今日の一言「衝撃を受けたときに言葉は中々生まれない」「ホントは本のまとめをする気だったのにね」
ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
音読の勧め
今週の目標を達成。V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、180ページまで読了した。ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
実感を大切にすること
宗教、信仰、価値、意義(意味)、これらのキーワードについて整理したい。ただし、根底にあって、最近僕が絶対視しているというか、常に忘れないように、心に深く銘記しようと試みているのは、「実感」というキーワードである。先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
信仰についての考え
中々、書ききれない、これらの問題については、簡単には済まされない。様々な(僕の)問題に派生してしまうため、収拾がつかなくなってしまうから、この記事では、取りあえず、「実感」という言葉の意味を明らかにすることに集中したい。まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
(実感が大事だという例の一つ)
例えば、最近感じた一つの「実感」を例として書いておこう。ちなみに、良いことがあった日だった(なくなったものが見つかったのだ。大事なものだったから嬉しかった)。その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値について
さて、本記事の最後の小見出しといこうか。価値、価値観についての定義というか意味の確認である。もちろん、この確認作業も、「実感」という語の意味の具体化であるという目標へのアプローチである。価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
まとめ
まとめ、って、苦手なんだよなぁ、一方で得意なんだ。この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
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