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行動のための第二歩
2016/10/17 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
俺、頑張ってますよ、とか、自慢話など面白くないだろう。何かの記事で、好きなことをやってお金を稼いで人生充実して楽しんでいる人は、敵も多くなり、嫌われやすいと読んだ。

そういうネガティブな面もあるのだ、ポジティブな人とだけ付き合いましょうとか、そんなこといってると、どこか足をひっぱられることもある。

先日の、0.9の人間とは、どんな奴だろうか。
他人の幸せが羨ましいとか、よくわからん。
いや、法界悋気にむしろ俺は陥っていたのでは? いや違う、他人を妬むより、まず自分を卑下する方が先だった。

何か生じて、それを人の性には思えなかった。
誰かのせいにできたら楽かもしれない、ただ、良いことも悪いことも、直接的であれ間接的であれ、それは、自分が関与し引き起こしたことなのだと。

身に覚えがない濡れ衣や、単にタイミングが悪くて怒られるとかもあるが、まず、自分の立ち回りかたを罵った。そして、ルックスがよくないからだ、説明がよくないからだ、声がよくないからだ、話し方がよくないからだ……


何でもかんでも、自分で引き受けてしまうというのが、俺の悪いところだろう。

誰かを頼ってよかったのだ。誰かのせいにしてよかったのだ。
自分を認めてもよかったのだ。



前置きはこのくらい



さて、基礎体力作りのために、日課を今日から実践しようと。

こんな記事は全然面白くなかろう。
日々、仕事に、プライベートに充実してますよ、とか、そんなのフェイスブックでやっとけってもんだ。

だから、しばらく、blogをやめようか。
規律表とか、他のエクセルで行動管理しようか。

何かをするには、何かを捨てなければならない、と。


これまでとは違う方法に



まずそもそも、帰りが遅くなると、日課なんてできない。
根本的に、仕事の働きかたを変えるか。しかし、突発的な仕事が多く、先が見通せない。早く帰る日をつくるのはできても、それがいつにできるかは分からない。でもこれは、アルバイトじゃないんだから仕方がない。

では考え方を変えて、朝やるしかない。

朝なら、起きれさえすれば、時間の確保はできる。

ルーチンが途切れるとき



そのとき、いつも問題になるのは、飲み会とか、深夜までの残業だ。

帰宅が24時過ぎたとき、例えば26時とかなって、朝6時に起きて音読筋トレがんばろー、とか、無理ゲーである。


こういう無理を許容しない計画をたててしまいがちだ。
高校生のとき、徹夜で勉強して、みたいな計画を立てたことがある人もいるのではないか。テストというピンポイントな目標にたいしては有効な場面があるだろうが、今回は、日課として、ルーチン化しようという試みなのだから、それはダメだ。

むしろ、不可能なことを想定し、その、自分の感情も含めた、不可能性許容する計画がうまい計画だ。


ありふれた記事



こんなことだけ書いてあると、僕がGoogleとかで検索し、みつかる、日々を充実させるには、的な記事と同じにしか思えない。

ただ、過去の記事まで含めると、ここで書いてることの意味が、単純なそれとは異なることに気づく。気づくよね、未来の俺は?

今のこの、重苦しい自分の気分が、たぶん表現してないからできていないだろう。

音読
筋トレストレッチ


この言葉が、自分のなかにしっくりこず、このあと、何十年も先にまで繋がるルーチン化しようという試み。

これへの、意味を問い、価値の問い、その懐疑の中で、成功できるかも分からないこの今の状況……

すなわち、例えこれから家に帰って日課をできたとしても、それは目標の達成などではなく、単に一日を乗りきっただけである。

この、一日をただ乗りきるだけの無為な作業を、これから、飲み会とか突発的な事象のなか、いいわけをせずに、ずっと続けていかねばならないのである。



計画をたてるのは重いこと



計画を立てることが、一番重いことだと捉えている。
実行は、その附帯作業だ、ぐらいに。

計画の失敗は、実行の失敗ではない。
計画そのものの、失敗なのだ。

実行できないことがその直接原因だが、実行できない計画をたてたことが失敗なのだ。


PDCAサイクル?

