一流の人はボロいケータイや車や時計を使う。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。
一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。
問題点
上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。
ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。
じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。
僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。
他人に流されやすい人たち
こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。
しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。
というのは、僕がこれが逆にできないからだ。
生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。
ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。
だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。
いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。
すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……
話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。
サイコパス
サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。
ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。
それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。
先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。
あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。
よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。
表現
なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。
まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。
クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。
疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。
ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。
ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。
今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。
きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
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ぐずついた天気のように、晴れやかにならない三連休であった。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
敬老の日とのことであるが、何をすべきかがよく分からない。そも、歳を取ることが、単純に喜ばしくなくなってきたこの時代である。
時代とかいたが、赤塚不二夫氏の短編で、家族にうとんじられたじいさんが、一度死んで、家族が哀しんでくれた光景を霊となってみる。しかし、いざ生き返ると、最初は喜んでくれるものの、またしばらくして日常にもどると、やはり邪魔物あつかいされるようになる。という作品がある。
今も昔も、さほど変わっていないのかもしれない。いや、赤塚さんが、先見の明があったのかも。
物語論だと、コードギアスの制作者のインタビュー記事を読んだ。面白いと思った。アニメーションと、実写ドラマとの違いや、オリジナルアニメにすることの意義とか、いま時代に求められているストーリーとは何か、とか。
物語の必要性
あさから苛々する体験をするが、賞味一時間の感傷である。
それよりもっと苛々することが山積みだろう。
ストレス社会とかいう言葉も好きではない。
そんな、当たり前のこと言ってどうする。じゃぁ、その昔はストレスがなかったのか、否である。
言葉として発見されたから、面白がって使っているだけである。
概念的でない言葉って無意味さや虚しさを覚える。
話が噛み合わない、
物語の話だ。
リオタールが、大きな物語の終焉と言ってから、もう何十年たったのだろう。
高度に情報化し、物質も豊かになって、次は心を豊かに、といった段階で、心とは何かが分からないことに気づき、自己啓発やスピリチュアルや宗教や禅とか、道徳とか倫理とか日本人の心とか、愛国心とか。
いやいやアーキテクチャだとか、アフォーダンスだとか社会構築だとか。
不平不満いいつつ、みんな生きている。
何となく生きづらさを抱えながら、まぁこんなもんだろうと自分を納得させて。
一部のひとは、突き抜けて人生を楽しんでいる。
世の中は所詮ひまつぶしだと気づき、短い限りある時間を有意義に使うために、ある人は権力を手にし、ある人は莫大な富を手にし、ある人は名声を手にする。
三つの人生要素
政治や、会社での出世。権力。
インターネットでのblogのアクセス数、友人の多さ、人気。名声。
お金や株や債券。富。
これらが、人生の目的である。
このバランスが重要で、均整がとれた三角形になるように成長させていくべきだ。
なんだか、奮い立たない。興味が湧かない。
だから、なんだっていうのだ。
面白くなさそうだ。
でもそれは、満たされないための合理化ってやつでは。とれない高い木になる柿を、渋柿だと諦めるような。
やればできるじゃないが、やったときにできなかったときのことを怖がっているだけではないか。
いくらでも批判は可能だ。うじうじ言うことの無意味さはもっともだ。
まぁそれは甘んじて受けよう。
自分はダメなやつである。
わかった。
が、だからといって、何か心の底から沸き上がる何か熱い思いが生じるかというと、何も起こらない。
いやいや、いつもマイナスなこと書いてるせいでは。そうかも。
でも、マイナスってなんだ。
プラスってなんだ。
それは相対概念だ。
目指すべきありよう、目標、理想があってこそ、プラスがありマイナスもある。
俺は、何を目指す?
何が理想だ?
そんなこといいから勉強しなさい
将来の夢。
なりたいもの。
大人になれば見つかると思ってた。
いや、信じていなかったかもしれない。
まぁでも、そんなもの、高校生ぐらいで何か見つけられないと、見つかるもんじゃない。
大学で友人とふれあえば、恋人と過ごせばみつかるか?
