時間がないため、できるだけ簡潔に。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。
キングダムを40巻まで読む機会があった。その際に、後の始皇帝と実権を握る大臣との対話。
大臣は、人の本質は我執であり、天下とは金(貨幣制度)であるという。そして、戦争はなくならず、国を豊かにすることが大事だという。自国が豊かになれば、周りの国からも人が流れてきて、富を循環させる仕組みを作るという。
一方、始皇帝は、人の本質は「光」であり、戦争はなくならないというのは人間への諦めだ。人は光をもっているから、よりよい世界に変えていく力がある。だから俺の時代で戦争は終わらせる。その方法は武力でだ。
結局、二人の弁舌は、お互いのもつ「前提(人に対しての理解、考え方)」があまりにも違うため、これ以上対話をしてもお互いが納得することはないだろうと、終わりになる。
戦争はなくならないというのと、戦争は終わらせることができるという考えと、そういった面の違いもあるけれども、僕が思ったのは、その、「終わらなさ」であった。
真実の不在性
僕自身、二人の対話には、感動を覚えた。上のは、僕の言葉に置き換わってしまったから陳腐なのだけれども、画力も伴って、非常に重厚なシーンであったと思う。ただ単に戦争している漫画ではない点が、面白い作品である。王と大臣、その二人が僕の目の前に現れて、それぞれが自分の目指す政治、人の本質を語ったとしたら、僕はそれぞれに対して感動して、忠誠を誓うだろう。
つまり、カリスマ性をもってして、納得できる自分だけの「エピソード」と、ロジックがあれば、大抵の人を納得させ、従わせることができるのである。特に凡人は明らかだ。
ということは、結局のところ、「真実なんてない」と最近ぼやいている、嘆いている、言い聞かせていることの示唆である。
戦争の云々、貨幣制度の云々、人の温かい心(光)、それらは戦国時代から現代にいたっても、結局分からないのである。
太平洋戦争後、日本では戦争が起きていないが、世界中で戦争は起こっていてなくなる気配がない、けれども、平和を享受できているのは事実である、ただし、江戸時代とか、数百年平和な時代は、日本にも、世界の今も戦争を行っている地域(ローマ帝国の一時代)でも、あったわけだ。
これからも、明らかになることはない、何せ、明日は何があるか分からないのだから。
だから、学ぶべきことは、「真実なんてない」という自明なことである。でも、だとしたら、何を目指して生きていけばいいのか、とりあえず、自分の命だけを長らえることを目指せばいいのか、周囲の人、身近な人、会社のため、日本のため、何のためなのか。
この考え方、昔は重要だったのかもしれない。戦争がない平和な世界をつくるため、武力をもって中国全土(天下)を統一する、という理屈が成り立ったのは、現に人が人を殺す、恐怖の世界が身近にあったからだ。
だから、戦争はよくない、人を殺すことはよくないことだ、と現代人は分かっている、ただし、小規模な殺人事件はなくならないし、じゃあ死刑制度はなんなのか、というのもある。死刑制度は人が人を殺すのではなく、権力が人を殺すのであるから、大丈夫だ、とか、その制度をめぐっての議論も尽きることはない。もちろん、この記事でどっちが賛成かを書くつもりはないし、そもそもよく分からない、むしろ、答えなんてないとすら思っているのが正しいぐらいだ。
とりあえず、好きな人を殺されたら、殺してやりたいと思う、かもしれない、実際に起こったことがないから分からないが、そういった作品を読むと犯人を憎いと思うことがあるから、そうなのだと思う、そういった意味で、エンターテイメント(作品)は重要だと思う。
話がちょっとズレている、死刑制度が云々でなく、いやそもそも、戦争がどうこう、というのも同じぐらい僕はよく分からない、じゃあ、経済戦争はいいのか、ということもある、直接的に命の奪い合いをしなくても、経済的に追い詰めることによって間接的に殺すことはできる。第一次世界大戦とか第二次世界大戦における原因の一つ、帝国主義(植民地支配)とそれに乗り遅れた国々といった構図は、歴史的事実としてあるわけだ。だからといって、侵略していいか、というとそうではないのだし、この手の議論も尽きることはない。
結局、学校の勉強というか、歴史というのは、人間ってこういったこともするのだという、「エンターテイメント」とかくと不適切だが、利用の仕方は何ら変わらない。で、そこから分かることは、「何が正しいかは分からない」ということだ。
だから、これから社会を担う若い皆さんが、一人ひとり考えていきましょうね。
ということになるのである。
知るか! と本を叩き付けたい。
保育園が少ないから日本の政治はダメだ、とあるブログで話題になっているという。
保育園が少ないことがなぜダメなのか。保育園がないと、女性が働けないから。
女性が働けないのは何故ダメなのか。男性も女性も、高齢者も、みんながみんな活躍しないといけないからだ。
なんでみんな活躍しないといけないのか。えっと……日本の経済がよくないから?
なんでみんな働くと経済がよくなるのか、外国人労働者を受け入れるのではだめなのか。
外国人ばかりになると治安が悪くなるから……? でも国内需要が増えるから景気も良くなるのでは?
