ネガティブ思考については、誰にも負けない自信がある。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
こう書き始められるのは、森達也という方の、「まだ絶望していないあなたへ」という、参院選に向けた記事だ。
http://politas.jp/features/10/article/496
よく読んでいけば、その「ネガティブ」という表現が、決してマイナスのものではなく、積極的に人生を構築していく、前向きなものであることが伝わってくる。
ただ、一般向けに書かれた記事であるがゆえに、結論的には、「まぁどうせ無理だろうけど」と、諦念の表現に思えつつも、実は、皮肉的に「選挙に行かない人に対するプロパガンダ」であることが分かる。
何が言いたいかと言えば、僕が常日頃書いている、ネガティブというか、暗いようにしか思われない、毎日にやる気を感じられない、生きる意味が分からないといった表現、それらは、反転してポジティブであることの表現でしかないということの、一つの示唆であるということだ。
帰りの電車の中で叫ぶ
家に帰ってしまえば、酒を飲んで、新しいゲーム(バージョンアップされた)をやって、読書して、ネットサーフィンして、と、時間はあっというまに過ぎる。ご飯を食べて、食器を洗って、お風呂に入ってと、家事も含めれば思考なんて暇はない。
それゆえに、仕事を終えて、帰りの電車に乗ったとき、椅子に座れたら、眠りにつくこともできようが、電車の中に立っていると、どうにもこうにも、いろんなことのやる気がわいてこない。
Dead by Aprilの曲がウォークマンから流れてきて、大音量で流しながら、うつろな目をしながらつり革を握る。
気持ちの共有
無性に、誰かと話したくなった。他者に相談することが無意味であるとあれほど書いておきながら、いや、それはむしろ、「本音」で語り合える友人を欲する心性のあらわれではなかったのだろうか。
とかく、僕のとてつもなくネガティブでありながらポジティブな気持ちを、包み隠さず誰かに話したいと思った……いや、そうではない。誰かに話したいのではない、ゆえに、やはり、相談したいとか、愚痴を吐露してすっきりしたいとか、そういうわけではないのだ。
僕は、誰かと、この気持ちを「共有」したかった、それは、決して、僕の話を聞くことで暗い気持ちに引きずりこまれるのではなくて、普段から、表現のできない「生きづらさ」みたいなものを抱えていて、それがとてつもなく高まってしまい、どうしようもなく自分の存在が矮小に感じ、すべてのやる気が失われていくような感覚、そういった感覚をもった人と、その気持ちが本当に「存在する」のだということを、確かめたいと思ったのだ。
リア充はそれでいい、とてもいいことだ、普段の生活に満足している人もいい、イケメンでもブサメンでもどっちでもいい、お金持ちでも貧乏でもどうでもいい。
そうではなく、現に、今この瞬間に、なぜ自分は存在しているのか、と生きていることそれ自体に実感をえられないような、そんな人たちは、必ずいるわけだし、僕が特殊だなんてそんなはずはないのだけれども、しかし、そうした人たち同士が出会い、ましてやその感覚を共有するというのは、とてつもなく低い確率なのではないだろうか。
共有してどうするのか
すぐに、現実的合理的に問いをかけようとする、この自分の思考というか頭というのは、どうにもコミュニケーションに難ありである、かっこ笑い。しかし確かに、考えてみれば、そうした感覚を共有して、そのあとどうしようというのか、それは分からない。
そもそも、多くの人に囲まれつつも非常に孤独であるという感覚を与える通勤電車というもののなかで、突発的に襲ってくる感覚なのだから、特に意味はないかもしれない。
そう、いまこうして書いているときは、それほど、苦しめられるものではない。
今日はスマートホンを忘れてしまったから、文章を書くという「逃避」(決して逃避であるとなんて思いたくはないのだが)をすることもできず、ただ、じっと耐えるしかなかった。
貧困から抜け出すには、戦争でも起きるしかないね、とあるモノカキが発言し、非難轟轟となったことがあるが、ハルマゲドン的な感覚、「なんかどえらい事件でも起きないかなぁ」と、日々の生活に退屈する男子高校生的な感性というのは、これまた珍しいものではない、とかいうと、やっぱり気持ち悪いと忌避されるから気を付ける必要があるが、よくあるエンターテイメントですませることはできない。
大抵は、日々の退屈が、本当に大きな事件が起こって、実は、日々の退屈な生活それ自体が幸せだったと気付かされるような構造となっている。エンターテイメントとしては、それはそれで成功するストーリー構成であると思う、が、実際に実存的な人生としてとらえたときに、果たして、世界の終末は起こり得るのだろうか、ということだ。
いや、もっと厳密に書けば、起こるかどうかということは決して推測できるものではない、それがゆえに、自己、自分自身が、「日々の生活が幸せである」と感じられるかどうか、実感の問題に他ならないというわけだ。
ルートは単純、日々の生活が幸せであると結果的に気付けたならばそれでよし、結局それがよく分からなければ、いわゆる「生きる意味」について、広く深く考えていく必要が発生するというわけだ。
ネガティブ思考について
無理やりタイトルに戻ってみれば、ネガティブとかポジティブとか、自分の性格とか他者にどうみられているとか、そんなこと気にしている暇などないのだ。ポイントは、相対的な言語表現が可能な事象・モノについては、一切真実たる実体は存在しないのだ、ということである。
ポジティブの反義語はネガティブ、という、反対のことが表現できるものは、それそのものとして存在することはできない、僕はネガティブなんですよねーという人がいたところで、もっともっとネガティブな人がいたら、最初の人は(相対的に)ポジティブになる。
極端でつまらない例えだが、身長がほとんどの人が130cmだとして、150cmの人は、背が高いことになる、でも、平均身長は男性で172cmぐらいだというから、150cmの人は背が低い。
次元として、130cmばかりのホビットの世界じゃあないだろうということで、結果として150cm小さい、ということになるのだけれども、この表現においてポイントはそこではなくて、「絶対的」だと思われてようが、それは、その条件下のものであって、大きい、小さい、多い少ない、長い短い、美しい醜い、相対的に表現が可能なものは、それそのものとして存在するわけではない、ということである。
だから、無理やり結論的なのを書いておけば、「すぐにポジティブ思考になれる7つの習慣」とか、「ネガティブ思考のススメ」とか、そういった記事というものは、もし読む必要があるのだとすれば、一歩も二歩も、後ろに下がった位置で読む方がよい。
真に受けると、結局、自分自身がよく分からなくなったり、現実の場面において、どう行動していいのか、考えていいのか分からなくなることだろう。
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