そんなこともない。
何か、主体的に行動しなければ、道がひらけることはない。
何かしなければ、何も起こらない。
エンターテイメントのように、自暴自棄になっているときに、てをさしのばしてくれる誰かなんていない。
しかし、そんなリアリティ追求したら、物語なんて何も書けなくなる。
くそ面白くない現実だからこそ、人は物語をほっするのではないか。
ここでいう物語とは、映画や小説だけでなく、宗教やイデオロギーも含む。
気づけば、ひとが心をもったとき、物語が必要になったのだ。
何かして嫌なことがあったら、それを避けるようにする必要がある。だから、嫌いとか嫌とかいう心が生まれた。
危険を察知するために、よりよい選択をするために、心はある。であれば、マイナス思考とか、別に悪いものでないことがすぐ分かるだろう。行き過ぎがダメ、というのは分かる、ただそれは、ポジティブ思考だって同じことだ。
心が生じた、我は我を思う、これは仕方がない、認めよう。
だが、果たして、人が生きるのは何故か。子孫繁栄だというのは、生物として正しかろうが、それはそもそもなぜだ?
なぜ、地球は46億年前に生じ、十数億年たつと生命をつくった?
宇宙はなぜ137億年前に生じた?
なぜ?
とうても、分かることはない。諦めよう。だから、身近なところで、意味をみつけて生きていこう。ひとつは、子供だ。我が子はかわいい。この子のためなら、命だっていらない。
一つの生き方だ。ありだ。
では、独身の女性、子供を生めなくなった女性は、いきる価値がないのか。障害者は死ねばいいと大量殺人が起きたが、それはいいのか悪いのか。
はなしそれるが、サイコパスという作品があるらしいが、遺伝子レベルで犯罪係数をわりだして、潜在犯として投獄される人もいるような世界、ということで、少し面白そうだと思った。なんのはなしだ?
ああそう、だから、なんだっていうのだ、ということだ。
考えることがよくないとしたら
やはり、考えることそれがダメなのか。
じゃあ、あと一生、この問題は、頭によぎっても、深いヨーガによって、瞑想し、精神を統一し、正しい念によって心を保ち続けるべきなのか。
いきるいみを徹底して考える、のブログの終焉である(笑)
大分、切り込んだつもりだったが、まだまだ甘いな。
もっと深いところまで抉らなければ、まだ足りないことが分かった。
死ぬでも生きるでも、考えることをやめるでもどちらでもいいが、とにかく、まだ足りない。
それには、家族の死など、保留にしていることなど、まだあるはずだ。
もう少し、明後日は、話しをもっとすすめたい。
長距離を旅し、知らない土地で泊まって過ごすと、日常の喧騒を忘れられる。
本当にそうか、いや、時間を過ごすことだけに力を注ぐ。スマートホンでニュースを見たり、本を読んだり、勉強をしたりとかそんなことは無く、仲間との会話や寝床の確保など生きるための行動が主になる。
とても、よい時間の使い方だと思う。
そして、帰宅。
荷ほどきをし、気付くと、意識を失っていた。
僕は、隣の客を捕まえていった。「この程度の音で、そんな、苦情をいってくるなんて、心が狭いですよね。むしろ、クソおやじどもの甲高い笑い声とかの方がうるさいですよね。――あ、もしかしてあなた方もそう思ってました?」
隣の客は、「いや、そんなことないですよ」と応じてくれた。
そして、一言二言会話し、お互い楽しくなった僕らは、二軒目に一緒に行くことにした。その間での僕の言葉。
「で、さ。僕はいろいろ不満を言ってきたけど、でも、明るく生きるには必要なんですよ。いやだって、生きる、ということを前提にしたら、それは、幸せで楽しくあるべきじゃないですか」
酒のせいか、呂律がまわっていない。でも、相手も頷きながら聞いてくれている。
「でもね、僕は、その【生きる】ってことすら、前提に考えてはいないんです」
僕の言葉に、少しの間が生じる。
「でも僕は、生きるとしたら、こんな生活は、大きく変えてやろうと、思うんだ」
言葉自体は忘れてしまったが、「今の生活を変える」というニュアンスのことを言っていた気がする。その言葉が、まさに、「意識下」にあるときには出てこないようなことだったので、夢、無意識の言葉というのを書き留めておこうとおもったのだ。
