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試練は突然に明日何があるかは
2016/09/05 23:00 | Comments(0) | イライラ対処
書くべきか分からなかったが、やっぱり、普段と違うことをするときや、普段と違うもちものを使うとき、日常から、少しでも抜け出るなら、それなりに、気を使うべきなのだ。

定期入れを新調して、二週間目ぐらいだったと思うが、今日出掛けようとしたら、どこにもなかった。

かばんを代えて出掛けたから、その中か、私服のパンツのなかか、探したが見つからず、電車もぎりぎりのためそのまま出発。

切符をかうなんて久しぶり。
そして、5000円をチャージしたばかり。更新はいつしたか覚えていないが、まだ3ヶ月以上はゆうに残っていたはず。


まぁ、現物的な金銭的な損害だけ、これが社員証とか、クレジットカードとか、財布ごととかなら、事態はもっと深刻だ。

しかしまぁ、これで本当に紛失なら、これまでの人生で一番の被害額になるだろう。

深刻だ



そして帰りが遅い



休むことが大事だ、と書いた次の日に、2330過ぎに、ようやく仕事がおわり、これから帰ろうかという。

これは何か試練なのかと、逆に楽しくなってくるのと半比例の、左足のしこりの痛みと、目の辛さ痛み、食事もできていない。しかし、この時間で食べたらまた翌日にダメージになりそう。


そして、切符をかって、定期なくしたんだと、悲しい気分に、こんな気分のときは、英語かわからんが、ナイトウィッシュの曲が、いい。


原発の事故のときに、政府幹部のひとのblogよんだけど、下手な小説より面白いな。

小林泰三さんのエスエフは面白そうだが。


作品への感想



いやぁ、自分の作品に、感想をもらえるって、これやっぱり嬉しいし、楽しいことだ。

それが、ちょー面白かったッス、こんなすごいの初めてッス、ってものでなくても、とても嬉しい。これは、恐らく、解釈可能性と府可能性の一つの、可能性を示しているからだと思うけれども、今日は目が限界だからおいておく。

返信も、後日にさせてもらおう、しかし、今週も余裕がなさそうだ、というのは、なんだか、いつもの、精神的なやつじゃなくて、やっぱり、毎日23時すぎはきついと思う。

ブラック起業なんて、こんなもんじゃなくて、たぶん、業務時間ちゅうも、極度の緊張をしいられ、27時までやって、7時出勤みたいなんだろう。それに比べたら天国だ。


だ、が、まぁ、俺はそれは厳しいなーかっこわらい。

比べても仕方がないってのは、こういうことだ、仮に、あんまりいないと思うけれども、これを読んだ誰かが、ああ、こいつよりは楽な仕事なんだなぁ、と感じたところで、そんな必要はない。心配せずとも、あなた自身の生活が一番大変と思って差し支えがない。

逆に。


俺もまた、これを、大変とかいっていいんだ。

不幸自慢じゃないが、ブラック自慢とか、ストイック自慢とか、俺ねてねっす! とか。


……、それ、他人に言ってどうすんだよ。と、俺は思う、が、いやいや、お前一番こんなこと書いてるじゃないか、と。そのとおり。

書くのはいいんだ。
それはそれで記録だ、索引だ、メモだ、作品だ。




潔い忙しさ



というよりも、むしろ、自分さんの、もっと頑張れ、が、この辺り、22時過ぎあたりからは、聞こえなくなってくる。資格の勉強とかできなくても、まぁ、仕方がないか、っていってくれる。

そうじゃなきゃ、こいつ、厳しいんだよな。

もっとたのしみゃいいじゃん。
好きにいきりゃいいじゃん。


ダメだ。もっと頑張れ。
っていうやつがおるんだよな。



まぁ、そういうお前も、俺なんだよな、じゃあ、一緒に仲良く暮らそうぜ。



……と、自己の深いところにもぐっていくのが、あらやしき、だ、ということにしておこう。

そう、本も読めやしない。

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とある休日の過ごし方
2016/09/04 23:43 | イライラ対処
来週は、土日ともプライベートの予定がある。
という、書き方、プライベートってなんだよ、と何だか無性にいらだつ。いやつまり、誰か他者との付き合い的なことをプライベートというのか、「仕事」とそれ以外をプライベートというのか。であれば、結局今日だってプライベートで予定はあった(結局友達との食事会は取りやめたが、頼んだ本を受け取ったりとか)。

つまり、自分は、「自分一人の時間」を、「本当の時間」ととらえ、他者との相互関係、インターアクションが発生する時間を、別なものとととらえているのだろうか。それが、プライベートという言葉への違和感につながっているのか。

そんな細かいことはいい。「どうでもいいことはいい」と書こうと思ったが、上のような感覚をメモしておくことは、重要なことのように思える。「何か違う」という感覚こそが、「自分自身」の要素なのだと思うから。

休むことの重要性

とはいえ、まぁ、今日はあまり活動はしなかった。しばらくぶりに愛馬にまたがったが、やっぱり、楽しかった。楽しいという言葉も貧相だな。「なんだか生きているな」という感覚を味わえた。……大げさか?

