ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
帰りの電車の中で叫ぶ
家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
気持ちの共有
無性に、誰かと話したくなった。他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
共有してどうするのか
すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ネガティブ思考について
無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
PR
最近、仏教のことを多く書いているので、宗教に抵抗がある人を遠ざけてしまっていると思う。
数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。
学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。
ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。
考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。
釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。
一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。
数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。
宗教とは切り離した仏教
学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。
ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。
考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。
釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。
一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。
ただ過ぎていく時間が……
苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。
くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。
というのは視野狭窄である。
苛々は消えることなく
自信の喪失が問題だったのだ、とか悟ったようなことを書いてカタルシスを得たものの、まぁ当然それだけで解決するはずがない。苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。
くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。
というのは視野狭窄である。
ある程度のイライラの時は面白い文章がかけて、完全に超越するとどうなるんだろう。
人はストレスで死ぬのだろうか。理不尽なことに人は耐えられない。俺は特にそうだ。
自分の力でなにか解決できるならいいが、それもできない問題がふりかかったら、逃げ出すしかないだろう。
まぁ、それでも、命のやりとりじゃないだけ、紛争地帯と比べると大した問題ではない。
いや違う、問題の大きさは、それをどの程度自分で感じるかだ。すなわち、実存の問題でしかない。
比較の慰めは意味をなさない。それで解決する程度なら、自分で解決しろというものだ。
繰り返せば苛立ちは限りなく大きい。
だからといって、ぶつける相手もいない、いや、いるのだが、「大丈夫君が悪いんじゃないよ」って言われて回復する程度なら、そもそもこのような文章にしたりしない。
前に書いた通り、誰かに愚痴をいうことは瞬間的な対処であり、根本原因が厳然とある以上、解決の糸口はみえない。
まぁ、これもコミュニケーション能力が高い奴が勝つに過ぎない。
ゆえに、自分の能力のなさと不運さを嘆くだけでよい。
そう、運が悪かっただけなのだ。
誰も悪くはない。その環境がいけなかったのだ。
まぁ故に、だ、恨みはするまい。
しかしながら、同時にこの苛立ちはをどうすればいいのか!
とにかく書き続けるしかないだろう、しかしそれは、瞬間的な自慰に過ぎないと先ほど扱き下ろした愚痴を他者に話すすととなんら違いがあるのか! 愚の骨頂である。それどころか、害悪ですらある。
結局はそう、世界のすべての問題など、解決することはないのだ。根本的な解決を望み、理不尽さに苛立つ私は、単にヒーローに憧れるお子ちゃまなだけなのだ。
だがしかし! そんな、諦念、失望や絶望のみがこの世界で生きる手段であっていいのだろうか。
夢や理想はもってはいけないのか。
仕事に生き甲斐を見いだしてはいけないのか。人生を謳歌してはいけないというのだろうか!
断じて、否。人は楽しむために生きている。それは中学生で見いだした真理。その楽しむという定義を現実と理想のギャップにあると看破した大学生以降。
いまはただ、そのことを全力で実現するだけである。
欲をもて。欲は必ずある。それを見いだせないのは、安全を維持する諦念が働いているからだ。スタビライザー。しかし、その安定機自体が不安定な場所まで引きずり下ろされたとき、安定機の努力が何と何と虚しいことか。憐れだ。
であれば戦う。本来あるべき姿を望む。理想の形をイメージする。
もはや安定は望むべくないことが分かる。苛立ちは、安定の亀裂を告げる警鐘であったのだ。
なおそれに耳を傾けず、崩壊した土台のうえにボロボロなスタビライザーの働きに期待するのは、小学生以下の哀れなるゴミだ。
お前はゴミ虫か? それとも自らの意思をもつ人間か?
