今日の一言「リセットが必要だ」
僕の反射的思考においては、「いや何にも集中も執着もできていない」というものであったが、極端に考えれば、自分の考えにも理はありつつ、やはり、僕はたくさん抱え込んでいるのかもしれない。
さて、時間がない。
やらなければいけないことが多い、というよりも、そもそも、物理的にも時間がない。帰宅が24時~25時、26時になる生活が続いている、気がする。ここ1か月ぐらいはそうな気がする。徐々に増えている気がする。2か月前ぐらいは、21時~23時とか言ってたような。
とにかく、平日は時間がない。では休日はどうか。
ちょくちょく、予定が入っている。いやじゃあ具体的にどれぐらいかというと、土日が10回分あったら、半分ぐらいしか固定された予定はない気がする。――むしろ、台風とかその他(自分の体調とか気分)によって、予定を断る場面もあった気がする。
それでも、なお、時間が全然ない、感覚に陥っている。
今日も、予定がない休日だったはずが、10時ぐらいに目が覚めて、――なんかして、気づいたら17時だった(寝ていた)。
しかし、突発的に時間ができると、まず、何からすればいいのか分からない。
SF小説の火星の人を買ってみた。まだ読んでいない。じゃあ読んでみようか、ということになるが、なんか、他にしなければいけないことはたくさんある気がする。それが何かは分からない。
短時間でも、少しずつでも、書いていったほうがいい。
そうしないと、何を書けばいいのか分からなくなるのだ。
書くことに対しての、意識の低さ。言葉の低さ。
何を言いたいのかが分からないと、他者はストレスになる。
無駄は、いらない。
いや、そんなことはない、無駄も必要だ……という、言った言わない的なやり取りに意味はない。
あえて、ひらがなで、「おもんぱかった」と書かれたから、誤字だと思った人が「誤字プギャー」したら、逆に言葉の知らなさをプギャーされたということである。
無知を恥じることはないと僕は思う。
知らないことを「知らない」といえるほうが勇気がいることだ。
同時に、「バカ開き直り」はよくない。「知らないこと」を恥ずかしいと思えるからこそ、勇気がある行為なのだ。知らないことを前提に「しらねーし」というのは何ら勇気のある行動ではない。
その僕の考えというか前提をもとにして、上のニュースに対して思うことは、誤字プギャーが認識誤りでプギャーすることは、必要であると思うということである。
一見、知らないことに対してのプギャーは、――ぷぎゃーとは、バカにする、ということを指す――プギャーをプギャーすることと構造的に同じであり、どちらも許されない、と思える。何故ならば、間違ったことを必要以上に責めるということは、生きづらい世界を意味するからだ。間違いは誰にでもある。間違わないようにすることが大事だ、という前提があるべきだ。
その前提に照らせば、プギャーをプギャーすることも同様に許されないことだと思われる。
違う、と思う。
プギャーする、要するに人を馬鹿にすることを前提に考えている人を蔑むということは、必要だと思うからである。
何故そう言い切ったほうがいいかというと、「人を馬鹿にする人を馬鹿にすることも許されない」になれば、無限遡及(トートロジー)になるからだ。YES、もNOもなくなるからだ。そこに思考は生じない。
Aという命題がある。ただし、こういう場合は例外だ。
というロジックじゃないと、人は理解ができない。
理解したような気持になることはできるだろう。しかし、突き詰めると、0か1かに分けられなければ、「理解」(ものごとを適切に分けられる状態)にはならないであろう。
一方、次元を変える、というのは必要だ。
上の、バカにする人を馬鹿にする、ことは認められるとして、そもそも「馬鹿にする(プギャー)」自体が正しいかというと、そうではないと思う。
バカとは付き合うな、という自己啓発本も話題になっているようだ。
ここで、次元を変えるなら、その「バカ」というのをどういった人を対象にするか、ということになるが、そもそもの命題、「バカとは付き合うな」については賛同するかどうか。そこから入っていかないと、議論にも思考にもなりゃしないのである。
