今日の一言「理解してもらいたいという思いは充たされえるのか」
文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
文章校正チェッカー
これは面白いなぁ。文章校正
http://www.kiji-check.com/
自分の書く文章が、どの程度正確なものか、だけでなく、難読とか意味が難しいものも指摘してくれるというのは中々興味深い。
↑をチェッカーにかけたら、「中々」というのが読みづらいというのと、「程度性格」というのが助詞不足と指摘された。
ほほー。「どの程度、正確なものか」と書いた方が確かに読みやすいね。
問題と課題の違い
なお、上のサイトを見つけたのは、「問題と課題の違い」という検索キーワードによる。◎問題
特に解決しなくてよい。よくない状況や事象のこと。
◎課題
問題に対して、対応する必要があること。
という理解であったけど、そもそも合ってるんだっけか、と思って調べてみたのである。
「問題」 発生している状況を示す。組織にネガティブな影響を及ぼすもの。「課題」 組織目標を達成するためにこれから成すべきこと。ポジティブに表現される。
つまり、「問題」があって、それに対する解決策が「課題」と言い換えることもできそうです。というわけで、まぁまぁ、合っていたかな、と思う。
ビジネスの現場における「問題」と「課題」
ただ、勘違いとしては、「日本語」としての意味としては、それほど違いがない、ということである。あくまで、昨今のビジネス的な、一般認識的な、方向性においての話しだということである。
正しい言葉を使うことと伝える技術
誰かに、何かを伝えようとするときに、正しい言葉・語彙を用いることは必須である。信号機の色を青・赤以外の色で言ってもよく分からないし、机と椅子といった物的名称を取り違えていた場合、正しく物事は伝わらない。
名詞に関するものは、それほど問題にならない。人の名前とか、地名とか、固有名詞について、人の認識相違が起こることは滅多にない。滅多にというのは、同姓同名とか、例外的な可能性だけなので、殆ど無視して構わない。
問題は、概念に関する認識・事象についての表現である。
ここで、「表現」という言葉を用いた。この表現というのは、ある物・事柄に対して、他者に伝わりやすいように説明をすることである。(←この文章は、僕のオリジナルなので、既にこれ自体が「表現」となっている)
辞書をひけば、良い表現があった、――あるものを「客観化すること」ということだ。
さて、上で書いた概念の認識・事象等の「問題」とは何か?
それは、概念的な「もの・こと」は、気付くと同語反復(トートロジー)になっている場合があるということだ。
同語反復とか無限遡及とか
アルバート・メラビアンの法則というのは、他者に情報を伝達する際に、言語が必ずしも重要ではないということを示した考えである。実はノンバーバル(非言語)の方が重要なのだよ、というもの。(ただし、いかなる状況においてもこの法則があてはまるというわけではないことは、メラビアン本人も述べているということだというwiki参照)
ここで強調しておきたいこととしては、「言葉」そのものが、正確に他者に伝えられるわけではないということだ。
そしてその言葉の困難性は、問題や、表現したい事柄の抽象性が高くなるほどに(概念的になるほどに)増していくのである。
自分の感覚や感情を完全に表現すること
自分を理解してもらいたいという感覚や感情は、誰しももつものだろう。一生孤独で構わない、と思う人であっても、ただし、その「孤独で構わない」という感覚を、可能な限り多くの人に理解して欲しいと思うはずである。
(この意味においては、孤独な人に対して、憐憫の念を思うことは、甚だお門違いであるし、人間理解の不足であるし、傲慢な態度である。むしろ必要なのは、孤独であることへの共感である。)
一方で、孤独であることを肯定する人が、「実は君だって、みんなに分かってもらいたいんだよ」と言われたとしたら、何となく、違和感を思うことだろう。孤独であるというのは、他者との関係性に距離をもつことである。それを肯定するにも関わらず、理解を他者に求めるというのは、行動行為矛盾にならないだろうか?
