今日の一言「衝撃を受けたときに言葉は中々生まれない」「ホントは本のまとめをする気だったのにね」
ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
音読の勧め
今週の目標を達成。V.E.フランクルさんの「人間とは何か」を、180ページまで読了した。ちなみに、いずれ書いておこうと思うけれども、「音読」はお勧めできる勉強(学習・理解)方法である。寺子屋で漢文を素読していた古臭い感じを受ける人は、脳科学の川島さんの本を読んでもいいだろうし、まぁ、理論的な云々はさほど重要ではないけれども、僕の「実感」として、黙読している時よりも内容が頭に入ってきているし、銘記もできている。
もう一つ、音読のメリットとしては、スマホか、ICレコーダーをお持ちであれば、是非録音してみるといい。それで、ウォークマンとかiPodとかスマホに入れて、何だか勉強する気になれない時にただ流すだけでもいい。「聞くだけで英語力がUP!」というのは嘘っぽいが、自分の声で、自分が一度読んだ本の内容を聞くのは、復習の効果を格段に高めてくれる。
さらに、録音することのメリットは、学習時間の記録が同時にできるということだ。目標を達成するには、明確なゴールを設定することも大切であるが、同時に、自分の実績を把握することも大事である。小学校ぐらいのときに、宿題の提出記録を、模造紙に貼りだされたグラフに、金ぴかのシールで段々積み上げていったようなことがなかったろうか。まぁ、ビジネスの営業成績のグラフみたいで、今考えると何とも言えない不快な感覚にもなるけれども、幼いころは、その金ぴかシールが段々増えていくのが単純に楽しかった。
単純に楽しい、そういう感覚、非常に重要である。
実感を大切にすること
宗教、信仰、価値、意義(意味)、これらのキーワードについて整理したい。ただし、根底にあって、最近僕が絶対視しているというか、常に忘れないように、心に深く銘記しようと試みているのは、「実感」というキーワードである。先日の記事で、「どいつもこいつも好き勝手言いやがって」と書いたが、これはとにかく、このブログにコメントをくださる方々を対象としているわけではないことを最初に書いておこうか。実はまた予約投稿が実行されて、気になっていたのである。これ(物理環境とコメントと、苛々の根源に対する記述問題)については、また、別途書いておこう、今回は一切触れないこととする。
それはともかく、実感、この言葉の意味を定義しておきたい。
これを書いていくには、まず、宗教とか信仰とか、価値観ということに対しての、僕の立場というか、考えを打ち立てておく必要がある。
まず、僕は、無神論者である。「神はいない」という立場である。一方で、悪魔の証明ではないが、いないことの証明もできないと思っている(神を悪魔というか! この罰当たりめが!)。
一方で、宗教についての価値は認めている。ただし、これは、宗教一般の概念への肯定であって、何か特有の宗教を信じているということではない。キリスト教、仏教、ユダヤ教、イスラム教、マニ教、ゾロアスター教、アニミズム、古今東西様々な宗教がある。その中で、かなり信仰者が多いキリスト教に対して、僕は違和感がある、いやすぐさま書けば、キリスト教をモチーフにして「説法」をする人たちの言説に対してである。例えば、「聖書ではこう書かれてます」「神はこうおっしゃいました」だから、こうしましょう、とすることを言う人や書く人が多い印象である。この「だから」というのについて、それを「納得」できる人はよい。ただ、その「だから」を十分に吟味せずに、誰にでも当てはまる普遍的なもののように語る切り口が許せない、というか、苛々の原因になる。
これが、「実感」問題だ。上のキリスト教の例においては、別に、キリスト教が悪いとか、間違っているとか、そんなこと思っているわけじゃないのだ。ただ、キリスト教が生まれる前から人類は集団をつくって生きてきたし、現代社会においても、キリスト教以外の宗教を信じている人たちが大勢いる。そんな中で、キリスト教だけが絶対です、というのは無理があると思う。実際問題、キリスト教を信じていないから、僕が苦しみに満ちた人生を送っているのだ、という可能性だってある。それは否定できないだろう。だからそれゆえに、そのロジックで、「神を信じなさい」とされる。これはコマーシャリズムと同じく、不安をあおって商品を買わせる技術そのものである。
ただし、これは、「高2病」という、既存の概念や一般的に正義と呼ばれるものに対して、何から何まで否定したくなってしまう病気、であるともいえる。ので、昨今僕は、できるだけ「信じる」ことをしようと試みてきたわけであるが、それを具体化、詳細化する前に、生活の大きな変化が発生したために、混乱中であるというわけだ。
信仰についての考え
中々、書ききれない、これらの問題については、簡単には済まされない。様々な(僕の)問題に派生してしまうため、収拾がつかなくなってしまうから、この記事では、取りあえず、「実感」という言葉の意味を明らかにすることに集中したい。まず、信仰という語を考えたとき、これは、「何か超越したものを信じる」ことである。ロジック、論理があって、それでもって納得するものは、「信じる」とはいわない。客観的である、といわれる。
一方で、信仰という語を用いる場合は、その何か仕組みや原因やらが自分の中で分かっていなくても、「正しい」と信じられるものを指すのである。
