ニートの履歴書というブログをweb拍手で教えていただき、読んでみた。面白そうだ、と、また微妙な表現。この、面白そうという感覚はなんなんだろう。ただ、これは、ほんの2、3の記事を読めば分かる。
ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。
拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。
しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。
通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。
たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。
そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。
いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。
今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。
ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。
しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。
そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。
完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。
で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。
今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。
ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。
それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。
そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。
ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。
高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。
差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。
そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。
ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。
同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。
青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。
その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。
もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。
これが問題のひとつ。
逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。
この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。
ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。
むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。
結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。
某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。
……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。
なんでもかんでも反論が浮かぶ。
とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。
んなわけないだろ。
むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。
思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。
現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。
そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。
そして、また反転するが、
思考とはどうでもいいものだ
と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。
50歳かもしれない。
60歳かもしれない。
本当に死ぬ直前かもしれない。
メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。
じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。
補足。
問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。
もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。
例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。
では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?
今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?
実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。
この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。
しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。
これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。
ちなみに拍手の画像を任意で変えられることを知ったので、拍手ではなく、読了ボタンに変えてみた。
拍手というと、なんだか大袈裟な気がする。単に、読みましたよー的な軽い感じで押して頂けるだけで嬉しいとの思い。
しかし、この拍手コメントに対しては、返信した方がよいのだろうか、なれてなくて少し悩んだ。
通常コメントではなく、外部からは見えない拍手コメントにするというのは、何だか極秘のホットライン的な意味なのだろうかと疑問が生じたのだ。
たいてい僕が悩むのは、同時思考として、反対のことが浮かぶ場合である。
そんな極秘とか関係なく、単に通常コメントが画像認証とか面倒だとか、コメントにするまでもないと考えて頂いたのか、そもそも何も理由がないかもしれない。
いやいやそもそも、こうやって悩むこと自体、コメントへの返信を義務になってしまうことへの恐れなのではないかとか、自己感情にまで及んでくると完全に行動ストップとなる。
今回は、結局、自分だったらやっぱり自分のコメントを取り上げてもらったら嬉しいなと思ったので、こうした結論となった。
ブログやめようかな、と記事を書いたときに頂いたコメントも、嬉しく思ったことをこの場で書かせて頂きます。ありがとうございました。
同時思考
しかし、通常生活においては、この、自分だったらどうか、が判断基準にならないこともある。
そもそも、俺としてはどっちでもいいや、というものだ。
完全自分と関係ないことで、こうした判断が必要な事態自体少いと思われがちだが、そんなこともない。
ん、というのはもしかして、僕の他者への興味の希薄さが原因か、それはおいておく。
ルーチン
で、なんとか、正念場の土日を乗りきって続けられている。
今日も多分大丈夫だろう。と、だんだん、自分に対しての信頼度が上がっていく。
この感覚は悪いことではない。
なんというか、赤ん坊が、できることが少しずつ増えていくようなそんな感じ。
ただ、もう大人になってくると、頑張って日課をこなしても、別に誰から褒められるわけでもない。
せいぜい、未来の自分から誉めてもらえるかどうか。
それでも続けるってのは、脳の自己報酬神経群を活発にしてやらねばならない。
そういう意味で、ブログとは良いものである。もちろん、表面的に、ただ、ルーチンを続けることのみを書き続けるのはよくない。書きたいことがあって、日課のことなど、そのついで、ぐらいでよい。でないと、むしろ、ブログを書くこと自体がルーチンになってしまう。それでは、本来やろうとしたルーチンにさらに負荷をかけただけになってしまう。本末転倒である。