僕がここで表現したいこととしては、孤独であることを望む人たちへの、共感が重要であるということだ。これは、孤独な人を邪険に扱うことをではない。つまり、「そっとしておいて欲しい」という気持ちなどへの理解を示すことである。
孤独は問題なのか
この記事は、二つの問題を取り扱っている。一つは、「言葉の意味と表現による他者への情報伝達の意義」について。(1)
二つは、「孤独という生き方の妥当性」について。(2)
相互に、同時に問題を書いているために、分かりづらくなっている気がする。
まずもって、問題意識としては、「自分の瞬間的な状態や感覚を、正確に他者に伝えることは困難である」という、前々からの「実感」における、他者への期待度の低下がある。
この他者への期待度の低下が、孤独への傾向を強める。この他者への期待度の低下が起きる理由は次の通りだ。
それは、この記事の問題の一つ目の、「正確な情報伝達の困難性」と、もう一つ、仮に正確に自分のことを伝えられたとして、それが自己救済に資することになるのか、という疑問である。
整理すれば、「理解してもらえない」ということ、諦めによって、孤独の方向へ向かってしまう人がいる(1)としたとき、その孤独という状態は悪いこと、ダメなことなのだろうか(2)、ということである。
理解してもらえないことの正確さ
まず、(1)の問題、「理解してもらえない」ということは、言語表現の困難性という理由により、既に正しいことを述べた。ただし、逆に、この「実感」について、覆るようなことがあれば、「孤独に向かう」という(2)の問題は解決・緩解するのである。
さてここで、この理解してもらえないということについて、この「理解」という次元・レベル感を表現しておく必要に迫られる。
つまり、「正確な」と言ったところで、それが、何をもって正しいというのか、これ自体も、同語反復になるが、言葉の困難性故に結局不明なのである。
だって、日常生活を送るうえで、もしくは、社会生活を送るうえで、もしくは、集団、組織、国家とか世界とか、多くの秩序は成り立っている。「人は一人では生きていけない」という標語のように、人はお互い助け合って生きているのである。これはまた事実だ。これをもって、「理解してもらえない」ということは、矛盾した感覚ではないか、ということになる。
これに対しては、人間という存在に対しての立ち位置、考え、価値観によって異なってくるものだ。
人間社会を、「共同幻想的」と考えるのか、個人主義的な「分かる人と分からない人がいる」と分別して考えるのかによって、この問題のその人に対しての大きさが異なってくる。
ありがとうございます、いただきます、どういたしまして。
個々別の状況において、言語化し、「感謝」とか「嬉しい」とか、そういった「感情」を伝えることで、相互理解はどこまでも、可能である。
それでもなお、「理解してもらえない」という感覚が生じることを、「わかる人」と「わからない人」がいる。
精神医学的には、この程度が深まれば、おそらく病気と診断されるだろう。ただ、もはやこれは、傾向とか、タイプとか、一般化することで解決することができない問題である。これは、「実存」の問題だ。
一般化と実存
ものすごく、分かりやすく書いてきたつもり、であるが、しかし、書けば書くほどに、「乖離感」が強まっていく。いやーこれ、難しいだろうなぁ……。というのは、「難しいこと書いてる俺すげぇ!」という中二病的な感覚でも味わえたらいいのだが、残念なことに、ますますドツボにはまっていくというか、泥沼でもがくような感覚になるのである。ところで、こうした表現の積み重ねが、果たして、病気と診断されるようなものなのか、よく分からない。
ただし、「洗脳」的な方法以外において、この仮に病気としたときに、治療をするためには、恐らくこの表現の積み重ねが無い限りは、医師も治療を行えないであろう。
人生に意味はあるのか?
この問いについて、「ある」としておかなければ、すべてが無駄になってしまうから、「ある」のが真理にしかならないことは、僕だって分かっている。
生きていること自体素晴らしいことだ、嬉しいことだ、価値あることだ。分かっている、分かっていながら、「わかっていない」のだ。
これが、「実感」問題である。
いくら他者の言葉が素晴らしく、価値あるものだと思われて、正しくて、真理だと思っても、それを「実感」レベルに落とし込めなかった時の乖離、そのズレを無視して、いくら素晴らしい行為を積み重ねたところで、それは、基礎が柔らかな地盤に打ち付けられた高層ビルに過ぎないだろう。少しの拍子に、強風が吹いただけでも、倒れてしまうかもしれない。
正しい言葉など、何ら必要としていない。結論などどうでもいい。プロセス。過程だ。
何故、人生に意味はあるのか?
という問いこそが正しい。
一般化と還元論の危険性
もっといえば、ここで、普遍的な「意味」とか、真理というものを求めることについては、全く無意味だと、最初に排除しておく必要がある。人間とは、共同幻想の中に秩序を見出している。これは悲観的な表現にも見ることができるが、一方で、だからこそ、人が、一人一人が、価値ある存在であるともいえるのだ。
共同社会の中で生きることが正しいこと、価値あることなのだとすれば、その共同社会の規範や価値観に沿った人間になることが、まさしく真理で素晴らしいものになっていく。
けれどもそれは、一人の人間としての個性、人格を、同調・同一化していくことに他ならない。
思考停止して、全体主義的な方法で自己を救済することも可能だろう。それを明確に否定するための知識と思考を、今僕は持ち合わせていない。ただこれは、感覚的に、否、と僕は思う。
だから問いは、こうあるべきだ。
何故、僕の人生に意味はあるのか?
と。
(さぁ今週の課題まであと30ページ。頑張るか)
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