いやぁ、疲れからか、ブルーマンデー症候群なのか分からないが、――というのは、テレビを置いていないから、曜日感覚があまりなく、平日と休日の境目があまり感じられなくなっている。だから、ブルーマンデー症候群、サザエさん症候群って奴の気分なのかは不明だ。ブルーマンデー症候群の治療は、テレビを置かない、見ないことなのかもしれない――帰宅後、非常に、消耗した気分になって、気付いたら眠りについていた。変な体勢で寝たせいで身体が痛いが……。
なんだろうか、書くことは、ある。
ゲームオブスローンズの4章を見終わって、やっぱりこの作品は面白くて、そのうちいくつかの名言・名場面(単純に自分が良かったと思ったところ)をメモしておこうと思いながら、書く時間がなく、時間が経ったら忘れてしまった。うーん、最近、メモをさぼっている。その、「感動」した瞬間においては、絶対記憶したと、忘れまいと思うのだが、見事に、忘れる。
「メモしないとすべて忘れてしまう」
ということを、よく記銘した方がいいかもしれない。
そういえば、小林泰三という方の、「記憶破断者」というのが、そういうモチーフの作品だった気がする。あれ、ちがったか、「アリスゲーム(?)」だったか、そう、ほら、もう混濁している。
で、そういうの、本当は、よく正しく知識している人に、教えこうて、覚えていく、もしくは想起するのだけれども、いまや、インターネットを使えば、すぐに手に入る情報である。
そう、にもかかわらず、「ジンモーニ」というカクテルは、意外やに、検索にヒットしない。
スプモーニという、カンパリ+トニックウォーター+グレープフルーツジュースというレシピがあり、その「カンパリ」の部分を、ジンにしたから、ジンモーニというのだろう。
たまに、ネットに載っていないローカルな情報があって、そういう情報をもっている人が、楽しい人、なのかもしれない。いやなに、その「情報」とは、「知識」としての情報である必要はなくて、結局、「経験」という、唯一無二の情報があれば、それだけで魅力的である。
このことに気づいたのは、まぁもう十代というより、二十代になってからな気もするが、うーん、いやそれが故に、「自分は経験がない」という劣等感にさいなまれていた、気もする、というよりも、その点は、今も思う。
というのは、ナンパで100人ぐらい成功させたとか(いやそれも記憶混濁。100人にこえをかけて、10人くらい成功だったとか、そういう話だったかも)、昔の車は壊れやすくて旅行中に壊れたのを直しながら進んだとか、そういった武勇伝的なものであったりしつつ、とにかく、そういうのは、その人だけの「情報」で、決してネットに落っこちてたりしない。(まぁ、SNSとかブログ、という情報媒体があって、それはそれでインターネットとして興味深いものである)
なんの話だ? ネットの功罪? そうではない。
小見出しに戻ると、「今の生活に不満があるのか」と書いてある。なるほど、そうだった。
むしろ、「何をしたいのか分からない」状況であったとき、「どうあるべきか」というものがもちえないときに、不満などありはしない。
しかし、いざ、無意識の中に入り込んでみると、僕は、「不満」があるのである。
しかし、その不満とは、なんだ、というのは分からない。けれども、無意識の僕が、不満がある、というのであれば、分かった、それを尊重してやろう。
……としていたら、もう、12時か。早いものだ。
仕方がない、キーワードだけメモして、今日は寝るとしようか。
キーワード。(……ん、なんだ、何もでてこないぞ)
・ゲームオブスローンズ、第四章のドーン人のプリンス・オベリンのなんとかっこよかったことか、という点。
・実は、王殺しの黒幕があの人だったこと
・資格の勉強1か月ぐらい全くしていないこと。これは、後悔というよりも、なんとあっという間に時間が過ぎるのだろうという驚き。
・………
おや、やはり、何も、出てこなくなった。
うーん、やっぱり、今度から、先にキーワードを書いてから書き始めようか。上の「経験」の話とか、しだすと、もっとほかに書きたいことが出てくるのだけれども、それって、最初に書こうと思った話からズレていっている。
