「時間切れ、仕方がない、今日の夜にまた続きを考えるか」
と書き残し、24時前の帰宅となり、風呂入って寝たのが昨日のことか。この頃感じるのは、時間感覚の早さ(速さ)だ。仕事をするようになって、早いなぁと感じるようになった、とどこか書き残したことがあったけれども、その当時よりも、もっともっと早い気がする。
意外と、55歳、80歳、あっという間なのかな。
しかし面白いのは、「気分」による文章の盛り上がり盛り下がりである。
少し生活が軌道に乗って(と思えて)いるときは、昨日の記事は、何とも醜くつまらないものに思えた。一方で、今日とか、何とも無性に落ち着かずイライラとしたときは、昨日の記事は、とても面白いものに思えるのである。
だから、進撃の巨人で、ハンジ・ゾエさんが、「価値があるかどうかは我々が決める。みみっちい貴様の自尊心なんてどうでもいいから、話せ!」といったのは、重要なことを言っていて、これは何も他者に限る話ではなく、自らの思考・日記においても同様だ。
今、この時点、なんとつまらない、非論理的で感情的な、面白くないことだ、大したことないことだ、と思っていたとしても、その「気づき」は、未来の、もしくはまだそれに気づいていない誰かのためになる可能性を秘めているのである。
席を立ったタイミングも別だし、カップルとグループの関連は全くないのだけれども、奇しくも、話している内容は同じだった。
知り合いのことであった。
・共通の友人・知人の誰誰が、実は隠れアニメオタクであって、気持ち悪いよねー、うんうん。あー、○○も、意外と結構そういう知識あるみたいだよー、えーそーなんだ。
・あいつさぁ、ほんと、趣味がおっさんなんだよな。そうなんだー。結構突然わけわかんないこと言ったりして、気味悪いよねーうんうん。そういや▼▼はさ、メール返信めっちゃはやいんだよ。暇なんだなw
的な。(大いに脚色している)
なんだか、どうにも、そういう、人のうわさ話ってのが好きじゃない。
きくのも、自分でもするのも好きじゃない。じゃあ聞くな! というが、大声でお話しを楽しんでおられて、きこえてしまうのだ、本当にイライラするときはイヤホンだが、しかし、何故そういった、人のうわさ話的なのが好きじゃない、不愉快に思うのかをちょっと考えてみようと思った。
まぁすぐ思いつくのは、自分がされたらイヤだなぁと思うからだ。
笑顔で接してくれていた人が、実は裏で、「あいつキモいんだよなー」とか言ってたら、すげーショックだろう。
それよりだったら、初めから冷たくされていたほうがましだと思うのは、まぁ特段ひねくれた心性でもないと思う。ところが、大体みんなそんな感情を抱くはずなのに、何故か、多くの人は、うわさ話をやめない。それがやっぱり、「楽しい」からなのだろう。仮想敵みたいな。共通の敵を(敵ってほど大げさじゃないのだろうが)つくることによって盛り上がる心性なのだろう。
これ、大学生だけじゃなく、例えば仕事場で、嫌な上司の陰口とか、使えない同僚に対しての嫌味とか、結構盛り上がるものだ。かくいう僕も、その場のノリで合わせてのっかってしまうこともあるため、何ともいえない。
故に、ここでそういった、大学生とか、社会人たちの批判をしたいというわけではない。
ただ、不愉快な気持ちになることは間違いないという確認をしておいただけだ。
それにこれは非常に難しい問題をはらんでいる。
何か成果物に対して、「つかえないなー」「うわ、これ低レベルだな」って思ったとしよう。
その時、それを直接、例えば部下とかに、「これゴミ屑だよ。すぐやり直して」って直接的に伝えることの無意味さもまた、明らかであろう。改善を要求するのであれば、それをうまく伝える「表現」が必要になる。
「この点はよくできているけれど、この部分をもっとこうしてくれな」
と、褒めつつ改善策を提示するってのは、嘘偽りをいっているわけではない。ただ、上手なコミュニケーションを図っているだけである。
一方で。
そのために、心に生じた、「うわ、これダメだな」って思いを、ぐっと、押し殺しているのである。
その思いを、気の置けない仲間同士になったときには、本音で、「あいつ毎回同じ失敗してくるんだよー。まいっちゃうよな」って、バカにしあうのである。
ということは、提灯ぶらさがった居酒屋で、サラリーマンが愚痴を言い合うってのは、「意識高い系」に批判されがちな事象ではありながら、実は重要な心のバランスをとるための手段なのかもしれない、ってわけだ。
(まぁ、そのこと自体に、僕はカタルシスが得られにくくて、逆に不愉快な気持ちが生じがちだってことが問題なんだけどな!)
