くあります。それらに触れられているうちは、安易な選択はとらないことと思います。現実的な物理時間の拘束(物理的及び精神的な囚われを含む)が支配的にならない限り……。
>それは嫌だなぁ、淋しいなぁ、悲しいなぁ、と思う人がここに一人はいますよ(´・ω・`)
ありがとうございますありがとうございます。サイトの運営は、本当に好きなことの一つです。その好きなことをして、誰かに楽しんでもらえたり認めてもらえたりするというのは、本当に貴重で嬉しいことです。
>こんな時間にコメント書いてるせいで言ってること滅茶苦茶かもしれませんが率直に思ったこと書いてみました。
いえいえ、すとんと心に染み渡るような感じでした。ありがとうございます、お気持ちとてもよく伝わりました。これからも宜しくお願いいたします。
posted by 遠藤at 2016/12/23 21:39 [ コメントを修正する ]
小さい頃は大きくなったら○○になりたい、って思っていたものですが、大きくなるにつれて私の精神構造や思考は大多数の人とはズレていってしまったようです。
例えば、彼女が欲しいか欲しくないか、結婚したいかしたくないか、私の正直な感覚としては「できてもいい」が正しいところかもしれません。欲しくない、したくない、という思いはあまりないけれど、だからと言って「作ろうとしてまで欲しいものか」というと何だか違う気がしてしまうんですよね。
それでも大多数の人は、本当に作ろうとして作ってしまう。そしてそのまま本人的には幸せになってしまったりする。
きっと、その辺りの感覚に共感できないから私は独り身なのでしょうね。
大人なんて、社会人なんて、面倒で嫌なことばかり多くて、そんな仕事だなんだで一日の時間もほとんど持っていかれて、ちっとも楽しいと思わない。それでも、どうにか働いてお金を稼がないと、今の社会は生きていくことが難しい。中には、仕事が楽しい、生き甲斐だなんて言う人もいるけど、その感覚は私には理解できませんね。まぁ、一部のクリエイター業は楽しそうに働いているように見えるものもあって、少し羨ましく思えたりする時もありますが。
結局、私が生きている理由はごく単純な理屈で、「今はまだ死にたいと思わない」ので、「じゃあとりあえずやりたいことをやれるだけやっていようかな」という程度のものなんだと思います。私の場合はそれがたまたま、創作やゲームといった、あらゆるエンターテイメントの中で自分の趣味や趣向に合うものに触れ続けていたいという欲求という形をしているだけなのかもしれません。
ただ、少なくとも、遠藤さんに自殺されてしまうと折角復興した「創作は力なり」の管理運営をする人がいなくなってしまうので、それは嫌だなぁ、淋しいなぁ、悲しいなぁ、と思う人がここに一人はいますよ(´・ω・`)
こんな時間にコメント書いてるせいで言ってること滅茶苦茶かもしれませんが率直に思ったこと書いてみました。