バカが。

チェックして変更を許容することが前提の計画なんて、そもそも実効性に揺らぎが生じるだけだ。
(厳密には、別に計画変更することが前提になっているのではなかろうが)

僕がたてようとしているのは、日々の成長のための方策などではない。
企業の成長モデルとからそんなもんじゃない。


完成形のイメージである。

最終目標、最終目的である。 

生きる意味。人生の価値。私とは何者か。一生涯で成し遂げること。



こんなこと書いてると、意識高い系のようだ。
しかし、同時に凡人宣言をしている。

凡人として生きることと、ストイックな生き方。 
矛盾している。

今回の記事は本当におかしなことになっている。

ただ、このブレ、このかいり、ずれ、違和感がありつつも、今回の記事もまた誠実だ。


今回のこの面白くない記事、これを、いかに認め、そして、これまでの記事との関連をはかるのか。

ああ、
本当に




えらいひと




苦しんだ人が偉いのか?

考えた人が偉いのか?



誰がすごいとか

誰が役に立つとか


何が正しいかとか
 


そんな一般論など、いらん。


とか、こういう記事、まさに、まさに、気持ち悪いという感じなのだろう。
今日、仕事中、帰ったら日課しなきゃなと、思ったとき、僕は勉強ができないという小説の、サブキャラが、女の子と付き合ったとき、女の子が生理痛で苦しんでいたのに、知的な、哲学的な会話をしていたのだと。青いかおをした女の子に気づくそぶりもなく気持ちよく話していたのだと。


このこともまさに事実のひとつ。

つまり、行動によって、人は評価されるのだと。
口だけの野郎に誰も従わないのだと。

後ろでこそこそ人を使って謀略するやつより、前線にたって戦う奴の方がかっこいい。

知的な答えをもつ人よりも、女の子の気分の悪いのを気づいてやれる方がかっこいい。





この、すべての事実に、ある意味喧嘩をうろうというのだ。

これがクソ凡人のあり方だと、まったなしに、批判も嫌悪も受け入れて、ただ目的を果たすことに邁進せよ、というわけだ。 


なんだか大変そうだ。
そんなことより、もっと単純に明るく楽しくなるように頑張った方がいいんじゃない?
どうせ大変なら、一般論的に頑張れば?




行動の第二歩



ああ、しかし、それもいいのかもしれないが、それこそ、いやむしろ、それがもう憧れないし、それをするための方法も分からない。

分からないという意味では、いま僕が目指そうとしている、目的追求的な生き方もまた分からないけれどもしかし、それでも、



















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行動への一歩
2016/10/17 08:00 | Comments(0) | イライラ対処
終末へのハーレム、面白そうだな。読んでないけど。ただのエロ漫画かもしれないが、コールドsleepで目覚めたら、男性が全部死滅していたとか、設定に(笑)となった。

ルーチンの構築



月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。

そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。

筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評

など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。

まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。

問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。

自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。


唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。

まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。


とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。


目標の設定



決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。

1月には、12月には、再度目標の設定を行う。

さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。

それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。


焦燥感


高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。

ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。

ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。


努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。

ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。


筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。

今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。

目的を設定するということだ。

人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。

新しい生活をこれからのために



例えば、自分の本を出版したいとか。

作曲した音楽を発表したいとか。



そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?

そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?

と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。


本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。


じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。


そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。

意志の問題



目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。

身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。

俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。

それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。



矛盾、矛盾。

努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。

ストイック、厳格さ、理性を重視。


うーん、表現が足りない。

今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。

そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。

今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。

さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。

今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。




















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虚ろな瞳を見開き床から起きた
2016/10/13 00:00 | Comments(2) | イライラ対処
この感動をメモしなければならない、その思いだけで、指を動かす。

カバネリの感想を書いた。そして、それの考察を書いた方のブログをよんだ。

す、すげぇ。

なんだ、これ、この考察ってのが、こんなに面白い物語になるってのか。
正直自分は全然、、そんな風に思えなかった。
もし、そんなイケメンサイコだったら、親父との郷愁とか描写としていらなかったし、いやあってもいいだろうが、その目的に関する描写がもっとあってよかった。