ある、精神科医のブログにおいて、電車の中で死んだ目をしたサラリーマンは、死にかけてるんじゃない、エネルギーを充填してるんだ! と書いていて、ああ、やっぱりこの方は面白いな(お医者様に向かって何て上から目線だ!)と思ったものである。
こういう、「高尚な視点」的な内容については、それこそ、お医者様とか、弁護士様とか政治家とか、芸能人とか、価値ある高尚な職業や仕事をしている方たちが、面白おかしく書いていればそれでいいのではと思う。
一介の凡人の僕が、こんな「ちょっと人と変わった視点で物事みれてますよ」的な、自慢にならない自慢風に感じられること書いて、何になるってんだ。
くだらない、面白くない、ばかばかしい。
……という判断を、今の俺がすべきじゃないってのが、ハンジさんの教えだ。明日読めばちょっと面白いかもしれない。明日がダメでも、10年後は違うかもしれない。そんなもんでいいと思う。
先日掘り起こした10年前ぐらいのログたちは、当時、別に誰に見せるつもりでもなく、ただ、書きたいから書いていた。価値がどうこうなんて、思ってもいなかった、と思う。価値があるか、ないか、そんなこと考えるだけ、無駄だ。
100時間残業自殺問題と関連して、朝5時から夜23時まで、休日は一切ない職人を育てるをキーワードにした企業が、物議をかもしていた。完全に労働基準法違反だけれども、「自主的に」頑張っているからよいのだそうな、よくわからんが。
一方で、17時退社を、会社の厚意で許可した会社が業績をぐんぐん伸ばしているというニュース。ノルマや、業績評価や、時短のための取り組みが徹底していて、17時になると職場には誰も残らないという。一方で、業績もあがっていると。
なんだか、こういったニュースとか、本とか、記事とか、見たり読んだりしていると、何だかイライラしてくるんだよな。
この理由がよく分からずに、大学生の会話でイライラすることを対比させて、何か分かるかなって思ったのだが、うーむ、よく分からない。
なんだ、まぁ、それはそうと、こうやって、考える時間を作れているっていうこと、そのこと自体が、とてつもなく幸せだと、恵まれていると、それは思う。
ジャングルの中でゲリラやってるうちはこんなこと考えてられない。
コンビニバイトしてるときに強盗にあって、ナイフ突き付けられてるときに、「我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへ行くのか」なんて考えてられない。
ああ、考えよう、と思っていた時に、お酒なんて飲まなきゃよかった……眠くなってきた。
仕方がなかったんだ、イライラしてたんだ……。(誰へのいいわけか)
2008年に立てた、5年目標は、直接的、間接的、形をかえて、増減はありつつ、達成された。
この事実に、僕は、イメージしたことは実現する、と、「ザ・シークレット」の引き寄せの法則的なものは、「信じている」。
散々いつも、スピリチュアル的なものをバカにして、つまらないといって、胡散臭いといっているのに、矛盾のように思えるが、それも単に「表現」問題であって、PDCAサイクルとかビジネス用語にしちまえば、つまりそういうことでしかない。
どんな言葉が、その人に「ビビッと」くるかってのは、一様ではない。イデオロギーの時代においては、思想誘導は簡単だったのかもしれないが、価値が多様化したときに、その人に対して訴えるための手段は、一様ではなくなったのだ。
だから、職人になる! として、朝5時から23時まで働かせようが、それは表現的に、「自己実現」とかいってみたら正当化され……るか、法律違反かは別の問題であるが、とはいえ、それでも、その会社に意義を感じる人、「ビビッと」くる人がいるから、何やかんや今の今までなくならず、上手く回っているのである。表面的な、単純な批判が無意味なのは、言うまでもない(クレーマーにも五分の魂だ)。
そして、例えば、引き寄せの法則だか、チャネリングだかよう分からんが、こういったことを、「論理的に」説明しようとしても無駄であり、批判も絶えることがなくなるのである。例えば、「思ったことは実現する」「ことだま」的な表現、これはじゃあ、ナチスやポル・ポトの虐殺など歴史的悲劇を生み出したのも、「望まれたこと」「意味があること」なんていえるのか、とか。
論理なんて、クソの役にも立たないことがある。ヴィトゲンシュタインさんや、ゴウタマさんだって、理屈を追求することを目的としたのではないだろう。
という、僕の上の表現は、反転して、論理が意味がない、というのでも、全くないということの表現なのだけれども、果たして、この自分解説がなくして、明日の自分が読み取れるかどうか、これまた全く不明である。
そして、計画を立てる、という目標・目的からどんどん離れていくのは、これは何だ。
論文などでは、ここで、ここから上の行を、すべてデリート、となる。それでまた、振出しに戻って頭を悩ませることになるのだけれども、この、何の役にも、何の主張にもなっていないような、そんな無駄文章があっても、いいじゃないか、と、そんな風に思いながら、いやでもこれやっぱりいらないよな、って思いで苦しんでいたところに、「あ、たまに読んで面白かったッスよ」とかコメントくださった方がいたりして、これはホント嬉しい。
この、嬉しいとか楽しいって感情、これを大事にしていかなきゃ、これからどんな計画とか行動とか思考したって、いずれ失敗に終わるってのは、何となく、それこそ根拠も論理もないけど、何となく分かってきた。
もう、この格言は一切信じていない。
頑張る、努力する、苦しむ、痛めつける、悪いことがあったらそのうちいいことがある……
ルサンチマン、怨恨、法界悋気。
「今しっかり勉強したら立派な大人になれますよ」
「なにか楽しいことないかな~」
「そのうち幸せになるさ」
「今頑張らないでいつ頑張るんだ」
うるせえ。
「あるべき姿」
「目指すべき理想」
やかましい。
他者への批判。陰口。嫉妬。
本当に、いろんな言葉に、人に、ずっと翻弄されてきた気がする。
いい加減、自分をしっかりもって、自分の思うがままに生きていこうじゃないか。
こうして、ようやく遠藤は自分の生きる道を歩み始めるのであった――。
そもそも、「自分」ってなんだという話しだ。
むしろ昨今の教育においては、個人が重要視されている。一人一人の感じ方や考え方を大切にしましょう、的な奴だ。その言葉は、確かに聞こえはいい。どこかのヨットスクールとか職人要請会社的な画一的で絶対服従的な指導なんて、前近代的で唾棄すべきように思われる。
ところが、人は一方でタブララサ(白紙)なんじゃないか、と。真っ白で、いろんな環境で、いろんな人の中で、人格が形成されていくものなんじゃないかと。
自分とは、他人を映す鏡みたいなものなんじゃないかと。
