いったい、いつではでこのタイトルが続くんだ。
きっと、もう大丈夫、ここまできたら習慣になったと、そう実感できるまでだ。
でもそうしたら、たぶん、10年ぐらい続かないだろうか?
いや、エビングハウスの教えから、だんだん、思い出す感覚は広げていっていいだろう。
いまは、筋トレと音読を、と、毎日インプットせねばならない。
30日、3ヶ月ぐらいはいままでの実績から余裕だ。その前に潰れることは数知れないが、とりあえず、30日続いたら三ヶ月くらい大丈夫だ。
そして、三年間毎日続ける、というのは、残念ながら今までの人生一度もない。
もちろん、睡眠とか、歯磨きとか、それぐらいのことは続いていたかもしれない。ただ、歯磨きもキャンプとか友人宅で夜通しとか、クラブでオールナイトとか、そんなこともあった気がするから、厳密には毎日じゃないかもしれない。
そうすると、別に、一日二日守れなくても、さほど、習慣化において気にする必要はないのだろう。
ただ、三年間のうちの一日か、一週間のうちの一日かでは、重みが違う。
ゆえに、この、計画を立てることが最重要だが、実行時においても、この序盤が非常に重要なのだ。
そして、恐るべきは、例外事象。
必ず、ああ、今日は仕方がないな、だって○○があったんだから、というのが発生する。
そこをどう乗りきれるか。
いまが勝負だ、帰ってからが勝負だ。
昨日の、第四歩の記事……あれ、そうか、これ、昨日じゃなくて今日か。もう、相当前に書いたような感覚。
読み返して、やはり、全く、そのとき感じただろう、不快感や、夢の緊張感、そんなの、全然感じない。
こんなこと書いて大丈夫だろか……と心配していたはずだが、いま読むと、別に大したこと書いてない。
他者からの自分のみえかたと、自分自身でリアルタイムに思うかんじ方。
こんなに違うんだなぁと思った。記述のリアルタイム性が強ければ強いほど、この感覚のズレは大きいのだろう。
一日後の今日だから、その文章を書いたとき、苛立っていた、不安だった、意味不明な快感があった、など、それを言葉として思い出せるが、感情はない。
筋トレストレッチ音読、と。言い聞かせる。
そこに思考は挟まないそんなことやって何になるんだとか思わない。
話が変わったな。昨日の記事は、何となく、大事なことを書いてた気がするのだが、いまいちよく分からなくなった。
恋するのが大事?
そうさな、そういえば、高校のとき、最終兵器彼女って作品がすげー好きだったけど、いつぞやか、物凄く嫌悪し全部売り払った。
そのあたりに、なにかヒントがあるきがする。
つまり、恋ってなにか、ってことだ。
どこか、相思相愛、という言葉とか、好きってことだよハートとか、何らか表現はあるけど、でも。
相手のことを全部わかってあげて、先回りして相手の望みを叶えてあげるとか。
脳内占有率を常に高い状態を保つとか。
そういうもんじゃねえ、恋ってのは感覚なんだ! とか。
思うに、この点に殆ど触れてこなかったのは、考えても無駄だと思っていたのか。それとも、自分のルックス的な問題か。
ああ、いや、これも、敢えて記憶から消しているだけで、昔いろいろ書いていたかも。ブログになってからは全く書いてないから忘れてしまっているのか。
昨日は、結局うだうだ上まで書きつつ、帰って筋トレストレッチ音読をすることができた。
3日達成! おめでとう。今日もできたら、三日坊主ではなくなる。
さて、ある精神科医のブログを読んで、仏教観というか、この世は地獄だぜ、というのに一定の共感を覚えつつ、やはり人間の畜生ととして、執着にまみれ、苦しみながら生きている姿が嫌いになれないのだと。
その表現が、自信の体験を踏まえて非常にリアルな筆致になっていて、感動した。
かっこいいおとなだなっと。
僕も、何だか誰かを感動させるようなこと書きたいな。創作でも、エッセイでもどっちでもいいけど。
人類補完計画的な、万人にとってのユートピア、というのが、決して成功せず、様々な物語でも、最後は破れてしまうイデオロギーな理由が少し実感できた。
いくら、生きることそのこと自体が苦しみであっても、人と人は執着によって争うものだとしても、そのこと自体が尊いものだと、価値があるものだと感じる人もまたいるのである。
生きる意味が不要な人もいるのである。
ただ必死に生きて、笑って泣いて、苦しんで楽しんで、突然死んでしまっても、それが決して不幸なんてものではないのだ。
真理は、必ず必要なものではないのだ。
お金もそう。
恋人もそう。
出世もそう。
子供もそう。
他、世間一般に価値があるとされている多くのもの。
それらが、必ずしもその人にとって必要とは限らないのだ。
低学歴だから、貧乏だから。それらすべての属性は、決して、その人にとっての幸せの絶対尺度ではないのだ。
すぐさま、その足りないことに気づいていないから、貧乏の自覚がないから、井の中の蛙であり、本来的な権利を知ったとき、その人は失意のドン底におちるとしても、その知識や認識のあるなしが、問題にはならないのだ。
他者の生き方は参考になったとしても、結局は、自らの意思に従い、行為を選択する必要がある。
すぐさま、その意思とは単一の存在ではなく、環境との相互行為であることを想起する必要がある。
だから、
やっぱり、大切なのは、物語だ。
ある人が、現実とフィクションとの二項対立的な考え方に違和感を覚えると記述していたが、その通りと思う。
その、フィクションを摂取した自分自身までもフィクションになるはずはない。
現実逃避という言葉は、その、正しいとされている現実の規定から外れることを指すだけの相対概念といえる。
受験生が、漫画やゲームや恋人に時間を費やすことは、現実逃避だろう。
それは、受験に受かるという現実が価値あるものとして存在するからだ。
やるべき仕事があるとき、単純作業や掃除を始めたとしたら現実逃避だろう。やるべきことをやっていないからだ。
それは正しい、しかし、その価値あるものや、やるべきものについての検討の余地はあるのだ。
そして、この現実とフィクションとの懐疑の重要な点はもうひとつあって、それは、かっこつけた一般論的な表現をすると、グローバリズムと価値多様化社会である。
現実の規定は重要でありながら、ローカルなコミュニティで一生を終える可能性は小さくなった。
一方、物理現実、いわゆる僕らが直接的に接する、学校、会社、家族、それらは、それらにおけるローカルな価値を提供する。
それが謝っているか、正しいか、そこに問題はない。問題は、その価値を自らの意思が、自己が、許容し、同様に価値あるものと実感できるかどうかである。
そこへの矛盾を抱えていなければ、よい。
ただ、そこに矛盾があれば、その現実は決して、現実逃避とそしられるものでなく、むしろ、その現実に落ち着こうとすること自体が、本当の意味での現実逃避なのだ。
価値の反転。
さて、現実が、現実として機能しなくなったとき、どういった方策が考えられるか?