そして、この場所は、「居場所」であって「癒し」だから、好き勝手に書くことは問題ない、とはいえ、それでも、いつもいつも毎日毎日毎回毎回同じことばかり書いていては、面白くない。
それは、読者へ、という気持ちもあるかもしれないが、それ以上に、自分が読んだときに、いらだつことになるだろう(? いや、ならない気もする。あーこの時期は、余裕がなくて思考がどうどう巡りしていて、時間を無駄にしていたんだなぁ、とかしみじみ……)。
あ、とか書いていたら、一つ思い出した。さっきの夢の話しだ、そう、「時間のなさ」、歳をとったことによる、焦燥感的なものだ。
「今の自分を変えてやる」とかかっこいいこと(夢で)言っておいて、でも、もう30代なんだぜ? そろそろ、自分の決めた道を突っ走ってかっこいい渋い大人になってやろうぜ、とか、そんなこと、思った……んだっけ、ここら辺がよく分からない。時間が経つと、「創造の言葉と実感の言葉」の記事で書いたけれども、自分の言葉が「どれ?」なのか分からなくなる。
そう、さっきの「経験」の話のところでかこうと思ったのは、その「語る言葉」についてである。
つまり、もうキーワードだけ書けば、「いくら経験をしても、それを【正しく】語る言葉がなければ、それは【経験】として積み上げられないのだ」ということ。
そして、そのことは、「記憶」が非常に重要なファクターとなってきて……
阿頼耶識とは、記憶の貯蔵庫である、が、記憶こそが人格を唯一統制しているものである、という僕の前に書いたことと一致していて、「おぉ、そういう表現の仕方もあるのか、唯識派の人たちにシンパシー覚えるぜ」とか、そんなこと思ったとか、プレゼン、最初はよかったけど後半が微妙になってしまったとか、もう、そうだ、結構、いろんなことが、ここ数日にあった。
それらを、結局、「経験」として書き留められていないから、よく覚えていないのだ。
でも、短い記事は、後から読んだときに「いらっと」するのが目に見えている(これは実証済みですらある)ので、投稿するのに躊躇したりもして……。
うむむ、本当に、もう少し、頭を整理して、【素早く】書く、ということを身に着けた方がいいかもしれない。いやはや、タイピングの速度は必要十分なので、このことは、「インプットすべきことの整理の高速化」という表現になるのだろうが……。
本当にそうか、いや、時間を過ごすことだけに力を注ぐ。スマートホンでニュースを見たり、本を読んだり、勉強をしたりとかそんなことは無く、仲間との会話や寝床の確保など生きるための行動が主になる。
とても、よい時間の使い方だと思う。
そして、帰宅。
荷ほどきをし、気付くと、意識を失っていた。
夢の中
ある居酒屋で飲んでいると、自分のオーディオ(イヤホンの音漏れ、が現実的だが、流石夢だ、普通に自宅においてある据え置きスピーカーが自分の席の近くに置いてある)から、音がうるさいと、店員から伝えられた。聞くと、ある客から、苦情があったという。僕は、隣の客を捕まえていった。「この程度の音で、そんな、苦情をいってくるなんて、心が狭いですよね。むしろ、クソおやじどもの甲高い笑い声とかの方がうるさいですよね。――あ、もしかしてあなた方もそう思ってました?」
隣の客は、「いや、そんなことないですよ」と応じてくれた。
そして、一言二言会話し、お互い楽しくなった僕らは、二軒目に一緒に行くことにした。その間での僕の言葉。
「で、さ。僕はいろいろ不満を言ってきたけど、でも、明るく生きるには必要なんですよ。いやだって、生きる、ということを前提にしたら、それは、幸せで楽しくあるべきじゃないですか」
酒のせいか、呂律がまわっていない。でも、相手も頷きながら聞いてくれている。
「でもね、僕は、その【生きる】ってことすら、前提に考えてはいないんです」
僕の言葉に、少しの間が生じる。
「でも僕は、生きるとしたら、こんな生活は、大きく変えてやろうと、思うんだ」
今の生活に不満があるのか