無名ちゃんをいいように利用する悪いやつぐらいにしか思えんかった。

金剛郭前の駅で、城主殺すのとか、あれって単に見捨てられた恨みを果たしているようにしか思えなかった。そしたらミスリード過ぎる。親父への恨みとかじゃなく、理想を果たそうとする行動なら。俺はもっとこの物語に……

あの、親父の寝所できりつけられたしーんも
余計だった。幼心がトラウマに……的な描写だと思ってしまった。



そうか、でもその解釈なら、彼が主人公を救ったのも、非常に納得だ。


とにかく、やっぱり、いい物語を創れる人は、他のことさせてもすごい能力を発揮するってことだなぁ。

駄文書いて悦に入ってる場合じゃねぇ……。



しかし、今日は飲み会で、思考を回すには少し状態が悪い。
しかし、今日の少人数の飲み会はよかった。

うん、なんの気兼ねなく、このぶろぐのような 語り口調で。
こういうのも、悪くないなって。





時系列を整理



まず、昨日、24時を過ぎて、その、すごい考察記事を読んで、僕が感じた神的体験を描写しよう。今日の飲み会のことは、まぁ、取り合えず置いておく。

何となく自分は、他者に興味を持ちにくい心性があるのかもしれない。尊敬できる人物は、という面接の問いに、非常に悩んでしまう。尊敬ってなんだ。すごい人はたくさんいるが、それは、どこか自分が目指そうと思うような人ではなかった。

確かに、僕の思考に影響を与えたあの人は、本とにすごいというか、見習いたい、目指したいと心底思った。
しかし、リアルの場所であったこともない人、確かに電話で会話もしたけれども、そんな人を、リアルの場所で尊敬できますなんていったら、逆効果になる。

であるならば、自分の親です、とか当たり障りなく評価をさげたほうがましだとすら思う。



昨日思ったのは、完全なる平伏心である。雷にうたれたかのような衝撃。

まさしく、自尊心が粉々になった心境。

そんな強い感情を引き起こす文章であった。



だめだ、なんか足りない。

僕が感じたあの衝撃を、こんな、僕の表現では表せない、屈辱だ、悔しい。


自己表現



同年代だと思われる彼の方、もう、やはり、年齢とか、こうなってくると全く関係ないなと思う。
歳くった人でも、そこそこな人はいるし、若い人でも尊敬に値する人もいる。

俺が不幸だったのは、どこか、心底尊敬できる、目指したい方向性が一致した、素晴らしい人に出会う機会が少なかったことか。
いやすぐさま言うべきは、俺のこれまでの友人たちは悪い人ではなかったし、俺より成績はよかったし、できることもたくさんあった。
しかし、尊敬、目指したいという思いにはなってなかったように思う。


ああ、なんか、、だめだめだ、前半は眠い目を擦りながら書き始め、今は、酒と眠気で、何か考えようという気になれない。

けれども、この、体の不調においても、なお、書いておきたいと、残したいと、そんな思い。

この今の不快感は、明日、明後日読んでも、きっと、分からない。

この、言葉における伝わり方。
これが、GOMAさんの本を先日読んで、きっと、相当な苦しみがあると、想像はできたけれども、いまいち実感としては伝わらなかった、まさにそのことを、自分でやっているのだ。


