祖父が亡くなった。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。
しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。
離婚のこともそうだ。
一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。
あまり感情がない。
一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。
でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。
都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。
生きていることは素晴らしいことだという。
よいことも、悪いこともたくさんある。
で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。
僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。
あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。
ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。
いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。
本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。
お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。
この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。
肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。
涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。
このきに、リアルタイムな、正確な自分の気持ちを書き残さないといけないと思う。
しかし、感情や、実感がどこかにいってしまっている。
離婚のこともそうだ。
一人真っ暗な部屋に帰っても、片付けして、ごみを分別して捨てて、除菌して掃除して選択して風呂に入って、寝て。
あまり感情がない。
一方、何故生きるのか、という命題が浮かぶ。
大切な人が死んだのに、不謹慎なことだ。
でも、本当に死が僕にとって希望であった時期において、それが死に至る病となって、死ねないこと、死すら希望にならないこと、、それが、僕にとってずっと巣くっていた。
都会に来ると、生きたいという欲求が薄れるという少女兵士の言葉。ジャングルの、強く生存欲求を感じる生活に戻りたいのだと。
生きていることは素晴らしいことだという。
よいことも、悪いこともたくさんある。
で、そのいくらかのいいことにすがるために、いくばくかの、46億年のうちの、わずかな時間をすごすのか。
僕は、自殺を考えた小学校四年生のとき、そう、あれは、下校と中の坂で、親友に、死にたいって思ったことがある? と、拙い言葉でたずねたとき、君は何をいっているんだ、そんなわけないだろうと言われたとき、ああ、僕は、なにか、ちがう、のだと、表現はなかったけれども、思ったのであった。
あのとき、死んでいなくて、僕はよかったのだろうか。
ああ、まさに、自分を大切にしてくれた方が亡くなったというに、こんな思考はエラーなのだろう。
いな、それでも、いやそれだからこそ、ぼくは、いまこそ、考えるべきなのだ。
本当に、守るものも、望むものも、ただ、しばらく生きていくためのお金だけある状態で、僕は真剣に考えるべきなのだ。
お金がない貧困のほうがつらいというのは、甘い考えだ、というと総すかんをくらうが、お金を手に入れたいという欲求がある時点で素晴らしいことだ。
この世界に素晴らしいことはたくさんある。
それを知った上でなお、なにも感じられない、望みがなくなった状態、それが絶望なのである。
哀しみではない
肉親の死、愛する人と離別、それはとても哀しいことだ。
涙がでればいい。でも僕は、ふわふわとした現実感のなさが続くだけである。
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