ここでいう物語は、エンターテイメントと呼ばれる、小説映画漫画ドラマのみにとどまらない。
例えば、旅先で偶然出会ったひととの会話でもいい。
もちろん、僕が最近飽きたと連呼する自己啓発本でもいい、ビジネス書でもいい。
とにかく、物理現実から離れたところで紡がれる物語。
それが、反転した現実から逃れられる唯一の可能性ではなかろうか。
ファンタジーだろうが、サイエンスだろうが、ノンフィクションだろうが関係ない。
自分自身が、価値あると感じられるものを探していかなければならない。それは、ときに、物理現実のなかだけでは見つけられないのだ。
物語を糧に。
さて、では、僕が求める、必要とする物語とはなんだ?
分からないが、ただ、ハッピーエンドじゃなきゃいけないなぁと、そんな漠然と、おもう。
きっと、もう大丈夫、ここまできたら習慣になったと、そう実感できるまでだ。
でもそうしたら、たぶん、10年ぐらい続かないだろうか?
いや、エビングハウスの教えから、だんだん、思い出す感覚は広げていっていいだろう。
いまは、筋トレと音読を、と、毎日インプットせねばならない。
30日、3ヶ月ぐらいはいままでの実績から余裕だ。その前に潰れることは数知れないが、とりあえず、30日続いたら三ヶ月くらい大丈夫だ。
そして、三年間毎日続ける、というのは、残念ながら今までの人生一度もない。
もちろん、睡眠とか、歯磨きとか、それぐらいのことは続いていたかもしれない。ただ、歯磨きもキャンプとか友人宅で夜通しとか、クラブでオールナイトとか、そんなこともあった気がするから、厳密には毎日じゃないかもしれない。
そうすると、別に、一日二日守れなくても、さほど、習慣化において気にする必要はないのだろう。
ただ、三年間のうちの一日か、一週間のうちの一日かでは、重みが違う。
ゆえに、この、計画を立てることが最重要だが、実行時においても、この序盤が非常に重要なのだ。
そして、恐るべきは、例外事象。
必ず、ああ、今日は仕方がないな、だって○○があったんだから、というのが発生する。
そこをどう乗りきれるか。
いまが勝負だ、帰ってからが勝負だ。
昨日の記事に対する考察
昨日の、第四歩の記事……あれ、そうか、これ、昨日じゃなくて今日か。もう、相当前に書いたような感覚。
読み返して、やはり、全く、そのとき感じただろう、不快感や、夢の緊張感、そんなの、全然感じない。
こんなこと書いて大丈夫だろか……と心配していたはずだが、いま読むと、別に大したこと書いてない。
他者からの自分のみえかたと、自分自身でリアルタイムに思うかんじ方。
こんなに違うんだなぁと思った。記述のリアルタイム性が強ければ強いほど、この感覚のズレは大きいのだろう。
一日後の今日だから、その文章を書いたとき、苛立っていた、不安だった、意味不明な快感があった、など、それを言葉として思い出せるが、感情はない。
家に着いてからが勝負
筋トレストレッチ音読、と。言い聞かせる。
そこに思考は挟まないそんなことやって何になるんだとか思わない。
話が変わったな。昨日の記事は、何となく、大事なことを書いてた気がするのだが、いまいちよく分からなくなった。
恋するのが大事?