しめのラーメン



そしてふらふらと一人ラーメン屋に。
お腹はつらく苦しいが、油をくちにはこび、心地よい美味しさと、身体を痛め付ける感覚が、どこか心地よい。

食べ終わり、ふらふらと歩き出す。

風が冷たい。でも、不思議と寒さはない。

人通りの少ない道を歩く。




価値があるでもない

意味があるでもない

大切でもない

正しくもない

普遍でもない

答えでもない

生きているでもない

思考でもない


ただ、身体が思考にうったえる苦しさと、そして恍惚さ



耳に流れ込む、最近思い出した昔よく聞いていたアーティストの曲


ただ

このとき、この瞬間


このまま、どこまでも

ずっと歩いて、



そして意識が
なくなって





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人生の計画を立てようとして失敗
2016/10/12 22:03 | Comments(0) | イライラ対処
「時間切れ、仕方がない、今日の夜にまた続きを考えるか」
と書き残し、24時前の帰宅となり、風呂入って寝たのが昨日のことか。この頃感じるのは、時間感覚の早さ(速さ)だ。仕事をするようになって、早いなぁと感じるようになった、とどこか書き残したことがあったけれども、その当時よりも、もっともっと早い気がする。

意外と、55歳、80歳、あっという間なのかな。

しかし面白いのは、「気分」による文章の盛り上がり盛り下がりである。
少し生活が軌道に乗って(と思えて)いるときは、昨日の記事は、何とも醜くつまらないものに思えた。一方で、今日とか、何とも無性に落ち着かずイライラとしたときは、昨日の記事は、とても面白いものに思えるのである。

だから、進撃の巨人で、ハンジ・ゾエさんが、「価値があるかどうかは我々が決める。みみっちい貴様の自尊心なんてどうでもいいから、話せ!」といったのは、重要なことを言っていて、これは何も他者に限る話ではなく、自らの思考・日記においても同様だ。

今、この時点、なんとつまらない、非論理的で感情的な、面白くないことだ、大したことないことだ、と思っていたとしても、その「気づき」は、未来の、もしくはまだそれに気づいていない誰かのためになる可能性を秘めているのである。

ある大学生ぐらいの会話

食事をしているときに、隣に座ったカップルと、別の女の子グループの会話が聞こえてきた。
席を立ったタイミングも別だし、カップルとグループの関連は全くないのだけれども、奇しくも、話している内容は同じだった。

知り合いのことであった。

・共通の友人・知人の誰誰が、実は隠れアニメオタクであって、気持ち悪いよねー、うんうん。あー、○○も、意外と結構そういう知識あるみたいだよー、えーそーなんだ。

・あいつさぁ、ほんと、趣味がおっさんなんだよな。そうなんだー。結構突然わけわかんないこと言ったりして、気味悪いよねーうんうん。そういや▼▼はさ、メール返信めっちゃはやいんだよ。暇なんだなw


的な。(大いに脚色している)

なんだか、どうにも、そういう、人のうわさ話ってのが好きじゃない。
きくのも、自分でもするのも好きじゃない。じゃあ聞くな! というが、大声でお話しを楽しんでおられて、きこえてしまうのだ、本当にイライラするときはイヤホンだが、しかし、何故そういった、人のうわさ話的なのが好きじゃない、不愉快に思うのかをちょっと考えてみようと思った。

まぁすぐ思いつくのは、自分がされたらイヤだなぁと思うからだ。
笑顔で接してくれていた人が、実は裏で、「あいつキモいんだよなー」とか言ってたら、すげーショックだろう。
それよりだったら、初めから冷たくされていたほうがましだと思うのは、まぁ特段ひねくれた心性でもないと思う。ところが、大体みんなそんな感情を抱くはずなのに、何故か、多くの人は、うわさ話をやめない。それがやっぱり、「楽しい」からなのだろう。仮想敵みたいな。共通の敵を(敵ってほど大げさじゃないのだろうが)つくることによって盛り上がる心性なのだろう。

これ、大学生だけじゃなく、例えば仕事場で、嫌な上司の陰口とか、使えない同僚に対しての嫌味とか、結構盛り上がるものだ。かくいう僕も、その場のノリで合わせてのっかってしまうこともあるため、何ともいえない。

故に、ここでそういった、大学生とか、社会人たちの批判をしたいというわけではない。
ただ、不愉快な気持ちになることは間違いないという確認をしておいただけだ。

それにこれは非常に難しい問題をはらんでいる。

何か成果物に対して、「つかえないなー」「うわ、これ低レベルだな」って思ったとしよう。
その時、それを直接、例えば部下とかに、「これゴミ屑だよ。すぐやり直して」って直接的に伝えることの無意味さもまた、明らかであろう。改善を要求するのであれば、それをうまく伝える「表現」が必要になる。