この信仰というのと、「実感」とは、何が違うのか。本質的には違わない。どちらも、信じ、心から感じることである。
ただし、僕が、これまで、そしてこれからも、この「実感」という言葉を使うときは、「信仰」という意味と、「論理的な納得」という意味の、両方を含んだ概念として用いることになるだろう。
(実感が大事だという例の一つ)
例えば、最近感じた一つの「実感」を例として書いておこう。ちなみに、良いことがあった日だった(なくなったものが見つかったのだ。大事なものだったから嬉しかった)。その日、僕は電車に乗って街にでかけた。行く道すがら、そしてその街の中には、たくさんの人たちがいた。会社に向かう人や、休日としてゆっくりしている人、家族といる人、一人の人、恋人といる人、子どもたち、たくさんの人たちがいた。
僕は思った。何か、「寂しい」なぁ、と。この感覚! この感覚を認めるのは、中々、僕の中では困難であることを書いておかなければならない。(一般的に間違いであろうけれども、僕は以前、人間きらいだとか、孤独が好きだ、とか書いてしまった、これは認めなければならない)
何故驚きがはしったかといえば、例えば、今現在、一人で哀しきブログを書いているこの瞬間においては、「さみしい」という感情など、豪釐(ごうり)(少しも)も発生していないのである。
つまりだ、多くの人たちが、楽しそうに輪になっているのをみると、「うらやましいなぁ」という感覚が生じるのだ、ということだ。ただし、強調して自分に言い聞かせなければならないことだが、そういった「流れ」に任せて、取りあえずの集団の中にいることは、間違いなく僕にとって苦痛であり、精神値を削っていくことになるのだ、ということだ。
ただ、この感覚が僕に与える「実感」のもう一つの有用点は、脳機能に関する林先生の仰る、「脳神経細胞には、生きたい、知りたい、仲間になりたいという三つの本能があります」ということに対する実感的理解である。
本能的には、僕も、孤独が好きとか言っちゃいながら、やっぱり皆とわいわい楽しみたい、という思いが発生することがある、ということなのだ。であるならば、その集団に属したときに感じる「つまらなさ」という原因や課題を解決する方策という、問題解決の問いを立てるべきだ、ということが明確になってくる。これは非常に重要だ。この「僕も仲間になりたい! という「実感」はもっているんだ」という実感がなければ、そもそも、孤独の在り方について追求すべき、という問題解決の問いにすべきかもしれないというわけだ。
価値について
さて、本記事の最後の小見出しといこうか。価値、価値観についての定義というか意味の確認である。もちろん、この確認作業も、「実感」という語の意味の具体化であるという目標へのアプローチである。価値が多様化している社会に僕たちは生きている、といつぞやから書いているけれども、これは、「実感」レベルというわけではなくて、知識的に思っているに過ぎないことだ。ただ、身分制度が廃止され、「お家」という拘束力が緩和され、資本主義と社会主義といったイデオロギーが緩解し、神は死んだと言われ宗教性が薄れ、科学の発展により迷信が薄れていった、この現代を考えたときに、やっぱり価値が分散化していくのだろうなぁというのは思うことである。
だから、反動的に、画一主義的な運動や、全体主義的な思想や、暴力的な現実の中の現実への回帰とかが発生(某国の政治不安や過激派組織の台頭など)するのだ……というのは、それはそれで、価値が多様化した結果による反動であるという意味においては、やっぱり、「神の審級」といったものの強い拘束力は失われていっていると言えるだろう。
まぁ代わりに、「金融資産」、お金、というものに対しての信仰が強まっている印象であるけれども、まぁそれについては、本記事の目的からそれるから置いておこう。
では、その価値というものと、実感というものの関係性についてであるけれども、言葉で表すと、「実感の総体が抽象化されて、意味に昇華されたもの」と言える。ものすごく分かりづらくて、多分、後から読んだ僕自身も分からないと思ったから、図示しよう。
(遠藤作:そこそこテキトウ所要1分くらい)
図を描いていて思ったけれど、価値観、それが即ち、自分自身(自己)であるのだ、ということだ。
逆に、これまで僕に足りていなかったのは、紫枠の「信仰」要素である。
疑い深いというか、頑固というか、そういった性格気質が、そもそも誰かを信じるということを苦手にさせていたのだろう。今でも、「この人すごいな!」と思うことはあるけれども、全人格的に見習いたいというか、すごい……と思う人は、現実世界には殆どいないし(殆ど……? 俺は今誰を想像している?)、過去の偉人を含めても中々難しい(こっちは最近増えてきた)。
こういう人をなんというか。プライドが高い奴、という。プライドが高くて、実行力とか知識とか行動力とかその他諸々、スペックが足りているならそれはそれで有能な人間だが、プライドだけ高くて何もできない奴は、ただのクズよりももっとたちの悪いクズである。「俺だって、頑張ればできるけどね。頑張らないだけだけど」とかいう奴は、ほんっとに救いようがない(お前だ!(かっこわらい))。
自己エクスキューズってのがあって、「いやぁ、時間が無いけど、取りあえずこんぐらい書いときますわ。まぁ、本当はもっと言いたいことあるんだけどね~」とか、それは違う。お前にとって、それは全力なんだ。全力疾走だったのだ。頑張った結果がそれだ。自惚れるな屑が!