言葉ってのが、難しいものだ。

言葉ね。言葉、言葉がなければ、記憶も成り立たず、記憶がなければ、人として存在ができない。

いやはや、やっぱり、電車とか、他人の車とか、それとはやっぱり違う。「馬を駆る」「運転する」という感覚は、全く別のものだと思う。この主体性ってのは、やっぱり大事だ。自分は○○ができる、という、この「できる」という感覚を大事にしなければならない。
しかし、ここで補足的に蛇足すれば、自分は、その「できる」が、主体的な感覚として認められず、他者との比較をすることによって、いわゆるオンラインゲーム症候群に陥り、自己喪失するのである。
と、いつもいつも補足しているが、そろそろ、まともな対策考えたらどうなんだ。いやだから、外に出かけて楽しかった、と言っているじゃないか。


しかしこう、少し、回復した。
どこまで保てるかは分からないけれども、最近、やはり、人と関わりすぎた。人中毒だ。なんじゃそりゃ。

とか書くと、「一人の時間ってのは大切なのですよ」とかしたり顔で諭される。いやいやそういう問題じゃない。


睡眠、と、何もしない時間、だ。

もう忙しくなってくると、あれもこれも、それで頑張っているのに、あれが足りないこれが足りない、努力が足りない、真剣さが足りない、ああもう、本当にたくさんたくさん言葉が降ってくる。

それは、他者から本当に言われることもあれば、自分自身の、内なる声の場合もある。

煩わしいものだ。

苛立たしいものだ。

面倒なものだ。

そう、この、面倒、という気持ち。やる気が起きない。
本当は、やりたいことが、こんな僕にも(こんな僕、という表現は、卑下しているようで、尊大である。危険な表現だ)あるはずなんだ。


とかく、もう少し、整理したいんだな。部屋も掃除機をかけられない日が続くと気が滅入るが、それだけじゃなくて、自分の好きなものとか、それは、ゲームの種類や、本、飲み物、食べ物、場所、服装、道具、音楽、……など。

「取りあえずいろんなことをやってみるのがいいよ」

という、どっか、阿頼耶識(あらやしき)に刷り込まれているのかもしれない。
俺の起源は何なんだ。

整理する時代

時代、というか、年代というか。
20代のうちに、どれだけ多くのインプットができたか、で人は決まるという。
はぁ? 勝手に言っとけ。

何ら方策無きインプットなど、何も生み出さない。
というのは、専門性の高度化複雑化である。

「超常的なことの衰退」が時代の象徴なのだとしたら、僕らができるのは、目標設定力と、自己解決力だけなのだとしたら、それは極度な自己満足の世界ということになる。

そうじゃねぇだろ、どっか正しいことってあるだろ。

一方で、生きる目的なんて考えてないで、トートロジー(同語反復)に、生きてるから生きているのだ、と言い切ってやれという。

この辺りの矛盾が問題なのかもしれないな。

大抵は、そのどちらかに自分を委任しているため矛盾に気づかないか、その矛盾を矛盾と感じないことだろう。


いやぁ、しかし、そんなことはさておき、やっぱり、休むことは大事だ。
特に、何で生きてるんだっけ、と、よく分からなくなる頻度が高まっているこの時期には、何もしない時間をできるだけ多くつくる必要がある。

何もしないって、結構難しい。あれやらなきゃ、これやらなきゃ、と、頭にめぐるのを、すっと消して、真っ暗な、もしくは真っ白な心象風景をつくりだし、内なる声に耳を傾ける……ことすらせず、本当に、何もしないのだ。
















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息切れ楽しいこともあっても
2016/09/03 16:00 | Comments(0) | イライラ対処
大した問題もないのに、きぶんが塞ぎ混んでいる。

