忍者ブログ
   
人生の計画を立てようとして失敗
2016/10/12 22:03 | Comments(0) | イライラ対処
「時間切れ、仕方がない、今日の夜にまた続きを考えるか」
と書き残し、24時前の帰宅となり、風呂入って寝たのが昨日のことか。この頃感じるのは、時間感覚の早さ(速さ)だ。仕事をするようになって、早いなぁと感じるようになった、とどこか書き残したことがあったけれども、その当時よりも、もっともっと早い気がする。

意外と、55歳、80歳、あっという間なのかな。

しかし面白いのは、「気分」による文章の盛り上がり盛り下がりである。
少し生活が軌道に乗って(と思えて)いるときは、昨日の記事は、何とも醜くつまらないものに思えた。一方で、今日とか、何とも無性に落ち着かずイライラとしたときは、昨日の記事は、とても面白いものに思えるのである。

だから、進撃の巨人で、ハンジ・ゾエさんが、「価値があるかどうかは我々が決める。みみっちい貴様の自尊心なんてどうでもいいから、話せ!」といったのは、重要なことを言っていて、これは何も他者に限る話ではなく、自らの思考・日記においても同様だ。

今、この時点、なんとつまらない、非論理的で感情的な、面白くないことだ、大したことないことだ、と思っていたとしても、その「気づき」は、未来の、もしくはまだそれに気づいていない誰かのためになる可能性を秘めているのである。

ある大学生ぐらいの会話

食事をしているときに、隣に座ったカップルと、別の女の子グループの会話が聞こえてきた。
席を立ったタイミングも別だし、カップルとグループの関連は全くないのだけれども、奇しくも、話している内容は同じだった。

知り合いのことであった。

・共通の友人・知人の誰誰が、実は隠れアニメオタクであって、気持ち悪いよねー、うんうん。あー、○○も、意外と結構そういう知識あるみたいだよー、えーそーなんだ。

・あいつさぁ、ほんと、趣味がおっさんなんだよな。そうなんだー。結構突然わけわかんないこと言ったりして、気味悪いよねーうんうん。そういや▼▼はさ、メール返信めっちゃはやいんだよ。暇なんだなw


的な。(大いに脚色している)

なんだか、どうにも、そういう、人のうわさ話ってのが好きじゃない。
きくのも、自分でもするのも好きじゃない。じゃあ聞くな! というが、大声でお話しを楽しんでおられて、きこえてしまうのだ、本当にイライラするときはイヤホンだが、しかし、何故そういった、人のうわさ話的なのが好きじゃない、不愉快に思うのかをちょっと考えてみようと思った。

まぁすぐ思いつくのは、自分がされたらイヤだなぁと思うからだ。
笑顔で接してくれていた人が、実は裏で、「あいつキモいんだよなー」とか言ってたら、すげーショックだろう。
それよりだったら、初めから冷たくされていたほうがましだと思うのは、まぁ特段ひねくれた心性でもないと思う。ところが、大体みんなそんな感情を抱くはずなのに、何故か、多くの人は、うわさ話をやめない。それがやっぱり、「楽しい」からなのだろう。仮想敵みたいな。共通の敵を(敵ってほど大げさじゃないのだろうが)つくることによって盛り上がる心性なのだろう。

これ、大学生だけじゃなく、例えば仕事場で、嫌な上司の陰口とか、使えない同僚に対しての嫌味とか、結構盛り上がるものだ。かくいう僕も、その場のノリで合わせてのっかってしまうこともあるため、何ともいえない。

故に、ここでそういった、大学生とか、社会人たちの批判をしたいというわけではない。
ただ、不愉快な気持ちになることは間違いないという確認をしておいただけだ。

それにこれは非常に難しい問題をはらんでいる。

何か成果物に対して、「つかえないなー」「うわ、これ低レベルだな」って思ったとしよう。
その時、それを直接、例えば部下とかに、「これゴミ屑だよ。すぐやり直して」って直接的に伝えることの無意味さもまた、明らかであろう。改善を要求するのであれば、それをうまく伝える「表現」が必要になる。

「この点はよくできているけれど、この部分をもっとこうしてくれな」
と、褒めつつ改善策を提示するってのは、嘘偽りをいっているわけではない。ただ、上手なコミュニケーションを図っているだけである。

一方で。

そのために、心に生じた、「うわ、これダメだな」って思いを、ぐっと、押し殺しているのである。

その思いを、気の置けない仲間同士になったときには、本音で、「あいつ毎回同じ失敗してくるんだよー。まいっちゃうよな」って、バカにしあうのである。


ということは、提灯ぶらさがった居酒屋で、サラリーマンが愚痴を言い合うってのは、「意識高い系」に批判されがちな事象ではありながら、実は重要な心のバランスをとるための手段なのかもしれない、ってわけだ。
(まぁ、そのこと自体に、僕はカタルシスが得られにくくて、逆に不愉快な気持ちが生じがちだってことが問題なんだけどな!)