心は、他者の気持ちを理解するため、危険を回避する行動をとるための防衛機能として発達したものなんじゃないかと。
であったときに、「自分をしっかりもって!」と、「自分の生き方」ってものを求め、見つめて、探していく方策に、何ら意味があることなのかと。
考えれば考えるほどに、自分という欲望が薄くなっていくのを感じる。
「生きてる意味ってなんだろう、ずっと考えてきました。でも、最近は、死んじゃった方が得なんじゃないかって思うようにもなりました」
と、表現されていた方がいらっしゃった。
僕はその表現における「得」って言葉が、多分、僕の頭の中だけでは出てこない表現だったから、とても感銘をうけたわけだけれども、とにかくその感覚、別に今すぐ死にたいとか、難病に冒されて何もしなくても身体が痛いとか(そういえばインフルエンザになって40℃近い熱に何日もうなされた)ではないが、何となく「何で生きてんだろう」という思いが、いよいよもって切実になってきている、気がする。
すぐさま書いておかなければならないのは、きっと、今暴漢に襲われて、命の危険にさらされたら、きっと僕は、無様にも情けなくにも、「死にたくない!」と叫ぶのであろうが。
で、反転して降ってくる思考として、いわゆるこうした「ごちゃごちゃした」思考というのは、結局「死からの逃避」なのではないかと。これは、ジョルジュさんの本を読んで思考強度が増した部分である。
死にたくないという思いと、身体の健康度が強い人は、脳が、発狂しないように、認知の度合いを下げて心の保全をはかるのではないだろうか、というのは完全に今思いついた暴論であるが、取りあえずメモしておく。
ああ、でも、本当に、真面目に、「計画を立てる」ために書き始めたはずなのに、その意味では完全に失敗した。しかし、眠気が高まりすぎて、もう、今日は終わり……。
(そしてまた駄文が積み上げられる)
一方で、正確に言葉を使わないと、自分の思考もまた正確に表現できない。それは、他者に読んで理解してもらうという意味もありながら、結局、言葉は「概念記憶」の集合体であり、正確な意味を追ったときに生じる「違和感」を大事にすべきとも思いメモ。
と書き残し、24時前の帰宅となり、風呂入って寝たのが昨日のことか。この頃感じるのは、時間感覚の早さ(速さ)だ。仕事をするようになって、早いなぁと感じるようになった、とどこか書き残したことがあったけれども、その当時よりも、もっともっと早い気がする。
意外と、55歳、80歳、あっという間なのかな。
しかし面白いのは、「気分」による文章の盛り上がり盛り下がりである。
少し生活が軌道に乗って(と思えて)いるときは、昨日の記事は、何とも醜くつまらないものに思えた。一方で、今日とか、何とも無性に落ち着かずイライラとしたときは、昨日の記事は、とても面白いものに思えるのである。
だから、進撃の巨人で、ハンジ・ゾエさんが、「価値があるかどうかは我々が決める。みみっちい貴様の自尊心なんてどうでもいいから、話せ!」といったのは、重要なことを言っていて、これは何も他者に限る話ではなく、自らの思考・日記においても同様だ。
今、この時点、なんとつまらない、非論理的で感情的な、面白くないことだ、大したことないことだ、と思っていたとしても、その「気づき」は、未来の、もしくはまだそれに気づいていない誰かのためになる可能性を秘めているのである。
ある大学生ぐらいの会話
食事をしているときに、隣に座ったカップルと、別の女の子グループの会話が聞こえてきた。席を立ったタイミングも別だし、カップルとグループの関連は全くないのだけれども、奇しくも、話している内容は同じだった。
知り合いのことであった。
・共通の友人・知人の誰誰が、実は隠れアニメオタクであって、気持ち悪いよねー、うんうん。あー、○○も、意外と結構そういう知識あるみたいだよー、えーそーなんだ。
・あいつさぁ、ほんと、趣味がおっさんなんだよな。そうなんだー。結構突然わけわかんないこと言ったりして、気味悪いよねーうんうん。そういや▼▼はさ、メール返信めっちゃはやいんだよ。暇なんだなw
的な。(大いに脚色している)
なんだか、どうにも、そういう、人のうわさ話ってのが好きじゃない。
きくのも、自分でもするのも好きじゃない。じゃあ聞くな! というが、大声でお話しを楽しんでおられて、きこえてしまうのだ、本当にイライラするときはイヤホンだが、しかし、何故そういった、人のうわさ話的なのが好きじゃない、不愉快に思うのかをちょっと考えてみようと思った。
まぁすぐ思いつくのは、自分がされたらイヤだなぁと思うからだ。
笑顔で接してくれていた人が、実は裏で、「あいつキモいんだよなー」とか言ってたら、すげーショックだろう。
それよりだったら、初めから冷たくされていたほうがましだと思うのは、まぁ特段ひねくれた心性でもないと思う。ところが、大体みんなそんな感情を抱くはずなのに、何故か、多くの人は、うわさ話をやめない。それがやっぱり、「楽しい」からなのだろう。仮想敵みたいな。共通の敵を(敵ってほど大げさじゃないのだろうが)つくることによって盛り上がる心性なのだろう。
これ、大学生だけじゃなく、例えば仕事場で、嫌な上司の陰口とか、使えない同僚に対しての嫌味とか、結構盛り上がるものだ。かくいう僕も、その場のノリで合わせてのっかってしまうこともあるため、何ともいえない。
故に、ここでそういった、大学生とか、社会人たちの批判をしたいというわけではない。
ただ、不愉快な気持ちになることは間違いないという確認をしておいただけだ。
それにこれは非常に難しい問題をはらんでいる。
何か成果物に対して、「つかえないなー」「うわ、これ低レベルだな」って思ったとしよう。
その時、それを直接、例えば部下とかに、「これゴミ屑だよ。すぐやり直して」って直接的に伝えることの無意味さもまた、明らかであろう。改善を要求するのであれば、それをうまく伝える「表現」が必要になる。
「この点はよくできているけれど、この部分をもっとこうしてくれな」
と、褒めつつ改善策を提示するってのは、嘘偽りをいっているわけではない。ただ、上手なコミュニケーションを図っているだけである。
一方で。
そのために、心に生じた、「うわ、これダメだな」って思いを、ぐっと、押し殺しているのである。
その思いを、気の置けない仲間同士になったときには、本音で、「あいつ毎回同じ失敗してくるんだよー。まいっちゃうよな」って、バカにしあうのである。
ということは、提灯ぶらさがった居酒屋で、サラリーマンが愚痴を言い合うってのは、「意識高い系」に批判されがちな事象ではありながら、実は重要な心のバランスをとるための手段なのかもしれない、ってわけだ。
(まぁ、そのこと自体に、僕はカタルシスが得られにくくて、逆に不愉快な気持ちが生じがちだってことが問題なんだけどな!)