と、夢の話である。最後の言葉が、非常に、重要だった気がするが、忘れてしまって、なんとか、主旨だけ夢の記憶を掘り返してみた。言葉自体は忘れてしまったが、「今の生活を変える」というニュアンスのことを言っていた気がする。その言葉が、まさに、「意識下」にあるときには出てこないようなことだったので、夢、無意識の言葉というのを書き留めておこうとおもったのだ。
いやぁ、疲れからか、ブルーマンデー症候群なのか分からないが、――というのは、テレビを置いていないから、曜日感覚があまりなく、平日と休日の境目があまり感じられなくなっている。だから、ブルーマンデー症候群、サザエさん症候群って奴の気分なのかは不明だ。ブルーマンデー症候群の治療は、テレビを置かない、見ないことなのかもしれない――帰宅後、非常に、消耗した気分になって、気付いたら眠りについていた。変な体勢で寝たせいで身体が痛いが……。
なんだろうか、書くことは、ある。
ゲームオブスローンズの4章を見終わって、やっぱりこの作品は面白くて、そのうちいくつかの名言・名場面(単純に自分が良かったと思ったところ)をメモしておこうと思いながら、書く時間がなく、時間が経ったら忘れてしまった。うーん、最近、メモをさぼっている。その、「感動」した瞬間においては、絶対記憶したと、忘れまいと思うのだが、見事に、忘れる。
「メモしないとすべて忘れてしまう」
ということを、よく記銘した方がいいかもしれない。
そういえば、小林泰三という方の、「記憶破断者」というのが、そういうモチーフの作品だった気がする。あれ、ちがったか、「アリスゲーム(?)」だったか、そう、ほら、もう混濁している。
で、そういうの、本当は、よく正しく知識している人に、教えこうて、覚えていく、もしくは想起するのだけれども、いまや、インターネットを使えば、すぐに手に入る情報である。
そう、にもかかわらず、「ジンモーニ」というカクテルは、意外やに、検索にヒットしない。
スプモーニという、カンパリ+トニックウォーター+グレープフルーツジュースというレシピがあり、その「カンパリ」の部分を、ジンにしたから、ジンモーニというのだろう。
たまに、ネットに載っていないローカルな情報があって、そういう情報をもっている人が、楽しい人、なのかもしれない。いやなに、その「情報」とは、「知識」としての情報である必要はなくて、結局、「経験」という、唯一無二の情報があれば、それだけで魅力的である。
このことに気づいたのは、まぁもう十代というより、二十代になってからな気もするが、うーん、いやそれが故に、「自分は経験がない」という劣等感にさいなまれていた、気もする、というよりも、その点は、今も思う。
というのは、ナンパで100人ぐらい成功させたとか(いやそれも記憶混濁。100人にこえをかけて、10人くらい成功だったとか、そういう話だったかも)、昔の車は壊れやすくて旅行中に壊れたのを直しながら進んだとか、そういった武勇伝的なものであったりしつつ、とにかく、そういうのは、その人だけの「情報」で、決してネットに落っこちてたりしない。(まぁ、SNSとかブログ、という情報媒体があって、それはそれでインターネットとして興味深いものである)
なんの話だ? ネットの功罪? そうではない。
小見出しに戻ると、「今の生活に不満があるのか」と書いてある。なるほど、そうだった。
無意識下の言葉
不満があるか、と言われたとき、意識下では「ない」と答える。不満など、ありえないのだ。むしろ、「何をしたいのか分からない」状況であったとき、「どうあるべきか」というものがもちえないときに、不満などありはしない。
しかし、いざ、無意識の中に入り込んでみると、僕は、「不満」があるのである。
しかし、その不満とは、なんだ、というのは分からない。けれども、無意識の僕が、不満がある、というのであれば、分かった、それを尊重してやろう。
……としていたら、もう、12時か。早いものだ。
仕方がない、キーワードだけメモして、今日は寝るとしようか。
キーワード。(……ん、なんだ、何もでてこないぞ)
・ゲームオブスローンズ、第四章のドーン人のプリンス・オベリンのなんとかっこよかったことか、という点。
・実は、王殺しの黒幕があの人だったこと