ところで、この文脈において重要性はないが、僕がバカだと思う人は、知識がない人ではない。「正義」が分からない人がバカだと思う。抽象的に書きすぎたから何も言ってないのと同義だろう。ただ、具体的に書けば、「歩きたばこする人」となり、これはこれで極端過ぎる。
責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
といった、自分の意見というか価値観があったうえで、「人を馬鹿にすること」自体は、結局、無意味――というか、生産的ではないと思う。
馬鹿にしたところで、得られるものは、自分の溜飲が下がるかもしれない程度のことだからだ。
そこで、初対面の人ともあったが、その人から、温厚そうだね、怒ったりしなそうだけど、不満とか愚痴とかどうしてるんですか、みたいなことを言われた。
まず、僕のブログを万が一みてしまってから僕にあった人は全くそういった感想を抱くことはなかろうが、たいてい、初対面の人に与える印象はソレである。何十年か生きていると、ジョハリの窓の、他者から見える自分というのも分かってくる。
一方で、長らく僕と付き合っている人――もしくはブログを見ている人は、決して僕が温厚なんかじゃないことは分かってくる。そしてどうやらそのギャップが「気持ち悪い」という感じを抱かせるようである。――これも理由は簡単で、「表裏がある」ことを、人は警戒するからである。
僕の中では「一貫性がある」と思っているわけだが、それはどうやら他者にはそのようには感じさせないようだ、ということはよく分かってきた。これは「成長」というか、「知識」レベルなのか分からないが、まぁ昔(3~10年前)はよく分かってなかった。
ちなみに、上の不満をどうしてるかといえば、ブログに書き散らしているわけである(かっこ笑い)。
――しかし、どちらかというと、「現実の不満」というのは、次元的な興味ではないのである。残業が多いとか、仕事が舞い込んでくるとか、「いやもうちょっとこうしてもらったらいいのに……」的なのは、僕の興味の埒外である。それらは、「所詮」解決可能な問題である。
どう生きるのか。または、どう死ぬのか。
これが問題なのだ。(換言して、「生きる意味を徹底して考える」ということである)
ここまでで、約1時間である。文量は少ないが、気持ちをのせるのに時間がかかった。コーヒーと、アップルパイが旨かったおかげである。ありがたい。
僕はふと、今だからかわからないが思ったのだが、結婚とか子供とか、数年前――いや2年前ぐらい?――は重要だと思っていた気がするが、やはり順序が違いそうだ。
それは、「逃げ」の思考というよりは、そもそも、浮遊状態では、何をやってもうまくいかない気がする、という点でもある。他者は決して、「踏み台」なんかではない。
(かっこ書きである。ってな中二病だか高二病だか大二病だか分からないことを書かないと、平日等でとちくるった精神が「まとも」に戻らないのである)
前書き
とある友人の、コメントだったか、何かで、「君は色んなものを抱え込み過ぎている」というのがあったと思う。僕の反射的思考においては、「いや何にも集中も執着もできていない」というものであったが、極端に考えれば、自分の考えにも理はありつつ、やはり、僕はたくさん抱え込んでいるのかもしれない。
さて、時間がない。
やらなければいけないことが多い、というよりも、そもそも、物理的にも時間がない。帰宅が24時~25時、26時になる生活が続いている、気がする。ここ1か月ぐらいはそうな気がする。徐々に増えている気がする。2か月前ぐらいは、21時~23時とか言ってたような。
とにかく、平日は時間がない。では休日はどうか。
ちょくちょく、予定が入っている。いやじゃあ具体的にどれぐらいかというと、土日が10回分あったら、半分ぐらいしか固定された予定はない気がする。――むしろ、台風とかその他(自分の体調とか気分)によって、予定を断る場面もあった気がする。
それでも、なお、時間が全然ない、感覚に陥っている。
今日も、予定がない休日だったはずが、10時ぐらいに目が覚めて、――なんかして、気づいたら17時だった(寝ていた)。
疲れている
