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ダメブログ界
2016/10/26 23:46 | Comments(0) | イライラ対処
あー、もう23時か。今日も比較的早く家に着いたはずだけれども、あっという間だな。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。

最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。

今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。

一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。

その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。

やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。

キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。

でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。


そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。

センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。

極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。


おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。

ダメブログ界

ダメブログ界とは、その名の通り、自己卑下とか、何かいわゆる底辺的な思考や生活を送っている人たちの、みじめな生き様をさらすブログの総称、そしてそれらの集まりのことを指す。

俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。

ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。

それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。

恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。

で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。


何だか時間ほんと早いなぁ……。

とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。



いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。

もう2016年終わってしまうよ。

マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。

これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?

いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?

自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?

おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。

もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。



うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。

いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。







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日記は過去との対話のようで
2016/10/24 22:00 | Comments(0) | イライラ対処
気付いたら、今週の土日は泊まりの旅行だ。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。

前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。

では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。


いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。

さて困った。



例外規定



気合いだ!

として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、


ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。


勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。

しかし、

あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。

例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。

このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。

先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。





こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。

様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。

正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。


理想自己と現実自己の一致?

笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?

アホか。

合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。

まてまて



どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。



よし、
また、極端な話をしよう。

僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?


だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?

誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。

賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。

で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。

いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。


ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。

世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。




そして夜に



朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。

ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。


これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。

何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。


というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。

アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。

例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。


え、恋の話と何が関係するのか?

いや、そこは多分まったく関係ない。

とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。

時間経過が与えるもの


言葉が足りない。表現が足りない。

いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。

この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。

解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。



というのも、不思議なことではない。

信頼とは、相手の動機を信じることである。

信用とは、相手の行動を信じることである。

しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。



自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。

生存方策において、何ら疑問をもつものではない。


しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。


朝の自分といまの自分



朝の自分は、死んだ。

もう二度とよみがえらない。

人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。



もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。

筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。


ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。



どのタイミングで死ぬのか



ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?


寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……



むしろ、だ。

この瞬間も、死に続けているのかもしれない。

いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。



この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。


もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。


ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。


誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。


ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。

そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。


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徒然思ったことを(後身に伝えるということ)
2016/10/22 23:10 | Comments(0) | イライラ対処
ある10億円以上を稼ぐ野球選手のインタビュー動画を見てその中で、
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。

ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。

今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。

さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。

その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。

第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。

ダメだろうが何だろうが敵は

比較思考の無意味性。

昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。

そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。


というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。

いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。

いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。


表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。



とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。

僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。

上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。

本当に望んだこと

でも、思うに、

そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。

その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。

とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。

この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。

ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。

「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。

と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。

ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。


ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。

行動のための第六歩

そうだな、だから、取りあえず、就寝時間が大幅に狂って、起床時間がくるって、睡眠時間が狂ったとしても、友人たちとの会話は有意義であったし、あはは、昨日の記事で、行く前に何だか面倒だなぁ……という思いがあったにせよ、最終的には、言ってよかったなと、そう思ったということは書いておこう。

とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。

けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。



例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。

うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。

上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。





でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)

そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。

そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。

うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。

そう考えると、いま、すげー幸せだ。

……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)

そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。


あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。

もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。


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オールナイト
2016/10/21 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
段々行く気がしなくなってきたが……、まぁ、行ってみたら案外楽しいことはよくあることだ。
今日は遊びで徹夜になりそう。ので、早速ルーチンの危機である。

と思って、今日は朝早く起きて音読筋トレストレッチを実行した。

故に実質家に帰る明日がまた勝負だなぁ……。



そもそも、飲み会とか、美味しいものが出てこない居酒屋とか、行く気がしない。
はっきりいって、家で自分でカクテル作ってた方が飲み放題で格安だし。

そんなこと考えるのがそもそも、リア充になれない原因だな。
しかしリア充とか、所謂使いやすいから使ってるが、先日の現実とフィクションの二項対立の話じゃないが、そのリアルというのが、どれ程重要だというのか。

