東浩紀とか、宮台真司とか、大澤真幸とか、好きな思想家がいる。
彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。
とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。
さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。
最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。
だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。
橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。
だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。
そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。
僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。
けれども、それはやはり、感情レベルのものである。
しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。
みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。
むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。
詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。
いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。
そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。
彼らの考える世界が、自分にとってよいものなんだろう、そう思えるからだ。
とはいえ、そうしたすごい人であっても人なのだから、完全にその人の思想が実現したとしても、それが普遍的幸福なものとは限らない。
さらに、その人の思想を完全に理解することも不可能である。
最近仕事をしていて思うのだけど、人の理解は本当に曖昧だと思う。
言葉を突き詰めていけば、実は勘違いがあったり、分かってなかったりということが往々にしてある。
だから、ある特定の人を盲信するのは思考停止である。カリスマヒーローなど、複雑化したこの世にもはや存在しないのだと、誰しも銘記すべきである。
橋下氏がなんでも知っている救世主で、すべて正しいことをするわけではないのだ。
だからこそ、対話を、できるだけ多くの人と重ねることが重要である。
そのことを、東氏はルソーを援用して一般意志2.0と呼んでいる。
僕は、それに、「人は所詮分かり合えない」というニヒリズム的な、というより中2病的な感覚に答えてくれるものだという気がした。
けれども、それはやはり、感情レベルのものである。
しかし思うのは、もはや真理が存在しない世界においては、感情の総和こそが代替の意志なのではないかと。
みんながそう思えば、それが正しいことなのだと、それはまさに思考停止のようだがそうではない。
むしろ、だからこそ、自分はこう考えると表現できる者が、それは理系文系かかわらず、重要になるだろうということだ。
詰め込み教育が批判されて久しいが、多くの人間を説得するには膨大な知識が必要という意味で、詰め込みは重要なことになるだろう。
いくらネットの検索性が向上しても、絶妙のタイミングで言葉を紡げる人の方が、説得力がある、すなわち感情を動かす能力があるということだ。
そう考えると世界は少しだけ分かりやすい。
結局人は、論理を用いて感情的な安定を望んでいるのだ。
PR