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生きる意味を考える上で重要なこと
2016/02/06 22:46 | Comments(0) | 生きる意味

あるべき姿

十二縁起ぐらい諳んじて言えない状態で、「僕って何」とか「生きる意味とは」とか「正義とは」とか、片腹痛い。
仏教でなくても、キリスト教でも、何だっていいが、インプット(知識)がなくては、考えることなどできはしない。

インプットとは、暗記だ。そして暗記とは、自分の「実感できること」をベースに、言葉を作り出せることである。
一字一句覚えることではない。学校のテストでも、イイハコつくろう鎌倉幕府、との知識、記憶が必要なものは少なくなっているに違いない。かといって、年号を覚えることを軽視するわけではない。ただ、人生どうあるべきか、を考えるときに、それほど重要ではないというわけだ。

またくだらなく長くなるかもしれない、タイトルからして、結論は、「重要なのは、記憶である」ということだ。
つまり、勉強しなければ、苦悩がなくなることは無い、といってよい。もっとも、人生とはすなわち苦悩なのであって、四諦と八正道をもってして、悟りを得るしか道はないのだ、という考え方もある。
四諦とは何か。四諦、という言葉の記憶、それだけでは役に立たない。それは、「実感できる言葉」になっていないからだ。

実感できる言葉とは

焼きそば、といったら、瞬時にイメージが浮かぶ。瞬時に思い浮かぶもの、それが、実感できる言葉である。
四諦といったとき、なんか四つ諦めるのか、とイメージが浮かぶわけだけれど、それが何だ? ということになるので、意味をなさない暗記である。

四諦とは何か? という暗記問題があったとして、苦諦、集諦、滅諦、道諦と書ければ100点である。
ただ、その知識に意味はない。ここでいう意味とは何かを繰り返して銘記しておけば、「人生とはどうあるべきか」ということの示唆に繋がるもの、ということである。

諦、とは、真理や真実のことである。ここから、言葉と実感イメージが異なっている。だから、仏の教えを理解するために必要な言葉であって、重要なところはその点ではないことを、理解する必要がある。

世の中は苦しみに満ちているということ。
苦しみには様々な原因があること。
原因を取り除けば苦から解放されること。
苦しみを取り除く方法があること。

四苦八苦

世の中に満ちている苦しみとは、四苦八苦と呼ばれる。四苦は、人間に避けて通れないもの。
生老病死。生きること、老いること、怪我や病気をすること、死ぬこと。ここで驚きをもつべきなのは、生きることも苦しみだよ、としていることだろう。

八苦の部分は、社会生活を送ると発生する苦しみだ。

愛別離苦。好きな人とか、親しい人と、いずれ別れなければならないこと。
怨憎会苦。嫌な人と会わなければならないこと。
求不得苦。欲しいものを手に入れられないこと。
五蘊盛苦。思い通りにならないこと。

分けて考えること

スッタニパータという、仏陀の言葉というのに書かれていることだ。紀元前5世紀ぐらいの話。
最近の自分の苛々を考えてみると、まぁ、そのうちどれかに当たるわけである。良くできた考え方だと思う。原始仏教とは異なる部分もあるのだそうだが、仏教は、分けるのが好きである。分けるというのは、理解する上で重要な試みだ。ただ、分けたところで、真実、真理がそこにあるとは限らない、この感覚は重要なのだけれども、言葉で説明するのは難しいところ。何故なら、言葉自体が、分類することによって成り立っているからだ。

学校の勉強が人生に何の役に立つのか、という疑問を、人は誰しも抱いたことがあるのではないか。
僕も同じように思ったことがあった気がするが、ただし、逆に、何が役に立つのかも分からなかったから、取りあえず勉強はしていたと思う。
まぁテスト前になると、ノートにこういったくだらないことを書いたりしていたわけだから、あまり勉強熱心とはいえなかったろう。

ただ、「分けたって真理は見つからないんだぜ」という感覚、というのは、例えば生物学とか、量子物理学とか、ちょっとさわりを学んだりすると、「ああ、やっぱりそうだよな」という納得を与えてくれる場合がある。そうした学問の、表面的な部分を理解するのに、基礎的な学校の勉強というのは大事だと思う。ヴィトゲンシュタインの考え方、言語ゲームとか、難しいけれども、いい考え方だな、と思えるのは、それなりの知識(実感インプット)を必要とする。

言いたいことは、学校の勉強自体は役に立たないという、反語的なことである。重要なのは、「実感」である。

子どもの頃に必要なこと

遊ぶのが子どもの勉強だ、という言説を聞いたことがある。遊ぶというと、DSとかゲームが想像してしまう点が、現代っ子なところだ。友達と遊ぶのがいい、という説明でさえも、マックとかにDSもって集まったりするのだから、まぁ古い思想の持ち主は対応できていないことの示唆である。

記憶に一番必要なものは何か。
実感だ。実感を得るには、経験が必要だ。別に五感をフルに使う必要はない。本を読んで得た知識だって、同じ価値がある。ただ、本を読んだとき、実感があったかどうかは、別の問題だ。「ああ、そうだよな」という感覚。納得すること、それが重要だ。