そうさな、そういえば、高校のとき、最終兵器彼女って作品がすげー好きだったけど、いつぞやか、物凄く嫌悪し全部売り払った。
そのあたりに、なにかヒントがあるきがする。
つまり、恋ってなにか、ってことだ。
どこか、相思相愛、という言葉とか、好きってことだよハートとか、何らか表現はあるけど、でも。
相手のことを全部わかってあげて、先回りして相手の望みを叶えてあげるとか。
脳内占有率を常に高い状態を保つとか。
そういうもんじゃねえ、恋ってのは感覚なんだ! とか。
思うに、この点に殆ど触れてこなかったのは、考えても無駄だと思っていたのか。それとも、自分のルックス的な問題か。
ああ、いや、これも、敢えて記憶から消しているだけで、昔いろいろ書いていたかも。ブログになってからは全く書いてないから忘れてしまっているのか。
そして次の日
昨日は、結局うだうだ上まで書きつつ、帰って筋トレストレッチ音読をすることができた。
3日達成! おめでとう。今日もできたら、三日坊主ではなくなる。
さて、ある精神科医のブログを読んで、仏教観というか、この世は地獄だぜ、というのに一定の共感を覚えつつ、やはり人間の畜生ととして、執着にまみれ、苦しみながら生きている姿が嫌いになれないのだと。
その表現が、自信の体験を踏まえて非常にリアルな筆致になっていて、感動した。
かっこいいおとなだなっと。
僕も、何だか誰かを感動させるようなこと書きたいな。創作でも、エッセイでもどっちでもいいけど。
人類補完計画的な、万人にとってのユートピア、というのが、決して成功せず、様々な物語でも、最後は破れてしまうイデオロギーな理由が少し実感できた。
いくら、生きることそのこと自体が苦しみであっても、人と人は執着によって争うものだとしても、そのこと自体が尊いものだと、価値があるものだと感じる人もまたいるのである。
生きる意味が不要な人もいるのである。
ただ必死に生きて、笑って泣いて、苦しんで楽しんで、突然死んでしまっても、それが決して不幸なんてものではないのだ。
真理は、必ず必要なものではないのだ。
お金もそう。
恋人もそう。
出世もそう。
子供もそう。
他、世間一般に価値があるとされている多くのもの。
それらが、必ずしもその人にとって必要とは限らないのだ。
低学歴だから、貧乏だから。それらすべての属性は、決して、その人にとっての幸せの絶対尺度ではないのだ。
すぐさま、その足りないことに気づいていないから、貧乏の自覚がないから、井の中の蛙であり、本来的な権利を知ったとき、その人は失意のドン底におちるとしても、その知識や認識のあるなしが、問題にはならないのだ。
他人を気にしないこと
他者の生き方は参考になったとしても、結局は、自らの意思に従い、行為を選択する必要がある。
すぐさま、その意思とは単一の存在ではなく、環境との相互行為であることを想起する必要がある。
だから、
やっぱり、大切なのは、物語だ。
ある人が、現実とフィクションとの二項対立的な考え方に違和感を覚えると記述していたが、その通りと思う。
その、フィクションを摂取した自分自身までもフィクションになるはずはない。
現実逃避という言葉は、その、正しいとされている現実の規定から外れることを指すだけの相対概念といえる。
受験生が、漫画やゲームや恋人に時間を費やすことは、現実逃避だろう。
それは、受験に受かるという現実が価値あるものとして存在するからだ。
やるべき仕事があるとき、単純作業や掃除を始めたとしたら現実逃避だろう。やるべきことをやっていないからだ。
それは正しい、しかし、その価値あるものや、やるべきものについての検討の余地はあるのだ。
そして、この現実とフィクションとの懐疑の重要な点はもうひとつあって、それは、かっこつけた一般論的な表現をすると、グローバリズムと価値多様化社会である。
価値への懐疑
現実の規定は重要でありながら、ローカルなコミュニティで一生を終える可能性は小さくなった。
一方、物理現実、いわゆる僕らが直接的に接する、学校、会社、家族、それらは、それらにおけるローカルな価値を提供する。
それが謝っているか、正しいか、そこに問題はない。問題は、その価値を自らの意思が、自己が、許容し、同様に価値あるものと実感できるかどうかである。
そこへの矛盾を抱えていなければ、よい。
ただ、そこに矛盾があれば、その現実は決して、現実逃避とそしられるものでなく、むしろ、その現実に落ち着こうとすること自体が、本当の意味での現実逃避なのだ。
価値の反転。
さて、現実が、現実として機能しなくなったとき、どういった方策が考えられるか?
物語の重要性
ここでいう物語は、エンターテイメントと呼ばれる、小説映画漫画ドラマのみにとどまらない。
例えば、旅先で偶然出会ったひととの会話でもいい。
もちろん、僕が最近飽きたと連呼する自己啓発本でもいい、ビジネス書でもいい。
とにかく、物理現実から離れたところで紡がれる物語。
それが、反転した現実から逃れられる唯一の可能性ではなかろうか。
ファンタジーだろうが、サイエンスだろうが、ノンフィクションだろうが関係ない。
自分自身が、価値あると感じられるものを探していかなければならない。それは、ときに、物理現実のなかだけでは見つけられないのだ。
物語を糧に。
さて、では、僕が求める、必要とする物語とはなんだ?
分からないが、ただ、ハッピーエンドじゃなきゃいけないなぁと、そんな漠然と、おもう。
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昨日は、帰宅後の気の抜けた、やる気の起きない、脱力した状態を克服し、筋トレと音読を実行できた。
時間としては10分未満、いや5分未満な気がするが、その行動を取るために、、行動の一歩記事から二歩記事まで、一時間以上かけている。
5分のために一時間だ。
割にあっていない、これだけなら。
ただ、12日続けることができれば、イーブンにできる。それでもイーブンだ。せめて30日ぐらいは続けなければ。
そういえば、昔、自己成長改善ブログというタイトルのブログをやっていたこともあった。
日々、こういうことしました、勉強は何時間しました、とか。
もう消してしまったが、読み返しても何ら面白くないだろう。
その、瞬間的な記録になんら意味はない。点だ。点が線になり、面になり、と、抽象はどうでもいいが、とかく、頭に、思考に、価値観に、信念に、習慣に、行動にインプットすることが大事。
もう少し書くと、ブログは、結果だけを書いても面白くない。結果とは、どこそこにいったとか、腹筋を20回したとか。
それをどう感じたか、何故そうしようと思ったか、結果を受けてどう思ったか。その、プロセス、過程が大事だ。
一方、仕事は、効率能率結果。
まぁ、面白くない原因のひとつだ。
といいつつ、裁量を広げると、さぼり始める人が増えるから、まぁ仕方がないんだよな、と、そのあたりをどうこうするつもりもない、ただの対比。
筋トレはようわからんが、音読はやっぱりいい。頭が活性化する気がする。気なんだけど。
朝もなんだか声を出して読んでみた。
おお、なんと、朝起きてすぐは声が全くでないものだ。
かすれ、しわがれ。
でも、読んでいくうちに、眠気がさめていく感じがした。
朝の音読はよさそうだ。
とか、この小節に、これまた意味は小さい。
この感覚のメモは所詮、単に二回行えた結果に過ぎない。これが、計画を立てることの重さと、習慣に組み込もうとする重さだ。
もう少しいまの感覚をメモすると、未来の自分が、全然信じられていないということだ。
また、、飲み会とか残業とか、何か突発的な事象によって、潰えてしまうのではないかと。
そして、復帰については、半年とか一年とか、多大な時間をようすのだと。
だから、、いま、メモすべきは、朝、本とに眠かったということだ。
24時過ぎになった。ガンスリンガーガールの何巻かを流し読みしてしまった。
目覚ましは6時15分。
スヌーズで35分ぐらいまで布団内で格闘した。
必死に、朝活動するって、昨日約束したじゃない!!
