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一流と二流の考え方
2016/09/29 08:01 | Comments(0) | イライラ対処
一流の人はボロいケータイや車や時計を使う。
二流の人は、大して金もないのに最新のスマートホンにして高級車にのってロレックスの高い時計を使い、みせびらかす。

一流の人が何故、ボロいのを使うかというと、不要な資源にリソースはさかないという自分の哲学、価値観ができあがっているからだ。


問題点



上のあるニュースからの僕の作文において、まず、一流と二流の考え方の、分類を行う点に問題がある。
あの人は一流、あの人は二流と、いっしょくたに分類できるものだろうか。

ちなみに、僕は、もともと、流行には流されない。財布や時計など、安いものをかなり十数年も使っていた。

じゃぁ、僕が一流かとそんなこと思うはずもないし、次の問題は、持ち物で一流とそうでないかが分けられるかということだ。


僕はテレビをもってないが、友人宅などでみた芸能人の格付けチェックでは、何やら一流なものや食べ物道具芸術などを、当てていく。
だから、例えばとっても車が好きな人で、自分なりの哲学で高級車に乗ってる場合立ってあるだろう。
 

次に、そもそも、批判の対象になっているミーハーな、人たちだが、その、他人の価値観に流されやすいというのは、本当に悪いことか。


他人に流されやすい人たち



こういった表現をしたとき、よい意味で描かれることは少ないだろう。

しかし、最近、本当にこれはダメなことなのか、と思っている。

というのは、僕がこれが逆にできないからだ。


生きる意味とかくだらないことを考えてしまうように、表層的な意味というものに価値を見いだせない。
もちろんすぐさま、表層的とか深層とか、その二項対立的な表現になることの弊害と無意味さは思うのだけど、それはおいておいて。


ミラーニューロンという、人を模倣する働きをする仕組みが人には備わっているという。その本はひどく悪文、たしか海外の翻訳だったが、読むに耐えないから多分もう売ったはずだったが、1000円はらって覚えたのは、そういった脳機能があるということだ。

だから、みんなと同じことしてたら何となく安心、と、こう表現すると、自分は違うぜ、と思う人が多いのだろうが、僕は本当にそれがよくわからないので、本気でそれに憧れるときがある。

いわゆる、凡人になれたらよかったと、思う。

すぐさま書いておくべきは、凡人の反対は賢人ではない。屑人間である場合がある。他の表現をすると、そして僕はきっと、凡人くずれ、である。
いつも書いている他の表現をすると、意味の呪いにとりつかれた、という状態。なお、この呪いは、一生とけないので、かかったらこれをどう取り扱うかを試みるしかない、というのが、このブログの、徹底して、という表現に決めた理由である。初め、2、三ヶ月前は、思考ブログとか抽象甚だしいタイトルだった。ちなみに、タイトルは重要である、とくに記憶力の乏しい自分のような凡人にとっては……

話が小見出しからずれている。そう、だから、周囲の人に合わせることができる人、そしてそのことが自らの欲求に合致する人は幸せだ。

サイコパス


サイコパスとは、知能的に問題ないが、反社会的な情動をもつ人たち。良心が欠如していると言われる。

ミラーニューロン、足りてないのか。ただ、彼ら彼女らは、決して笑顔をみせないとか、他者の感情がわからないのではなく、ただ、それを自分のものとしては感じられないというのだ。

それで、3歳ぐらいの時、パブロフの犬のような実験で、不快な騒音を流したときの、汗の量で、サイコパスになるかどうかが分かるという実験があるそうだ。

先日、サイコパスというアニメーションがあるようだ、として、そこで犯罪係数みたいなので潜在犯という罪もある世界が描かれていた。

あれ、そもそも、サイコパスって、ふつうのひととまぎれてるから、何で大人になって経年経過の実験ができるの、と思った。ただ、彼ら彼女らは、結構、自分のやったことをききとして語りたがるそうだ。

よけツイッターとかに炎上するツイートする若者たちはサイコパスなのか! かっこわらい。


表現



なんか、いかにも、自分はサイコパスじゃないですよー的な表現をしてきたが、サイコパスの人は、知能は高いから、こうした表現だってお手のものだろう。

まぁ、長々と書いてきてる他の記事などもみれば、愚かしいほど感情に起伏があり愚痴ったらしいことからして、それは否定されるのだけど、ただ、この問題は、神の証明、ラプラスの悪魔、とかいうのだっけ、とにかく、永遠に解決しない種類の問題だ。

クオリア、哲学的ゾンビ、という考え方もある。人間中心主義とも。



疑えばきりがない。
であれば、人を信じることしかできない、と、奇しくも、僕に影響を与えた人、二人ぐらい言ってた気がする。よく覚えてない、誰だったかも確証がない、実は自分かもしれない。

ただ、これは創造の言葉ではなく、徐々に本当にそう思ってきているが、信じるしかない、というのは、その通りかもしれない、と。

ただ、この、信じるという表現は、かなり複雑な表現なので、もっとしっかり書いていく必要があるだろう。


今回はともかく、一流とか二流とか、頭がよい悪いとか、幸せを呼ぶ生活とか不幸になる思考とか、いわゆる商業的な、不安をあおるようなキャッチフレーズ、アイキャッチ、それらこそ意味の無い、無価値な、自分の哲学の無い凡人的なものであるとのメモ。

きっと、最初の一流二流のニュースを書いた人自身もそれを分かっていて、敢えてそんな扇情的な内容を書いたのだろう。意地の悪い人だ。だけど、そういう人が往々にして成功するし、モテるのだと思う。
正直な、こんな記事に需要はないのだ。
























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