(……と、序盤の方に書いたけれども、他者に対して僕はこういうことを思うことはあまりない。基本的に、自分自身に向かう言葉である。ので、誰かを想定して書いているわけではないことを明確に書き残しておきます)
この自己エクスキューズが多いと、何が問題か、というと、「実感」が乏しくなっていくのである。
本当はこうだった。
本当の自分はこうなんだ。
頑張れば本当はできるんだ。
とか、その「本当は」という自己エクスキューズばっかりだと、実感は充実しない。それどころか、これまで培ってきた実感も、徐々に亀裂が(疑問が)入っていくのである。
その結果がどうなるか、という点に関して言えば、自画自賛だが、上の図はよくできたと思う。即ち、実感が壊れていけば、自己も壊れていくということである。
まとめ
まとめ、って、苦手なんだよなぁ、一方で得意なんだ。この記事をまとめると、「実感を大事にしましょう」以上、だ。
まとめの難しさというか、苦手意識を思うのは、結局、良いまとめ、というのは、「他者に対して」どれだけよく伝えられるか、に尽きるからである。
ただ、その「他者」というのが、「誰」を想定するかによって、まとめの仕方が変わってくる。これがめんd……げふんげふん、難しいのだ(この表現は、仕事でのストレスの表現である)。
(長くなったなぁ、30分ぐらいかかったかな。5000字ぐらいか。小説の方は2000字ぐらい進んだ。このブログのペースで小説書けたらいいんだけどなぁ……)
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今日の一言「朝型になろうという試みはかなりの確率で失敗している」「自分でコントロールできない要素が多い問題は解決しづらい」
あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。
書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。
そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。
君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。
先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。
で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。
この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。
何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。
おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。
読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。
その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。
あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。
と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。
思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。
ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。
(朝は本当に強制的に時間切れだ)
5時に自然に目が覚める
目覚ましいらずに、自然に目が覚めるというのは、悪いことではない。ただ、その後、行動的になれるかどうかは、前日の準備次第だったりする。あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。
ブログを書くこと
大抵、この書くことは、夜にやっているので、朝に何か書こうと思うと、結構難しい。でももしかしたら、朝に書く内容の方が、能率的で、内容に富んで、ポジティブで良いもの、なのかもしれない。書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。
君の名は。ショック
夢を、見ていたのだけれども、確か、レシプロ機が、二階建ての家の中のガレージに帰ってくるのを迎え入れたのと、友人たちとトランプをしている夢であったような気がする。そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。
君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。
先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。
で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。
書きたいことの枯渇
ふむ……、うーむ、何だか、やはり朝に書くというのは、中々慣れないというか、書いているうちにテンションが下がってくる。もう少しで出発しなければいけないという、そういう焦燥感もあったりして、あまり落ち着いて書けない。この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。