と呼び掛けたのだが、体は、頭は反応しなかった。
眠りをとりたいという、その欲求、布団にみをまかせることで得られる心地よさ。快楽。
そう快楽に負けてしまいそうになるのだ。あの誘惑は、女の子が目の前で裸になるよりも強いものだ。
睡眠欲。
これは、いかんともしがたい。
憎しみとか怒りとかのコントロールはある程度できるが、
こいつのコントロールはかなり厳しい。
多くの計画などの頓挫は、破壊は、壊滅は、、この睡魔という魔物のためだ問いって過言でない。
でも、そんな、寝るってことが幸せなら、それこそ、命を終わりにした方が、それ、最高の快楽じゃないか、なんて考えも浮かんだところで、眠すぎて今回は終わり。
時間としては10分未満、いや5分未満な気がするが、その行動を取るために、、行動の一歩記事から二歩記事まで、一時間以上かけている。
5分のために一時間だ。
割にあっていない、これだけなら。
ただ、12日続けることができれば、イーブンにできる。それでもイーブンだ。せめて30日ぐらいは続けなければ。
そういえば、昔、自己成長改善ブログというタイトルのブログをやっていたこともあった。
日々、こういうことしました、勉強は何時間しました、とか。
もう消してしまったが、読み返しても何ら面白くないだろう。
その、瞬間的な記録になんら意味はない。点だ。点が線になり、面になり、と、抽象はどうでもいいが、とかく、頭に、思考に、価値観に、信念に、習慣に、行動にインプットすることが大事。
もう少し書くと、ブログは、結果だけを書いても面白くない。結果とは、どこそこにいったとか、腹筋を20回したとか。
それをどう感じたか、何故そうしようと思ったか、結果を受けてどう思ったか。その、プロセス、過程が大事だ。
一方、仕事は、効率能率結果。
まぁ、面白くない原因のひとつだ。
といいつつ、裁量を広げると、さぼり始める人が増えるから、まぁ仕方がないんだよな、と、そのあたりをどうこうするつもりもない、ただの対比。
音読
筋トレはようわからんが、音読はやっぱりいい。頭が活性化する気がする。気なんだけど。
朝もなんだか声を出して読んでみた。
おお、なんと、朝起きてすぐは声が全くでないものだ。
かすれ、しわがれ。
でも、読んでいくうちに、眠気がさめていく感じがした。
朝の音読はよさそうだ。
とか、この小節に、これまた意味は小さい。
この感覚のメモは所詮、単に二回行えた結果に過ぎない。これが、計画を立てることの重さと、習慣に組み込もうとする重さだ。
もう少しいまの感覚をメモすると、未来の自分が、全然信じられていないということだ。
また、、飲み会とか残業とか、何か突発的な事象によって、潰えてしまうのではないかと。
そして、復帰については、半年とか一年とか、多大な時間をようすのだと。
朝の眠気
だから、、いま、メモすべきは、朝、本とに眠かったということだ。
24時過ぎになった。ガンスリンガーガールの何巻かを流し読みしてしまった。
目覚ましは6時15分。
スヌーズで35分ぐらいまで布団内で格闘した。
必死に、朝活動するって、昨日約束したじゃない!!