いやもちろん、ここで、孤独が好きとか、一人が大事とか、そういう問題ではない。

ただ、格安チェーンの汚いまずくて薄い酒しか出さない居酒屋に行く意味が分からない。
汚い大衆居酒屋はまぁいい、美味しいもの出したりするから。

しかし、中途半端に綺麗感出して、高いわりに大して美味しくないもの出す店に行くなら、牛丼チェーンの方がましだ。


予定外でもないが、あまり気乗りしないプライベートな予定のため、少しとげとげしているのかな。

価値あるものとお金



場所代とか、希少性によってお金がかかるってのが好きじゃない。
本当にその物の価値があって高価ならいい。

で、またその価値、って基準だが、それは、自分にとって価値あるものかと。

それなりに美味しいラーメンを食べた。しかし、830円で、出された水のコップが臭かった。

同じ800円でもっと美味しいラーメン屋を知ってるとなると、納得しづらい価値だ。


バンジージャンプをしてみたいと目標で書いてたが、しかし、軽く1万円を超えることが分かった。
うーん、そこまでするか……だとしたら、ツーリングに行った方が楽しそうだ、とか。


こう、いろいろ経験していくと、新しいことに挑戦できなくなるのは、その挑戦した結果が芳しくないことが予想できてしまうことだ。
やってみなきゃ分からない、でも、大体分かってしまう。そして、当たってしまう。



時間の使い方



創作に当てるのも時間、ご飯を食べても、寝てても、ボーとしても、物語を摂取しても時間。
このブログを書いても時間、これを読んでも時間。


ゆえに、僕は、まず、このブログを読んでくれた人に対して感謝せねばならない。
一度しかない人生の貴重な時間を、この言葉群を読むことに充ててくれたのだ。ありがとうございます。

コメントできずにすみませんと言ってくれたかたもいた。いえいえ、とんでもない、目を通してくれてありがとうございます。まぁ、本音を言えば、読んだかどうかだけでも読みましたボタンを押して頂けると嬉しいのだが(笑)
これは、コメントコジキと言われるやつだ。まぁ仕方がない、このブログでは誠実でありたい。見栄や、妬み憎しみ何でもござれ。すべて含めて、アウトプットして、それが自分なのだ。



憎しみ



しかし、憎しみという感情が、実は一番よく分からない感情かも。
イライラすることはあっても、誰かを憎いと思ったこと、そうさな、部活やってて暴言というか苛めてきた二人ぐらい、そんぐらいは顔と名前が出てくるが、いま無理矢理思い出したぐらいだ。

あんまりこれまで、憎いってことがなかった。敵はたいてい、自分自身だった。


ううむ、もうすぐ時間切れか、どうしよう、こんな短くて投稿してよいものか。悩む。

でも、何も浮かばなくなってきた、ああ、何だか、やる気が起きなくなってきた。


まずいまずい、これ、明日早速日課がストップしそう。

なんとか、ここで踏ん張らねば。これまでの経験で、ここが第一関門というか、正念場っぽい。早いな、いきなり序盤の町で魔王軍四天王が現れたみたいな話だ。

筋トレストレッチ、音読、なんとか続ける。

そう、脳は、情報に感情のレッテルを貼った状態で記憶の中枢に情報をまわすから、否定的に入ると効率が悪い。

あんまり悲壮的になってもよくない、けれども、俺は案外、追い込んだ方がいい場合もある。
なんとか、精神力の残存を確かめ



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行動のための第五歩
2016/10/20 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
いったい、いつではでこのタイトルが続くんだ。
きっと、もう大丈夫、ここまできたら習慣になったと、そう実感できるまでだ。
でもそうしたら、たぶん、10年ぐらい続かないだろうか?
いや、エビングハウスの教えから、だんだん、思い出す感覚は広げていっていいだろう。