何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。
おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。
小見出しの数を決めてみようか
↑のサブタイトルみたいな奴を小見出しと呼んでいる。HTML的には「h2」タグである。読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。
その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。
あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。
と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。
思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。
ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。
(朝は本当に強制的に時間切れだ)
今日の一言「寒いな」
こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
穏やかな連休
体調も悪くなく、久々に穏やかな休みを過ごせている。こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
身の回りの整理や掃除
整理整頓という言葉がある。整理と、整頓とは別の概念である。整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
情報の集約性
うーむ。本当は、タイトルの、思考言語と口頭言語と文章言語について書きたいと思っているけれども、やはり話が中々進まなそうだ。こういうときの書き方、というのも、今後洗練させていきたいものだ。例えば、記事を二つ以上にわけるとか、どのタイミングでジャッジするか、など。ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
整理の方法
整理とは、いるものといらないものを分けることであると、先ほど書いた。けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
物語を創る能力
もう一つ大事なことは、コアコンピタンス、である。(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
新しいカテゴリ
何とか、金曜日、土曜日あたりの問題というか事象というかイベントというかは、解決した。「解決した」という表現を使うと、どうにも違和感がはしるのは、これから先の仕事や生活において、何らかの影響を及ぼす可能性は、未だ厖大にあるからである。そして今、「仕事や生活」という言葉を用いた時点で、「仕事も生活の一部じゃないの?」という疑問が生じる。いやはや、本当に、この頭は面倒にできている。いいから、今、直近1時間で行うべきことの整理でもして欲しいものだ。
身体の不調
身体の状態を記載することは、「大丈夫ですか?」と誰かに心配してもらうためのものではない。いや、もちろん、その要素も少しはあるのだろう。ただ、言葉で「大丈夫ですか?」と言われたところで、それが何になるというのか。精神的なものであれば、そのアドバイスというものが何らかの解決の糸口になる可能性はあるだろうが、身体的な不調を、SNSであれ、ネットに書き込んだところで、誰かから心配の言葉をもらって、じゃあその心配してくれた人がおかゆでも作ってきてくれるというのだろうか? そんな関係は美しいかもしれないが、決して長続きしないだろう、いやもちろん、それが家族であれば別だが。そういった意味で、家族というのは、通常の対人関係とは別に捉えるべきだと思っている。同時に、家族との付き合い方においても、「他者」であることの意識は必要だと考えている。というのは、「親しき中にも礼儀あり」という意味においてだ。ちょっと待て、どんどん、余計なことが増えていく。そうじゃないだろ、この小見出しで書くべきことを思い返せ。
ええと、その、身体が、具合悪いんです……。
うん、分かった、で、それが何で書かなければいけないのだ?
それは、後から読んだときに、どういった状態で書いたものか、ということが、非常に読解において有用だからです。
その通りだ、それだけ書けばよかった。家族論なんて、それはぜひ、別のカテゴリを立てて書いてください。今は違うでしょ。
はいはい。分かってますよ。
整理というカテゴリ
本当は、この整理用のカテゴリは、ブログの書き方、方針の整理、という意味だったが、今は、頭の整理、ということで使っている。やるべきことが、やりたいことが多くなりすぎて、頭がフリーズ状態である。
いや、それよりも、実際、最近、フル活動状態であり、あまり、落ち着いて書くことができていない。
やっぱり、この、書くということをしていないと、非常に落ち着かなくなるのである。
それは、経験したことの、反芻ができていないこと、復習ができていないことによる。
目まぐるしく過ぎ去っていく時間、生活において、どうして僕たちは、様々なことを忘れ、ないがしろにし、わきにおいて、生きていくのだろう。