・資格の勉強1か月ぐらい全くしていないこと。これは、後悔というよりも、なんとあっという間に時間が過ぎるのだろうという驚き。
・………
おや、やはり、何も、出てこなくなった。
うーん、やっぱり、今度から、先にキーワードを書いてから書き始めようか。上の「経験」の話とか、しだすと、もっとほかに書きたいことが出てくるのだけれども、それって、最初に書こうと思った話からズレていっている。
そして、この場所は、「居場所」であって「癒し」だから、好き勝手に書くことは問題ない、とはいえ、それでも、いつもいつも毎日毎日毎回毎回同じことばかり書いていては、面白くない。
それは、読者へ、という気持ちもあるかもしれないが、それ以上に、自分が読んだときに、いらだつことになるだろう(? いや、ならない気もする。あーこの時期は、余裕がなくて思考がどうどう巡りしていて、時間を無駄にしていたんだなぁ、とかしみじみ……)。
あ、とか書いていたら、一つ思い出した。さっきの夢の話しだ、そう、「時間のなさ」、歳をとったことによる、焦燥感的なものだ。
「今の自分を変えてやる」とかかっこいいこと(夢で)言っておいて、でも、もう30代なんだぜ? そろそろ、自分の決めた道を突っ走ってかっこいい渋い大人になってやろうぜ、とか、そんなこと、思った……んだっけ、ここら辺がよく分からない。時間が経つと、「創造の言葉と実感の言葉」の記事で書いたけれども、自分の言葉が「どれ?」なのか分からなくなる。
そう、さっきの「経験」の話のところでかこうと思ったのは、その「語る言葉」についてである。
つまり、もうキーワードだけ書けば、「いくら経験をしても、それを【正しく】語る言葉がなければ、それは【経験】として積み上げられないのだ」ということ。
そして、そのことは、「記憶」が非常に重要なファクターとなってきて……
阿頼耶識とは、記憶の貯蔵庫である、が、記憶こそが人格を唯一統制しているものである、という僕の前に書いたことと一致していて、「おぉ、そういう表現の仕方もあるのか、唯識派の人たちにシンパシー覚えるぜ」とか、そんなこと思ったとか、プレゼン、最初はよかったけど後半が微妙になってしまったとか、もう、そうだ、結構、いろんなことが、ここ数日にあった。
それらを、結局、「経験」として書き留められていないから、よく覚えていないのだ。
でも、短い記事は、後から読んだときに「いらっと」するのが目に見えている(これは実証済みですらある)ので、投稿するのに躊躇したりもして……。
うむむ、本当に、もう少し、頭を整理して、【素早く】書く、ということを身に着けた方がいいかもしれない。いやはや、タイピングの速度は必要十分なので、このことは、「インプットすべきことの整理の高速化」という表現になるのだろうが……。
ものすごい腹痛が続く。
毎日、何かしら、お腹が痛くなっていたから、さほど気にしてなかったが、一時間以上続いていて、立ってるのも辛い。
病院は、、明日いこうか。どのみち、膝にできたしこりのため、病院に行こうとは思っていた、が、こりゃ皮膚科じゃなく消化器科がさきか。
うぐぐ……で、あれだ、自殺未遂者は五十三万だという。自殺遂行者は、三万きったが、潜在的にはそれほどいるのだと驚いた。
原因は、家庭問題、経済問題、健康問題とあるが。
このうち、絶望に近いのは、健康問題だけだ。
この、腹痛、に、耐えていると、ほんと、身体的な痛みは、言語を絶する。
なんて、こう、、思考とは、無意味な、ものなのか、と、痛感する、痛いだけにね、あはは。
この、痛み、は、共感、しづらいものだ、
やば、いしきを、うしないそう
とか、いいつつ、やっぱり、思考の野郎は、救急車よぶとか、途中駅でおりるのは、どうかとか、この期に及んで、いろいろ、提案するわけだが、
結局、何も、えらばない
というのは、それ自体、耐える、という、選択とも知らずに
追記
その後、消化器科の病院に行ってきた。
痛みが発生する場所を、触診でみてもらったら、「ああ、やっぱり胃ですね」といわれた。超音波検査とかして頂いたが、特段、異常はみられなかった、ということだ。(超音波検査の前は、べたべたした液体をぬられて、何だか面白かった!)
