いわゆる、自分のことは、いくら書き込んだとしても、理解されるものではない。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
自分は特別な人間ではないと、そう感じたのだ、しかし、やはり、ある意味においては、特別な人間でしかありえないのだ。
それは親が子を大事に思う気持ちとか、名前をもった個体であるとか、それら自明なことを別として、人は自分自身の世界において、世界、他者をみているのである。
哲学的ゾンビ
これは、正しいとか、誤っているとか、決して科学的ではなくて、こうして世界を考えた方がうまくいくのだという、知恵というか、処世術的なものである。
第一そもそも、他者と分かり合えるとか、そんなこと、別に問題にされてはいないのだ。
現に、人間関係がうまくいっているならば、対人関係、コミュニケーションの問題など不要である。いっぽうで、対人関係というのは、常に仕事でも学校でも問題の上位になるのだから、本当は誰しも、絶望をかかえているのだ。
愛とはなにか
仏教的には、愛は執着から起こる、そして愛は触れることで、感覚器官によっておこる。
人間なら誰しも愛をもっているという前提、まぁそれはそうとして、なにかを自分のものにしたいという思い、その抽象化されたものが愛である。
あるときは、僕は、愛とは性欲のことだ、ととらえた。それも一面であるが、例えば親の子供への愛とか、性愛をこえたものを表現するならば、執着こそ愛であるといっていいだろう。
結婚制度と愛
結婚とは、社会制度であり、別に感情は関係しない。
ゆえに、制度自体のしばりが希薄になった現代において、離婚率がさんぶんのいちなのは、何もめずらしいことではない。
子供をつくらないといけないとかいう周囲の強制もほとんどないことだろう。
財産分与とか、相続とか、それら社会制度としての機能をはたすための便宜手段である。
ところで、愛とはなにか?
ホルモンバランスとか生物学的な要素
遺伝子レベルで一致すると、匂いでひかれあうらしい。
ひとめぼれとか、ロマンスである。
しかし、セックスが気持ちいいのはよいことだろうが、偶発的な感覚において、ひととひととの関係は、どこまで維持できるのだろうか。
家庭とはなんだろうか。役割分担、なんのため?
生きるため。
では、何故その人とともに生きるのだろうか。
結局人生プラン
結局のところ、自分が何のためにどのように生きるのか、それがポイントにしか、いまの私は思えない。
死にたくないというのが、希望であるわけではなく、むしろ死すら希望になりえない状態が、死に至る病におかされているという、いわゆる絶望である。
絶望は誰しも抱くゆえに、神の信仰こそが救いである、ただ、ここでの神は、大きなゆういつしんではなく、個個人が一対一で向かい合う、心の拠り所となる存在であるという。
それを、恋愛に対して求めて、失敗し絶望したのが、北村透谷である。
僕も女性に審美を求めたこともあったが、やはり人間は人間でしかなく、いやむしろ、それをするということは、自分自身の内にある信仰心そのものの、もはや偶像崇拝である。
といった表現をしていると、離婚して自暴自棄になっている、と感じられることだろうが、そうではないのだが、冒頭の理解可能性という部分で、もはや一切伝わることはありえないのである。
ともかく、自己の内にある真実、永遠なるもの、拠り所になるもの、それがすなわち、キルケゴールのいう神なのである。
神さまの探し方
こんな表現で本を出したら、宗教コーナーに割り振られるだろう。
いやいや、そうじゃないんだ。
むしろ、哲学、自己啓発、いや、生き方、雑学、そんなものである。
ただ、あながち、宗教じゃないかといえば、単に宗教という言葉が日本人にうけが悪いので、わざと否定しているだけで、ある意味宗教といってもいい。それは、資本主義が宗教だという表現レベルのものである。
でまぁ、そこらへんは今は重要ではなく、その神様ってどこにおるんや、ということだ。
時間切れなので、それはまた次にしよう。
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