僕はどこか、完璧に知りたいという願いをもっている。
これは、僕が「呪い」と表現したことの一つでもあるが、これは対人関係でもマイナスに発生する。
多くの人との交流は、その相手の理解が、表面的にならざるをえないことを意味する。
僕は、くっついて離れてをくりかえすような、そんな希薄な関係に重きを考えられないし、一方で、固定的な関係、抜け出すことができない関係(例えば学校や会社などの組織)というのにも、違和感を甚だ覚えるものである。
逆に、だからこそ、他者の分析、というと上から目線だしキモチワルイ表現になってしまうが、これは多くの人が無意識にやっていることであって、「あいつはああいう奴だからなぁ」とか、「あの子のキャラあれだからね」とか、言っていることの抽象表現である。
集団の同調性
いわゆる、そうだな、イベント的なもの、パーティー的なものに参加して、わいわいがやがや「楽しんで」きた。いや実際、思った以上に「楽しかった」のである。このカッコつきの楽しさというのは、決して、僕の実感と乖離するものではなく、事実、「本気で盛り上がり」「笑い」「面白い世界があるなぁ」と思ったのである。
そして、そこで感じる、他者との「溝」。
いやもちろん、だ。50人~100人ぐらいの集団において、僕のような、こういった思考ブログを書いている人がいないなんてことを言っているのではない。
しかし、そうした、「集団」における「テンション」「雰囲気」「方向性」「とるべき態度」というのは、驚くほど固定化しているものである。
僕が、以前書いた10年ぐらい前の記事において、秀逸な分析だと自画自賛するのが、ある飲み会において、それが終わった後、「ああ、今日は、皆をいじれた(みんなと会話できた程度の意)」と言っていたことに感銘を受けた、という記事である。
僕は、その人に出会うまでは(残念ながら、その人が誰だったか、全く覚えていない。ただ、その人の取った行為は僕に非常に重要な知見を与えてくれて、それは今でも残っている。ここに、僕が敢えて、具体的なイベントというものを明確に書かない理由でもある。つまり、個人とか、実際何をやったかとかそういったものは、初めて読む人にとって、共感を得るものにはなりえないし、それは自分自身に対しても同じで、数年後読んだとき、「ああ、そんなこともあったね」とは思うかもしれないが、そこに重要な情報はもはや一切読み取れなくなるのである)
ええと、つまり、なんだ、飲み会とかそういったものにおいて、僕が感じる他者との距離感というものを、あまり意識する必要はないのだ。それは、他者も同時に感じているだろうもので、だからこそ、集団の同調性「テンション」をひたすら追い求めるしかないのだ。
面白い人とは何か?
集団において場を盛り上げる人というのは、いわゆるリア充と呼ばれる。それは、「ピエロ」なのかもしれないが、多くは、周りも楽しいし、自分も楽しい状態である。
集団で行うスポーツというのも、そういうものかもしれない。
もっというと、「仕事」というものも、集団スポーツの一種かもしれない。
ああ、僕が思ったことのメモ、重要なメモは、結局、みんな、「楽しそう」であるということだ。
恐らく、そのパーティー、イベントに参加していた彼、彼女たちは、こういった思考ブログなんてものを書かない。
書く必要がないのだ。
日々の生活において、たくさんの人たちに囲まれて、会話して、一緒に何かやって、家に帰っても、スマホアプリのラインとか、SNS特にフェイスブックのような実名の奴でつながりをもっていれば、「この先訪れるであろう破局」に対しての意識が向くことは無い。
それは、そのことを実感し、敢えてそうした「忙しい生活」に身を興じている場合もあれば、完全、全く気付いていない場合もあるだろう。
僕が、何故こんなことを書いているのか。
これは、ある種、驚きのメモ、インプットとアウトプットの両面であるのだ。
人に、多くの人にとって、「思考」というものは、あくまでも「ポジティブ」に、「前向きに何か成果を出す」ための、手段でしかないという、その切実な実感を、感じざるをえなかった体験、それに対してのメモだ。
過去との比較
その、集団における他者、から感じる「乖離」ズレというものについて、僕は今まで一度も気づいていなかったか。そんなことはなくて、むしろ、それの繰り返しがずっと続いてきた。若いころは若いころ程、その傾向が強くあって、重いものであった。今、いわゆる「大人」といわれる状態になり、自由に使えるお金もある状態になったことで、「時間としての自由」を得ることができた。
その中で、じゃあ果たしてその集団に属するということはどういうことか、というイベントへの参加であったわけだが、やっぱり、これは中々、大変なものなのだなぁと、思ったわけである。
繰り返し強調しておくべきは、それが、「楽しくなかった」ということでは一切無い。
若いころのそのイベントとか、例えば部活動とかそういったものにおいては、ぶっちゃけ楽しくなんてなかった。つらかった。面倒だった。いやだった。でも、続けなければならなかった。
偉い人や、老年な人たちが好きな言葉を使えば、「修羅場」をずっと経験していたわけだ。(僕自身は修羅場なんて別に思えない。もっと大変な人はいっぱいいる。で、その老年の人たちの経験は、確かに、もっと大変な、命の危険があるものだったりもするし、胸倉掴まれてドヤされたとか、まぁそんなの嫌だなぁと思うぐらいのものが沢山ある。だが、それがどうした?)