ある、精神科医のブログにおいて、電車の中で死んだ目をしたサラリーマンは、死にかけてるんじゃない、エネルギーを充填してるんだ! と書いていて、ああ、やっぱりこの方は面白いな(お医者様に向かって何て上から目線だ!)と思ったものである。
日常の描写の意味
と、こんな風に、日々の経験を、自分の思ったことをベースに解釈し表現するってのが、日記だと思うけれども、正直、こんなこと書いてる場合じゃないんだけどな、って思いもある。こういう、「高尚な視点」的な内容については、それこそ、お医者様とか、弁護士様とか政治家とか、芸能人とか、価値ある高尚な職業や仕事をしている方たちが、面白おかしく書いていればそれでいいのではと思う。
一介の凡人の僕が、こんな「ちょっと人と変わった視点で物事みれてますよ」的な、自慢にならない自慢風に感じられること書いて、何になるってんだ。
くだらない、面白くない、ばかばかしい。
……という判断を、今の俺がすべきじゃないってのが、ハンジさんの教えだ。明日読めばちょっと面白いかもしれない。明日がダメでも、10年後は違うかもしれない。そんなもんでいいと思う。
先日掘り起こした10年前ぐらいのログたちは、当時、別に誰に見せるつもりでもなく、ただ、書きたいから書いていた。価値がどうこうなんて、思ってもいなかった、と思う。価値があるか、ないか、そんなこと考えるだけ、無駄だ。
マイナス思考的な言葉や事象
よしではもう一つ、ニュースなどから感じたことを書いておこう。100時間残業自殺問題と関連して、朝5時から夜23時まで、休日は一切ない職人を育てるをキーワードにした企業が、物議をかもしていた。完全に労働基準法違反だけれども、「自主的に」頑張っているからよいのだそうな、よくわからんが。
一方で、17時退社を、会社の厚意で許可した会社が業績をぐんぐん伸ばしているというニュース。ノルマや、業績評価や、時短のための取り組みが徹底していて、17時になると職場には誰も残らないという。一方で、業績もあがっていると。
なんだか、こういったニュースとか、本とか、記事とか、見たり読んだりしていると、何だかイライラしてくるんだよな。
この理由がよく分からずに、大学生の会話でイライラすることを対比させて、何か分かるかなって思ったのだが、うーむ、よく分からない。
なんだ、まぁ、それはそうと、こうやって、考える時間を作れているっていうこと、そのこと自体が、とてつもなく幸せだと、恵まれていると、それは思う。
ジャングルの中でゲリラやってるうちはこんなこと考えてられない。
コンビニバイトしてるときに強盗にあって、ナイフ突き付けられてるときに、「我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへ行くのか」なんて考えてられない。
ああ、考えよう、と思っていた時に、お酒なんて飲まなきゃよかった……眠くなってきた。
仕方がなかったんだ、イライラしてたんだ……。(誰へのいいわけか)
計画を立てる
本当は、これからの計画を立てようと思ったんだ。それも、結構長期的な。2008年に立てた、5年目標は、直接的、間接的、形をかえて、増減はありつつ、達成された。
この事実に、僕は、イメージしたことは実現する、と、「ザ・シークレット」の引き寄せの法則的なものは、「信じている」。
散々いつも、スピリチュアル的なものをバカにして、つまらないといって、胡散臭いといっているのに、矛盾のように思えるが、それも単に「表現」問題であって、PDCAサイクルとかビジネス用語にしちまえば、つまりそういうことでしかない。
どんな言葉が、その人に「ビビッと」くるかってのは、一様ではない。イデオロギーの時代においては、思想誘導は簡単だったのかもしれないが、価値が多様化したときに、その人に対して訴えるための手段は、一様ではなくなったのだ。
だから、職人になる! として、朝5時から23時まで働かせようが、それは表現的に、「自己実現」とかいってみたら正当化され……るか、法律違反かは別の問題であるが、とはいえ、それでも、その会社に意義を感じる人、「ビビッと」くる人がいるから、何やかんや今の今までなくならず、上手く回っているのである。表面的な、単純な批判が無意味なのは、言うまでもない(クレーマーにも五分の魂だ)。
そして、例えば、引き寄せの法則だか、チャネリングだかよう分からんが、こういったことを、「論理的に」説明しようとしても無駄であり、批判も絶えることがなくなるのである。例えば、「思ったことは実現する」「ことだま」的な表現、これはじゃあ、ナチスやポル・ポトの虐殺など歴史的悲劇を生み出したのも、「望まれたこと」「意味があること」なんていえるのか、とか。
論理なんて、クソの役にも立たないことがある。ヴィトゲンシュタインさんや、ゴウタマさんだって、理屈を追求することを目的としたのではないだろう。
という、僕の上の表現は、反転して、論理が意味がない、というのでも、全くないということの表現なのだけれども、果たして、この自分解説がなくして、明日の自分が読み取れるかどうか、これまた全く不明である。
そして、計画を立てる、という目標・目的からどんどん離れていくのは、これは何だ。
論文などでは、ここで、ここから上の行を、すべてデリート、となる。それでまた、振出しに戻って頭を悩ませることになるのだけれども、この、何の役にも、何の主張にもなっていないような、そんな無駄文章があっても、いいじゃないか、と、そんな風に思いながら、いやでもこれやっぱりいらないよな、って思いで苦しんでいたところに、「あ、たまに読んで面白かったッスよ」とかコメントくださった方がいたりして、これはホント嬉しい。
この、嬉しいとか楽しいって感情、これを大事にしていかなきゃ、これからどんな計画とか行動とか思考したって、いずれ失敗に終わるってのは、何となく、それこそ根拠も論理もないけど、何となく分かってきた。
努力信仰の崩壊
頑張れば幸せになれる。もう、この格言は一切信じていない。
