ただ過ぎていく時間が……
苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。
くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。
というのは視野狭窄である。
苛々は消えることなく
自信の喪失が問題だったのだ、とか悟ったようなことを書いてカタルシスを得たものの、まぁ当然それだけで解決するはずがない。苛々の根元はやはりどうしようも解決できないのだ。しかも、その責任は私にはない、と思う。まぁ生きてることが悪いならそうだろう。ただ、立場上は悪くないのは明白。とはいえ、そうはいっても、人間は感情で生きるものだ。その感情をぶつけられるとしても、それはコミュニケーション能力の低さからくるだけに過ぎない、ゆえに私が悪い。
くだらない思考だ。とはいえ、理不尽さから抜け出る方法は何ともありえない。
というのは視野狭窄である。
現環境を変えるのは覚悟が必要だ
ただ、いまある土台を取り払う覚悟があるかどうかは、別問題だということを念頭におく必要がある。例えば、いじめられて、転校すれば解決するかもしれないけれども、その決断は小さくないだろう。路頭に迷ったとして、生活保護制度に頼ってもいいかもしれないが、そこまで行き着くのは遠いはずだ。
幸せとは、理想と現実とのギャップが小さいことだと述べてきた。それは真実ではあるが、理想を次から次へと下げていけば、どうなることか分かるだろう。ゆえに、今ある現実を維持することが必要だが、であればむしろ理想を高く掲げて、そこを目指して向上するしか手段はない。凡人として生きるとはそういうことだ。凡人じゃない神は、現実を好きなように変化させられるので、このようなくだらなことで悩むこともない、羨ましいことだ。
あーもう本当に苛々する。けれども、見方、考え方をかえると、今は最高に幸せな状態ともいえる。好き放題やれる。笑えるほどに、理不尽さを無視すれば、なんの障害もない。
はっきりいえば、僕が他者の感情を気にしすぎているだけなんだ。先日書いた、他者の感情に共感してしまう呪い。そうむしろこれは、その他者の苛々であるのかもしれないのだ。
遮断すればよい。
その手もある。
それでいいかな。
どうなんだろ。
やる気が起きない
問題は、何もする気が起きなくなることだ。そうなんだ、むしろ、僕は頑張りたいのだ。それは苦手で高度なコミュニケーションというやつすら頑張りたいのだ。それが潰されていけば、もうそれは理不尽としか感じられないし、仕事をする気も起きない。
いいのだろうか。いいのかもしれない。いいのか?
よくわからないな、本当に、何が正しいのか、何をすればいいのか分からない、生きてていいのだろうか。
どうでもいいか。
結局、私も、いま理不尽に感情を吐露しているだけだ。
無意味だな。であれば、スキルアップに使った方がいいだろう。
まぁ、理不尽といったら、その人が置かれてる状況も理不尽なんだけどな。
問題が解決しない限りは休みであっても気が重い
よく分かんないなぁ、とりあえず、毎日胃が痛くて苛々してるだけだ。とはいえ、明日から三連休だ。しかし、明けない週はない。
ああ、昔、本当に追い詰められて体調を崩して、休みますと連絡したら、ふざけんな何考えてんだ、もういいよって言われたことを思い出した。俺は暴言だったと思っているが、そういうのが当たり前の日本社会なのだ、ブラック企業とかよくある話なのだろう?
いちいち、気にしすぎだな。結論。
それに比べたら、今の状況は大したことないし。
そうなんだよなぁ。
昔に比べたら、本当に今の状況は改善した。
それは、環境の変化とか、運要素は絶対あったと思うよ。
ただ、その状況をなんとかしようと足掻いたのは確かだ。
よくやったと思うよ、昔の自分さんは。
それに比べたら、ましだと思うよ。間違いなく。
ただ、繰り返すが、辛いといってる人に、もっと大変なひともいるんだよ、という慰めは、本当に害悪だからな。
愚痴を他者に言うことの疑問
孤独なんだよなぁ、こういった愚痴をいえる相手はいるんだけど、どうしてもそれが無意味に思ってしまう。どうしても、理解してくれる他者なんて、存在しないとしか思えない。哀しい愚か者だと分かっているが、そもそも、愚痴を、痛みを、悩みを本当に理解してくれる人がいたら、俺はその人には愚痴れないよ。申し訳無さすぎるじゃないか。
そして、他者の気持ちを必要以上に共感する性質が拍車をかけて、自滅どころか相手まで巻き込むということになる。そんなことできるわけないじゃないか。
ブログの良さ
ブログはいい。心優しい人が共感してくれたとしても、それは物理的拘束はなく、それは悲劇のエンターテイメントを読んだり観たりするよえな感動はあるかもしれない。それはそれで僕としては嬉しいから、是非この惨めな僕をみて笑って欲しい、現実で笑われたらぶちのめしてやりたい。
すなわちこういった説明は、過去の自分への釈明であり、未来の自分への励ましであるのだ。
何度もとう、ならどうして、どうして公開しているのか。
記事の管理がしやすいからということや読みやすいからといった理由に加えて、うだうだといいつつ、やはり誰かに知ってもらいたいという気持ちがあるのだろう。ただ、もうひとつ、楽しんでもらえたり、何かの考え方の参考にしてもらったりと、誰かの役に立てるのではないかという期待があるのだろう。
八つ当たりはくだらないけれども
まぁ、こういう、胃が痛くて吐き気もするときは、目に映る人みな幸せそうでムカつくのだから、誰かの役に立ちたいとか、全くもって矛盾していることもよくわかっているのだけれども。すなわち、先日の、自信のがどうこうではなく、なんかもう感情的になったらとにかく書きまくれという実践の方が教訓になったというわけだ。
本当に、書けるうちは、大丈夫だ。
苦しいけれども、なんとかなる。物理的痛みの方が、間違いなく危険。
自分の進みたい方向を見定める
ああ、そう、しかし、残り人生、精一杯やるというより、自分がどうしたいかに尽きる。それはそうと、問題なのは、体調が悪かったり、苛立っていると、創作活動ができない。できないというか、作品に影響してしまう、それもまた面白いかもしれない。
そう、苛々が問題なのでなくて、自分がどうしたいか分からないだけだ。だからこそ、書いていくしかない。
ただし、体調が更に悪くなったため、ここまでにする。
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