前書き、は、先週に少しだけ書いたものだった。しかし力尽きて書けなかった。今日、日曜日は、時間がある。久々に、朝も起きることができた。しかし、突発的に時間ができると、まず、何からすればいいのか分からない。
SF小説の火星の人を買ってみた。まだ読んでいない。じゃあ読んでみようか、ということになるが、なんか、他にしなければいけないことはたくさんある気がする。それが何かは分からない。
短時間でも、少しずつでも、書いていったほうがいい。
そうしないと、何を書けばいいのか分からなくなるのだ。
書くことに対しての、意識の低さ。言葉の低さ。
要約はできない
要するに……が、大切な世の中である。何を言いたいのかが分からないと、他者はストレスになる。
無駄は、いらない。
いや、そんなことはない、無駄も必要だ……という、言った言わない的なやり取りに意味はない。
慮る
「慮った」という言葉が誤用だとして、ツイッターで話題になったらしい。あえて、ひらがなで、「おもんぱかった」と書かれたから、誤字だと思った人が「誤字プギャー」したら、逆に言葉の知らなさをプギャーされたということである。
無知を恥じることはないと僕は思う。
知らないことを「知らない」といえるほうが勇気がいることだ。
同時に、「バカ開き直り」はよくない。「知らないこと」を恥ずかしいと思えるからこそ、勇気がある行為なのだ。知らないことを前提に「しらねーし」というのは何ら勇気のある行動ではない。
その僕の考えというか前提をもとにして、上のニュースに対して思うことは、誤字プギャーが認識誤りでプギャーすることは、必要であると思うということである。
一見、知らないことに対してのプギャーは、――ぷぎゃーとは、バカにする、ということを指す――プギャーをプギャーすることと構造的に同じであり、どちらも許されない、と思える。何故ならば、間違ったことを必要以上に責めるということは、生きづらい世界を意味するからだ。間違いは誰にでもある。間違わないようにすることが大事だ、という前提があるべきだ。
その前提に照らせば、プギャーをプギャーすることも同様に許されないことだと思われる。
違う、と思う。
プギャーする、要するに人を馬鹿にすることを前提に考えている人を蔑むということは、必要だと思うからである。
反省すること
上の話題は、僕にとって些末であり、1行ぐらいでメモできたらそれぐらいで良かった。しかし、割と長くなった。要約力が足りない。もう一度試みてみると、「人を馬鹿にすることは許されない。しかし、人を馬鹿にする人を馬鹿にすることは許される」ということになろうか。何故そう言い切ったほうがいいかというと、「人を馬鹿にする人を馬鹿にすることも許されない」になれば、無限遡及(トートロジー)になるからだ。YES、もNOもなくなるからだ。そこに思考は生じない。
Aという命題がある。ただし、こういう場合は例外だ。
というロジックじゃないと、人は理解ができない。
理解したような気持になることはできるだろう。しかし、突き詰めると、0か1かに分けられなければ、「理解」(ものごとを適切に分けられる状態)にはならないであろう。
一方、次元を変える、というのは必要だ。
上の、バカにする人を馬鹿にする、ことは認められるとして、そもそも「馬鹿にする(プギャー)」自体が正しいかというと、そうではないと思う。
バカとは付き合うな、という自己啓発本も話題になっているようだ。
ここで、次元を変えるなら、その「バカ」というのをどういった人を対象にするか、ということになるが、そもそもの命題、「バカとは付き合うな」については賛同するかどうか。そこから入っていかないと、議論にも思考にもなりゃしないのである。
ところで、この文脈において重要性はないが、僕がバカだと思う人は、知識がない人ではない。「正義」が分からない人がバカだと思う。抽象的に書きすぎたから何も言ってないのと同義だろう。ただ、具体的に書けば、「歩きたばこする人」となり、これはこれで極端過ぎる。
責任感がない人もバカだと思う。言動に一貫性がない人もバカだと思う――が、これについては、「分人」的な生き方を「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