ある、精神科医のブログにおいて、電車の中で死んだ目をしたサラリーマンは、死にかけてるんじゃない、エネルギーを充填してるんだ! と書いていて、ああ、やっぱりこの方は面白いな(お医者様に向かって何て上から目線だ!)と思ったものである。

日常の描写の意味

と、こんな風に、日々の経験を、自分の思ったことをベースに解釈し表現するってのが、日記だと思うけれども、正直、こんなこと書いてる場合じゃないんだけどな、って思いもある。
こういう、「高尚な視点」的な内容については、それこそ、お医者様とか、弁護士様とか政治家とか、芸能人とか、価値ある高尚な職業や仕事をしている方たちが、面白おかしく書いていればそれでいいのではと思う。

一介の凡人の僕が、こんな「ちょっと人と変わった視点で物事みれてますよ」的な、自慢にならない自慢風に感じられること書いて、何になるってんだ。

くだらない、面白くない、ばかばかしい。

……という判断を、今の俺がすべきじゃないってのが、ハンジさんの教えだ。明日読めばちょっと面白いかもしれない。明日がダメでも、10年後は違うかもしれない。そんなもんでいいと思う。

先日掘り起こした10年前ぐらいのログたちは、当時、別に誰に見せるつもりでもなく、ただ、書きたいから書いていた。価値がどうこうなんて、思ってもいなかった、と思う。価値があるか、ないか、そんなこと考えるだけ、無駄だ。

マイナス思考的な言葉や事象

よしではもう一つ、ニュースなどから感じたことを書いておこう。

100時間残業自殺問題と関連して、朝5時から夜23時まで、休日は一切ない職人を育てるをキーワードにした企業が、物議をかもしていた。完全に労働基準法違反だけれども、「自主的に」頑張っているからよいのだそうな、よくわからんが。

一方で、17時退社を、会社の厚意で許可した会社が業績をぐんぐん伸ばしているというニュース。ノルマや、業績評価や、時短のための取り組みが徹底していて、17時になると職場には誰も残らないという。一方で、業績もあがっていると。


なんだか、こういったニュースとか、本とか、記事とか、見たり読んだりしていると、何だかイライラしてくるんだよな。
この理由がよく分からずに、大学生の会話でイライラすることを対比させて、何か分かるかなって思ったのだが、うーむ、よく分からない。

なんだ、まぁ、それはそうと、こうやって、考える時間を作れているっていうこと、そのこと自体が、とてつもなく幸せだと、恵まれていると、それは思う。
ジャングルの中でゲリラやってるうちはこんなこと考えてられない。
コンビニバイトしてるときに強盗にあって、ナイフ突き付けられてるときに、「我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへ行くのか」なんて考えてられない。

ああ、考えよう、と思っていた時に、お酒なんて飲まなきゃよかった……眠くなってきた。
仕方がなかったんだ、イライラしてたんだ……。(誰へのいいわけか)

計画を立てる

本当は、これからの計画を立てようと思ったんだ。それも、結構長期的な。
2008年に立てた、5年目標は、直接的、間接的、形をかえて、増減はありつつ、達成された。

この事実に、僕は、イメージしたことは実現する、と、「ザ・シークレット」の引き寄せの法則的なものは、「信じている」。

散々いつも、スピリチュアル的なものをバカにして、つまらないといって、胡散臭いといっているのに、矛盾のように思えるが、それも単に「表現」問題であって、PDCAサイクルとかビジネス用語にしちまえば、つまりそういうことでしかない。

どんな言葉が、その人に「ビビッと」くるかってのは、一様ではない。イデオロギーの時代においては、思想誘導は簡単だったのかもしれないが、価値が多様化したときに、その人に対して訴えるための手段は、一様ではなくなったのだ。

だから、職人になる! として、朝5時から23時まで働かせようが、それは表現的に、「自己実現」とかいってみたら正当化され……るか、法律違反かは別の問題であるが、とはいえ、それでも、その会社に意義を感じる人、「ビビッと」くる人がいるから、何やかんや今の今までなくならず、上手く回っているのである。表面的な、単純な批判が無意味なのは、言うまでもない(クレーマーにも五分の魂だ)。

そして、例えば、引き寄せの法則だか、チャネリングだかよう分からんが、こういったことを、「論理的に」説明しようとしても無駄であり、批判も絶えることがなくなるのである。例えば、「思ったことは実現する」「ことだま」的な表現、これはじゃあ、ナチスやポル・ポトの虐殺など歴史的悲劇を生み出したのも、「望まれたこと」「意味があること」なんていえるのか、とか。

論理なんて、クソの役にも立たないことがある。ヴィトゲンシュタインさんや、ゴウタマさんだって、理屈を追求することを目的としたのではないだろう。

という、僕の上の表現は、反転して、論理が意味がない、というのでも、全くないということの表現なのだけれども、果たして、この自分解説がなくして、明日の自分が読み取れるかどうか、これまた全く不明である。

