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文字の発明と人工知能による支配
2016/12/19 19:00 | Comments(2) | 学習勉強インプット
今年の目標その3

前書き

 休日に、読書に時間をあてるというのは、如何なものだろうか。
 もっと友人たちと遊んだり、クリスマスプレゼントを買いにイルミネーションが輝く街に繰り出したり、そんなリア充的なことをしては如何だろうか。

 それはそれでとても楽しいことだろう。それらの有用性について思いをはせる前に、自分の先日打ち立てた目標を達成すべく、自らの行動を決定する、この決定するという自由意志こそが、人として生きる、ということではあるまいか。

 という言語表現ができるようになったのは、今回の記事のインプット目的の「文字」よりも前の、7万年前の認知革命によるものである。
 しかし、こうした口承によるものは、150人程度の噂話で繋ぎとめられる集団をはるかにこえ、大きな国という概念に発達したサピエンスの集団を維持するシステムには不十分だった。

数理的データの取り扱いの必要性

 国を維持するには、税金が必要である。
 税を徴収するには、国の成り立ちを物語る、神話や法律の制定を繰り返し口頭で伝えるだけでは不十分だ。何故ならば、人は、大量の数理的データをインプットできるような脳構造をしていない。
 狩猟採集民は、我々現代人(の個々人)よりはるかに深遠で幅広い自然についての知識をインプットしていた。しかしその知識は、どの木に食べられる実がなっているか、にとどまり、その木に何百の実がなっているから、自分の集団に必要な量はこれぐらいで、残りは他の部族との貴重品の交換に用いよう、とはならない。

 税金を徴収する場合は、国に住む人たちの数の把握はもちろん、個々人の所有、負債、控除や割引の情報、滞納金や罰金といった数の情報を保持しておく必要がある。
 数万人単位の国において、それらを、どんな天才的な記憶力を保持する人がいたとしても、正確に処理するのは難しいだろう。


 ということで、紀元前の3500年ごろ、それよりもっと前から発明されたのは、書記という体系だった。

不完全な書記体系と完全な書記体系

 まず、私たちの用いる言語表現は、「完全な書記体系」である。一方、はじめに使われ始めた文字、書記といった体系は、もっぱら、「数理的データ」を取り扱うものだった。

 2万9千 大麦 37年 クシム

 みたいな。クシムというのは、肩書かもしれないし、名前かもしれないということだが、署名だとのことである。もしそうだとしたら、人類初めの認識できる当時の名前をもった個人である、とのことだ。


 不完全な書記体系というのは、話し言葉によるものではなく、一定の、限定された領域の表現を目的とした書記体系のことである。

 アンデス文化においては、縄目のキープと呼ばれる書記体系が用いられた。縄にコブをつくり、それによって数を現したということだ。スペイン人に支配されるまで、それで十分高度な文明を維持発展させることができたということだ。

今回インプットすべきこと

 本の内容をまとめる作業というのは、大学のレポートなどでは重要だろうが、正直面倒なものである。しかし、ここで、正確な引用(例えばページの何ページにこう書いてあるから、これはこういう意味である、とか)を行って考察するということは必要ない。
 本のレビューをしようというのではないのだ。


 例えば、キープという文字の存在は、「ああ、そういえばそんなのあったね」という記憶はあっても、その記憶を呼び起こすだけに本を読んだのでは、あまりにもったいない。

 そうではなくて、知見としてインプットしたいこととしては、

 文字は、まずは数を保存するために用いられたこと


 ということだ。
 同時に、忘れないようにすべきなのは、「認知革命」が起こったのは、7万年前であり、人類が決して、文字の使用を始める前に、「神話」的ものがたりを想像しうる言語を使っていたということである。

 巨大な柱や、ラスコー、アルタミラの洞窟壁画といった、宗教性を帯びた作品を狩猟採集民たちも残しているということだ。

 もっと思い出してみると、言語は、サピエンスだけの特有のものではない。

「ライオン きたぞ やべえ 逃げろ」

 というのはネアンデルタール人も発していただろうし、霊長類、いや、それいがいの動物においても、集団の仲間に情報を伝えるために発声するということは行っている。

 サピエンスの進化で重要だったのは、「事実」の伝達以外に、「物語」を語ることができる言語を発明したことであった、そのことである。

文字とそれをアウトプットする方法

 流れに沿って書いていくのに飽きてきた。
 今後、僕の言葉で書くと、「概念記憶」の重要性が高まっていくように思える。これも別に新しい概念ではなく、「ストーリーをつくる技術」とか、ビジネスにおいても重要だよ、ということがうたわれていたりする。

 虚構の言語の発明、集団の巨大化、文字の発明、思考方法の変化。

 こうやってインプットしていると、つい忘れてしまうのだけれど、サブカルチャー的な存在も念頭においておく必要がある。
 確かに、言語や、文字による集団の統一かがはかられていたことは疑い得ないだろう。しかし、それ以外の、例えば、音楽的な要素……または、踊りや舞いといった、人々の感性にうったえかける概念が集団の統一化に寄与していた面はあることだろう。
 そういったものの証明は今後も不可能に思われる。文字の発明の起源は、年代の特定技術や発掘技術の向上により徐々に明らかになっていくかもしれないが、音楽は証拠として残されるものは何もないからだ。

 初期のメソポタミアのシュメール人が残したのは、もっぱら行政上の処理であり、不完全な書記体系であった。それが、紀元前3000年ごろになると、象形文字や粘土板に刻まれた楔形文字、中国の亀甲文字など、数理的なものだけでなく、口頭での表現や、神話や愛の歌も記せるようになっていったという。


 だが、それでめでたしめでたしではなかった。
 たくさんの情報を保存できたとしても、それを適切に管理し、必要な時に引き出す方法がなければ、机の周りに積み重なる書類の山でで辟易してしまうことだろう。

 それにより、官僚制や、文書管理責任者(法律家や会計士など)の役職が固定化することとなっていった。

コンピュータへの教育

 そして今私たちは、更に思考方法を変えて、コンピュータに対して分かりやすい言語を用いるようになっている。1か0の世界。2進法。
 外部記憶装置(ハードディスクやUSB記憶媒体)に記憶(日記やブログ)すらも保存するようになった。

 人工知能は、1か0の書記体系で、サピエンスがどのように思考し、感情を有し、表現するのかを教えようとする試みだ。
 そうすることで、私たちの生活や人生がより豊かになることを信じて。

 この、人間とサイボーグとアンドロイドとの違いという部分については興味のある分野だ。
 精巧なラブドールがつくられ、リアルなアンドロイドが作られている。

https://www.youtube.com/watch?v=KmTRU04AvRc
 ↑これはまだ不気味の谷が残ってる

https://www.youtube.com/watch?v=BQvX8UKN4VI
 ↑これは3DCGだが、ここまでくるとアリだ、と思う

 見た目の問題は解決するかもしれない。
 しかし、思考については如何だろうか。

感情の体系

 不確定な要素があるから、人間は人間なのだ。と言い切ってしまえば、人工知能など不要である。
 治水のために暦を発明し、効率的に人を殺すために兵法を深め、自然を支配し自らが豊かになるように人は知識と行動を積み重ねてきた。

 人工知能も、人の生活をよりよくしてくれるものだと、そう信じているから今投資が投資をよんでいるのだろう。

 サピエンス全史でもふれられているが、それに対して懐疑することは、さほど意味をなさない。
 共同幻想(共同客観)が醸成された場合、個々人、少ない集団の考えは、当然「異端」として排除されるか無視されるだけである。

 マトリックスやターミネーターのような、人工知能の反乱が描かれていても、昨今人工知能への期待が高まっているのは、やっぱりそれが、「金になる」と同時に「人にとってよいもの」だという期待があるからだろう。


 しかし恐らく、「人工知能」に対しての印象というのは、今の時点、多くの人にとって統一をみていない。
 例えば、自動運転の技術だって、人工知能なんじゃあないかと僕は思ってしまう。前の車との距離を確認し、白線の内側を走っていることを確認し、アクセルとブレーキ(エンジンブレーキ)によってスピードを調整して目的地を目指す。というのは、人間が行っている思考や行動と何ら変わらない。それを自動的に行っているのだ。

人工知能

 複雑な製造を行う工場でのロボットたちも、「知能」をもっていると言っていいのではないか?

 多分、違う。

 人工知能といっているのは、もっと高次の思考体系……つまり、「創造」ができることを指しているのではなかろうか。
 つまり、プログラミングされたこと(自動運転や工場で製品をつくること)ではなく、新たに、現存する情報から、必要な情報をピックアップし、そこからシミュレートし、新しい結論生み出すようなこと、そういった創造ができるのが、人工知能と呼ばれ、期待されているものなのではなかろうか。

(上のは、完全に世迷い事、というか、何も調べず書いているから、適当極まりない単なる個人的な感想ですらないメモというか落書きだ。)


 そうなったとき、果たして、人間が果たすべきこと、これから学ぶべきことって何だろうか。

 いやそもそも、理想の社会って何だろうか。
 汗水たらして働くことが重要ではない、ということだろう。汗水たらして働くことが重要なのだとしたら、ロボットや工業化や人工知能は不要だ。
 楽して効率的に食糧や価値を生産することが大事だ、ということだ。

(とか考えると、完全蛇足だけれども、やっぱり、「頑張ること」とか、修羅場をくぐりぬけるとか、そういったことが昨今の時代要請に逆行しているように思えるのであるが、これはまた別の機会に)

 と、本の内容と段々かけ離れてきた段階で、終了とする。何だかこのまま続けても終わりがなさそうだ。


拍手[1回]

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コメント

残しておいて有益な情報って記録だったのでは?
と思った。自分の場合、行動ログや家計簿なんかは後で見て結構有益だったりする。でも感情をつづった文は読み返すことが少なく、そこから新たな価値を生産することが出来ていないような気がする、気がするだけかもしれんけど。

昔の人もそうだったんかも。
posted by QUWEat 2016/12/20 02:00 [ コメントを修正する ]
その通りと思います。そもそも書くことが高コストだったため、わざわざ余計な感情なんてものを書き残す余剰がなかったのでしょう。

そういう意味でこのブログは逆行することを目的にしていて、まさに需要ないな、というかんじですが、自分にとっては、いついつに何をいくらでかった、というよりかは、いついつに何があってどう考え感じたというのは、少なくても役に立っていると思います。自分にとっては……ね。
posted by 遠藤at 2016/12/20 07:23 [ コメントを修正する ]

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