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反転した愚痴の積極肯定とポジティブのロジック
2016/04/05 20:03 | Comments(0) | ポジティブ思考
最近、仏教のことを多く書いているので、宗教に抵抗がある人を遠ざけてしまっていると思う。

数年も前であるが、土日なにしたの、的な雑談になり、写経をしてみた、といったら、マジビキという状況になったことが懐かしい。

宗教とは切り離した仏教


学問としての仏教、と、言葉をかえても、イメージでしか物事を考えられない人にとっては、無意味だろう。

ただ僕は、神に祈りを捧げたり、念仏を唱え続けることで、神や仏が救ってくれる、などとは全く思っていない。

考え方とその実践が素晴らしいと思うのであって、例えば、葬式とか、お墓とか、高貴な戒名だとか、そういった仏教様式に拘るものではない。

釈迦は、別に自分をお墓に埋葬してくれといったわけではないが、心酔する弟子たちは分骨して塔をたてたのである。


一方で、ご利益があるということを、より深く解釈してみる。

信じれば良いことがある

宗教を信じれば良いことがある、というか、そもそも、宗教という言葉に、人知を超えた尊いものを信仰することという意味がある。
ゆえに僕は前々から、資本主義も妄信的であれば宗教であると表現した。お金があれば何でもできる、解決するというのがそれだ。
日本では思想信条の自由が保障されているのでそれはそれでいい。

ただ、宗教でよいのか、というのが僕の常日頃の疑問であり悩みだ。
ということを、呪いという表現したこともあったか。即ち、懐疑的になるというか、そもそも考えてしまうということを、自然とやってしまうことだ。 

自分自身の考えを持て、と言われる時代、素晴らしいことのようだが、はっきりいって、拠り所になるインプットがなくては、考えなど本来無価値、トイレの落書きでしかないのだ。

むしろ、欲求をもて、と、僕なら表現をする。何かしたい、その強い衝動が、本来社会発展の原動力だったのだ。

成熟した時代

不透明な時代とよくいうけれども、そう考えると、欲求が希薄な社会ともいえる。

だいたいそれなりに満足。

そういうときは、よく、身近な人の幸福に嫉妬しがちである。


ああ、そんな一般論はどうだってよくて、僕はどうなのかというと、こうありたい、という思いが、確かに希薄なのである。一方で、他者への興味も希薄なので、嫉妬もあまりない、つまらない人間といえる。

ポジティブであれ、それは、苛立つときに、不快な気持ちを一秒でも発生させることはムダで誤りでしかないという説明を簡素にしたものである。

即ちそこに、あるべき姿がうたわれてはいない。

今に始まったことではない

注意すべきは、理想にもえて、挫折したという構造ではないということだ。

今の今まで、僕が人間としてどうあるべきかなど、結論を出したことはない。
もちろん、こんなこと書くと、意識高い系だとかの話はあるが、これらの思考の必要性など僕は一切肯定するつもりはない、何せ、呪い、である。

ある意味、ある意味において、僕は完成されたのである。

コミュニケーションという目的、例えば、友人をつくるとか、彼女をつくるとか、親兄弟と円満な関係を築くとか、それら個々の事象は、何年もかけて達成してきたのである。

ではなにが問題か。

空疎な目的

例えば、結婚することはスタートである、という諺、いやまさしく、そういうことだ。つまり、人間関係とは、維持、管理することが重要なのであって、作る、とか、一時的なものではないのだ。

では、目的は、円満な関係を続ける、ということになってくるが、ここら辺からもはや目的として、綻びがみえている。円満な、とか、続ける、とか、

くだらない、というとまた極端かもだが、結局そんなの、いい人になりたい、的な、ビッグな大人になる! とか、精神論にすらならない空虚な言葉でしかない。


昔々に立てた目標などは、達成された、しかし、もはや今の自分に目指すべき道は無いのである。

仕事で便りにされたい、空虚な欲望、いや欲求としても不十分。
他者依存の欲求である点も危うい。


お前は、何がしたいのか?

仏教から目的の話へ

なので、当初の記事の、宗教的な仏教は興味がないという説明、これって何の役に立つのか。

仏教が好き、といって、その意図を他者に伝える必要があるのか?

よく分からないが、まぁ、これが、不特定に公開しているという意識ゆえの醍醐味なのかもしれない。

ただ、自分にとって価値ある情報には思えない。
仏教ではなく、ゴウタマ・シッダールタという人の書いた啓発本を読んでいるような感覚である、もちろん、スッタニパータは、シッダールタがじぶんで書いたものではなく、聞き取ったことを弟子たちがまとめたものである。

無とか、反転の反転とか表現してみたものの、いわば空 くう の自分なりの解釈であるが、空の思想はナーガールジュナがまとめたものだとか、歴史の話をしないのも、仏教を伝える気がないからだ。

プラトンでもアリストテレスでも、松下幸之助でも、過去の偉人の言行録を参考に考えているだけであって、仏教に拘っているつもりはない、とかくことが、無駄だな、伝わる人には伝わるし、ダメな人にはだめ、これは、コミュニケーションの限界……、もちろん、自分の言語能力のなさを嘆くに過ぎない。