そして、計画を立てる、という目標・目的からどんどん離れていくのは、これは何だ。
論文などでは、ここで、ここから上の行を、すべてデリート、となる。それでまた、振出しに戻って頭を悩ませることになるのだけれども、この、何の役にも、何の主張にもなっていないような、そんな無駄文章があっても、いいじゃないか、と、そんな風に思いながら、いやでもこれやっぱりいらないよな、って思いで苦しんでいたところに、「あ、たまに読んで面白かったッスよ」とかコメントくださった方がいたりして、これはホント嬉しい。
この、嬉しいとか楽しいって感情、これを大事にしていかなきゃ、これからどんな計画とか行動とか思考したって、いずれ失敗に終わるってのは、何となく、それこそ根拠も論理もないけど、何となく分かってきた。

努力信仰の崩壊

頑張れば幸せになれる。

もう、この格言は一切信じていない。

頑張る、努力する、苦しむ、痛めつける、悪いことがあったらそのうちいいことがある……

ルサンチマン、怨恨、法界悋気。

「今しっかり勉強したら立派な大人になれますよ」

「なにか楽しいことないかな~」

「そのうち幸せになるさ」

「今頑張らないでいつ頑張るんだ」

うるせえ。

「あるべき姿」
「目指すべき理想」

やかましい。


他者への批判。陰口。嫉妬。

本当に、いろんな言葉に、人に、ずっと翻弄されてきた気がする。
いい加減、自分をしっかりもって、自分の思うがままに生きていこうじゃないか。

こうして、ようやく遠藤は自分の生きる道を歩み始めるのであった――。

まだまだ続く

なんて、簡単にハッピーエンドになるなら、今日の今までこれほど大量の駄文を要していない。

そもそも、「自分」ってなんだという話しだ。

むしろ昨今の教育においては、個人が重要視されている。一人一人の感じ方や考え方を大切にしましょう、的な奴だ。その言葉は、確かに聞こえはいい。どこかのヨットスクールとか職人要請会社的な画一的で絶対服従的な指導なんて、前近代的で唾棄すべきように思われる。

ところが、人は一方でタブララサ(白紙)なんじゃないか、と。真っ白で、いろんな環境で、いろんな人の中で、人格が形成されていくものなんじゃないかと。

自分とは、他人を映す鏡みたいなものなんじゃないかと。

心は、他者の気持ちを理解するため、危険を回避する行動をとるための防衛機能として発達したものなんじゃないかと。


であったときに、「自分をしっかりもって!」と、「自分の生き方」ってものを求め、見つめて、探していく方策に、何ら意味があることなのかと。


考えれば考えるほどに、自分という欲望が薄くなっていくのを感じる。

「生きてる意味ってなんだろう、ずっと考えてきました。でも、最近は、死んじゃった方が得なんじゃないかって思うようにもなりました」

と、表現されていた方がいらっしゃった。
僕はその表現における「得」って言葉が、多分、僕の頭の中だけでは出てこない表現だったから、とても感銘をうけたわけだけれども、とにかくその感覚、別に今すぐ死にたいとか、難病に冒されて何もしなくても身体が痛いとか(そういえばインフルエンザになって40℃近い熱に何日もうなされた)ではないが、何となく「何で生きてんだろう」という思いが、いよいよもって切実になってきている、気がする。

すぐさま書いておかなければならないのは、きっと、今暴漢に襲われて、命の危険にさらされたら、きっと僕は、無様にも情けなくにも、「死にたくない!」と叫ぶのであろうが。


で、反転して降ってくる思考として、いわゆるこうした「ごちゃごちゃした」思考というのは、結局「死からの逃避」なのではないかと。これは、ジョルジュさんの本を読んで思考強度が増した部分である。

死にたくないという思いと、身体の健康度が強い人は、脳が、発狂しないように、認知の度合いを下げて心の保全をはかるのではないだろうか、というのは完全に今思いついた暴論であるが、取りあえずメモしておく。


ああ、でも、本当に、真面目に、「計画を立てる」ために書き始めたはずなのに、その意味では完全に失敗した。しかし、眠気が高まりすぎて、もう、今日は終わり……。

(そしてまた駄文が積み上げられる)


追記(些末な修正)

どうも、「物議を醸す(かもす)」が正しいのだけれども、勢いで書いていると、「物議をかます」って言ってしまったり書いてしまったりする(議論を呼び起こす・引き起こすという意味よりも、「喧嘩を吹っ掛ける」的なニュアンスが自分の中で強いせいか)。ちょっと恥ずかしいが、あまり言葉の意味にとらわれていると書こうと思ったことが吹っ飛んでしまうことがあるから、勢いは時おり大事。
一方で、正確に言葉を使わないと、自分の思考もまた正確に表現できない。それは、他者に読んで理解してもらうという意味もありながら、結局、言葉は「概念記憶」の集合体であり、正確な意味を追ったときに生じる「違和感」を大事にすべきとも思いメモ。

拍手[1回]

PR

コメント

コメントを投稿する






Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字 (絵文字)



<<虚ろな瞳を見開き床から起きた | HOME | 目標ではなく目的を>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング