今日の一言「久しぶりに作品見て泣いた」
「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
ミスリードが多すぎて見事に引っかかった
やられた……。まさか、8話目がそういうことだとは全然気付かなかった。「心配」
という感情を、もう一人の状態と上手く絡めて、引っ張っていた。
ぐぞぉぉ、騙された……、でもいい作品だった。泣いた。
しかし、この「感動」何に基づくものだろうか?
よく分からない。ただ、何だかこう、家族愛とか、そういうのっていいな、というものなんだろうか。
たまたま東京に孫が遊びに来ていて、目の前で失ってしまったおじいさんおばあさん。献身的にボランティア活動をこなす。「わたしが……死ぬべきでした」とか、台詞も重いものがあった。
突然大事な人に先立たれてしまうというのは、とても悲しいことだと思う。
いい感想じゃあないな
どういうシーンが、どうであったから、こう感じた、というのが正しい感想なのだろうが、ネタバレ的な感じも何だか今の気分に合わないし、まぁ、最後まで見てよかった、という感想を残しておこう。こういう感動的な奴は、サピエンス全史とか、そういった書籍では味わえないものだ。
これこそ、物語、エンターテイメントとしての価値である。
感動を与えない作品に意味はない。いや、即自的な充足を与えるものもあるから、それは言い過ぎだけれども、お金払ったり時間をかけて見るのであれば、そういう上質なものを求めたい。それにはやはり、深い人間理解が不可欠だ。
そういう意味では、最近連載中のとあるバトルファンタジー小説は良かった。作者さんは難解な設定と描写とで、続きが書き進めずに苦しんでいるという。ここで僕は、何と言葉をかけてあげられるだろうか。
頑張ることは無意味だ、と最近書いている。
しかし、僕は、「頑張れ」と鬼の形相でいってみようか。「血反吐を吐いて身悶えようが、俺を楽しませる作品を仕上げてくれやがれお願いします!」
今の自分では能力不足ではあるが、いずれ、人に感動を与えられる作品を紡ぎたいものだ。
しかし内実、その「カンドウ」にもさまざま種類があって、その死狂いの作品からの感動と、今回見た東京マグニチュード8.0からもらった感動と、
まだ結局見れていないが、「君の名は。」からもらえるかもしれない感動と、では、種類が違うことだろう。
何かいいこと書きたい気分
何か書きたい気分になった。けれども、何も浮かばない。そうなんだ、感動する作品読んだり見たりしたあとは、特に言葉は不要になる。
ただ、酒でも飲みながら、いっぷく、ぼーっとしているのが、至上の幸福に思えるもんだからぁああ大変だ。
東京マグニチュード8.0は、家族愛だぜ?
一人カクテル飲みながら涙を流してるなんて、矛盾じゃねーか? と思うわけだ。
ここに、普遍的な感情と、現実との乖離が潜んでいる。
貴族階級のお偉方は、オペラで悲劇をみて涙を流したかもしれないが、下層階級の労働者が貧困に喘いでいるのに無関心でいられる。
孫をなくして悲しんでいながらボランティア活動に精を出すおじいさんに感動しながら、バスの席の前に立ったご老人に対して席をゆずろうとはしない。
なんというか、車内で化粧をする人が昨今問題になっていたが、なんというか、近しい人、即ち「物語がある人」に対しては優しくできようが、街ですれ違う大多数を相手にしたとき、それを「人」として認識できるかどうかは、教育水準とか人格水準によって作り出せるとは限らない。
特にだ、宗教的観点や、ヒエラルヒー(ヒエラルキー)によって、他者との交わりがある程度規定されていた社会構造においては、まぁ決まった儀礼的様式に従って他者と接していればよかったからある意味簡単だった(それが幸福かどうかは別として)。
取りえず、想像上の秩序だろうと、共同主観的なルールだろうと、今の我々は、平等人権的な考えによっているから、年よりも子供も誰かれも、基本的人権をもった人、なのだから、それなりに尊重して接しなければならない。
でも尊重って何だよ? 冠婚葬祭、お中元とか渡してればいいのか? 年賀状かけばいいの? よく分からない。
メリークリスマス
5歳の難病で死にかけた男の子に、サンタさんがやってきてくれたというニュースがやっていた。大反響で、いい話だなぁとなったということだ。僕もうるっときた。
その一方で、先日、街を歩いていたら、頭のおかしい奴にからまれた。
変なの。
何故、死にゆく小さな命に、砂上の楼閣のような夢をみせてあげることが、人々の感動を呼ぶのだろうか?
実際、感動的な話で、僕も涙しそうになったから、きっと僕はサイコパスとかじゃないんだろうけれども、でも、何か、どっか、胡散臭いなぁとも思う。
イラっとする出来事のときも、誰も助けてくれなかった。みんなシーンとして、静まり返っていた。見て見ぬふりだ。目も合わせない。
東京駅で、脳こうそくだかで倒れた人がいて、誰も立ち止まって助けようとはしなかったという。それを、たまたま通りかかった芸能人が助けて救急車呼んだというのが、「美談」としてニュースになったという。
なんか、変じゃないか? その変、という感覚が何なのかよく分からないし、今日は表現しようとする気も起らないけれども。
みんな、「都合のいい物語」を欲してるだけじゃない?
自分は手を汚したくないけど、「人間の素晴らしいところ」という幻想を信じ、すがってるだけじゃない?
今年も残りわずか。
どうか、多くの人に平穏と平和と幸福が訪れますように。
非常に憂鬱な気分に
あぁ……。書いていると段々ハイになっていて、苛々とかそういった感情もなくなっていく、というのが最近分かったことだが、逆に、「感動した」ということを書いていくと、だんだんその感動が劣化し、苛々……というよりも、非常に鬱屈した、鬱々とした、憂鬱な気分になっていく、のだろうか。いや、残り僅かな時間、休みが終わるとか、そういった気分のせいなのか。
その両方かもしれない。
ヘルプミーである。
ふむ……しかし、いやぁしかしながら、「なんやかんや言って」、結論的なものから逃げているように思える。
書くことはそれ自体かちのあることです! とか自分に言い聞かせて、結論から逃げているのではなかろうか?
人生に自分を全力でぶつけているだろうか。
残り僅かの年の瀬に、何を思うのか。
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昔はもっと感動しなかったんだろうか、それとも感動したことをただ覚えていなかったんだろうかと考えたけど、どうだったか全く分からない。
覚えているのは、昔はストレートな感動話で涙していた。今はストレートな表現に胡散臭さや製造された感動を感じて不感症になった半面、どうでも言いような所でホロリといってしまうようになった。
まぁ、これといって落ちは無いけど、なんかそんなことを考えたんだぜ