頑張る、努力する、苦しむ、痛めつける、悪いことがあったらそのうちいいことがある……
ルサンチマン、怨恨、法界悋気。
「今しっかり勉強したら立派な大人になれますよ」
「なにか楽しいことないかな~」
「そのうち幸せになるさ」
「今頑張らないでいつ頑張るんだ」
うるせえ。
「あるべき姿」
「目指すべき理想」
やかましい。
他者への批判。陰口。嫉妬。
本当に、いろんな言葉に、人に、ずっと翻弄されてきた気がする。
いい加減、自分をしっかりもって、自分の思うがままに生きていこうじゃないか。
こうして、ようやく遠藤は自分の生きる道を歩み始めるのであった――。
まだまだ続く
なんて、簡単にハッピーエンドになるなら、今日の今までこれほど大量の駄文を要していない。そもそも、「自分」ってなんだという話しだ。
むしろ昨今の教育においては、個人が重要視されている。一人一人の感じ方や考え方を大切にしましょう、的な奴だ。その言葉は、確かに聞こえはいい。どこかのヨットスクールとか職人要請会社的な画一的で絶対服従的な指導なんて、前近代的で唾棄すべきように思われる。
ところが、人は一方でタブララサ(白紙)なんじゃないか、と。真っ白で、いろんな環境で、いろんな人の中で、人格が形成されていくものなんじゃないかと。
自分とは、他人を映す鏡みたいなものなんじゃないかと。
心は、他者の気持ちを理解するため、危険を回避する行動をとるための防衛機能として発達したものなんじゃないかと。
であったときに、「自分をしっかりもって!」と、「自分の生き方」ってものを求め、見つめて、探していく方策に、何ら意味があることなのかと。
考えれば考えるほどに、自分という欲望が薄くなっていくのを感じる。
「生きてる意味ってなんだろう、ずっと考えてきました。でも、最近は、死んじゃった方が得なんじゃないかって思うようにもなりました」
と、表現されていた方がいらっしゃった。
僕はその表現における「得」って言葉が、多分、僕の頭の中だけでは出てこない表現だったから、とても感銘をうけたわけだけれども、とにかくその感覚、別に今すぐ死にたいとか、難病に冒されて何もしなくても身体が痛いとか(そういえばインフルエンザになって40℃近い熱に何日もうなされた)ではないが、何となく「何で生きてんだろう」という思いが、いよいよもって切実になってきている、気がする。
すぐさま書いておかなければならないのは、きっと、今暴漢に襲われて、命の危険にさらされたら、きっと僕は、無様にも情けなくにも、「死にたくない!」と叫ぶのであろうが。
で、反転して降ってくる思考として、いわゆるこうした「ごちゃごちゃした」思考というのは、結局「死からの逃避」なのではないかと。これは、ジョルジュさんの本を読んで思考強度が増した部分である。
死にたくないという思いと、身体の健康度が強い人は、脳が、発狂しないように、認知の度合いを下げて心の保全をはかるのではないだろうか、というのは完全に今思いついた暴論であるが、取りあえずメモしておく。
ああ、でも、本当に、真面目に、「計画を立てる」ために書き始めたはずなのに、その意味では完全に失敗した。しかし、眠気が高まりすぎて、もう、今日は終わり……。
(そしてまた駄文が積み上げられる)
追記(些末な修正)
どうも、「物議を醸す(かもす)」が正しいのだけれども、勢いで書いていると、「物議をかます」って言ってしまったり書いてしまったりする(議論を呼び起こす・引き起こすという意味よりも、「喧嘩を吹っ掛ける」的なニュアンスが自分の中で強いせいか)。ちょっと恥ずかしいが、あまり言葉の意味にとらわれていると書こうと思ったことが吹っ飛んでしまうことがあるから、勢いは時おり大事。一方で、正確に言葉を使わないと、自分の思考もまた正確に表現できない。それは、他者に読んで理解してもらうという意味もありながら、結局、言葉は「概念記憶」の集合体であり、正確な意味を追ったときに生じる「違和感」を大事にすべきとも思いメモ。
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本当は、本を読んだり、勉強したり、創作的なことをしたりと、有意義に使う方がいい気がする。
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
拍手とコメント
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
脳の使い方
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
無駄かそうでないか
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
努力の構造
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
比較思考
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
ストイック
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲的生き方
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度な社会は魔術化する
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
分からない地獄
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
一流の人はボロいケータイや車や時計を使う。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
問題点
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
他人に流されやすい人たち