実感のない知識に意味はない

光の速さは秒速30万キロメートルです。ということは、実感があるかというと、そうではないから、意味のない知識なのだろうか。
「人生をどう送るか、どうあるべきか」という点を考えると、直接的には意味のないことである。

だいたい、1万キロとか、よく分からないじゃあないか。年間GDPが5兆ドル、という知識。ドルという通貨単位を国内で使うことがないから、1ドル125円から110円に円高になった、と言われたところで、実感なんてない。けれども、ガソリンがハイオクを、1リットル120円ぐらいで買えたら、「すごい、どうなってんだ!?」となる。今は、原油安になっているという。何でだろうという疑問をもつ。シェール革命と、OPECの減産見送りが理由という。シェールガスって何だ、OPECって何だ、となって、知識を広げていくのはよい。

ただ、シェールガスの分子式を覚えたとしても、何の役にも立たないだろう(それを生業にしている人はもちろん別)。エネルギー源なんだな、ってぐらいでよい。OPEC加盟国を全部覚える必要だってない。石油産出量が多い国が集まって価格や供給量を操作してるんだな、ってぐらいでよい。

必要な知識は実感の範囲

身の丈に余る知識は、処理しきれない。インターネット社会において、wikipediaを引けば、すぐに情報が手に入る。覚えきれない量の知識、情報。だから、覚えなくてもよい、情報を使いこなす人が重要視される時代になったのだ、こんな言説もよく聞く。

ここら辺で一気に、仏教すごいという感覚が僕の中に生じる。すっ飛ばしすぎた説明だ、まず、「中庸」という考え方の知識がないと、この感覚は起こりえない。シッダールタは、苦行したけど、これじゃ悟りは得られないとなって、瞑想をして、中道、快楽にも、苦行にも偏らないことが重要だということを示した。

情報を使いこなす人が重要だ、といったところで、じゃあ、暗記とか知識が全く無意味になったかというと、そうじゃない。どっちも重要だ、中道である。
ガソリンが安いなぁなんでだろう、シェール革命だ、なるほどな、ってなるには、シェールガスって知識がないと納得できないし、OPECという言葉も初めて聞くぐらいだったら、理解できないだろう。

無理やり序盤の話と結びつけたため、言いたいことと離れてしまった。ここで進めたいことは、知識は、実感の範囲外になると、意味が薄れていくということだ。

疑問を抱くことは重要だ

何で? という感覚がないと、記憶なんてできない。
いやもちろん、無意味な文字列を覚える方法はある。実は、そういった訓練が、脳を活性化させることも分かっている。地頭がいいというのは、瞬間記憶が高いことをいうのだろうか。
頭がいい人になりたいな、ということを、誰でも漠然と思うのかもしれない。ただ、頭のいいひとって何だ? あの人は頭の回転が速いねーという言葉をよく聞く。頭の回転が速いってなんだ? 問題が起こった時に、解決策を提示できること。初めて聞くことを短時間で多く吸収すること。そういったことを示しているのだろう。だがきっと、そういった感覚は、人それぞれであり、頭の中で思っている「頭のいい」はおそらく、一致しているわけではない。

それぞれ、自分の考える「頭がいい」ということを思い浮かべて、「そうだよね~」と同調するのである。

話しがずれるな。疑問をいだかないと、しっかりと記憶が定着しない、ということである。ゆえに、頭がいいひとというのは、疑問を抱きやすいひとだ。疑問をいだくというのは、経験がなければいけない。実感がなければいけない。だから、いろんなことをする人が、頭がいいのだ。

良い人生と頭の良さは関係するのか

話しを戻しつづけなければいけない。タイトルを読み直そう。「生きる意味を考える上で大切なこと」。
まず、生きる意味という言葉自体が、ふわふわしたものであって、定義がしっかりしないと答えなんて出せない、というのが、理系的思考である。

まぁ、そのとおりなのだが、「分けても真実なんてないのではないか」という感覚、これを大事にしたときに、定義をすることに躍起になっても前に進めないわけだ。いやもちろん、前に進むことが大事なのか、というのが同時に頭によぎるわけだけど、意図して無視しよう。

お客様のためとか、子どものためとか、住民のためとか、国民のためとか、取引先のためとか。
嘘くさい、欺瞞に満ちたモットーを掲げて、仕事に励む。と、言い捨てることの何と愚かなことか。目標や目的をもつことは悪いことではない。そういった目標を、馬鹿らしいと鼻で笑う人に限って、じゃあ君は何故生きてるんだい? という問いに、「楽しいから」と答えるだろう。そういう人たちは、僕の疑問の参考になることを言えない。僕は何が楽しいかよく分からないわけだ。

何で人は生きてるのかというのが、非常に重要な疑問である。
生きる意味という言葉は、何故僕は生きているのか、という疑問ともいえる。

うだうだ言ってないでじゃあ死ねよ、と言われるため、包丁を手首に当ててみると、ああ、なんだか、死にたくないなという気持ちを味わえる。別にそこまでしなくても、それほど積極的に死にたいわけではない。死にたくない、という言葉を書けるようになった点で、非常に年老いたというか、成長したというか、大人になったというか、俗にいう前向きな言葉が浮かぶ点が、とてもとても、嘲り含んで笑えることである。

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