結婚観
ある、IT関係に勤めて35歳ぐらいの独身の方のブログにおいて、俺は結婚するという努力を避けているのではない、結婚したいとそもそも思っていないのだ、とあった。
高収入でもイケメンでもないから、努力して結婚できたとしても、同年代か、それ以上の、おばさんしか相手にしてもらえないだろう、それに、高齢出産は障害児が生まれる確率が高くなる、低収入で障害児もちで妻も皺が多いとなれば、他の努力をしたほうがましだ、と。
差別的発言だー、とか、そんなくだらない批判はどうでもよいが、この記述は、結局のところ、批判者を退けられるものにはならない。
そもそも、低収入だろうが、イケメンじゃなかろうが、若くてきれいな嫁さんを見つけることを諦めてるだけじゃないか、とか。
ただ、僕は、他のその方の記事を読んでいて、決してその方が努力をしていないわけではないことも十分感じ取れるから、そうした考えと信念をもっていることは、むしろかっこいいと思う。
同時に、さて、年老いて、死ぬその間際において、自分の孤独な人生に何を思うのか、その点が気になる。もちろん、孤独かどうかなんて、それまた相対概念に過ぎず、他者視点においてどうでもいいことである、何度も書いているが、ここでは、実感が唯一のジャイロスコープ、羅針盤だ。
ステータスとしての結婚
青春時代、異性とラブラブできなかったと、そういう劣等感において、それが払拭できなかったとする。
その代替に、おとなになって誰かと結婚して
セックスできたとして、その劣等感が克服できるのかどうか。
もし、その青春時代の瞬間こそ、自分自身のすべての欲求の根源だとしたとき、大人になってからの結婚が何になるのか、我が子の存在がなんになるのか。
これが問題のひとつ。
逆に、じゃあ結婚も、子供もいたことがないのに、その幸せを、どうせつまらないものだと諦めてよいものか、というのが、反転した問題のひとつ。
この、反転した方の問題は、想像力の欠けた人たちに多いものだが、それゆえ単純な経験の必要性という強力なロジックにより、覆すことが困難である。
戦う必要はない
ゆえに、……、時間の都合により、だいぶカットして、必要な表現だけ残しているが、これらの、いわゆる生き方とか、幸せとかいうもんだいについて、一切他者と争う必要はないのだ。
むしろ、他者を攻撃しなくては自己を保てないような弱者にかまってる余裕はない。
結婚して子供がいて本当に幸せな人は、独身で子供がいなくて孤独な人に対して、変わってるなと思うかもしれないが、別に自らの価値観を押し付けようとはしないものだ。
某新興宗教などは、こうあるべきだを押し付けがちであり、一概には書けないけれども、それはある意味、宗教がなければ、その組織がなければ自己を保てない弱者、と換言することもできる。
……、とか書きながら、この弱者という表現、すなわち、ニーチェの、超人になれ、という言葉が、同時に浮かび、それもまた違うよな、っという思いによって、やっぱり思考が停止しがちである。
なんでもかんでも反論が浮かぶ。
ダメブログ界カースト
とか書いてると、自慢だとか、頭いいだとか、他者を見下してるとかわんさか批判になる。
んなわけないだろ。
むしろこれは、呪いであると、僕はこのことも何度も書いてきてる。
思考なんて、現状を理想に近づけるための方策にすぎないのだ。
現状超人幸せハッピーな人たちに、思考など必要ないのだ。だから、哲学者たちの言葉は、往々にして人々には響かず、思考者は発狂して路傍に倒れるのだ。
ダメブログ界は、すべてそうじゃないと思うけれども、どこか、自分がどれほど惨めか、大変な状況なのか、お金がないのか、コミュ障なのか、年齢=素人童貞歴だとか、自己卑下に真剣に取り組んでいる気がする。
そうじゃなくて、やっぱり、自己に問いかけ続けてる人の記事は面白いし、かっこいいと思う。
冒頭に戻ると、それが、何個か読むと何となく伝わってくるのだ。
そして、僕が他者への興味が希薄というのも、この辺に関係きてそうだ、それはおいておいて。
死ぬ瞬間
そして、また反転するが、
思考とはどうでもいいものだ
と書いておきながら、僕は、多くのひとがそのうち必要になるだろうとも思っている。
50歳かもしれない。
60歳かもしれない。
本当に死ぬ直前かもしれない。
メメントモリ、死を思えとか言うのではない、発狂して倒れた哲学者ではないが、偉人が偉人であるのは、それが常人では中々到達しえない領域がゆえに、それゆえに、理解や実感が難しいものである。
じゃあ、やはり死の瞬間の恐怖なんて忘れ、享楽的に生きることを目指すべきだ、と、やはり同時的に浮かびながら、過去の自分の記事や、経験の実感において、それは不可能なのだと、この三十代のタイミングでも感じたことを、未来の自分への遺産としてメモし、この記事を終えることとする。
真剣になるべきこと
補足。
問うべきは自分。
言い訳とか、後悔とか、大嫌いである。
もちろん、ここでの言い訳や後悔は、他者比較における相対的なものではない。
例えば、飲み会で時間がとれなくてルーチンができなかった、というのは言い訳に他ならないが、例外対処ルールにより、それは、自分のなかでは一切言い訳でも後悔でもない。
では、例えば、今日、いま、お腹が痛いのだけど、筋トレストレッチは、やめてもいいのだろうか?
今日は、何とか我慢すれば実施できそうだ。では、もっともっと体調が悪かったときは?
実際、音読のルーチンも、以前インフルエンザで咽をやられ、熱が40℃近くなって数字う寝込んだとき、中断し、結局そのままずるずる、体調が回復しても、ルーチンの再開ができなくなった。
この場合、睡眠時間6時間以外の可用時間二時間未満ルールが適用できない。
しかし、体調の悪さ、というのは、数値化しづらく、判断が難しい。治るのも、何日かかるか推測できない。さて困った。
これは課題、だけれとも、今日のところは問題提起まで。
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あー、もう23時か。今日も比較的早く家に着いたはずだけれども、あっという間だな。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
あー、ジンベースのブルドッグ(グレープフルーツジュース割り)うめぇ。これで、部屋がもう少し片付いて綺麗だったらいうことないのだが。――机を拭く。うん、まぁ少し身の回りを掃除するだけでも少しだけ、気分は違うもんだ。
最近、ダラダラ書きすぎている。5分リミッターの方を見習って、僕も時間を決めて書いてみよう。そうさな、20分ぐらいでいこう。
今日は、センチネル族とか、絶対ドライブしたくない危険な世界の道とか、無為にネットサーフィンしてしまった。ああ、時間無駄にしたぁ、と思うところだが、発見もあった。
一つは、仏教の「ありがたい法話」について問題提起しているニコニコ動画をみたこと。仏教って、お坊さんの仏教、いわゆるお葬式とか儀式的なことする仏教と、仏教学者の仏教徒、ありがたい法話の仏教と、大きく3つあって、一般に知られているのはその程度だと言われていた。
でも、4つめの、修行する仏教ってのが、僕ら一人一人の「生」を考えたとき重要なのだと言われていて、そうそう、そのとおりだよなぁと思った。
その中でさらに、仏教って実は、芸術も否定するんだぜ、と言われていて、それは知らなかったから、勉強になった。何でも、感動するということが、それが良いものでも悪いものでも、よくないということだ。中道、とは、芸術も否定するのだなぁ。
その点は少々、是、とはしにくいな。最近、仏教系の話しとか書物とか読んでると、まさに我が意得たり! 的な感覚が多かったものだけれども、まぁ、納得しづらい部分があるというのは、やはりニュートラルな気持ちで接せられているのだという証左かとも思い、よい発見だと思った。
やっぱり、ちょーっと、仏教がいかに日本人に馴染みがあると言っても、仏教の考え方が割かし好き、というのは、いわゆる、某新興系仏教とかもあるし、何より、「宗教」って考え方が馴染みづらいものだから、表現しづらい面が多い。リアル、現実界においても、こうしたブログにおいても、これはもうどこでもそうだ。
書けば書くほどドツボな部分だけれども、別に僕は、宗教的な考え方が好きなのではない。これは何度も書いているけれども、現世御利益を求める仏教とか、全く興味がない。般若心経は諳んじられるけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば浄土にいけるとか信じているわけではない。
キリスト教は、あんまり、よく分からないけれども、グノーシス主義とか、結構面白いと思ったし、日本の神話とかも面白いと思う。
でも、これらについては、いくら説明したとしても、宗教=胡散臭い=気持ち悪いの思考構造が構築されている人にとっては、理解できるものではないため、初めから触れないことが得策である。
そう、この話題になると僕はいつも思うのだけれども、話せば分かるとか、誰とでも理解しあえるとか、そんなわけないだろと、アホかと。
センチネル族に対して、インド政府は、何度も友好関係を結ぼうと接触を試みたらしい。スマトラ島地震のときは、救援物資を供給するためヘリを飛ばしたが、相手から送られたのは、矢の雨だったとか、もう笑い話である。