……ふむ、過去の経験や、体験を持ち出して、僕が悲劇の主人公を気取りたいわけでもない。
むしろ、こういった表現は、一切合切、誰にも、共感など与えないものであるばかりか、不愉快な思いを生じさせるマイナス要素だ。
そう、人は皆、「ポジティブなもの」にしか興味を抱かないのだ。まぁそしてそれは、生存方策として間違っていない。仕事においても、社内で上手くやっている先輩をみつけて、その人についてやっていった方が得をするにきまっている。どこの誰が、窓際族の人と仲良くしようと思うのか。思うまい。俺もそうするだろう。
で、その、窓際族に近いような、いわゆる「愚痴」というのが、その「過去を持ち出すこと」なのであって、この小見出しにおける表現は、危険極まりのないものである。
そんな、核兵器みたいなものを、歳がいなく10分もかけて書いてしまい、挙句の果てに公開してしまうというのは、これと同じようなことを、今までも書き続けているにも関わらず、未だに訪問してくれる方々がいる、という、その方々に支えられているものである。
これが、リアルの関係とネットの関係と、どっちが重いものかね、という問題提起自体がクソ役にも立たないズレた視点でアホだ、と僕が書く理由となる。
ここまでが前置き
あー、上に書いたこととか、別に大したことではない。じゃあ消せよ、ということになるが、多分、いや、これがあるからこそ、次に書いていくことに意味が生じる。(厳密には、別になくても意味は変わらないが、後から読んだときに、その文脈が無いとよく分からなくなるだろう。先ほど書いた通り、今時点の体調状態が理解に非常に密接に関係する)
まず、だ。
運営しているサイトにおいてバグ、障害が発生した。
体の具合が悪いときに、マジかよ、と思った。最近、この「マジかよ」という感覚を、他の雅な言葉で置き換えられないか、と調べたことがある。しかし、見つからなかった。「本気ですか?!」なんか違う。でも、「マジか」って何なんだろう、よく分からない。
実感言語ってある。
「あえかなる」という言葉が好きで、結構文章などでは使ってしまうんだけど、それって、何? となると、まぁ、はかなげで美しいさま、と辞書的な意味であるけれど、はかなげって何? とか、分析をしていくと、そこに感情が消えてしまうのである。
このテーマは、きっと、言語学とか、国語の研究などで突き詰められている気がする。今度そういった本も探してみよう。ああ、そういう意味で、「レトリック感覚」という文庫は結構面白かった気がする。残念ながら内容は全く思い出せない。後でまた読んで見るか……ああ、そうそう、こうやって、どんどんやろう、ということが膨れ上がって、現在、収拾がつかないのだ。
・サイト障害の復旧
・買い物(日常雑貨、食料)
・パートナーの洗車
・昼食(そうだ、朝から何も食べてなかった、どうしよう)
・帰省の準備
・小説書きたい
・サピエンス全史の読み進め
・ルーチン
・洗濯、掃除
・仕事の準備
・クレジットカードの住所変更
・最近の経験の分析とブログを書くこと
そのどれもが、やらなきゃいけないこと、やったほうがいいこと、やろうと思うこと、なのだけれど、別に今すぐやらなくてもいいことだったり、やらなくてもよい可能性もあることだったり、でもいずれはやらなくちゃいけなくて降りかかってくることだったり……。
パニック。
あー、面倒やなぁ。
となり、ぼーっと、何もせずに、「ピコ太郎」という方の経歴とか動画をみていた。(おい!)