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパス
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
表現
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
ぐずついた天気のように、晴れやかにならない三連休であった。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
物語の必要性
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
三つの人生要素
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
そんなこといいから勉強しなさい
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
考えることがよくないとしたら
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
長距離を旅し、知らない土地で泊まって過ごすと、日常の喧騒を忘れられる。
本当にそうか、いや、時間を過ごすことだけに力を注ぐ。スマートホンでニュースを見たり、本を読んだり、勉強をしたりとかそんなことは無く、仲間との会話や寝床の確保など生きるための行動が主になる。
とても、よい時間の使い方だと思う。
そして、帰宅。
荷ほどきをし、気付くと、意識を失っていた。
僕は、隣の客を捕まえていった。「この程度の音で、そんな、苦情をいってくるなんて、心が狭いですよね。むしろ、クソおやじどもの甲高い笑い声とかの方がうるさいですよね。――あ、もしかしてあなた方もそう思ってました?」
隣の客は、「いや、そんなことないですよ」と応じてくれた。
そして、一言二言会話し、お互い楽しくなった僕らは、二軒目に一緒に行くことにした。その間での僕の言葉。
「で、さ。僕はいろいろ不満を言ってきたけど、でも、明るく生きるには必要なんですよ。いやだって、生きる、ということを前提にしたら、それは、幸せで楽しくあるべきじゃないですか」
酒のせいか、呂律がまわっていない。でも、相手も頷きながら聞いてくれている。
「でもね、僕は、その【生きる】ってことすら、前提に考えてはいないんです」
僕の言葉に、少しの間が生じる。
「でも僕は、生きるとしたら、こんな生活は、大きく変えてやろうと、思うんだ」
言葉自体は忘れてしまったが、「今の生活を変える」というニュアンスのことを言っていた気がする。その言葉が、まさに、「意識下」にあるときには出てこないようなことだったので、夢、無意識の言葉というのを書き留めておこうとおもったのだ。
いやぁ、疲れからか、ブルーマンデー症候群なのか分からないが、――というのは、テレビを置いていないから、曜日感覚があまりなく、平日と休日の境目があまり感じられなくなっている。だから、ブルーマンデー症候群、サザエさん症候群って奴の気分なのかは不明だ。ブルーマンデー症候群の治療は、テレビを置かない、見ないことなのかもしれない――帰宅後、非常に、消耗した気分になって、気付いたら眠りについていた。変な体勢で寝たせいで身体が痛いが……。
なんだろうか、書くことは、ある。
ゲームオブスローンズの4章を見終わって、やっぱりこの作品は面白くて、そのうちいくつかの名言・名場面(単純に自分が良かったと思ったところ)をメモしておこうと思いながら、書く時間がなく、時間が経ったら忘れてしまった。うーん、最近、メモをさぼっている。その、「感動」した瞬間においては、絶対記憶したと、忘れまいと思うのだが、見事に、忘れる。
「メモしないとすべて忘れてしまう」
ということを、よく記銘した方がいいかもしれない。
そういえば、小林泰三という方の、「記憶破断者」というのが、そういうモチーフの作品だった気がする。あれ、ちがったか、「アリスゲーム(?)」だったか、そう、ほら、もう混濁している。
で、そういうの、本当は、よく正しく知識している人に、教えこうて、覚えていく、もしくは想起するのだけれども、いまや、インターネットを使えば、すぐに手に入る情報である。
そう、にもかかわらず、「ジンモーニ」というカクテルは、意外やに、検索にヒットしない。
スプモーニという、カンパリ+トニックウォーター+グレープフルーツジュースというレシピがあり、その「カンパリ」の部分を、ジンにしたから、ジンモーニというのだろう。
たまに、ネットに載っていないローカルな情報があって、そういう情報をもっている人が、楽しい人、なのかもしれない。いやなに、その「情報」とは、「知識」としての情報である必要はなくて、結局、「経験」という、唯一無二の情報があれば、それだけで魅力的である。
このことに気づいたのは、まぁもう十代というより、二十代になってからな気もするが、うーん、いやそれが故に、「自分は経験がない」という劣等感にさいなまれていた、気もする、というよりも、その点は、今も思う。
というのは、ナンパで100人ぐらい成功させたとか(いやそれも記憶混濁。100人にこえをかけて、10人くらい成功だったとか、そういう話だったかも)、昔の車は壊れやすくて旅行中に壊れたのを直しながら進んだとか、そういった武勇伝的なものであったりしつつ、とにかく、そういうのは、その人だけの「情報」で、決してネットに落っこちてたりしない。(まぁ、SNSとかブログ、という情報媒体があって、それはそれでインターネットとして興味深いものである)
なんの話だ? ネットの功罪? そうではない。
小見出しに戻ると、「今の生活に不満があるのか」と書いてある。なるほど、そうだった。
むしろ、「何をしたいのか分からない」状況であったとき、「どうあるべきか」というものがもちえないときに、不満などありはしない。