(帰宅中スマホより書き散らす)
人はストレスで死ぬのだろうか。理不尽なことに人は耐えられない。俺は特にそうだ。
自分の力でなにか解決できるならいいが、それもできない問題がふりかかったら、逃げ出すしかないだろう。
まぁ、それでも、命のやりとりじゃないだけ、紛争地帯と比べると大した問題ではない。
いや違う、問題の大きさは、それをどの程度自分で感じるかだ。すなわち、実存の問題でしかない。
比較の慰めは意味をなさない。それで解決する程度なら、自分で解決しろというものだ。
繰り返せば苛立ちは限りなく大きい。
だからといって、ぶつける相手もいない、いや、いるのだが、「大丈夫君が悪いんじゃないよ」って言われて回復する程度なら、そもそもこのような文章にしたりしない。
前に書いた通り、誰かに愚痴をいうことは瞬間的な対処であり、根本原因が厳然とある以上、解決の糸口はみえない。
まぁ、これもコミュニケーション能力が高い奴が勝つに過ぎない。
ゆえに、自分の能力のなさと不運さを嘆くだけでよい。
そう、運が悪かっただけなのだ。
誰も悪くはない。その環境がいけなかったのだ。
まぁ故に、だ、恨みはするまい。
しかしながら、同時にこの苛立ちはをどうすればいいのか!
とにかく書き続けるしかないだろう、しかしそれは、瞬間的な自慰に過ぎないと先ほど扱き下ろした愚痴を他者に話すすととなんら違いがあるのか! 愚の骨頂である。それどころか、害悪ですらある。
結局はそう、世界のすべての問題など、解決することはないのだ。根本的な解決を望み、理不尽さに苛立つ私は、単にヒーローに憧れるお子ちゃまなだけなのだ。
だがしかし! そんな、諦念、失望や絶望のみがこの世界で生きる手段であっていいのだろうか。
夢や理想はもってはいけないのか。
仕事に生き甲斐を見いだしてはいけないのか。人生を謳歌してはいけないというのだろうか!
断じて、否。人は楽しむために生きている。それは中学生で見いだした真理。その楽しむという定義を現実と理想のギャップにあると看破した大学生以降。
いまはただ、そのことを全力で実現するだけである。
欲をもて。欲は必ずある。それを見いだせないのは、安全を維持する諦念が働いているからだ。スタビライザー。しかし、その安定機自体が不安定な場所まで引きずり下ろされたとき、安定機の努力が何と何と虚しいことか。憐れだ。
であれば戦う。本来あるべき姿を望む。理想の形をイメージする。
もはや安定は望むべくないことが分かる。苛立ちは、安定の亀裂を告げる警鐘であったのだ。
なおそれに耳を傾けず、崩壊した土台のうえにボロボロなスタビライザーの働きに期待するのは、小学生以下の哀れなるゴミだ。
お前はゴミ虫か? それとも自らの意思をもつ人間か?
(帰宅中スマホより書き散らす)
しきりに、人の利己的な面を主張していた。それは間違いではないが、何故そうまで、日記にかくまでして言わなければいけなかったのか。
未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。
しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。日記にたいしてのコメントは、とても正しいのが多い。
今の自分であれば、むしろ他者のコメントに同調する。
しかし、そういった正しいコメントに、興味がないと返信している自分というのは、とても恥ずかしいながら、よく分かる。論理にみえて、感情をぶつけているだけ。それに気付いた人はとても少なかった。
そうとはいえ、3年前の記述で、それを気付いてほしいとは、幼稚すぎる。
世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。
そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。
言葉では、絶対に解決しない。
哲学や思想は、なにも救ってくれない!
運がよかったのだ。
しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。
けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。
ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。
僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。
中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。
空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。
虐殺とか、極端な例をもちだすまでなく、まずは、自分のまわりの環境から考えるしかないのだ。
実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。
そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。
正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。
未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。
しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。日記にたいしてのコメントは、とても正しいのが多い。
今の自分であれば、むしろ他者のコメントに同調する。
しかし、そういった正しいコメントに、興味がないと返信している自分というのは、とても恥ずかしいながら、よく分かる。論理にみえて、感情をぶつけているだけ。それに気付いた人はとても少なかった。
そうとはいえ、3年前の記述で、それを気付いてほしいとは、幼稚すぎる。
世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。
そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。
言葉では、絶対に解決しない。
哲学や思想は、なにも救ってくれない!
運がよかったのだ。
しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。
けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。
ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。
僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。
中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。
空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。
虐殺とか、極端な例をもちだすまでなく、まずは、自分のまわりの環境から考えるしかないのだ。
実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。
そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。
正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。