と呼び掛けたのだが、体は、頭は反応しなかった。
眠りをとりたいという、その欲求、布団にみをまかせることで得られる心地よさ。快楽。
そう快楽に負けてしまいそうになるのだ。あの誘惑は、女の子が目の前で裸になるよりも強いものだ。
眠いこと
睡眠欲。
これは、いかんともしがたい。
憎しみとか怒りとかのコントロールはある程度できるが、
こいつのコントロールはかなり厳しい。
多くの計画などの頓挫は、破壊は、壊滅は、、この睡魔という魔物のためだ問いって過言でない。
でも、そんな、寝るってことが幸せなら、それこそ、命を終わりにした方が、それ、最高の快楽じゃないか、なんて考えも浮かんだところで、眠すぎて今回は終わり。
俺、頑張ってますよ、とか、自慢話など面白くないだろう。何かの記事で、好きなことをやってお金を稼いで人生充実して楽しんでいる人は、敵も多くなり、嫌われやすいと読んだ。
そういうネガティブな面もあるのだ、ポジティブな人とだけ付き合いましょうとか、そんなこといってると、どこか足をひっぱられることもある。
先日の、0.9の人間とは、どんな奴だろうか。
他人の幸せが羨ましいとか、よくわからん。
いや、法界悋気にむしろ俺は陥っていたのでは? いや違う、他人を妬むより、まず自分を卑下する方が先だった。
何か生じて、それを人の性には思えなかった。
誰かのせいにできたら楽かもしれない、ただ、良いことも悪いことも、直接的であれ間接的であれ、それは、自分が関与し引き起こしたことなのだと。
身に覚えがない濡れ衣や、単にタイミングが悪くて怒られるとかもあるが、まず、自分の立ち回りかたを罵った。そして、ルックスがよくないからだ、説明がよくないからだ、声がよくないからだ、話し方がよくないからだ……
何でもかんでも、自分で引き受けてしまうというのが、俺の悪いところだろう。
誰かを頼ってよかったのだ。誰かのせいにしてよかったのだ。
自分を認めてもよかったのだ。
さて、基礎体力作りのために、日課を今日から実践しようと。
こんな記事は全然面白くなかろう。
日々、仕事に、プライベートに充実してますよ、とか、そんなのフェイスブックでやっとけってもんだ。
だから、しばらく、blogをやめようか。
規律表とか、他のエクセルで行動管理しようか。
何かをするには、何かを捨てなければならない、と。
まずそもそも、帰りが遅くなると、日課なんてできない。
根本的に、仕事の働きかたを変えるか。しかし、突発的な仕事が多く、先が見通せない。早く帰る日をつくるのはできても、それがいつにできるかは分からない。でもこれは、アルバイトじゃないんだから仕方がない。
では考え方を変えて、朝やるしかない。
朝なら、起きれさえすれば、時間の確保はできる。
そのとき、いつも問題になるのは、飲み会とか、深夜までの残業だ。
帰宅が24時過ぎたとき、例えば26時とかなって、朝6時に起きて音読筋トレがんばろー、とか、無理ゲーである。
こういう無理を許容しない計画をたててしまいがちだ。
高校生のとき、徹夜で勉強して、みたいな計画を立てたことがある人もいるのではないか。テストというピンポイントな目標にたいしては有効な場面があるだろうが、今回は、日課として、ルーチン化しようという試みなのだから、それはダメだ。
むしろ、不可能なことを想定し、その、自分の感情も含めた、不可能性許容する計画がうまい計画だ。
こんなことだけ書いてあると、僕がGoogleとかで検索し、みつかる、日々を充実させるには、的な記事と同じにしか思えない。
ただ、過去の記事まで含めると、ここで書いてることの意味が、単純なそれとは異なることに気づく。気づくよね、未来の俺は?
今のこの、重苦しい自分の気分が、たぶん表現してないからできていないだろう。
音読
筋トレストレッチ
この言葉が、自分のなかにしっくりこず、このあと、何十年も先にまで繋がるルーチン化しようという試み。
これへの、意味を問い、価値の問い、その懐疑の中で、成功できるかも分からないこの今の状況……
すなわち、例えこれから家に帰って日課をできたとしても、それは目標の達成などではなく、単に一日を乗りきっただけである。
この、一日をただ乗りきるだけの無為な作業を、これから、飲み会とか突発的な事象のなか、いいわけをせずに、ずっと続けていかねばならないのである。
計画を立てることが、一番重いことだと捉えている。
実行は、その附帯作業だ、ぐらいに。
計画の失敗は、実行の失敗ではない。
計画そのものの、失敗なのだ。
実行できないことがその直接原因だが、実行できない計画をたてたことが失敗なのだ。
PDCAサイクル?
バカが。
チェックして変更を許容することが前提の計画なんて、そもそも実効性に揺らぎが生じるだけだ。
(厳密には、別に計画変更することが前提になっているのではなかろうが)
僕がたてようとしているのは、日々の成長のための方策などではない。
企業の成長モデルとからそんなもんじゃない。
完成形のイメージである。
最終目標、最終目的である。
生きる意味。人生の価値。私とは何者か。一生涯で成し遂げること。
こんなこと書いてると、意識高い系のようだ。
しかし、同時に凡人宣言をしている。
凡人として生きることと、ストイックな生き方。
矛盾している。
今回の記事は本当におかしなことになっている。
ただ、このブレ、このかいり、ずれ、違和感がありつつも、今回の記事もまた誠実だ。
今回のこの面白くない記事、これを、いかに認め、そして、これまでの記事との関連をはかるのか。
ああ、
本当に
苦しんだ人が偉いのか?
考えた人が偉いのか?
誰がすごいとか
誰が役に立つとか
何が正しいかとか
そんな一般論など、いらん。
とか、こういう記事、まさに、まさに、気持ち悪いという感じなのだろう。
今日、仕事中、帰ったら日課しなきゃなと、思ったとき、僕は勉強ができないという小説の、サブキャラが、女の子と付き合ったとき、女の子が生理痛で苦しんでいたのに、知的な、哲学的な会話をしていたのだと。青いかおをした女の子に気づくそぶりもなく気持ちよく話していたのだと。
このこともまさに事実のひとつ。
つまり、行動によって、人は評価されるのだと。
口だけの野郎に誰も従わないのだと。
後ろでこそこそ人を使って謀略するやつより、前線にたって戦う奴の方がかっこいい。
知的な答えをもつ人よりも、女の子の気分の悪いのを気づいてやれる方がかっこいい。
この、すべての事実に、ある意味喧嘩をうろうというのだ。
これがクソ凡人のあり方だと、まったなしに、批判も嫌悪も受け入れて、ただ目的を果たすことに邁進せよ、というわけだ。
なんだか大変そうだ。
そんなことより、もっと単純に明るく楽しくなるように頑張った方がいいんじゃない?
どうせ大変なら、一般論的に頑張れば?