いまは、筋トレと音読を、と、毎日インプットせねばならない。
30日、3ヶ月ぐらいはいままでの実績から余裕だ。その前に潰れることは数知れないが、とりあえず、30日続いたら三ヶ月くらい大丈夫だ。

そして、三年間毎日続ける、というのは、残念ながら今までの人生一度もない。

もちろん、睡眠とか、歯磨きとか、それぐらいのことは続いていたかもしれない。ただ、歯磨きもキャンプとか友人宅で夜通しとか、クラブでオールナイトとか、そんなこともあった気がするから、厳密には毎日じゃないかもしれない。

そうすると、別に、一日二日守れなくても、さほど、習慣化において気にする必要はないのだろう。
ただ、三年間のうちの一日か、一週間のうちの一日かでは、重みが違う。


ゆえに、この、計画を立てることが最重要だが、実行時においても、この序盤が非常に重要なのだ。

そして、恐るべきは、例外事象。
必ず、ああ、今日は仕方がないな、だって○○があったんだから、というのが発生する。

そこをどう乗りきれるか。

いまが勝負だ、帰ってからが勝負だ。



昨日の記事に対する考察



昨日の、第四歩の記事……あれ、そうか、これ、昨日じゃなくて今日か。もう、相当前に書いたような感覚。


読み返して、やはり、全く、そのとき感じただろう、不快感や、夢の緊張感、そんなの、全然感じない。
こんなこと書いて大丈夫だろか……と心配していたはずだが、いま読むと、別に大したこと書いてない。


他者からの自分のみえかたと、自分自身でリアルタイムに思うかんじ方。

こんなに違うんだなぁと思った。記述のリアルタイム性が強ければ強いほど、この感覚のズレは大きいのだろう。 


一日後の今日だから、その文章を書いたとき、苛立っていた、不安だった、意味不明な快感があった、など、それを言葉として思い出せるが、感情はない。



家に着いてからが勝負



筋トレストレッチ音読、と。言い聞かせる。

そこに思考は挟まないそんなことやって何になるんだとか思わない。

話が変わったな。昨日の記事は、何となく、大事なことを書いてた気がするのだが、いまいちよく分からなくなった。

恋するのが大事?

そうさな、そういえば、高校のとき、最終兵器彼女って作品がすげー好きだったけど、いつぞやか、物凄く嫌悪し全部売り払った。

そのあたりに、なにかヒントがあるきがする。

つまり、恋ってなにか、ってことだ。
どこか、相思相愛、という言葉とか、好きってことだよハートとか、何らか表現はあるけど、でも。

相手のことを全部わかってあげて、先回りして相手の望みを叶えてあげるとか。
脳内占有率を常に高い状態を保つとか。


そういうもんじゃねえ、恋ってのは感覚なんだ! とか。



思うに、この点に殆ど触れてこなかったのは、考えても無駄だと思っていたのか。それとも、自分のルックス的な問題か。


ああ、いや、これも、敢えて記憶から消しているだけで、昔いろいろ書いていたかも。ブログになってからは全く書いてないから忘れてしまっているのか。



そして次の日



昨日は、結局うだうだ上まで書きつつ、帰って筋トレストレッチ音読をすることができた。
3日達成! おめでとう。今日もできたら、三日坊主ではなくなる。


さて、ある精神科医のブログを読んで、仏教観というか、この世は地獄だぜ、というのに一定の共感を覚えつつ、やはり人間の畜生ととして、執着にまみれ、苦しみながら生きている姿が嫌いになれないのだと。