「この点はよくできているけれど、この部分をもっとこうしてくれな」
と、褒めつつ改善策を提示するってのは、嘘偽りをいっているわけではない。ただ、上手なコミュニケーションを図っているだけである。

一方で。

そのために、心に生じた、「うわ、これダメだな」って思いを、ぐっと、押し殺しているのである。

その思いを、気の置けない仲間同士になったときには、本音で、「あいつ毎回同じ失敗してくるんだよー。まいっちゃうよな」って、バカにしあうのである。


ということは、提灯ぶらさがった居酒屋で、サラリーマンが愚痴を言い合うってのは、「意識高い系」に批判されがちな事象ではありながら、実は重要な心のバランスをとるための手段なのかもしれない、ってわけだ。
(まぁ、そのこと自体に、僕はカタルシスが得られにくくて、逆に不愉快な気持ちが生じがちだってことが問題なんだけどな!)

ある、精神科医のブログにおいて、電車の中で死んだ目をしたサラリーマンは、死にかけてるんじゃない、エネルギーを充填してるんだ! と書いていて、ああ、やっぱりこの方は面白いな(お医者様に向かって何て上から目線だ!)と思ったものである。

日常の描写の意味

と、こんな風に、日々の経験を、自分の思ったことをベースに解釈し表現するってのが、日記だと思うけれども、正直、こんなこと書いてる場合じゃないんだけどな、って思いもある。
こういう、「高尚な視点」的な内容については、それこそ、お医者様とか、弁護士様とか政治家とか、芸能人とか、価値ある高尚な職業や仕事をしている方たちが、面白おかしく書いていればそれでいいのではと思う。

一介の凡人の僕が、こんな「ちょっと人と変わった視点で物事みれてますよ」的な、自慢にならない自慢風に感じられること書いて、何になるってんだ。

くだらない、面白くない、ばかばかしい。

……という判断を、今の俺がすべきじゃないってのが、ハンジさんの教えだ。明日読めばちょっと面白いかもしれない。明日がダメでも、10年後は違うかもしれない。そんなもんでいいと思う。

先日掘り起こした10年前ぐらいのログたちは、当時、別に誰に見せるつもりでもなく、ただ、書きたいから書いていた。価値がどうこうなんて、思ってもいなかった、と思う。価値があるか、ないか、そんなこと考えるだけ、無駄だ。

マイナス思考的な言葉や事象

よしではもう一つ、ニュースなどから感じたことを書いておこう。

100時間残業自殺問題と関連して、朝5時から夜23時まで、休日は一切ない職人を育てるをキーワードにした企業が、物議をかもしていた。完全に労働基準法違反だけれども、「自主的に」頑張っているからよいのだそうな、よくわからんが。

一方で、17時退社を、会社の厚意で許可した会社が業績をぐんぐん伸ばしているというニュース。ノルマや、業績評価や、時短のための取り組みが徹底していて、17時になると職場には誰も残らないという。一方で、業績もあがっていると。


なんだか、こういったニュースとか、本とか、記事とか、見たり読んだりしていると、何だかイライラしてくるんだよな。
この理由がよく分からずに、大学生の会話でイライラすることを対比させて、何か分かるかなって思ったのだが、うーむ、よく分からない。

なんだ、まぁ、それはそうと、こうやって、考える時間を作れているっていうこと、そのこと自体が、とてつもなく幸せだと、恵まれていると、それは思う。
ジャングルの中でゲリラやってるうちはこんなこと考えてられない。
コンビニバイトしてるときに強盗にあって、ナイフ突き付けられてるときに、「我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへ行くのか」なんて考えてられない。

ああ、考えよう、と思っていた時に、お酒なんて飲まなきゃよかった……眠くなってきた。
仕方がなかったんだ、イライラしてたんだ……。(誰へのいいわけか)