まぁ、まだお若いので、大丈夫だと思います。ただ、正確なことについては、内視鏡とかやってみなければ分かりません。とりあえず、胃酸過多が疑われるので、ガスター系(ファモチジン)を処方頂いた。
追記その2
病院に行った安心感からか、壮絶な痛みが発生することはなくなった。
ストレス、もあったのだろうか。取りあえず、夜寝る直前にものを食べるのは、胃に負担をかけるから、やめた方がいいだろう。朝が結構いたいんだよな。
毎日、何かしら、お腹が痛くなっていたから、さほど気にしてなかったが、一時間以上続いていて、立ってるのも辛い。
病院は、、明日いこうか。どのみち、膝にできたしこりのため、病院に行こうとは思っていた、が、こりゃ皮膚科じゃなく消化器科がさきか。
うぐぐ……で、あれだ、自殺未遂者は五十三万だという。自殺遂行者は、三万きったが、潜在的にはそれほどいるのだと驚いた。
原因は、家庭問題、経済問題、健康問題とあるが。
このうち、絶望に近いのは、健康問題だけだ。
この、腹痛、に、耐えていると、ほんと、身体的な痛みは、言語を絶する。
なんて、こう、、思考とは、無意味な、ものなのか、と、痛感する、痛いだけにね、あはは。
この、痛み、は、共感、しづらいものだ、
やば、いしきを、うしないそう
とか、いいつつ、やっぱり、思考の野郎は、救急車よぶとか、途中駅でおりるのは、どうかとか、この期に及んで、いろいろ、提案するわけだが、
結局、何も、えらばない
というのは、それ自体、耐える、という、選択とも知らずに
追記
その後、消化器科の病院に行ってきた。
痛みが発生する場所を、触診でみてもらったら、「ああ、やっぱり胃ですね」といわれた。超音波検査とかして頂いたが、特段、異常はみられなかった、ということだ。(超音波検査の前は、べたべたした液体をぬられて、何だか面白かった!)
まぁ、まだお若いので、大丈夫だと思います。ただ、正確なことについては、内視鏡とかやってみなければ分かりません。とりあえず、胃酸過多が疑われるので、ガスター系(ファモチジン)を処方頂いた。
追記その2
病院に行った安心感からか、壮絶な痛みが発生することはなくなった。
ストレス、もあったのだろうか。取りあえず、夜寝る直前にものを食べるのは、胃に負担をかけるから、やめた方がいいだろう。朝が結構いたいんだよな。
些細なこいゃあ、も、失って、初めて大切さに気づくってのはある。
もう亡くして諦めて、でも、記名入りの定期は、1000円位で再発行できるのだという。
しかも、チャージも残ったまま。
結局、であれば、切符かって1000円程度払ったが、もう潔く最初から再発行でもよかったということか。
しかし、昨日24時以降帰宅で、家中探して見つからなかったが、今朝、出発するとき、一度探した場所からみつかった。
これは、妖精さんの仕業に違いない。
洞窟のイデアではないが、何かものを見ている、といったときの、見ている主体は自分だが、その自分を見ることはできない。その自分とは、心であると表現したときに、心とは、心の元になる八つの識があり、それによって生じる心の作用、心所は、五十以上あるという。
というタイトルにして、帰宅時、ニュースをみると、あれだ、日本にすんでいて、人生つまらないなんて言うな、と、ある芸能人がいっていてニュースになったらしい。
言いたいことは全部わかる、俺もそう思うよ。
が、それでいて、この体調不良というか、体力の減退は、。
と、思っていて、木材粉砕機にかけられバラバラ事故死のニュース。
いやぁ、いやあ、安全ないい仕事してるわ。
取り合えず、命の危険ないからね。
まぁ、そのレベルの話すると、営業で車使う仕事も危険だよ。
そう、戦争なくて平和だから幸せ、というのは、比較思考の顕著なものだ。
で、これは否定しにくい。というか、正しい。
だって、カオス混沌な紛争戦争世紀末になったら、こんな考えてる場合じゃないし。
だから、
だから、それが逆に生きづらさを消しこまない。
平和だからみな、幸せなのだ、と、それなら、自殺者数はゼロのはず。
その死んだひとたち全員が、単に、日本が平和なくにだと、知らなかったというのか?
そんなはずはない。
日本は幸せで涅槃で、ニルバーナで天国で至上の幸福に溢れ楽園なのだ。
そこまではいってない?
