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帰りの電車にて
2016/10/06 22:00 | Comments(0) | イライラ対処
本当は、本を読んだり、勉強したり、創作的なことをしたりと、有意義に使う方がいい気がする。

しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。

前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。

拍手とコメント


前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。

と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。

前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。

そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。


脳の使い方



無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。

仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。


だが、そもそも、効率的な時間とは何か。

小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。

ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。


無駄かそうでないか



ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。

くだらない。

もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。


と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。


そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。


神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。

これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。



努力の構造



上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。

そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。

大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。

そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。

これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。

ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。

しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。

比較思考



ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。

これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。

行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。

ストイック



よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。

遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!



であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。

ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。



……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。


禁欲的生き方



禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。

食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。

名声慾がいけないのか。

マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。



様々な欲望。

その欲望を次々に断っていくこと。

それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!



ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。

前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。

先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。



本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。

技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。


それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。

社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。

高度な社会は魔術化する



高度で、複雑な社会に生きている。

例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。

僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。


法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。

これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。

だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。

これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。


分からない地獄



パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。

先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。

なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。

ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。

そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。





生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。

ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。

しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。

確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。


確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。


だが、




もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、


つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。

死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ


とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?


そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。


だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから


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