極端な思考の人が多いから、すぐさま書かなければいけないけれども、だからと言って、対話とか、他者とのコミュニケーションを諦めてよいという意味ではない。限界はある、という、当たり前のことでしかない。
おっと、時間が残り5分。制限時間を考えて、できる限り整理して書こうと思っていたら、思考がとまり、書く量も考える量も減ってしまいそうだ。もう一つだけ、メモすると、ダメブログ界なるものがあるということだ。
ダメブログ界
ダメブログ界とは、その名の通り、自己卑下とか、何かいわゆる底辺的な思考や生活を送っている人たちの、みじめな生き様をさらすブログの総称、そしてそれらの集まりのことを指す。俺は思った。おお、まさに、俺の居場所が見つかった! と。
ところが、それらを読んでいくうちに、あれ、これ、多分、俺、相手にされないぞ、と思った。
それこそ、先日書いた、ラーメン食べたら贅沢もの、みたいな、そんな感じだ。
恐ろしいことに、ダメブログ界にも、カーストがあるのだ。
ええと、カーストってのは、ヴァルナとジャーティの二つの総称で、ヴァルナは、バラモン・クシャトリア・ヴァイシャ・シュードラの4つで、ジャーテイというさらに細かい身分制度があって、それって3000ぐらいも分かれていて、それというのは、人は下を見て自分より弱い人とか立場の低い人がいると安心するからだって、確か本田透さんが言ってた気がするけれど、なんかそれを思い出した。
で、僕は、何だか、やっぱり、居場所をなくした小動物のように項垂れて、結局この場に帰ってきたのであるわけだが、ああ、もう30分たったか。
何だか時間ほんと早いなぁ……。
とりまず、日課は順調にこなせている。完全にルーチンの波に乗った。繰り返しになるけれども、今後問題は、例外事象への対応策。睡眠時間6時間を除く可用時間が2時間未満の際はルーチン免除であるという規定をもう一度思い出したところで、終わりにしよう。
いやぁ、ちょっと、もう一つだけ書かせてもらおう。
ホント、これ、時間、早いって。
もう2016年終わってしまうよ。
マジかよ。30代だぜ。
よく考えたら、いやぁほんと、よく生きてきたもんだ。20代です、きゃぴっ☆とか言ってられねーんだぜ。本気か。
これが僕が思い描いていた生活か、人生なのか?
いやそんなことはどうでもいい、これから、俺はどう生きていくつもりなんだ?
自サイトの改革だってやりたいし、曲作りも久しぶりにやりたい、書き始めた小説の短編も完結させたい。
仕事のスキルアップもしたい、多分ダメだったろう資格試験のリベンジもしたい。
恋活したい、婚活したい……ん? それはどうだろ。
友達100人つくりたい……ん? それはどうだろ?
おいおい、徹底して考えるんじゃないのかよ。こんな、日々忙殺されて過ぎていっていいのかよ。
もう一回ぐらい、本気で、全力で生きてみなくていいのかよ。
うるせー、黙れ、落ち着け。
超おつちいけ。どうどう、スティスティ。
いいか? 取りあえず、今日は、もう、終わり。歯磨きして、寝なさい。OK?
いえすまいろーど。
気付いたら、今週の土日は泊まりの旅行だ。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。
前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。
では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。
いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。
さて困った。
気合いだ!
として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、
ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。
勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。
しかし、
あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。
例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。
このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。
先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。
こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。
様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。
正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。
理想自己と現実自己の一致?
笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?
アホか。
合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。
どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。
よし、
また、極端な話をしよう。
僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?
だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?
誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。
賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。
で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。
いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。
ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。
世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。
朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。
ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。
これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。
何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。
というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。
アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。
例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。
え、恋の話と何が関係するのか?
いや、そこは多分まったく関係ない。
とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。
言葉が足りない。表現が足りない。
いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。
この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。
解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。
というのも、不思議なことではない。
信頼とは、相手の動機を信じることである。
信用とは、相手の行動を信じることである。
しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。
自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。
生存方策において、何ら疑問をもつものではない。
しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。
朝の自分は、死んだ。
もう二度とよみがえらない。
人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。
もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。
筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。
ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。
ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?
寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……
むしろ、だ。
この瞬間も、死に続けているのかもしれない。
いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。
この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。
もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。
ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。
誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。
ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。
そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。
筋トレストレッチは人目を憚らずやったとして、音読は流石に無理だろうな……。
朝も早いから、かなり厳しい。こういうときどう乗り越えるか。日曜日は帰ってからするとしても、土曜日はどうしようもなさそうだ。
前倒しで多くやる? いや、毎日することが目標であって、前倒しとか後ろ倒しとか、そういう問題じゃない。
では、事前に無理だと申請したから、許してやるか……。
せっかく、あまり記事にしなくても、自然に続けられ始めたのに、やはり最初から魔王軍の精鋭を差し向けられている。
いや、まだ、朝5時出発としても、5分くらい早く起きればできるだろう。諦めるには早い。むしろ、二日間以上の泊りのときはどうするか。中日はどうしようもない。
さて困った。
例外規定
気合いだ!
として、精神論だけで乗り越えようとするのは、昔の悪い癖だ。
過去のまたノートを読んでいて思った。
ひとつ思ったのは、こいしてたんだな、と。
思い出してきた、やっぱり、好きな人がいたんだ、その、好きというのが、全く、表現なしに、ただその瞬間それ自体が、
ううむ、こうやって書くと、何だか、いままで、気合いだ、とか、偉そうな人生論書いてきて、全部反転して陳腐なものに思えてしまうな。この記事は投稿前に検討しよう。
勉強だろうが、自己啓発だろうが、何かへの挑戦だろうが、そのすべてが、恋に対する代償行為だとすれば、何ともありふれた平々凡々の人生だろうか。
しかし、
あ、そうそう、例外規定、睡眠時間を6時間として、可用時間が二時間以上捻出できない日は、日課も免除という規定にしよう。
例えば、飲み会で終電となり、帰宅が26時となった場合、遅くても7時には出発しなければだから、睡眠時間6時間とすると、可用時間は二時間未満だから、免除と。
このルールの徹底も、また、明確に時間かけて刷り込まないと、失敗が目に見えてる。
先日正念場を乗りきったが、今週がまた勝負だな。
恋
こっぱずかしいが、この話題がふってきたのも、偶然の夢が原因だから、なんか、自分で欲してたのだろう。行動の第四歩で触れたとき、書いていて何とも不快な感覚だったが、後で読んでみると、ああ、この記述もまた必要だったと、そんな気になった。
様々、成し遂げることはできても、このコントロール不可能な、恋という概念。
正直、再婚するとか、不細工ではあるが、できるとその点は信じている、が、果たして、恋ができるかというと、それはよぅ分からん。
だから、敢えて、考えないようにしてきたのか。あのブドウはすっぱいと、諦めてしまっているのか。
理想自己と現実自己の一致?
笑わせる。単に、挑戦を恐れて、自己を慰めるだけの行為ではなかろうか。
自分でできそうな目標をさも大変そうに立てて、さも大変そうに実行して、成功して、それで頑張りました?
アホか。
合理化の果ては緩やかな衰退。希望の大きさがどんどん小さくなり、やがて、何も望まなくなるのだ。
まてまて
どうして、そう、自己卑下に努めようとするのか。
よし、
また、極端な話をしよう。
僕はいま、誰かに分かって欲しいと思っている。
この不快感、苛立ち、苦しみを理解してほしい、助けてほしいと思っている、そうだろ?
だが、その分かって欲しいという思いが、
憎い相手を殺したい、というものだったらどうだろうか?
誰も、理解ではなく、やめた方がいいと、そう止めようとするだろう。
なかには、面白がって、やれやれと、煽り立てる腐った野郎が混じるが、そいつも、いざ本当に、秋葉原通り魔事件のような大事件になったら、自分も荷担したのだと自責に苛まれるはずだ。それでも苛まれない奴は、俺はむしろ苦悩に潰されておろかな行為をした実行犯よりも、人間として死んで欲しいと思うだろう、ただこのことは、一切外部からはかれないから、それが誰かは分からない。
賢いサイコパス。これもまた、人間の一つのあり方だろう。
で、だ、まぁ話がそれたけど、理解とは、残念ながら完全ではない。
いわゆる、世間一般に合致することのみが、所謂理解という表現がされるものだ。
だから、昨今の若者が、酒も、女も、車も興味がないというのは、前の世代の方々は理解できない。想像力がある日とは、賢いサイコパスも存在するのだと、その程度のことは浮かべられても、理解には遠い。
ゆえに、これらの表現が、気持ち悪いのはむしろ自然のことですらある。
世界は、ポジティブ思考でできている。それ以外の、生存を脅かす、成長を止めようとする、マイナスの思考も事象も、緩やかに、時に速やかに排除しようとするのだ。
そして夜に
朝から書いていて、時間切れでやめたときは、本当に、夜には削除しようと思っていた。
ところが、ずるりと、自分の中から感情が抜け落ちて、他人、として自分の文章を読むと、不思議と、書いていた瞬間に感じていた不快感や、気持ち悪さ、危険性といったものが感じられなくなるのである。
これが他者にどう伝わるのか、分からない。ただ、自分として、例え感情がなくても、その言葉の意味を感じとれば、よく分かるのである。
何ら特殊なことは言っていないと思いつつも、表現を重ねるにつれてそれは論理性の端を生じさせ、それゆえに反転を繰り返さなければならなくなる。なぜならば、この表現は、まさに二項対立を意味しないからである。
というのは、般若心経の真似ともいえる。般若心経は、とにかく無という言葉がたくさん出てくる。
アラヤシキの本で触れたが、唯識派という論理を追究した派閥が、様々世界を分割して、論理的に理解しようとした。
例えば、むげんにびぜっしんに、無限界無意識界……
無を繰り返して、そこから見えてくる何かを示そうとするのが、般若心経で書いてることだ。
え、恋の話と何が関係するのか?