そう、何の問題も抱えていない最高の国家だ、とまでいくと、欺瞞に思えてくる。
これが、比較思考と極論化である。
こうすると、まぁそれなりに問題はやっぱあるよねーってなる。
で、その問題とは、確かに、比較すれば大小あるだろう。
年金問題が不安なひともいれば、子育て、教育、経済、オリンピック、父親の威厳、異姓関係。
問題はたくさんある。
で、それは、何が問題かと言えば、その人にとってどうか、が問題になる。
問題は、比較できるものではない。
自らが考えること、が、一番の問題なのだ。
日本が平和だ、だから幸せを感じなきゃいけない。
これ、なんの宗教だ。
そうじゃないだろう。
そこじゃない。
むしろ、平和だろうがなんだろうが、ひとは、人として生きるべきだ。というと、戦争肯定にとらえられるのだろうが、そうじゃない。
世界がどうであろうと、主体的にはいきられるはずだ、ということだ。
むしろ、そうあるべきだ。
とか、あえて、断定的に書くと、ワケわからなくなるな。
ただ、僕の中で、なんとなく、いわゆる世間的なものとの、ズレ、というのが、なんとなく、このニュース的なのでわかった。
もう亡くして諦めて、でも、記名入りの定期は、1000円位で再発行できるのだという。
しかも、チャージも残ったまま。
結局、であれば、切符かって1000円程度払ったが、もう潔く最初から再発行でもよかったということか。
しかし、昨日24時以降帰宅で、家中探して見つからなかったが、今朝、出発するとき、一度探した場所からみつかった。
これは、妖精さんの仕業に違いない。
みえないものをみてる
洞窟のイデアではないが、何かものを見ている、といったときの、見ている主体は自分だが、その自分を見ることはできない。その自分とは、心であると表現したときに、心とは、心の元になる八つの識があり、それによって生じる心の作用、心所は、五十以上あるという。
当たり前の幸せ
というタイトルにして、帰宅時、ニュースをみると、あれだ、日本にすんでいて、人生つまらないなんて言うな、と、ある芸能人がいっていてニュースになったらしい。
言いたいことは全部わかる、俺もそう思うよ。
が、それでいて、この体調不良というか、体力の減退は、。
と、思っていて、木材粉砕機にかけられバラバラ事故死のニュース。
いやぁ、いやあ、安全ないい仕事してるわ。
取り合えず、命の危険ないからね。
まぁ、そのレベルの話すると、営業で車使う仕事も危険だよ。
そう、戦争なくて平和だから幸せ、というのは、比較思考の顕著なものだ。
で、これは否定しにくい。というか、正しい。
だって、カオス混沌な紛争戦争世紀末になったら、こんな考えてる場合じゃないし。
だから、
だから、それが逆に生きづらさを消しこまない。
平和だからみな、幸せなのだ、と、それなら、自殺者数はゼロのはず。
その死んだひとたち全員が、単に、日本が平和なくにだと、知らなかったというのか?
そんなはずはない。
日本は幸せで涅槃で、ニルバーナで天国で至上の幸福に溢れ楽園なのだ。
そこまではいってない?
そう、何の問題も抱えていない最高の国家だ、とまでいくと、欺瞞に思えてくる。
これが、比較思考と極論化である。
こうすると、まぁそれなりに問題はやっぱあるよねーってなる。
で、その問題とは、確かに、比較すれば大小あるだろう。
年金問題が不安なひともいれば、子育て、教育、経済、オリンピック、父親の威厳、異姓関係。
問題はたくさんある。
で、それは、何が問題かと言えば、その人にとってどうか、が問題になる。
問題は、比較できるものではない。
自らが考えること、が、一番の問題なのだ。
日本が平和だ、だから幸せを感じなきゃいけない。
これ、なんの宗教だ。
そうじゃないだろう。
そこじゃない。
むしろ、平和だろうがなんだろうが、ひとは、人として生きるべきだ。というと、戦争肯定にとらえられるのだろうが、そうじゃない。
世界がどうであろうと、主体的にはいきられるはずだ、ということだ。
むしろ、そうあるべきだ。
とか、あえて、断定的に書くと、ワケわからなくなるな。
ただ、僕の中で、なんとなく、いわゆる世間的なものとの、ズレ、というのが、なんとなく、このニュース的なのでわかった。