といった、自分の意見というか価値観があったうえで、「人を馬鹿にすること」自体は、結局、無意味――というか、生産的ではないと思う。
馬鹿にしたところで、得られるものは、自分の溜飲が下がるかもしれない程度のことだからだ。
温厚さ
忙しいと言いながら、先週は飲み会に行った。そこで、初対面の人ともあったが、その人から、温厚そうだね、怒ったりしなそうだけど、不満とか愚痴とかどうしてるんですか、みたいなことを言われた。
まず、僕のブログを万が一みてしまってから僕にあった人は全くそういった感想を抱くことはなかろうが、たいてい、初対面の人に与える印象はソレである。何十年か生きていると、ジョハリの窓の、他者から見える自分というのも分かってくる。
一方で、長らく僕と付き合っている人――もしくはブログを見ている人は、決して僕が温厚なんかじゃないことは分かってくる。そしてどうやらそのギャップが「気持ち悪い」という感じを抱かせるようである。――これも理由は簡単で、「表裏がある」ことを、人は警戒するからである。
僕の中では「一貫性がある」と思っているわけだが、それはどうやら他者にはそのようには感じさせないようだ、ということはよく分かってきた。これは「成長」というか、「知識」レベルなのか分からないが、まぁ昔(3~10年前)はよく分かってなかった。
ちなみに、上の不満をどうしてるかといえば、ブログに書き散らしているわけである(かっこ笑い)。
――しかし、どちらかというと、「現実の不満」というのは、次元的な興味ではないのである。残業が多いとか、仕事が舞い込んでくるとか、「いやもうちょっとこうしてもらったらいいのに……」的なのは、僕の興味の埒外である。それらは、「所詮」解決可能な問題である。
僕の次元
僕が問題なのは、「地に足がついていない」からである。浮いているのだ。浮遊少女だ。少女ではない。どう生きるのか。または、どう死ぬのか。
これが問題なのだ。(換言して、「生きる意味を徹底して考える」ということである)
ここまでで、約1時間である。文量は少ないが、気持ちをのせるのに時間がかかった。コーヒーと、アップルパイが旨かったおかげである。ありがたい。
僕はふと、今だからかわからないが思ったのだが、結婚とか子供とか、数年前――いや2年前ぐらい?――は重要だと思っていた気がするが、やはり順序が違いそうだ。
それは、「逃げ」の思考というよりは、そもそも、浮遊状態では、何をやってもうまくいかない気がする、という点でもある。他者は決して、「踏み台」なんかではない。
(かっこ書きである。ってな中二病だか高二病だか大二病だか分からないことを書かないと、平日等でとちくるった精神が「まとも」に戻らないのである)
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コメント
>ギャップ
人のことを理解することなんて無理なんだから、理解されることもそもそも不可能として割り切ってしまえばいい、と私は思っています
だから、私の場合、人から見た自分の性質と私から見た自分の性質に差異があっても違和感はないですね
つまり、自分にフォーカスを当てます
>要約できない
要約できないっていうことは、無駄なことではなく、単純にコミュニケーションを取ることが難しいということだと、今何となく思いました
つまり、コミュニケーションを取る必要がないなら無駄ではないということです。自己消化、単為生殖。
嫉妬について
話が変わるんですが、遠藤さんは最近誰かに嫉妬したことってありますか?
最近じゃなくてもいいけど。
人のことを理解することなんて無理なんだから、理解されることもそもそも不可能として割り切ってしまえばいい、と私は思っています
だから、私の場合、人から見た自分の性質と私から見た自分の性質に差異があっても違和感はないですね
つまり、自分にフォーカスを当てます
>要約できない
要約できないっていうことは、無駄なことではなく、単純にコミュニケーションを取ることが難しいということだと、今何となく思いました
つまり、コミュニケーションを取る必要がないなら無駄ではないということです。自己消化、単為生殖。
嫉妬について
話が変わるんですが、遠藤さんは最近誰かに嫉妬したことってありますか?