計画を立てる

本当は、これからの計画を立てようと思ったんだ。それも、結構長期的な。
2008年に立てた、5年目標は、直接的、間接的、形をかえて、増減はありつつ、達成された。

この事実に、僕は、イメージしたことは実現する、と、「ザ・シークレット」の引き寄せの法則的なものは、「信じている」。

散々いつも、スピリチュアル的なものをバカにして、つまらないといって、胡散臭いといっているのに、矛盾のように思えるが、それも単に「表現」問題であって、PDCAサイクルとかビジネス用語にしちまえば、つまりそういうことでしかない。

どんな言葉が、その人に「ビビッと」くるかってのは、一様ではない。イデオロギーの時代においては、思想誘導は簡単だったのかもしれないが、価値が多様化したときに、その人に対して訴えるための手段は、一様ではなくなったのだ。

だから、職人になる! として、朝5時から23時まで働かせようが、それは表現的に、「自己実現」とかいってみたら正当化され……るか、法律違反かは別の問題であるが、とはいえ、それでも、その会社に意義を感じる人、「ビビッと」くる人がいるから、何やかんや今の今までなくならず、上手く回っているのである。表面的な、単純な批判が無意味なのは、言うまでもない(クレーマーにも五分の魂だ)。

そして、例えば、引き寄せの法則だか、チャネリングだかよう分からんが、こういったことを、「論理的に」説明しようとしても無駄であり、批判も絶えることがなくなるのである。例えば、「思ったことは実現する」「ことだま」的な表現、これはじゃあ、ナチスやポル・ポトの虐殺など歴史的悲劇を生み出したのも、「望まれたこと」「意味があること」なんていえるのか、とか。

論理なんて、クソの役にも立たないことがある。ヴィトゲンシュタインさんや、ゴウタマさんだって、理屈を追求することを目的としたのではないだろう。

という、僕の上の表現は、反転して、論理が意味がない、というのでも、全くないということの表現なのだけれども、果たして、この自分解説がなくして、明日の自分が読み取れるかどうか、これまた全く不明である。

そして、計画を立てる、という目標・目的からどんどん離れていくのは、これは何だ。
論文などでは、ここで、ここから上の行を、すべてデリート、となる。それでまた、振出しに戻って頭を悩ませることになるのだけれども、この、何の役にも、何の主張にもなっていないような、そんな無駄文章があっても、いいじゃないか、と、そんな風に思いながら、いやでもこれやっぱりいらないよな、って思いで苦しんでいたところに、「あ、たまに読んで面白かったッスよ」とかコメントくださった方がいたりして、これはホント嬉しい。
この、嬉しいとか楽しいって感情、これを大事にしていかなきゃ、これからどんな計画とか行動とか思考したって、いずれ失敗に終わるってのは、何となく、それこそ根拠も論理もないけど、何となく分かってきた。

努力信仰の崩壊

頑張れば幸せになれる。

もう、この格言は一切信じていない。

頑張る、努力する、苦しむ、痛めつける、悪いことがあったらそのうちいいことがある……

ルサンチマン、怨恨、法界悋気。

「今しっかり勉強したら立派な大人になれますよ」

「なにか楽しいことないかな~」

「そのうち幸せになるさ」

「今頑張らないでいつ頑張るんだ」

うるせえ。

「あるべき姿」
「目指すべき理想」

やかましい。


他者への批判。陰口。嫉妬。

本当に、いろんな言葉に、人に、ずっと翻弄されてきた気がする。
いい加減、自分をしっかりもって、自分の思うがままに生きていこうじゃないか。

こうして、ようやく遠藤は自分の生きる道を歩み始めるのであった――。

まだまだ続く

なんて、簡単にハッピーエンドになるなら、今日の今までこれほど大量の駄文を要していない。

そもそも、「自分」ってなんだという話しだ。

むしろ昨今の教育においては、個人が重要視されている。一人一人の感じ方や考え方を大切にしましょう、的な奴だ。その言葉は、確かに聞こえはいい。どこかのヨットスクールとか職人要請会社的な画一的で絶対服従的な指導なんて、前近代的で唾棄すべきように思われる。