その表現が、自信の体験を踏まえて非常にリアルな筆致になっていて、感動した。

かっこいいおとなだなっと。

僕も、何だか誰かを感動させるようなこと書きたいな。創作でも、エッセイでもどっちでもいいけど。


人類補完計画的な、万人にとってのユートピア、というのが、決して成功せず、様々な物語でも、最後は破れてしまうイデオロギーな理由が少し実感できた。

いくら、生きることそのこと自体が苦しみであっても、人と人は執着によって争うものだとしても、そのこと自体が尊いものだと、価値があるものだと感じる人もまたいるのである。

生きる意味が不要な人もいるのである。


ただ必死に生きて、笑って泣いて、苦しんで楽しんで、突然死んでしまっても、それが決して不幸なんてものではないのだ。


真理は、必ず必要なものではないのだ。


お金もそう。

恋人もそう。

出世もそう。

子供もそう。

他、世間一般に価値があるとされている多くのもの。


それらが、必ずしもその人にとって必要とは限らないのだ。

低学歴だから、貧乏だから。それらすべての属性は、決して、その人にとっての幸せの絶対尺度ではないのだ。

すぐさま、その足りないことに気づいていないから、貧乏の自覚がないから、井の中の蛙であり、本来的な権利を知ったとき、その人は失意のドン底におちるとしても、その知識や認識のあるなしが、問題にはならないのだ。

他人を気にしないこと



他者の生き方は参考になったとしても、結局は、自らの意思に従い、行為を選択する必要がある。

すぐさま、その意思とは単一の存在ではなく、環境との相互行為であることを想起する必要がある。





だから、

やっぱり、大切なのは、物語だ。


ある人が、現実とフィクションとの二項対立的な考え方に違和感を覚えると記述していたが、その通りと思う。
その、フィクションを摂取した自分自身までもフィクションになるはずはない。
現実逃避という言葉は、その、正しいとされている現実の規定から外れることを指すだけの相対概念といえる。
受験生が、漫画やゲームや恋人に時間を費やすことは、現実逃避だろう。
それは、受験に受かるという現実が価値あるものとして存在するからだ。
やるべき仕事があるとき、単純作業や掃除を始めたとしたら現実逃避だろう。やるべきことをやっていないからだ。

それは正しい、しかし、その価値あるものや、やるべきものについての検討の余地はあるのだ。



  

そして、この現実とフィクションとの懐疑の重要な点はもうひとつあって、それは、かっこつけた一般論的な表現をすると、グローバリズムと価値多様化社会である。  

価値への懐疑



現実の規定は重要でありながら、ローカルなコミュニティで一生を終える可能性は小さくなった。

一方、物理現実、いわゆる僕らが直接的に接する、学校、会社、家族、それらは、それらにおけるローカルな価値を提供する。

それが謝っているか、正しいか、そこに問題はない。問題は、その価値を自らの意思が、自己が、許容し、同様に価値あるものと実感できるかどうかである。


そこへの矛盾を抱えていなければ、よい。

ただ、そこに矛盾があれば、その現実は決して、現実逃避とそしられるものでなく、むしろ、その現実に落ち着こうとすること自体が、本当の意味での現実逃避なのだ。



価値の反転。
さて、現実が、現実として機能しなくなったとき、どういった方策が考えられるか?


物語の重要性



ここでいう物語は、エンターテイメントと呼ばれる、小説映画漫画ドラマのみにとどまらない。

例えば、旅先で偶然出会ったひととの会話でもいい。
もちろん、僕が最近飽きたと連呼する自己啓発本でもいい、ビジネス書でもいい。

とにかく、物理現実から離れたところで紡がれる物語。

それが、反転した現実から逃れられる唯一の可能性ではなかろうか。


ファンタジーだろうが、サイエンスだろうが、ノンフィクションだろうが関係ない。

自分自身が、価値あると感じられるものを探していかなければならない。それは、ときに、物理現実のなかだけでは見つけられないのだ。


物語を糧に。




さて、では、僕が求める、必要とする物語とはなんだ?


分からないが、ただ、ハッピーエンドじゃなきゃいけないなぁと、そんな漠然と、おもう。






















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