最近じゃなくてもいいけど。
posted by イミフat 2019/10/30 09:30 [ コメントを修正する ]
「表裏がある」と捉えることもできますが、これって「オンオフをはっきり分けて切り替えている」とも言い換えられると思うんですよね。
「表裏がある」と聞いて気持ち悪いとか、あまりお近づきになりたくないな、と思うようなのは、どちらかというと「表面的な人の良さに反して内心は他者を見下したり蔑ろにしたり利己的に過ぎる」という場合ですかね。内心のために表の顔で周囲を利用したりとか益を得ようという魂胆が見える場合というか。
私がこれまでの付き合いやブログ等から遠藤さんに抱いているイメージ(今回の趣旨に対するもの)としては、「内心の不平不満や個人的鬱憤をパブリックな場(自分だけのプライベートな場以外)では空気を呼んだり、場のことを考えて(その方が自分にとって都合が良いという判断からだとしても)見せないように自制できている人」といった感じです。
温厚さや真面目さといった印象を周囲に与えることが仕事面などでは有用だとして、本人感覚的には利己的にそれを実践しているだけであったとしても、マイナスイメージは浮かばないパターンです。
感情で場を乱したり、その場その場で態度や言動を変える人もいたりしますし。
>「敢えて」選択しているのだとしたら、それはそれで賢いと思う。
そして今回ちょっと気になったのがここ。
「敢えて本心とは違う振る舞いをする」というのが実践できるというのは本当に凄いことだと思うのですよね。
創作物のキャラクター付けなどにも時折見られますが、本心と言っていることややっていることが違ったり、態度や性格や思考といった人格レベルで破綻なく偽れる、というのは才能が必要な気がします。
そうした方が周囲に溶け込める、目的達成の近道や成功率を高める、など理由は様々でしょうけれど、大抵は偽装が本心から離れれば離れるほどストレスは強くなるでしょうし、割り切ったり、理性や感情と切り離したり、というのも「だからストレスはない」なんてことはないと思うんですよね。割り切る、切り離して考える、というプロセスそのものが「自分の本音とは違う」という証明にもなっていると思いますし、ある程度はそれで誤魔化せたとしてもストレスやフラストレーションは溜まるものだと思います。
「仕事だから」とか「仕方なく」とかの日常レベルというか、一過性のものならまだしも、人格や生き方レベルで常時「敢えて」を選択するとしたら、その負荷は凄まじいものだと思うのです。その辺りの負荷さえも割り切って抱えられるようなものはある種の才能もありそうだなと。
これって諦念とかにも通じるのかなと思ったりもするんですが、例えば、遠藤さんであれば「本音は自分にとっての生きる意味を探し続けている(探したい)んだけど、しんどい問題だから考えないようにして敢えてパリピな生き方をしている」みたいなことだったりするのかな、とか。
「考える」ことからは解放されますし、「一般人に溶け込んで生きる」こともできるわけですが、根底にある本心を人生レベルで偽り続けるのって相当な負荷な気もするのですよね。しかも、それを「敢えて」選択し続ける、というのは並大抵の精神ではできないように思えます。
ちなみに遠藤さんのリアルとブログ等での表裏がこれに当たるかというと、個人的には外れていて、遠藤さんがブログでもこれまでのような本心をほとんど語らず(本心の片鱗を覗かせても9割以上が気付かないとか)その大部分を自分の内側に留めてほぼ誰にも見せずにいた場合が「敢えて」を選択し続けている判定になるでしょうか。
とまぁ、そんなわけで少なくとも、「本心には正直に」という思考に至った私には、理解や納得することはできても、共感はし難い生き方ではありますね。