毎日深夜帰宅のせいか、最近時おり入る土日出勤のせいか。明日も知人との約束があるが、気乗りがしなくなってきた。

こんなこと書いてるblogなんてあるだろうか、恐らく無駄だからないだろう、ただそれより、こんなに気分が滅入ってくると、おそらく、書くことすらできないはずだ。

この説明によると、まだ書いたり話せたりしてるうちは余裕ってことか。

むしろ、書くことによる不満や焦燥や、気力のナサが助長されているのか、まあまあ、そんな分析はあとでいい。とりあえず、現在の気分を、正確に記述しておくべきだ。

とりあえず、久々にゲームセンターにでも行ってみるか。



何か、気分がかわるかもしれない。

のみにけーしょん、友人や女の子達との遊び、それらは気分が変わるも知れないが、疲れていると、それら自体が、とてつもなくエネルギー消費となる。

メール等のやりとりもそうだ。
いや、作品の感想のやりとりとかは楽しい。何が違うのか。
それは、現実世界との接点だろう。それは、現実的な他者の忌避なのか、というよりも、もうお腹一杯といった感じだ。



あらやしき



といった心境で本屋をまわっていると、あらやしきの発見という本をみつけて読んでみる。

あらやしき、とは、そういえば、空の境界という那須きのこの作品で、根元に到達しようとする魔術師として出てきたなぁとか。

あらやしきは、記憶の貯蔵庫であるという。
フロイトとかの、無意識とは違う、と強調されていたが、僕は、深層心理みたいなものなのかな、と思ったりした。

よい行為も悪い行為も関係なく、沈殿していくのだという。



いやぁ、しかし、そういう、面白い作品にたどりつくまでが、結構大変なんだよね。そういう意味で、同じ趣味、というか、同じ感覚を共有した人との付き合いは大事。

いい作品とか、いい経験とか教えてくれるからね。

ところで、足のしこりが、やはり治らない痛いな。鼻血も突然でるし。



そうそう、もう一つ、他依起という考え方で、自分を小さくしていくことが、世界を大きくすることだ、といったこと。僕の表現になるとつまんなくなるから、ちゃんと読んだ方がいいがまぁ、自己に執着するのが、やはりよくないことだな、と思わせてくれた。

何故生きてるのか、生きているから生きているのだ、と、どうご反復を自信をもっていいなさいということだった。

で、アマゾンレビューでは、私のような凡夫には、そのような境地は説教臭くてかなわん、別の人の本の、科学でも宗教でも、死後の世界などわからないという言葉の方が響いた、という

その感想もまた面白かった。


固有名詞の必要性



俺が最近ダメなのは、記憶力の低下だろう、そしてそれは、認識力の低下であり、興味の低下だ。

例えば、ゼロの概念と、無との違いは重要だが、シューニャと、空のことをサンスクリット語で記憶していても、結局概念きおくとしては同じである。


概念記憶、本当は、ジンと、グレープフルーツジュースと、トニックウォーターを混ぜたカクテルを、ジンモーニという、とそれを覚えていても、精々、居酒屋やバーでメニューを見たときに、味を思い出しやすいぐらいにしかやくにたたない。ああもちろん、自分でつくるときにも役に立つ。
ただ、逆に、ジンモーニの単語が分からなくても、ジンとグレープフルーツとトニックと、と、それだけ覚えていれば飲みたい味はつくりだせる。

概念記憶とは、固有名詞とは違って、例えば、違うとか、例えばとか、思考とか、目的とか。


概念記憶の多さというか、種類で、人間の個性がつくられているのかな。


あらやしき、ってのも、その、蓄積された記憶を概念化している役目、はたらきをしているのなら、まさにそれが、人そのものといえるのかもしれない。 

と、先の本を15分くらいしか読めていないから、取り合えず購入して、ちゃんと読んでみようかな。


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フルスピードの期間の記述
2016/09/01 23:47 | Comments(0) | イライラ対処
いやはや、仕事の時間自慢など無意味だが、自慢ではなく、ただ事実として、メモしておくのも、今後のことを考えれば重要だ。

とにかく、家に帰ると玄関で寝てしまうぐらいに帰りが遅く、疲れている。睡眠時間は五時間達していない。
俺なんて徹夜だ、まだましだね、とか、比較しだすときりがない。

まず、こういうときは、自分でどうか。

限界、というと語弊、だが、通常続けられる生活様式を100%としたら、120%くらいでずっと続いてるようだ。

ここで、輝かしい未来があるなら、ふんばりどこだ! とやるのだが、もう半年前から書いてるように、生きる意味を喪失した状況である。
本当は、がんばる、ということが、完全にできない状態である。だから、実力の90%ぐらいの発揮でなんとかしていたけれども、やはり、足りなそうだ。

といっても、点数がでるような仕事ばかりじゃないし。

がんばる無意味



おぉ、思い出した。がんばって、も、無駄である。
本気で、がちで、真剣に、必死に、自分のできる以上にがんばった。で、結果が一部ダメだった。罵られた。

やってられない、と自暴自棄になるというよりも、頑張ったことに対する、後悔が、生じた。


くそぼけなヤクザにからまれた



鞄があたった、とかで、まじ切れして掴みかかってくるクソ親父っているんだな。スキンヘッドで髭をはやして、酒の臭いをさそている。でもスマホゲームやってんだけどな(笑)
ヒジウチされて、なにやってんだよ、と、怒鳴られた。

本当に、いやはや、いらっと度はボルテージだが、ある意味冷静にスルーした。
なんだその態度は、っていわれたらどうなってたか分からないが。


話は完全にそれたが、まぁ、そういう、クソ野郎であっても、俺のように様々他者を斟酌して、自分を律して生きていてもら結局、クソ野郎のような、自分の気持ちに正直なやつのほうが、楽しく生きていたりする。

って考えると、ほんと、がんばるとか、我慢するとか、馬鹿馬鹿しいよな。
まぁ、俺の特殊さは、苛立ったハゲ野郎も、昔はとっても繊細で、自分を圧し殺して生きてきた、とかかもしれない、とか思うことだが、だがあの野郎はぜってぇ違う(笑)


冗談はともかく、ほんと、このがんばること、我慢することの無意味性が、最近の僕を支配している。

そして、究極のポジティブ思考しかありえないことの証明。



そして無気力



そう、楽しく生きるしか、正解はない。中学3年生では到達した、生きる意味。楽しむこと。

やっぱり俺は正しかった、なんて思えるはずもなく、であれば、なおさら、楽しいことの無意味さに気づくたび、生きる気力がなくなっていくのだ。

仕事では頼りにされ、期待もされていても、それは限りない頑張れ世界に没入していくだけで。


ああ、もちろん、戦後ものがない時代とか、働くことがそのまま生きることに直結していた時代は、仕事そのものが生きることだったろう。

そんな時代は、スローライフとか、ワークライフバランスとかいう言葉がでてきたときに終わった。

趣味に生きよう、ローカルコミュニティを大切にしよう、新しい方策が示される。



それはそれで、多くの人を救い、長く保ち続けるだろう。

が、さて、そっからもこぼれたら、いったいどこにいく?


とかいう相談を誰かにすれば、え、じゃぁ、生きたくないなら死ねばいいじゃない。早く死んで、といわれるだけである。

冗談だが、ただ、内心そう感じさせるのは事実。

これが、他者を頼ってはダメな理由。アドバイスではない、共感が必要なんだ、としよう、で、共感してもらっても、じゃあ頑張って生きてみようか! となる。



だから、その生きる意味がわかんないんだってことを、理解できる人はいない。

いくら素晴らしいアドバイス、傾聴、共感であっても、それは、よく生きるためのものでしかない。そして、論理矛盾だが、そのよく生きるってのが、結局、それは一人ひとり考えてつくっていくものだよ! とか抽象になる。

究極のトップダウン思考がダメなのかもしれないが、やっぱり、生きるということは、そのことに意味があるはずなのだ。

それは、決して、万人にあてはまる真理でなくてもいい。ハゲ糞野郎にだって、スマホゲームとか、生きる目的があるのだ。


でも、シッダッタがいうように、人生は苦しみなのであれば、早々に諦めて死ぬのだって、一つ、正解なはずだ。

でも、死んだら終わり、生きていれば、そのうち生きる意味がみつかるかもしれないし、見つからなくても楽しく生きていけるかもしれない可能性があるから、死んではダメだ、という論理である。

が、その論理は、現時点として苦しむ人を救わない。

希望である。希望がないのだ。



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充実した時間と会話
2016/08/28 22:22 | Comments(0) | イライラ対処
小説投稿サイトへの随筆、整理してそのまま、書く、というのが、やっぱり、自分で納得いかず、論理の構成を見直したり書き足したりしていたら、相当時間を要したのが昨日。

ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。

やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。


でかけたら書く



そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。

誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。

小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。

そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。

日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。

そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。

のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。



確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。

その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。


日記



で、きょうあったことを、端的に表現、だが。

匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。

ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。

それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。

いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。

好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。

とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。


そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。


いろんな人がいるね。


やっぱり、人って面白い。



なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。

この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。


甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。

その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。

ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。




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