ああ、しかし、それもいいのかもしれないが、それこそ、いやむしろ、それがもう憧れないし、それをするための方法も分からない。
分からないという意味では、いま僕が目指そうとしている、目的追求的な生き方もまた分からないけれどもしかし、それでも、
そういうネガティブな面もあるのだ、ポジティブな人とだけ付き合いましょうとか、そんなこといってると、どこか足をひっぱられることもある。
先日の、0.9の人間とは、どんな奴だろうか。
他人の幸せが羨ましいとか、よくわからん。
いや、法界悋気にむしろ俺は陥っていたのでは? いや違う、他人を妬むより、まず自分を卑下する方が先だった。
何か生じて、それを人の性には思えなかった。
誰かのせいにできたら楽かもしれない、ただ、良いことも悪いことも、直接的であれ間接的であれ、それは、自分が関与し引き起こしたことなのだと。
身に覚えがない濡れ衣や、単にタイミングが悪くて怒られるとかもあるが、まず、自分の立ち回りかたを罵った。そして、ルックスがよくないからだ、説明がよくないからだ、声がよくないからだ、話し方がよくないからだ……
何でもかんでも、自分で引き受けてしまうというのが、俺の悪いところだろう。
誰かを頼ってよかったのだ。誰かのせいにしてよかったのだ。
自分を認めてもよかったのだ。
前置きはこのくらい
さて、基礎体力作りのために、日課を今日から実践しようと。
こんな記事は全然面白くなかろう。
日々、仕事に、プライベートに充実してますよ、とか、そんなのフェイスブックでやっとけってもんだ。
だから、しばらく、blogをやめようか。
規律表とか、他のエクセルで行動管理しようか。
何かをするには、何かを捨てなければならない、と。
これまでとは違う方法に
まずそもそも、帰りが遅くなると、日課なんてできない。
根本的に、仕事の働きかたを変えるか。しかし、突発的な仕事が多く、先が見通せない。早く帰る日をつくるのはできても、それがいつにできるかは分からない。でもこれは、アルバイトじゃないんだから仕方がない。
では考え方を変えて、朝やるしかない。
朝なら、起きれさえすれば、時間の確保はできる。
ルーチンが途切れるとき
そのとき、いつも問題になるのは、飲み会とか、深夜までの残業だ。
帰宅が24時過ぎたとき、例えば26時とかなって、朝6時に起きて音読筋トレがんばろー、とか、無理ゲーである。
こういう無理を許容しない計画をたててしまいがちだ。
高校生のとき、徹夜で勉強して、みたいな計画を立てたことがある人もいるのではないか。テストというピンポイントな目標にたいしては有効な場面があるだろうが、今回は、日課として、ルーチン化しようという試みなのだから、それはダメだ。
むしろ、不可能なことを想定し、その、自分の感情も含めた、不可能性許容する計画がうまい計画だ。
ありふれた記事
こんなことだけ書いてあると、僕がGoogleとかで検索し、みつかる、日々を充実させるには、的な記事と同じにしか思えない。
ただ、過去の記事まで含めると、ここで書いてることの意味が、単純なそれとは異なることに気づく。気づくよね、未来の俺は?
今のこの、重苦しい自分の気分が、たぶん表現してないからできていないだろう。
音読
筋トレストレッチ
この言葉が、自分のなかにしっくりこず、このあと、何十年も先にまで繋がるルーチン化しようという試み。
これへの、意味を問い、価値の問い、その懐疑の中で、成功できるかも分からないこの今の状況……
すなわち、例えこれから家に帰って日課をできたとしても、それは目標の達成などではなく、単に一日を乗りきっただけである。
この、一日をただ乗りきるだけの無為な作業を、これから、飲み会とか突発的な事象のなか、いいわけをせずに、ずっと続けていかねばならないのである。
計画をたてるのは重いこと
計画を立てることが、一番重いことだと捉えている。
実行は、その附帯作業だ、ぐらいに。
計画の失敗は、実行の失敗ではない。
計画そのものの、失敗なのだ。
実行できないことがその直接原因だが、実行できない計画をたてたことが失敗なのだ。
PDCAサイクル?
バカが。
チェックして変更を許容することが前提の計画なんて、そもそも実効性に揺らぎが生じるだけだ。
(厳密には、別に計画変更することが前提になっているのではなかろうが)
僕がたてようとしているのは、日々の成長のための方策などではない。
企業の成長モデルとからそんなもんじゃない。
完成形のイメージである。
最終目標、最終目的である。
生きる意味。人生の価値。私とは何者か。一生涯で成し遂げること。
こんなこと書いてると、意識高い系のようだ。
しかし、同時に凡人宣言をしている。
凡人として生きることと、ストイックな生き方。
矛盾している。
今回の記事は本当におかしなことになっている。
ただ、このブレ、このかいり、ずれ、違和感がありつつも、今回の記事もまた誠実だ。
今回のこの面白くない記事、これを、いかに認め、そして、これまでの記事との関連をはかるのか。
ああ、
本当に
えらいひと
苦しんだ人が偉いのか?
考えた人が偉いのか?
誰がすごいとか
誰が役に立つとか
何が正しいかとか
そんな一般論など、いらん。
とか、こういう記事、まさに、まさに、気持ち悪いという感じなのだろう。
今日、仕事中、帰ったら日課しなきゃなと、思ったとき、僕は勉強ができないという小説の、サブキャラが、女の子と付き合ったとき、女の子が生理痛で苦しんでいたのに、知的な、哲学的な会話をしていたのだと。青いかおをした女の子に気づくそぶりもなく気持ちよく話していたのだと。
このこともまさに事実のひとつ。
つまり、行動によって、人は評価されるのだと。
口だけの野郎に誰も従わないのだと。
後ろでこそこそ人を使って謀略するやつより、前線にたって戦う奴の方がかっこいい。
知的な答えをもつ人よりも、女の子の気分の悪いのを気づいてやれる方がかっこいい。
この、すべての事実に、ある意味喧嘩をうろうというのだ。
これがクソ凡人のあり方だと、まったなしに、批判も嫌悪も受け入れて、ただ目的を果たすことに邁進せよ、というわけだ。
なんだか大変そうだ。
そんなことより、もっと単純に明るく楽しくなるように頑張った方がいいんじゃない?