いや、そこは多分まったく関係ない。
とにかく、朝と夜とで、感情がまったく異なるのだ。
時間経過が与えるもの
言葉が足りない。表現が足りない。
いや、そうじゃない、朝の記事の続きを書こうとすると、まったくそんな気分ではなくなっているのだ。
まるで別人のように。
この別人感もまた、一般的に気持ち悪いぃぃと言われることなので、感じたことがある人は注意だ。
解離性人格とか、そこまでじゃなくても、異常者扱いされる。
というのも、不思議なことではない。
信頼とは、相手の動機を信じることである。
信用とは、相手の行動を信じることである。
しかし、人格が場合に依り一致していない人に対しては、信頼も信用もできないだろう。
自分に害を与える人を、人は無意識に遠ざける。統一性と一貫性、さらに、自己保存の脳の働きである。
生存方策において、何ら疑問をもつものではない。
しかしだ、思考とか、創作とかやってると、もしくは、物語に感情移入してるとか、そんな場合には、果たして、自己、は、どこにいってしまったのか。
朝の自分といまの自分
朝の自分は、死んだ。
もう二度とよみがえらない。
人とは、記憶の総合だ。
しかし、記憶だけではない、感情も含んで人だというのなら、僕の朝は死んだのだ。
もっといえば、昨日の自分も死んだのだ。
筋トレストレッチ、音読頑張れよ、といってくれた
一週間前の自分も死んだのだ。
ああ、なんと、僕は、たくさんの屍の上に、骸を積み上げて立っているのか。
どのタイミングで死ぬのか
ええと、じゃあ、いまの僕も死んでしまうってことになる。ええ、……怖いなぁ、あ、いつ、いつ死んじゃうの?
寝ると死ぬのかもしれない。
でも、朝と今とで、昼寝はしたけど、朝と昼とで意識は連続していた。むしろ、それいこうか、もしくは、仕事を開始した瞬間からか……
むしろ、だ。
この瞬間も、死に続けているのかもしれない。
いま、こうして、ゼロ秒で記述している瞬間でさえも、否、そもそもスマホからの入力スピードでは、思考との差がありすぎる。
この瞬間の、僕の思考、表現、内面、感情、これが、時間的制約として、限りなく難しいことが分かる。
もっといえば、思考を言語化した段階で、感情を言語化した段階で、たくさんのものが抜け落ちてしまっているのだ。
ブログは、そんな、むなしい中、せめて、死にたくない、死にたくないと泣きながら、自己が最後の叫び、断末魔なのかもしれない。
誰かに理解してほしいとは、その、死ぬ前に誰かの記憶に残りたいと、その記憶だけでも残れば、自分の存在意義はあったと。自分はその意味を見つけられなかったけれども、自分はここで果ててしまうけれども、誰か、後身に、この悔しく切なくもどかしく、虚しい思いを晴らして欲しいと、最後の願いなのかもしれない。
ああ、そして、時間が迫っている。
では、いまの俺は、最後に、家についたら音読筋トレストレッチ頑張れよと。
そして、可用時間が二時間未満の時はルーチン免除のルールについて、しっかり引き継いでインプットしろよ、と、書き残し、果てる。
ある10億円以上を稼ぐ野球選手のインタビュー動画を見てその中で、
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。
ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。
今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。
さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。
その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。
第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。
昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。
そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。
というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。
いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。
いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。
表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。
とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。
僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。
上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。
そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。
その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。
とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。
この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。
ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。
「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。
と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。
ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。
ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。
とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。
けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。
例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。
うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。
上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。
でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)
そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。
そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。
うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。
そう考えると、いま、すげー幸せだ。
……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)
そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。
あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。
もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。
「死んだら終わりだから、自分のもてるものを、後輩たちに伝えられるものは伝えていきたい」
と言っていて、なるほど、野球がすごくて顔がイイだけじゃなくて、考え方もしっかりしているのだな、と思った。歳を調べると、同い年じゃないか、マジか。
ここで、「よし、俺も頑張らなきゃ!」「精一杯生を満喫するぞ!」「後輩たちに持てるものを伝えていこう!」とか、思うのは、いつもの通り、危険でしかない。
今日が、日課に対する正念場だと、昨日、短い記事の中で書いた。そんなことしか書いてない記事を果たして投稿すべきか悩んだところだが、結果的に、正解だったと思った。今日、その記事を、眠気と頭の痛さと身体のだるさの中で読んで、18時過ぎまで寝ていたにも関わらず、何とか、日課をこなすことができた。
さも、頑張った風に書いているが、残念なことに、世間一般的な基準からすると、全く大したことのないものである。音読は1分程度。筋トレと言っても、腕立て腹筋背筋を12回、ストレッチを適当に何十秒か、そんな程である。
その程度を、「頑張るぞ!」「正念場だ!」「勝負時だ!」と、1時間程度かけてブログを書かなければ続けられなかったのである。
第一線で活躍する同年代の、いやもっと若い野球選手たちと比べて、なんと矮小なダメな大人だろうか。
ダメだろうが何だろうが敵は
比較思考の無意味性。昨日、友人(この、友人とか知人とか知己とか、そういう他者との親密さのレベルを表す表現にも実は違和感である。この点は書いたことあったろうか、あまり無さそうか、でもまぁ今書く気はあまりない)たちに、人生の失敗を一つあげれば、他者の目線を気にしすぎてたこと、嫌われることを恐れていたことだと話をした。それに対して、みんなそれはあることだと返事を頂いた。
そう、きっとみんな、誰かに嫌われたくないとか、そういった感情は抱くことだろう。ただ、僕の場合、それが少しばかり、高かった気がする。「自分を表現する」ということに、ひどく臆病になっていたのだ。
というのは、前半で書いた、野球選手のことではないが、「どう考えても、表現できる自分というのは、一般的にみて矮小である」という事実性である。
いや、世界は広いから、絶対、自分と同じような感覚を抱く人はいるだろう。ただ、それが、そのローカルコミュニティにおいて、価値あるものとして認められるかどうか、というのは別問題である。
いやすぐさま、腐女子趣味とかを、公言して周りを顧みないということがイイことか、というと、それは違うと思う。ひっそりと、自分の中で妄想を広げているべきこともあるだろう。
そこは、「度合」という、また不確定な不透明なもやもやしたことでしかなくなってしまうから、上手く説明できない。
表現したいことは、そうだな、とにかく、僕自身に、「人間嫌い」という表現を発生させた原因となる環境や、そして何より、自分自身の考え方について、ということなのだけれども、この辺も今書こうと思ったことと違う気がする。
とにかく、取るに足らない日課であろうと、世界中に自分より優れた人がどれほどたくさんいようと、ローカルなコミュニティにおいて自分を表現できる相手がいなかろうと、決して、他者と比較して無気力になるなんてことは、誤りであると、そういうことだ。
僕が唯一、誰かに生き方として伝えられるとしたら、そのあたりのことな気がするけれども、残念ながら、ここまで書いてきたことでは、正直、僕がいつも目にして苛々する、いわゆる「リア充」たちの記事と何ら変わらない気がして、失敗作としか思えない。
上手く表現できていないと思うから、せめて、未来の僕に託すために、こんな、とくに何も表現していないような、不十分な、ダラダラとしたことを書かざるを得ない。
本当に望んだこと
でも、思うに、そうだな、ある40代の現役バリバリ働かれている方のブログを読んでいて、その中で、「引き寄せの法則なんて嘘っぱちだ」と書かれていた。
ほうほうと思って読んで見ると、強くイメージして思い描いただけで望んだことが手に入るなんて、そんなわけないだろう。具体的に行動することが大事なのだ、というメッセージだった。
その通りだ。「行動」がなければ、現実は変わらない。しかし、思うに、スピリチュアルの人たちも、その点はさすがに理解していると思うのだけれど、違うのだろうか。まぁ、それは興味がないからどちらでもよい。
とにかく、そういう意味で、その40代の方の記事を読んでも、やはり、引き寄せの法則自体は信じている。その「法則」という表現が違うとも書かれていた。法則というのは、同じやり方を実践すれば、同じような結果が得られること、という辞書的な定義だということだ。そういった意味でも、思い描いたことが実現するというのが「法則」というのは誤っているというのだ。うん、それも納得である。じゃあ、これから僕は、「引き寄せの思考」とでも表現しようかな。
この辺りが、「表現問題」と僕が表現している点である。つまり、「概念」的な事象はあるのだけれども、それだけでは、明確に他者に伝えられないから、それの表現が重要になってくるということで、結局、「概念思考」としては、同じことを言ってるだけに過ぎない、ということが往々にしてあるのだけれども、その点が「論点」となってひとがいいあらそうという場面が多い、ということだ。くだらないことである。