しかし、いざ、無意識の中に入り込んでみると、僕は、「不満」があるのである。
しかし、その不満とは、なんだ、というのは分からない。けれども、無意識の僕が、不満がある、というのであれば、分かった、それを尊重してやろう。
……としていたら、もう、12時か。早いものだ。
仕方がない、キーワードだけメモして、今日は寝るとしようか。
キーワード。(……ん、なんだ、何もでてこないぞ)
・ゲームオブスローンズ、第四章のドーン人のプリンス・オベリンのなんとかっこよかったことか、という点。
・実は、王殺しの黒幕があの人だったこと
・資格の勉強1か月ぐらい全くしていないこと。これは、後悔というよりも、なんとあっという間に時間が過ぎるのだろうという驚き。
・………
おや、やはり、何も、出てこなくなった。
うーん、やっぱり、今度から、先にキーワードを書いてから書き始めようか。上の「経験」の話とか、しだすと、もっとほかに書きたいことが出てくるのだけれども、それって、最初に書こうと思った話からズレていっている。
そして、この場所は、「居場所」であって「癒し」だから、好き勝手に書くことは問題ない、とはいえ、それでも、いつもいつも毎日毎日毎回毎回同じことばかり書いていては、面白くない。
それは、読者へ、という気持ちもあるかもしれないが、それ以上に、自分が読んだときに、いらだつことになるだろう(? いや、ならない気もする。あーこの時期は、余裕がなくて思考がどうどう巡りしていて、時間を無駄にしていたんだなぁ、とかしみじみ……)。
あ、とか書いていたら、一つ思い出した。さっきの夢の話しだ、そう、「時間のなさ」、歳をとったことによる、焦燥感的なものだ。
「今の自分を変えてやる」とかかっこいいこと(夢で)言っておいて、でも、もう30代なんだぜ? そろそろ、自分の決めた道を突っ走ってかっこいい渋い大人になってやろうぜ、とか、そんなこと、思った……んだっけ、ここら辺がよく分からない。時間が経つと、「創造の言葉と実感の言葉」の記事で書いたけれども、自分の言葉が「どれ?」なのか分からなくなる。
そう、さっきの「経験」の話のところでかこうと思ったのは、その「語る言葉」についてである。
つまり、もうキーワードだけ書けば、「いくら経験をしても、それを【正しく】語る言葉がなければ、それは【経験】として積み上げられないのだ」ということ。
そして、そのことは、「記憶」が非常に重要なファクターとなってきて……
阿頼耶識とは、記憶の貯蔵庫である、が、記憶こそが人格を唯一統制しているものである、という僕の前に書いたことと一致していて、「おぉ、そういう表現の仕方もあるのか、唯識派の人たちにシンパシー覚えるぜ」とか、そんなこと思ったとか、プレゼン、最初はよかったけど後半が微妙になってしまったとか、もう、そうだ、結構、いろんなことが、ここ数日にあった。
それらを、結局、「経験」として書き留められていないから、よく覚えていないのだ。
でも、短い記事は、後から読んだときに「いらっと」するのが目に見えている(これは実証済みですらある)ので、投稿するのに躊躇したりもして……。
うむむ、本当に、もう少し、頭を整理して、【素早く】書く、ということを身に着けた方がいいかもしれない。いやはや、タイピングの速度は必要十分なので、このことは、「インプットすべきことの整理の高速化」という表現になるのだろうが……。
本当にそうか、いや、時間を過ごすことだけに力を注ぐ。スマートホンでニュースを見たり、本を読んだり、勉強をしたりとかそんなことは無く、仲間との会話や寝床の確保など生きるための行動が主になる。
とても、よい時間の使い方だと思う。
そして、帰宅。
荷ほどきをし、気付くと、意識を失っていた。
夢の中
ある居酒屋で飲んでいると、自分のオーディオ(イヤホンの音漏れ、が現実的だが、流石夢だ、普通に自宅においてある据え置きスピーカーが自分の席の近くに置いてある)から、音がうるさいと、店員から伝えられた。聞くと、ある客から、苦情があったという。僕は、隣の客を捕まえていった。「この程度の音で、そんな、苦情をいってくるなんて、心が狭いですよね。むしろ、クソおやじどもの甲高い笑い声とかの方がうるさいですよね。――あ、もしかしてあなた方もそう思ってました?」
隣の客は、「いや、そんなことないですよ」と応じてくれた。
そして、一言二言会話し、お互い楽しくなった僕らは、二軒目に一緒に行くことにした。その間での僕の言葉。
「で、さ。僕はいろいろ不満を言ってきたけど、でも、明るく生きるには必要なんですよ。いやだって、生きる、ということを前提にしたら、それは、幸せで楽しくあるべきじゃないですか」
酒のせいか、呂律がまわっていない。でも、相手も頷きながら聞いてくれている。
「でもね、僕は、その【生きる】ってことすら、前提に考えてはいないんです」
僕の言葉に、少しの間が生じる。
「でも僕は、生きるとしたら、こんな生活は、大きく変えてやろうと、思うんだ」
今の生活に不満があるのか
と、夢の話である。最後の言葉が、非常に、重要だった気がするが、忘れてしまって、なんとか、主旨だけ夢の記憶を掘り返してみた。言葉自体は忘れてしまったが、「今の生活を変える」というニュアンスのことを言っていた気がする。その言葉が、まさに、「意識下」にあるときには出てこないようなことだったので、夢、無意識の言葉というのを書き留めておこうとおもったのだ。
いやぁ、疲れからか、ブルーマンデー症候群なのか分からないが、――というのは、テレビを置いていないから、曜日感覚があまりなく、平日と休日の境目があまり感じられなくなっている。だから、ブルーマンデー症候群、サザエさん症候群って奴の気分なのかは不明だ。ブルーマンデー症候群の治療は、テレビを置かない、見ないことなのかもしれない――帰宅後、非常に、消耗した気分になって、気付いたら眠りについていた。変な体勢で寝たせいで身体が痛いが……。
なんだろうか、書くことは、ある。