どうせ大変なら、一般論的に頑張れば?
行動の第二歩
ああ、しかし、それもいいのかもしれないが、それこそ、いやむしろ、それがもう憧れないし、それをするための方法も分からない。
分からないという意味では、いま僕が目指そうとしている、目的追求的な生き方もまた分からないけれどもしかし、それでも、
終末へのハーレム、面白そうだな。読んでないけど。ただのエロ漫画かもしれないが、コールドsleepで目覚めたら、男性が全部死滅していたとか、設定に(笑)となった。
月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。
そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。
筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評
など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。
まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。
問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。
自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。
唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。
まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。
とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。
決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。
1月には、12月には、再度目標の設定を行う。
さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。
それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。
高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。
ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。
ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。
努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。
ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。
筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。
今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。
目的を設定するということだ。
人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。
例えば、自分の本を出版したいとか。
作曲した音楽を発表したいとか。
そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?
そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?
と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。
本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。
じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。
そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。
目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。
身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。
俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。
それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。
矛盾、矛盾。
努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。
ストイック、厳格さ、理性を重視。
うーん、表現が足りない。
今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。
そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。
今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。
さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。
今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。
ルーチンの構築
月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。
そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。
筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評
など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。
まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。
問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。
自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。
唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。
まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。
とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。
目標の設定
決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。
1月には、12月には、再度目標の設定を行う。
さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。
それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。
焦燥感
高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。
ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。
ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。
努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。
ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。
筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。
今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。
目的を設定するということだ。
人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。
新しい生活をこれからのために
例えば、自分の本を出版したいとか。
作曲した音楽を発表したいとか。
そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?
そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?
と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。
本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。
じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。
そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。
意志の問題
目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。
身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。
俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。
それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。
矛盾、矛盾。
努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。
ストイック、厳格さ、理性を重視。
うーん、表現が足りない。
今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。
そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。
今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。
さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。
今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。
この感動をメモしなければならない、その思いだけで、指を動かす。
カバネリの感想を書いた。そして、それの考察を書いた方のブログをよんだ。
す、すげぇ。
なんだ、これ、この考察ってのが、こんなに面白い物語になるってのか。
正直自分は全然、、そんな風に思えなかった。
もし、そんなイケメンサイコだったら、親父との郷愁とか描写としていらなかったし、いやあってもいいだろうが、その目的に関する描写がもっとあってよかった。
無名ちゃんをいいように利用する悪いやつぐらいにしか思えんかった。
金剛郭前の駅で、城主殺すのとか、あれって単に見捨てられた恨みを果たしているようにしか思えなかった。そしたらミスリード過ぎる。親父への恨みとかじゃなく、理想を果たそうとする行動なら。俺はもっとこの物語に……
あの、親父の寝所できりつけられたしーんも
余計だった。幼心がトラウマに……的な描写だと思ってしまった。
そうか、でもその解釈なら、彼が主人公を救ったのも、非常に納得だ。
とにかく、やっぱり、いい物語を創れる人は、他のことさせてもすごい能力を発揮するってことだなぁ。
駄文書いて悦に入ってる場合じゃねぇ……。
しかし、今日は飲み会で、思考を回すには少し状態が悪い。
しかし、今日の少人数の飲み会はよかった。
うん、なんの気兼ねなく、このぶろぐのような 語り口調で。
こういうのも、悪くないなって。
まず、昨日、24時を過ぎて、その、すごい考察記事を読んで、僕が感じた神的体験を描写しよう。今日の飲み会のことは、まぁ、取り合えず置いておく。
何となく自分は、他者に興味を持ちにくい心性があるのかもしれない。尊敬できる人物は、という面接の問いに、非常に悩んでしまう。尊敬ってなんだ。すごい人はたくさんいるが、それは、どこか自分が目指そうと思うような人ではなかった。
確かに、僕の思考に影響を与えたあの人は、本とにすごいというか、見習いたい、目指したいと心底思った。
しかし、リアルの場所であったこともない人、確かに電話で会話もしたけれども、そんな人を、リアルの場所で尊敬できますなんていったら、逆効果になる。
であるならば、自分の親です、とか当たり障りなく評価をさげたほうがましだとすら思う。
昨日思ったのは、完全なる平伏心である。雷にうたれたかのような衝撃。
まさしく、自尊心が粉々になった心境。
そんな強い感情を引き起こす文章であった。
だめだ、なんか足りない。
僕が感じたあの衝撃を、こんな、僕の表現では表せない、屈辱だ、悔しい。
同年代だと思われる彼の方、もう、やはり、年齢とか、こうなってくると全く関係ないなと思う。
歳くった人でも、そこそこな人はいるし、若い人でも尊敬に値する人もいる。
俺が不幸だったのは、どこか、心底尊敬できる、目指したい方向性が一致した、素晴らしい人に出会う機会が少なかったことか。
いやすぐさま言うべきは、俺のこれまでの友人たちは悪い人ではなかったし、俺より成績はよかったし、できることもたくさんあった。
しかし、尊敬、目指したいという思いにはなってなかったように思う。
ああ、なんか、、だめだめだ、前半は眠い目を擦りながら書き始め、今は、酒と眠気で、何か考えようという気になれない。
けれども、この、体の不調においても、なお、書いておきたいと、残したいと、そんな思い。
この今の不快感は、明日、明後日読んでも、きっと、分からない。
この、言葉における伝わり方。
これが、GOMAさんの本を先日読んで、きっと、相当な苦しみがあると、想像はできたけれども、いまいち実感としては伝わらなかった、まさにそのことを、自分でやっているのだ。
そしてふらふらと一人ラーメン屋に。
お腹はつらく苦しいが、油をくちにはこび、心地よい美味しさと、身体を痛め付ける感覚が、どこか心地よい。
食べ終わり、ふらふらと歩き出す。
風が冷たい。でも、不思議と寒さはない。
人通りの少ない道を歩く。
価値があるでもない
意味があるでもない
大切でもない
正しくもない
普遍でもない
答えでもない
生きているでもない
思考でもない
ただ、身体が思考にうったえる苦しさと、そして恍惚さ
耳に流れ込む、最近思い出した昔よく聞いていたアーティストの曲
ただ
このとき、この瞬間
このまま、どこまでも
ずっと歩いて、
そして意識が
なくなって
カバネリの感想を書いた。そして、それの考察を書いた方のブログをよんだ。
す、すげぇ。
なんだ、これ、この考察ってのが、こんなに面白い物語になるってのか。
正直自分は全然、、そんな風に思えなかった。
もし、そんなイケメンサイコだったら、親父との郷愁とか描写としていらなかったし、いやあってもいいだろうが、その目的に関する描写がもっとあってよかった。
無名ちゃんをいいように利用する悪いやつぐらいにしか思えんかった。
金剛郭前の駅で、城主殺すのとか、あれって単に見捨てられた恨みを果たしているようにしか思えなかった。そしたらミスリード過ぎる。親父への恨みとかじゃなく、理想を果たそうとする行動なら。俺はもっとこの物語に……
あの、親父の寝所できりつけられたしーんも
余計だった。幼心がトラウマに……的な描写だと思ってしまった。
そうか、でもその解釈なら、彼が主人公を救ったのも、非常に納得だ。
とにかく、やっぱり、いい物語を創れる人は、他のことさせてもすごい能力を発揮するってことだなぁ。
駄文書いて悦に入ってる場合じゃねぇ……。
しかし、今日は飲み会で、思考を回すには少し状態が悪い。
しかし、今日の少人数の飲み会はよかった。
うん、なんの気兼ねなく、このぶろぐのような 語り口調で。
こういうのも、悪くないなって。
時系列を整理
まず、昨日、24時を過ぎて、その、すごい考察記事を読んで、僕が感じた神的体験を描写しよう。今日の飲み会のことは、まぁ、取り合えず置いておく。
何となく自分は、他者に興味を持ちにくい心性があるのかもしれない。尊敬できる人物は、という面接の問いに、非常に悩んでしまう。尊敬ってなんだ。すごい人はたくさんいるが、それは、どこか自分が目指そうと思うような人ではなかった。
確かに、僕の思考に影響を与えたあの人は、本とにすごいというか、見習いたい、目指したいと心底思った。
しかし、リアルの場所であったこともない人、確かに電話で会話もしたけれども、そんな人を、リアルの場所で尊敬できますなんていったら、逆効果になる。
であるならば、自分の親です、とか当たり障りなく評価をさげたほうがましだとすら思う。
昨日思ったのは、完全なる平伏心である。雷にうたれたかのような衝撃。
まさしく、自尊心が粉々になった心境。
そんな強い感情を引き起こす文章であった。
だめだ、なんか足りない。
僕が感じたあの衝撃を、こんな、僕の表現では表せない、屈辱だ、悔しい。
自己表現
同年代だと思われる彼の方、もう、やはり、年齢とか、こうなってくると全く関係ないなと思う。
歳くった人でも、そこそこな人はいるし、若い人でも尊敬に値する人もいる。
俺が不幸だったのは、どこか、心底尊敬できる、目指したい方向性が一致した、素晴らしい人に出会う機会が少なかったことか。
いやすぐさま言うべきは、俺のこれまでの友人たちは悪い人ではなかったし、俺より成績はよかったし、できることもたくさんあった。
しかし、尊敬、目指したいという思いにはなってなかったように思う。
ああ、なんか、、だめだめだ、前半は眠い目を擦りながら書き始め、今は、酒と眠気で、何か考えようという気になれない。
けれども、この、体の不調においても、なお、書いておきたいと、残したいと、そんな思い。
この今の不快感は、明日、明後日読んでも、きっと、分からない。
この、言葉における伝わり方。
これが、GOMAさんの本を先日読んで、きっと、相当な苦しみがあると、想像はできたけれども、いまいち実感としては伝わらなかった、まさにそのことを、自分でやっているのだ。
しめのラーメン
そしてふらふらと一人ラーメン屋に。
お腹はつらく苦しいが、油をくちにはこび、心地よい美味しさと、身体を痛め付ける感覚が、どこか心地よい。
食べ終わり、ふらふらと歩き出す。
風が冷たい。でも、不思議と寒さはない。
人通りの少ない道を歩く。
価値があるでもない
意味があるでもない
大切でもない
正しくもない
普遍でもない
答えでもない
生きているでもない
思考でもない
ただ、身体が思考にうったえる苦しさと、そして恍惚さ
耳に流れ込む、最近思い出した昔よく聞いていたアーティストの曲
ただ
このとき、この瞬間
このまま、どこまでも
ずっと歩いて、
そして意識が
なくなって