ユダヤの神も、イスラムの神も、キリストの神も、同じ一神教というのであるから、「神」という概念は同一だ。しかし、相容れず、殺し合いすら発生するというのは、全くくだらないと思うのだけれども、それは、多神教というアニミズム、未開人に多い特性を持つ日本人だから、なのかもしれない、とか、こんな中途半端な宗教知識で記事を書いていると、専門家たちから強烈な批判を受けやすい。これまた、何とも生きづらい原因の一つだ。
「正しい思考」なんてものがあるのかどうか分からないが、あったとしても、そんなものに縛られる必要はない。
と、すぐさま書くべきは、まっとうな社会生活を送るうえで、正しい思考、例えばそれは、社会常識だとか、社内マナーだとか、冠婚葬祭のマナーだとか、それは当然身に着けるべきである。もっと言えば、「言語」だって、共通様式である。言語がなければ思考すらできない。その点において、「正しい思考」が有効であることは疑いようがない。
ので、僕が表現したいこととしては、やはり、「実感」の問題である。
ん、なんだ、小見出しを書いた時と、書きたいこと、書いておこうと思ったことがズレ始めている、なんだっけ、思い出せない、まぁいいや(575)。
行動のための第六歩
そうだな、だから、取りあえず、就寝時間が大幅に狂って、起床時間がくるって、睡眠時間が狂ったとしても、友人たちとの会話は有意義であったし、あはは、昨日の記事で、行く前に何だか面倒だなぁ……という思いがあったにせよ、最終的には、言ってよかったなと、そう思ったということは書いておこう。とか書いていると、友人がいなくて苦しんでいるような人たちに対して、「感情のレッテル」レベルで、上手く僕の表現したいことが伝わらなくなる。
だから、僕は不細工で非リア充で、非モテ思考で……とか書いたりするけれども、むしろそれが逆効果になることもよく分かるから、もう何も表現できないし、したくなくなってしまう。
けれども、やっぱり、何だか頑張ってる人とか見たり知ったりすると、俺ってやっぱダメなやつだなぁと思ったり、友人と遊びに行って趣味を満喫しましたととか、恋人と甘い時間を過ごしましたとかそんなのみると、「あああああ」という気持ちになるということは、よく表現しておきたい。
例えば、これも、ほんと書いてどうするんだ、というのであるが、自分に声かけてくれたり、例えばブログでコメントくれたりしてくれる人がいて、わーい嬉しいなーと思って、実はその人が、恋人もいて、友達もたくさんいて、リアルな生活満喫してたりすると、おぉぉぉい、俺に気をかけてくれたのって、単なる気まぐれ、暇つぶしレベルッスか、なんだそりゃ、つまんねぇ……とか思ったりするということ。
うわぁ、心が狭い、哀しい、さみしい人だなぁと、自分で書いていて思うのだけれども、それってやはり、自分だけを見てほしい、自分を知ってほしい、自分を愛して欲しい、という思いが、何やかんやあるんだなぁって、そんな気付きになる。
上の「例えば、」は、とても恥ずべき思考・感情とは思うけれども、この表現から逃げていては、結局今までと何ら変わらないだろうと。「徹底して」というタイトルに反してしまうだろうと。誠実でないだろうと、そう思うのだ。逆に言えば、そう言い聞かせて、愚痴を「正当に」書いているということなのだろうが。
でもまぁ、その、何というか、うん、とにかく、筋トレストレッチ、音読が続けられたのはよかった。
明日も、ここで、気を抜いてしまうと、失敗してしまう。何とか継続していこう。(おいおい、そういえば、それ以外にやるべきことあったんじゃないっけ? いや、それはこの際些末ごとである。とにかく、「自分で決めて」「自分で実行する」ということに価値を置いているのだ)
そういえば、「ストレッチ」って、あんまりやったこと無いんだよな。筋トレ自体は、それこそ3か月ぐらい続けた実績はあるから、それの踏襲なのだけど、ストレッチって、どうやりゃいいのかよく分からないから、適当にやっている。
それも、小学校ぐらいでクラブ活動(部活動?)でやっていた内容を思い出しているぐらいだ。
そういやぁ、小学校のクラブ活動はイヤだったなぁ。学校の授業が終わって、児童館で時間潰して、16:30ぐらいから始まる部活の始まる時間までが、非常に緊張し、苦痛で、気分が悪かった。
うーん、小学校の頃の自分、お疲れ様……。今思うと、あの当時の苦痛(悩み、というのではなかった。悩むという行為が分かっていなかったろう。それが分かってきたのは中学生以降な気がする)は、正直、今、「無い」。
そう考えると、いま、すげー幸せだ。
……というのが比較思考なんだよな。活躍する野球選手や、株で沢山お金稼いでいる人とか、第一線の研究分野で活躍する人とか、上を見たらきりがない。一方で、凄惨ないじめにあっている人とか、ブラック企業に勤める人とか、天涯孤独で貧困の人とか、下を見てもきりがない。(「下」とかいう表現も、気を付けないといけない。何とも生きづらい、書きづらい世の中だ)
そして、過去の自分と比較しても、それもまた比較思考で、意味のないことだ。
あれ、また話がズレているか。ストレッチ、そうストレッチのやり方だ。いや、違う、すごく嫌だった部活動においても、身体が覚えていることはあって、それがストレッチで、まぁ、使える知識とか経験というものは、どんな状況でも身に着けられるものなんだよ、という教訓めいたこと? うーん、そうだっけっか。よく分からなくなってきた。けれども、過去のことを真剣に想起して考え始めると、気持ちは正直よい気分じゃなくなるな。
もういいや、今日は終わり。明日、何が何でも日課だけは頑張ろう、以上。
段々行く気がしなくなってきたが……、まぁ、行ってみたら案外楽しいことはよくあることだ。
今日は遊びで徹夜になりそう。ので、早速ルーチンの危機である。
と思って、今日は朝早く起きて音読筋トレストレッチを実行した。
故に実質家に帰る明日がまた勝負だなぁ……。
そもそも、飲み会とか、美味しいものが出てこない居酒屋とか、行く気がしない。
はっきりいって、家で自分でカクテル作ってた方が飲み放題で格安だし。
そんなこと考えるのがそもそも、リア充になれない原因だな。
しかしリア充とか、所謂使いやすいから使ってるが、先日の現実とフィクションの二項対立の話じゃないが、そのリアルというのが、どれ程重要だというのか。
いやもちろん、ここで、孤独が好きとか、一人が大事とか、そういう問題ではない。
ただ、格安チェーンの汚いまずくて薄い酒しか出さない居酒屋に行く意味が分からない。
汚い大衆居酒屋はまぁいい、美味しいもの出したりするから。
しかし、中途半端に綺麗感出して、高いわりに大して美味しくないもの出す店に行くなら、牛丼チェーンの方がましだ。
予定外でもないが、あまり気乗りしないプライベートな予定のため、少しとげとげしているのかな。