ところが、人は一方でタブララサ(白紙)なんじゃないか、と。真っ白で、いろんな環境で、いろんな人の中で、人格が形成されていくものなんじゃないかと。

自分とは、他人を映す鏡みたいなものなんじゃないかと。

心は、他者の気持ちを理解するため、危険を回避する行動をとるための防衛機能として発達したものなんじゃないかと。


であったときに、「自分をしっかりもって!」と、「自分の生き方」ってものを求め、見つめて、探していく方策に、何ら意味があることなのかと。


考えれば考えるほどに、自分という欲望が薄くなっていくのを感じる。

「生きてる意味ってなんだろう、ずっと考えてきました。でも、最近は、死んじゃった方が得なんじゃないかって思うようにもなりました」

と、表現されていた方がいらっしゃった。
僕はその表現における「得」って言葉が、多分、僕の頭の中だけでは出てこない表現だったから、とても感銘をうけたわけだけれども、とにかくその感覚、別に今すぐ死にたいとか、難病に冒されて何もしなくても身体が痛いとか(そういえばインフルエンザになって40℃近い熱に何日もうなされた)ではないが、何となく「何で生きてんだろう」という思いが、いよいよもって切実になってきている、気がする。

すぐさま書いておかなければならないのは、きっと、今暴漢に襲われて、命の危険にさらされたら、きっと僕は、無様にも情けなくにも、「死にたくない!」と叫ぶのであろうが。


で、反転して降ってくる思考として、いわゆるこうした「ごちゃごちゃした」思考というのは、結局「死からの逃避」なのではないかと。これは、ジョルジュさんの本を読んで思考強度が増した部分である。

死にたくないという思いと、身体の健康度が強い人は、脳が、発狂しないように、認知の度合いを下げて心の保全をはかるのではないだろうか、というのは完全に今思いついた暴論であるが、取りあえずメモしておく。


ああ、でも、本当に、真面目に、「計画を立てる」ために書き始めたはずなのに、その意味では完全に失敗した。しかし、眠気が高まりすぎて、もう、今日は終わり……。

(そしてまた駄文が積み上げられる)


追記(些末な修正)

どうも、「物議を醸す(かもす)」が正しいのだけれども、勢いで書いていると、「物議をかます」って言ってしまったり書いてしまったりする(議論を呼び起こす・引き起こすという意味よりも、「喧嘩を吹っ掛ける」的なニュアンスが自分の中で強いせいか)。ちょっと恥ずかしいが、あまり言葉の意味にとらわれていると書こうと思ったことが吹っ飛んでしまうことがあるから、勢いは時おり大事。
一方で、正確に言葉を使わないと、自分の思考もまた正確に表現できない。それは、他者に読んで理解してもらうという意味もありながら、結局、言葉は「概念記憶」の集合体であり、正確な意味を追ったときに生じる「違和感」を大事にすべきとも思いメモ。

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帰りの電車にて
2016/10/06 22:00 | Comments(0) | イライラ対処
本当は、本を読んだり、勉強したり、創作的なことをしたりと、有意義に使う方がいい気がする。

しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。

前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。

拍手とコメント


前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。

と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。

前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。

そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。


脳の使い方



無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。

仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。


だが、そもそも、効率的な時間とは何か。

小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。

ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。


無駄かそうでないか



ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。

くだらない。

もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。


と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。


そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。


神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。

これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。



努力の構造



上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。

そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。

大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。

そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。

これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。

ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。

しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。

比較思考



ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。

これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。

行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。

ストイック



よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。

遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!



であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。

ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。



……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。


禁欲的生き方



禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。

食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。

名声慾がいけないのか。

マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。



様々な欲望。

その欲望を次々に断っていくこと。

それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!



ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。

前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。

先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。



本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。

技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。


それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。

社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。

高度な社会は魔術化する



高度で、複雑な社会に生きている。

例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。

僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。


法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。

これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。

だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。

これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。


分からない地獄



パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。

先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。

なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。

ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。

そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。





生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。

ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。

しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。

確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。


確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。


だが、




もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、


つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。

死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ


とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?


そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。


だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから


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