終末へのハーレム、面白そうだな。読んでないけど。ただのエロ漫画かもしれないが、コールドsleepで目覚めたら、男性が全部死滅していたとか、設定に(笑)となった。
月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。
そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。
筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評
など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。
まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。
問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。
自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。
唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。
まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。
とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。
決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。
1月には、12月には、再度目標の設定を行う。
さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。
それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。
高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。
ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。
ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。
努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。
ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。
筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。
今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。
目的を設定するということだ。
人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。
例えば、自分の本を出版したいとか。
作曲した音楽を発表したいとか。
そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?
そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?
と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。
本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。
じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。
そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。
目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。
身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。
俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。
それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。
矛盾、矛盾。
努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。
ストイック、厳格さ、理性を重視。
うーん、表現が足りない。
今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。
そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。
今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。
さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。
今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。
ルーチンの構築
月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。
そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。
筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評
など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。
まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。
問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。
自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。
唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。
まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。
とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。
目標の設定
決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。
1月には、12月には、再度目標の設定を行う。
さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。
それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。
焦燥感
高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。
ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。
ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。
努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。
ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。
筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。
今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。
目的を設定するということだ。
人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。
新しい生活をこれからのために
例えば、自分の本を出版したいとか。
作曲した音楽を発表したいとか。
そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?
そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?
と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。
本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。
じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。
そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。
意志の問題
目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。
身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。
俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。
それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。
矛盾、矛盾。
努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。
ストイック、厳格さ、理性を重視。
うーん、表現が足りない。
今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。
そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。
今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。
さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。
今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。
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