場所代とか、希少性によってお金がかかるってのが好きじゃない。
本当にその物の価値があって高価ならいい。
で、またその価値、って基準だが、それは、自分にとって価値あるものかと。
それなりに美味しいラーメンを食べた。しかし、830円で、出された水のコップが臭かった。
同じ800円でもっと美味しいラーメン屋を知ってるとなると、納得しづらい価値だ。
バンジージャンプをしてみたいと目標で書いてたが、しかし、軽く1万円を超えることが分かった。
うーん、そこまでするか……だとしたら、ツーリングに行った方が楽しそうだ、とか。
こう、いろいろ経験していくと、新しいことに挑戦できなくなるのは、その挑戦した結果が芳しくないことが予想できてしまうことだ。
やってみなきゃ分からない、でも、大体分かってしまう。そして、当たってしまう。
創作に当てるのも時間、ご飯を食べても、寝てても、ボーとしても、物語を摂取しても時間。
このブログを書いても時間、これを読んでも時間。
ゆえに、僕は、まず、このブログを読んでくれた人に対して感謝せねばならない。
一度しかない人生の貴重な時間を、この言葉群を読むことに充ててくれたのだ。ありがとうございます。
コメントできずにすみませんと言ってくれたかたもいた。いえいえ、とんでもない、目を通してくれてありがとうございます。まぁ、本音を言えば、読んだかどうかだけでも読みましたボタンを押して頂けると嬉しいのだが(笑)
これは、コメントコジキと言われるやつだ。まぁ仕方がない、このブログでは誠実でありたい。見栄や、妬み憎しみ何でもござれ。すべて含めて、アウトプットして、それが自分なのだ。
しかし、憎しみという感情が、実は一番よく分からない感情かも。
イライラすることはあっても、誰かを憎いと思ったこと、そうさな、部活やってて暴言というか苛めてきた二人ぐらい、そんぐらいは顔と名前が出てくるが、いま無理矢理思い出したぐらいだ。
あんまりこれまで、憎いってことがなかった。敵はたいてい、自分自身だった。
ううむ、もうすぐ時間切れか、どうしよう、こんな短くて投稿してよいものか。悩む。
でも、何も浮かばなくなってきた、ああ、何だか、やる気が起きなくなってきた。
まずいまずい、これ、明日早速日課がストップしそう。
なんとか、ここで踏ん張らねば。これまでの経験で、ここが第一関門というか、正念場っぽい。早いな、いきなり序盤の町で魔王軍四天王が現れたみたいな話だ。
筋トレストレッチ、音読、なんとか続ける。
そう、脳は、情報に感情のレッテルを貼った状態で記憶の中枢に情報をまわすから、否定的に入ると効率が悪い。
あんまり悲壮的になってもよくない、けれども、俺は案外、追い込んだ方がいい場合もある。
なんとか、精神力の残存を確かめ
今日は遊びで徹夜になりそう。ので、早速ルーチンの危機である。
と思って、今日は朝早く起きて音読筋トレストレッチを実行した。
故に実質家に帰る明日がまた勝負だなぁ……。
そもそも、飲み会とか、美味しいものが出てこない居酒屋とか、行く気がしない。
はっきりいって、家で自分でカクテル作ってた方が飲み放題で格安だし。
そんなこと考えるのがそもそも、リア充になれない原因だな。
しかしリア充とか、所謂使いやすいから使ってるが、先日の現実とフィクションの二項対立の話じゃないが、そのリアルというのが、どれ程重要だというのか。
いやもちろん、ここで、孤独が好きとか、一人が大事とか、そういう問題ではない。
ただ、格安チェーンの汚いまずくて薄い酒しか出さない居酒屋に行く意味が分からない。
汚い大衆居酒屋はまぁいい、美味しいもの出したりするから。
しかし、中途半端に綺麗感出して、高いわりに大して美味しくないもの出す店に行くなら、牛丼チェーンの方がましだ。
予定外でもないが、あまり気乗りしないプライベートな予定のため、少しとげとげしているのかな。
価値あるものとお金
場所代とか、希少性によってお金がかかるってのが好きじゃない。
本当にその物の価値があって高価ならいい。
で、またその価値、って基準だが、それは、自分にとって価値あるものかと。
それなりに美味しいラーメンを食べた。しかし、830円で、出された水のコップが臭かった。
同じ800円でもっと美味しいラーメン屋を知ってるとなると、納得しづらい価値だ。
バンジージャンプをしてみたいと目標で書いてたが、しかし、軽く1万円を超えることが分かった。
うーん、そこまでするか……だとしたら、ツーリングに行った方が楽しそうだ、とか。
こう、いろいろ経験していくと、新しいことに挑戦できなくなるのは、その挑戦した結果が芳しくないことが予想できてしまうことだ。
やってみなきゃ分からない、でも、大体分かってしまう。そして、当たってしまう。
時間の使い方
創作に当てるのも時間、ご飯を食べても、寝てても、ボーとしても、物語を摂取しても時間。
このブログを書いても時間、これを読んでも時間。
ゆえに、僕は、まず、このブログを読んでくれた人に対して感謝せねばならない。
一度しかない人生の貴重な時間を、この言葉群を読むことに充ててくれたのだ。ありがとうございます。
コメントできずにすみませんと言ってくれたかたもいた。いえいえ、とんでもない、目を通してくれてありがとうございます。まぁ、本音を言えば、読んだかどうかだけでも読みましたボタンを押して頂けると嬉しいのだが(笑)
これは、コメントコジキと言われるやつだ。まぁ仕方がない、このブログでは誠実でありたい。見栄や、妬み憎しみ何でもござれ。すべて含めて、アウトプットして、それが自分なのだ。
憎しみ
しかし、憎しみという感情が、実は一番よく分からない感情かも。
イライラすることはあっても、誰かを憎いと思ったこと、そうさな、部活やってて暴言というか苛めてきた二人ぐらい、そんぐらいは顔と名前が出てくるが、いま無理矢理思い出したぐらいだ。
あんまりこれまで、憎いってことがなかった。敵はたいてい、自分自身だった。
ううむ、もうすぐ時間切れか、どうしよう、こんな短くて投稿してよいものか。悩む。
でも、何も浮かばなくなってきた、ああ、何だか、やる気が起きなくなってきた。
まずいまずい、これ、明日早速日課がストップしそう。
なんとか、ここで踏ん張らねば。これまでの経験で、ここが第一関門というか、正念場っぽい。早いな、いきなり序盤の町で魔王軍四天王が現れたみたいな話だ。
筋トレストレッチ、音読、なんとか続ける。
そう、脳は、情報に感情のレッテルを貼った状態で記憶の中枢に情報をまわすから、否定的に入ると効率が悪い。
あんまり悲壮的になってもよくない、けれども、俺は案外、追い込んだ方がいい場合もある。
なんとか、精神力の残存を確かめ