ゲームオブスローンズの4章を見終わって、やっぱりこの作品は面白くて、そのうちいくつかの名言・名場面(単純に自分が良かったと思ったところ)をメモしておこうと思いながら、書く時間がなく、時間が経ったら忘れてしまった。うーん、最近、メモをさぼっている。その、「感動」した瞬間においては、絶対記憶したと、忘れまいと思うのだが、見事に、忘れる。
「メモしないとすべて忘れてしまう」
ということを、よく記銘した方がいいかもしれない。
そういえば、小林泰三という方の、「記憶破断者」というのが、そういうモチーフの作品だった気がする。あれ、ちがったか、「アリスゲーム(?)」だったか、そう、ほら、もう混濁している。
で、そういうの、本当は、よく正しく知識している人に、教えこうて、覚えていく、もしくは想起するのだけれども、いまや、インターネットを使えば、すぐに手に入る情報である。
そう、にもかかわらず、「ジンモーニ」というカクテルは、意外やに、検索にヒットしない。
スプモーニという、カンパリ+トニックウォーター+グレープフルーツジュースというレシピがあり、その「カンパリ」の部分を、ジンにしたから、ジンモーニというのだろう。
たまに、ネットに載っていないローカルな情報があって、そういう情報をもっている人が、楽しい人、なのかもしれない。いやなに、その「情報」とは、「知識」としての情報である必要はなくて、結局、「経験」という、唯一無二の情報があれば、それだけで魅力的である。
このことに気づいたのは、まぁもう十代というより、二十代になってからな気もするが、うーん、いやそれが故に、「自分は経験がない」という劣等感にさいなまれていた、気もする、というよりも、その点は、今も思う。
というのは、ナンパで100人ぐらい成功させたとか(いやそれも記憶混濁。100人にこえをかけて、10人くらい成功だったとか、そういう話だったかも)、昔の車は壊れやすくて旅行中に壊れたのを直しながら進んだとか、そういった武勇伝的なものであったりしつつ、とにかく、そういうのは、その人だけの「情報」で、決してネットに落っこちてたりしない。(まぁ、SNSとかブログ、という情報媒体があって、それはそれでインターネットとして興味深いものである)
なんの話だ? ネットの功罪? そうではない。
小見出しに戻ると、「今の生活に不満があるのか」と書いてある。なるほど、そうだった。
無意識下の言葉
不満があるか、と言われたとき、意識下では「ない」と答える。不満など、ありえないのだ。むしろ、「何をしたいのか分からない」状況であったとき、「どうあるべきか」というものがもちえないときに、不満などありはしない。
しかし、いざ、無意識の中に入り込んでみると、僕は、「不満」があるのである。
しかし、その不満とは、なんだ、というのは分からない。けれども、無意識の僕が、不満がある、というのであれば、分かった、それを尊重してやろう。
……としていたら、もう、12時か。早いものだ。
仕方がない、キーワードだけメモして、今日は寝るとしようか。
キーワード。(……ん、なんだ、何もでてこないぞ)
・ゲームオブスローンズ、第四章のドーン人のプリンス・オベリンのなんとかっこよかったことか、という点。
・実は、王殺しの黒幕があの人だったこと
・資格の勉強1か月ぐらい全くしていないこと。これは、後悔というよりも、なんとあっという間に時間が過ぎるのだろうという驚き。
・………
おや、やはり、何も、出てこなくなった。
うーん、やっぱり、今度から、先にキーワードを書いてから書き始めようか。上の「経験」の話とか、しだすと、もっとほかに書きたいことが出てくるのだけれども、それって、最初に書こうと思った話からズレていっている。
そして、この場所は、「居場所」であって「癒し」だから、好き勝手に書くことは問題ない、とはいえ、それでも、いつもいつも毎日毎日毎回毎回同じことばかり書いていては、面白くない。
それは、読者へ、という気持ちもあるかもしれないが、それ以上に、自分が読んだときに、いらだつことになるだろう(? いや、ならない気もする。あーこの時期は、余裕がなくて思考がどうどう巡りしていて、時間を無駄にしていたんだなぁ、とかしみじみ……)。
あ、とか書いていたら、一つ思い出した。さっきの夢の話しだ、そう、「時間のなさ」、歳をとったことによる、焦燥感的なものだ。
「今の自分を変えてやる」とかかっこいいこと(夢で)言っておいて、でも、もう30代なんだぜ? そろそろ、自分の決めた道を突っ走ってかっこいい渋い大人になってやろうぜ、とか、そんなこと、思った……んだっけ、ここら辺がよく分からない。時間が経つと、「創造の言葉と実感の言葉」の記事で書いたけれども、自分の言葉が「どれ?」なのか分からなくなる。
そう、さっきの「経験」の話のところでかこうと思ったのは、その「語る言葉」についてである。
つまり、もうキーワードだけ書けば、「いくら経験をしても、それを【正しく】語る言葉がなければ、それは【経験】として積み上げられないのだ」ということ。
そして、そのことは、「記憶」が非常に重要なファクターとなってきて……
阿頼耶識とは、記憶の貯蔵庫である、が、記憶こそが人格を唯一統制しているものである、という僕の前に書いたことと一致していて、「おぉ、そういう表現の仕方もあるのか、唯識派の人たちにシンパシー覚えるぜ」とか、そんなこと思ったとか、プレゼン、最初はよかったけど後半が微妙になってしまったとか、もう、そうだ、結構、いろんなことが、ここ数日にあった。
それらを、結局、「経験」として書き留められていないから、よく覚えていないのだ。
でも、短い記事は、後から読んだときに「いらっと」するのが目に見えている(これは実証済みですらある)ので、投稿するのに躊躇したりもして……。
うむむ、本当に、もう少し、頭を整理して、【素早く】書く、ということを身に着けた方がいいかもしれない。いやはや、タイピングの速度は必要十分なので、このことは、「インプットすべきことの整理の高速化」という表現になるのだろうが……。