ポジティブでしかいられないこと

欲求が希薄なこと

目的を見失っていること


まとめるとこういうことだ。

ポイントは欲求

目的をたてなきゃ!
と、焦燥感に、ここ数ヵ月かりたてられたときがあった。

ただ、目的より大事なのは、自分の欲求であることを、ついぞ忘れていた。これは、今回の記事を書いていてよかった。

自分がどうしたいのか。
どうありたいのか。

禁煙も、本人がやめるという強い動機がなければ、結局ダメだ。
ゲームは時間の無だだから、やめよう、と一時思ったって、やめることでその時間を何に使いたいのかがなければ、上手くいくはずがない。

最近、病気になったのもあるが、ほとんどゲームをしていない。ただそれは、色々思考に時間を当てたかったのと、体調の回復を切に願ったことだ。


痛み止めとしてのゲーム


ここ一年くらい、とくにゲームに費やした時間が多かった気がする。過去最大とかそういうわけではないだろうが、嫌なことを忘れたいがためにゲームし続ける、というのが多かった気がする。


仕事で、家でと、腹立たしいことが多く、その場合に、家にいても苛々が止まらないとき、とにかく遊びまくる、翌日なんら解決していない問題があるわけだ。もちろん、この問題は、ちょっとやそっとで解決できない、人間関係的なものを含む。

でもそれって、酒をつぶれるまで飲むとか、タバコをカートンで吸うとか、はたまた危険ドラッグまでいくと過剰かもしれないが、それ自体を楽しむのではなく、逃避の一種である。

大袈裟にいえば、ゲームに申し訳ないのである。
本当はそれ自体楽しいものなのに、たんに気をまぎらわせるために使うのである。

無気力であること


別に、いま、ポジティブでないわけではない。それほど腹が立っているわけでもない。

どちらかというと、楽しい。
こうやって、考えて、書いていることが楽しいのかもしれないと、最近の記事で書いた気がする。

勉強するのが好きなのではないかもしれない、まぁ、勉強という言葉も非常に曖昧であり、これで一本記事がかける。

だから、むしろ、思考するためにわざと自分の身体は無気力状態を望んでいるんではないかと、いま思い付いたことは新しい発見かもしれない。

苦悩してたほうが、書くことあるし、面白いのだ、人の不幸は蜜の味、の、自分バージョンである。

くだらないカンガエトハ思うけれども、あながちハズレではないかもしれない。
今日のランチの海鮮丼のご飯が美味しくなかったとか、そんなことよりはよほど面白い。

無気力と欲求

まず、もう二度と、人に弱い自分など見せたくないと思う。心のそこまで理解しあえるとか、一時的には実現しても、継続することは困難だからだ。

だから、そういう幻想とか、エンターテイメントというのは事実としてあることを、心の慰みものとして、他者に頼ることはやめようと、これは、反転の反転の反転の反転ぐらいして、よく分かったというか、心に染みた。

とかいいつつ、先日久しぶりにあった友人にはぐだぐだ言ったわけだが、もともとそう言うことを昔からいっていて、疎遠の期間も長く、現状物理的距離が長いからよいのだ、と自己暗示。そもそも、このブログ自体弱味でしかない、まぁ、捉え方なのではあるけれども、まさかあの人がこんな愚痴っぽいなんて、ショック! と幻滅して去っていく人が多いだろう、ここで、啓発風にいえば、そんなんで離れていく人なんて本当に重要な人ではないのだから、それでもそばにいてくれる人を大切にしなさい、となる。


でも例えば、今回の記事のような自分がたりを、ほぼ毎日されたら、どんな人間でもうんざりしないだろうか。

いい加減にしろ、もっと前向きに考えろよ!

というわけで、結論は、ポジティブでしかいられないということになる。

ポジティブしか認められないというより、存在しない世界なのだ。

こうやって愚痴を書いても自由だ、思想信条の自由だ、でも、しかし、これらは、あやまり、なのである。間違いなのだ。

間違いなのに何故やるのか


答えはもう書いてきている。

つまり、これらが楽しいということなのだ。ポジティブなのだ、笑いなのだ、ウキウキするのだ、喜ばしいことなのだ。


今回は以上にしておこう。
いつも場所的都合で時間切れになるが、今回は場所をカフェに確保し、納得するまで帰さないぜ、的に書いてきた。

ポジティブで楽しくあるしかない、という直近の思想にもとづいて、非常に腹立たしい事象に対応ができたと思う。

凄まじいこじつけだ、腹立たしいこと、無気力であることが自分の欲求であって、その欲求に基づく愚痴を書くことが楽しいことである、ということだ。
阿呆と言われそうだが、かなり強力にも思える。
まさに、反転した人生の積極肯定である。

そんな時間があればアルバイトでお金を稼いだり、ゲームして遊んだ方がましじゃあないかと、すぐさま浮かぶ批判に完全に対抗できるのである。

すごい、すごい、ああすごい。
今日はこれで十分だ、また明日起こる様々な事象で、この思考が使用に耐えうるのか、また試してみようじゃないか。

そう、明日という言葉も出てきた。明日への活力である。

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