ネタとして、どうだろう、曲のノリとかも悪くないし、面白いんじゃあないかなぁと思うけれども、果たして、何故こんな全世界的なブームになったのか、そもそもピコ太郎さんとは何者か、と気になってしまったのだ。今テレビが無いので、それこそ、そういったイベントにおいて、話しについていくのが大変である。
そういう意味で、ピコ太郎さんの動画を見ていた時間も、無駄ではなかったと思う。思うのだけれども、いや、お前、それよりすることあるだろうが! というわけである。
いやぁ、しかし、昨日は体調悪い中、2時間~3時間ぐらい障害対応で色々作業していたし、許して欲しいところだ(誰に? 利用者さんもだが自分にも)。
ネットで時間を費やすことと日常生活を送ること
そして、更に、書いておくべきは、確かに、動画見て時間をつぶすのは、「時間がない!」と叫ぶことの理由だが、いやそもそも、普通に人生を送る、日常生活を過ごす、こういった中において、僕は、「時間が過ぎていく」ことの無常さを思うのだ。
意味。
僕らの行動に、意味がないものなんてない。
惰眠をむさぼり、昼まで寝てしまった。いいじゃないか。頭はぼけっとしてしまったかもしれないが、睡眠欲を満たすことができたのだ。無為に時間を過ごすのだった悪くないだろう。
だが、ますます加速していく情報社会において、そして、ますます短くなっていく僕らの人生(余命)において、「この時間の使い方は正しかったのか?」という疑念は、日に日に僕は大きくなっている気がしてならない。
幸いにして、このブログを書いている時間は、有意義性が、自分の中でも認められている。
書いている内容は、くだらないことかもしれないが、その「くだらなさ」が逆に、意味をもっていることに、意味を認められる状態となっているのだ。
そしてそもそも、今日雨なんだよね。よし、出かけるのやめよう。
この決断をするのに3時間ぐらいかかったぞ! おい! アホか!
このまま少し計画を立てよう
あー、ええと、こっから、更に、最後まで読んでくださっている方がいつも何人いるのか不明だけれども、更にさらに、どうでもよい感が強まっていくので、もう読み飛ばして「読了」ボタン押して頂いて全然かまわないッス。(いや逆に、読了ボタンを押すことを強要している! 無言の圧力、ステルスマーケット、あの映画とか、一瞬だけ商品の映像をみせて観客に刷り込みをさせるとか、あれはなんというのだったっけかかな……思い出せないが、そういったあくどい感じがプンプンするぜ!)もう、だからね、そもそも、平日、来週も、恐らく、帰宅が遅くなりそうで、恐らく、この、こうやってダラダラ、でもないけれども、インプットとかアウトプットできる時間は、非常に貴重なのだから、今後の、予定を少し考えておこう。
1.12/3(土)、12/4(日)
2.12/10、12/11
3.12/17、12/18
4.12/24、12/25
5.12/31、1/1
そう。もう、土日ベースで行くと、5回しかタイミングがない。
そして、5は、特にもう年が明けてしまうため、ノーカンだ。すると、4回しかない。
でもって、2は、確定の用事がはいっている。
すると、3回しか、自由時間がない。
えー。早いなぁ。2016年もグッバイですか。皆さんは今年一年振り返ってみてどうでした?
私は、非常に、激動の年だったと思います。2008年2009年、2013年あたりと、2016年が結構大きな変化でしたねぇ。
一言で、何か学んだことはあるかと言われたら、まぁ、人って結構なんとかなるものだ、ということかもしれませんね。
なんとか、というのが、「ただ生きる」ということであれば、非常に住みやすい、生きやすい世の中になったと思います。7万年前のサピエンス登場あたりから比べて。というか、認知革命についての概念は覚えたけれども、そもそも、何でそれが7万年前だって、分かったんだっけ? 本に書いてあったけれども忘れてしまったのか、そこは不問なのかちょっと思い出せんな……、もう一度読み返してみるか……とかやっていたら、いつまでたっても紀元前から抜け出せん。
その、人類の歴史だって、いったい何のために知ろうとしているのか、ってことを、常に思ってしまうわけで、その「無気力の魔物」と、いつも戦っていなければならないのは、とてもつらいことであり、死んでしまった方が楽なんじゃないか、という堕落した思考にも発展しがちであるのは、困ったものです。
これは、「死にたい」という、リストカッターや自殺念慮ではなく、「論理的に」「現実的に」死ぬことが正しいのでは、と思う感覚なのです。
何だか、このフィルターが入ると、リア充たちの楽しそうな喧騒が、それほど嫌な気持ちにはならないのです。(そもそも、リア充って何ぞや。趣味もあるし、恋人もいたし、結婚もしたし、友人たちもいる。その状態であっても、僕のこのフィルターはなくならなかった。これは何故だ?)