段々はてなが多くなっていく。
だから、結局、大王と大臣の対話じゃないが、どんな社会にするのか、どんな日本にするのか、そのビジョンが、まったくもって不透明であって、民主主義だから対論は必ずあるし、そもそも、2000年前とも違い高度化複雑化した社会においては、一つのビジョンからすべてを敷衍して考えられるというのは、非常に難しかったり、穴があったり、危険だったりする。
女性が働かずに家で子供を育てたほうが、よりよい社会をつくるための思考をもった子供が育つかもしれない、いやそんなことはないと思うけれども、結局大きな意味で否定はできなくて、ここでいう大きな意味とは、「こたえがない」という意味であって、と書いておかないと、フェミニスト団体から石を投げられるのであるが、こんなことを書いている暇はない、もう1時を過ぎている、寝なくては。
いやもちろん、それぞれ、多様な働き方ができたほうがいいに決まっている。
あはは、多様、よい言葉だ、非常に曖昧である。こたえがない、というのと同じ意味であるとさえいえる。
じゃあ具体的にどうすればいいか、それは、それぞれが自分の頭で考えましょう、となる。
だから、カリスマ性をもって、周りをできるだけ多く納得させられたら、それが真実であって、進めるべき道であって、ビジョンであって、「正論」であって。
一人一人が持てる力を最大限発揮しましょう。
話がまったく変わってくるが、俺は精一杯やった、それでおいて、ダメだといわれた、じゃあどうしたらよかったんだよとちゃぶ台をひっくり返したい。
だから、人のいうことなんて気にすることはない、同時に、人の話はよく聞きましょうということもある、ああ、また便利な言葉で、TPOとか、空気を読めとか、場をわきまえろとか、どれもこれも、「真実」とは程遠いことばかりだ。
でも結局、毎日そうやって生きるしかなくて、真実なんて別にいらなくて、ただ時間は過ぎていくわけで――だからこの記事は、結局、愚痴でしかない、ということになるのだ。
でも本当は、もっと、有益なことを書きたいのだ。
そういえば、昨日の記事は、面白くなかったが、何故公開するのを悩んだのかよく分からないぐらいになってしまった。とかく、いろいろと、具合が悪かったことは間違いないことは、読み取れる。
いろいろ、って言葉を使うのが、頭の悪い証拠だ。いろいろも何も、体調と精神の具合がよくなかっただけだ。
結局、他者とまじわった際に、
「あのときああいっておけばよかった」「あのときのあのセリフはこう受け止められてしまったかもしれない」「あの人はうつむいていたから面白くなかったのだろうか」「目が笑っていなかった、つまらなかったのか、緊張させてしまったのか」
などなど、自己反省会が始まるのが疲れる原因な気がする。
一番適した自分を見せたい、と思っているのか、それって八方美人ってことなのだけれども、別に相手に合わせるのではなく、自分という基準をして一番よくするというか、……ちゃんと書かないと後で自分でも分からないな、というか、たぶん自分でも整理できていないのだろう。
ただ、相手を最大限楽しませたい、とか、不快にさせたくない、という奉仕精神のようなものが、強制的に働くのだ。
それって、自分が傷つきたくないだけじゃん? というのもそうなのかもしれないが、結局、人間関係をスムーズにしたいだけである、というのが八方美人というのだろうか。
ただ、この子はあんまりかわいくないなぁとか、ちょっと太ってるなとか、やる気なさそうな顔だなとか、思ったことを全部口に出すことがいいことではないことは誰しも分かっているだろう。そのレベルに過ぎないのだ、むしろ、そのうえで、楽しんでもらいたいと思うことが、何が悪いのか。
いや別に悪いことではない、自分を無理させることがいけないのだ、否、そんな理屈は関係ない、だとしたら、俺は誰とも関わりたくない、というレベルになる、楽をすることが常に最上の策ではないはずだ。いやいや両極端過ぎる、自分も楽しく、相手も不快にさせすぎない、ちょうどよい感じを作り出せばいいじゃないか、それをやろうと反省会をしているのだ、じゃあそれでいいよ、でも疲れるんだ、じゃあ一人でいなよ、と無限ループする。
だから、答えなんてないから、好きにしなよ、あとは時間にまかせなよ、というのが、いつもの結論になるが、例えば先日のように、精神的に非常に不安定というか具合が悪くなったとき、ただ耐えるだけというのはできないのであるからにして、少し元気な時に、いろいろと考えておく必要があるのだ。またいろいろといった、いろいろという言葉は、「まぁ」という言葉と同じく、何も考えていないときに当座しのぎに使う逃げの言葉だ、よくない。
まぁ、こうやって書いているのは、その貯金のようなものだ。一度、一切愚痴を言わずに行動を続ける、と決めてしまえば、その通りに実行することができる。
いま、しばらくは、ここ数年分に思っていること、感じたことを、くだらないかどうか判断することなく、書き連ねていくことにする。
書きながらでなければ考えられないというのは、どうやら僕にとって真実のようだからなぁ。
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