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平日頑張ってると休日頑張らない理由がなくなる
2020/01/13 01:02 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日の一言「19時半ぐらい帰宅」

まえがき

 昨日(11日)は免除規定のため、更新はお休み。
 そして、今日(12日)は、特に更新する気持ちがあまり起きない、……気づいたら、12時を回っていたけれども、いっつも、帰宅が24時過ぎで、そっから風呂に入ったり云々をしていることを考えると、ブログ更新ができない、書けない理由が全く見当たらないので、書くことにする。
 内容としては、前回の、白銀さんへのコメント返信を続けよう。

コメント返信(10月28日)

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> 責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。

 との記事に対してのコメント。(一部抜粋)
>「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
 そして今回ちょっと気になったのがここ。
 「敢えて本心とは違う振る舞いをする」というのが実践できるというのは本当に凄いことだと思うのですよね。
 そうした方が周囲に溶け込める、目的達成の近道や成功率を高める、など理由は様々でしょうけれど、大抵は偽装が本心から離れれば離れるほどストレスは強くなるでしょうし、割り切ったり、理性や感情と切り離したり、というのも「だからストレスはない」なんてことはないと思うんですよね。
 「仕事だから」とか「仕方なく」とかの日常レベルというか、一過性のものならまだしも、人格や生き方レベルで常時「敢えて」を選択するとしたら、その負荷は凄まじいものだと思うのです。その辺りの負荷さえも割り切って抱えられるようなものはある種の才能もありそうだなと。
 なるほど、「敢えて」自分の言動を「本心」と切り離すことができるというのは、実際できる人はそれほどいないのではないか、ということですね。
 そうすると、僕らが対面している人たちは、だれしも裏の顔をもっているなんてことはなく(少なくても、多くはなくて)、自らの本心に関係する方向で行動していると。――というのは、日常レベルではそうではない可能性もあり、「人格や生き方レベル」の問題ですね。
 生き方や人格レベルで「分人」になれるのは、おそらく、サイコパス、ソシオパスと分類される人たちであり、一般的に考える必要はないのかもしれませんね。


 そして一方、たぶん、この元記事(10月の)では、「なんとなく、日常的に、なんか、みんな裏の顔をもって、隙あらば騙そうとしてくるんじゃあないか、という感覚」が僕はもってるなぁ、ということの表現だった気がします。家族や親しい友人等までを疑うわけではないですが、しかしそれでも、なんかそんな感じ。これは何故なのか。もう少し掘り下げて考える必要がある。

コメント返信2(続き)

 これって諦念とかにも通じるのかなと思ったりもするんですが、例えば、遠藤さんであれば「本音は自分にとっての生きる意味を探し続けている(探したい)んだけど、しんどい問題だから考えないようにして敢えてパリピな生き方をしている」みたいなことだったりするのかな、とか。
 「考える」ことからは解放されますし、「一般人に溶け込んで生きる」こともできるわけですが、根底にある本心を人生レベルで偽り続けるのって相当な負荷な気もするのですよね。しかも、それを「敢えて」選択し続ける、というのは並大抵の精神ではできないように思えます。
 ちなみに遠藤さんのリアルとブログ等での表裏がこれに当たるかというと、個人的には外れていて、遠藤さんがブログでもこれまでのような本心をほとんど語らず(本心の片鱗を覗かせても9割以上が気付かないとか)その大部分を自分の内側に留めてほぼ誰にも見せずにいた場合が「敢えて」を選択し続けている判定になるでしょうか。
 とまぁ、そんなわけで少なくとも、「本心には正直に」という思考に至った私には、理解や納得することはできても、共感はし難い生き方ではありますね。

 文体がぶれている。「である」調にするんだった。
 そして、コメント返信の続き。

>遠藤さんがブログでもこれまでのような本心をほとんど語らず(本心の片鱗を覗かせても9割以上が気付かないとか)その大部分を自分の内側に留めてほぼ誰にも見せずにいた場合が「敢えて」を選択し続けている判定

 これは確かに、ご指摘の通り不可能に思える。
 いやむしろ、それが不可能だから、このブログに憤怒怨嗟があふれ出ているのだろう。

あとがき

(かっこ書きである。それで僕は少し思うのであるが、その「本心」に従うという方針は悪くない。というよりも、サイコパスソシオパスでなければ、人格や生き方レベルで「分人」になるのは困難なので、そうせざるをえないと思われる。と、なったとき、――例えば、「コペル君」でおなじみの、最近漫画にもなった「君たちはどう生きるか」という原作は小説の作品があるが、これはまさに「人格の陶冶」がテーマになっている(気がする)。ま、その普遍的に目指すべき人格、というのがあったとしよう。そうしたとき、例えば、例えばなのだが、電車内で赤ん坊がガン泣きしてうるさかったとしよう。母親が必死にあやしても泣き止まない。困り果てた母親は憔悴している。そこへ、座って瞑目していた気難しそうな老人が近づいった。すわトラブルか。いや違った。老人は言ったのだ。「子供は元気が一番、さぁさ、疲れているだろうから、ここに座りなさい」というストーリーが、たぶん、感動的だと思う。だが実際問題、僕はその場にいたら、(実際はしないけれども)うっせーなと舌打ちしつつウォークマンの音量を上げることだろう(かっこ笑い)。だから僕は人格がひんまがった悪い人間なのであるが、まぁ、「我慢をする」。「敢えて」、「本心」である「うっせーな」という行動をとらない。まぁこの例は、非常に卑近で日常的なものであるが、しかし、「人格レベル」の生き方と、日常的な生き方部分は、明確な1と0に分けられるものでもなくて、連続的なのである)

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