今、こうして書いていることは、かなり、僕がやりたいことに近いものなので、それほど「違和感」というものがありません。何だか、日常生活的なことを書いていると、「生きる意味を徹底して考える」というタイトルからかけ離れていく気がしますが、それは違います。
むしろ、日常生活が有るが故に、その「生きる意味」というのに重みが増して、重要性が高まっていくのです。
これは、ある種、批判になってしまいそうですが、ニートの人たちにおいても、生きる意味は同じく重要でしょうが、「ニート」という状態であったときに、本当の意味で、「生きる意味」を考えることはできません。
というのは、解決すべき目標や目的というものが、眼前として生じているからです。(ここでいうニートは、働いていないという意味ではなく、自立するためのお金を稼いでいないという意味に近いものです)
前にも書きましたが、恋人がいない、という人、例えば、「彼女ができない。その一点だけで人生崩壊」という表現をされていた方がいましたが、それは、生存規定を脅かす、生きる意味がなくなる、絶望を与えるという意味で、重要な事態であることに疑いはありませんが、しかしながら、「恋人をつくる」という眼前と生じる課題が残されたままなのです。
いつか終わる夢
本当に始まる絶望は、まさに、「現実世界で全て満たされたとき」から始まるといっていいでしょう。友人ができない人は、友達ができたら、とてもとても、嬉しいことでしょう。幸せなことでしょう。
しかし、そこで人生は終わりではない。ゲームオーバーになっても、人生は続くのです。(唯一、身体的な死が訪れるまでは)
友達ができたら、じゃあ、次は何でしょう? 何を求めるのでしょうか?
分かりやすいのが、お金です。お金があると、たくさん、いろんなことができます。好きなことができます。女も買えるし、時間も買えます。
じゃあ、お金が手に入りました。次はなんでしょう? 何を求めますか?
繰り返し、投資を行って、資本を蓄えていくことが重要だ、とする方もいらっしゃいます。
事実、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、において、マックスウェーバーさんが、まさに富を蓄えることが、神からの祝福の証であるという「信仰」によって、ますます資本が形成されていったことが、資本主義の成立であると述べられております。
本当は、今、日本も世界も、資本主義社会なので、その波に乗れたらいいのです。
いわゆる、リア充の方々も、そういった、「お金」とか「異性」とかに興味をもたれております。
しかし、僕は、どうも、「?」となるようなのです。これが、「乖離」という表現の正体だと、最近改めて思いました。
この感覚は、おこがましいながら、シッダールタさんが、29歳(仏陀が出家した年齢)、または35歳(悟りを啓く歳)ぐらいまで考えられていた、感じられていたことと同じだとおもっています。
ので、まぁ、別に僕だけが特殊だとも思いませんし、現代に始まったことでもないとも思いますが、しかし、それでもですね、これは結構、大変な問題でございます。
ぐだぐだ言ってないで、只管打座だぜ?☆ というのも分かりますが、しかし、僧侶としての生き方が本当に正しい(ここでの正しいというのは、自分にとっての選択として)というのも自信がありません。在家信者の在り方について、原始仏教がどういった立場をとっていたのか、勉強不足で分かりませんが、頭を剃って、托鉢(ご飯をわけてもらう)人ばかりになったとき、果たして、人類社会は成り立つとは思えません。畑を耕す人がいるから、食糧が生産されるわけですので、人から分け与えてもらうだけで、社会は成立しません。
僕はいわゆるオフィスワーカーなので、食糧は作ってませんが、資本主義における役割分業においては、遠い意味で、食糧生産であるといっていいと思っています(詐欺とか、人を貶める職業でなければ。いや、そういうのは職業とは言わないか)。
だからこそ、悩むわけですね。
そういった意味で、その、悩みを表現するということで、このブログは、ある程度、僕自身は認めているのです。逆に、今は、これ以外に有効な手立てがありません。日常生活での「頑張り」は、どうにも、精神をすり減らしていくように感じてしまいます。
最近、記事にコメント頂いたり、作品をつくったりしていて、その作品にコメント頂いたりしたとき、とても嬉しかったのを覚えています。
ああいう感覚を、もっと増やしていけたらなと思います。
しかし、残念ながら、それらと、仕事とは、現在あまり結びついているようには思えません。
やはり、仕事と趣味というのは、切り離されたものなのでしょうか?
仕事の時間は、自分を押し殺して、苦しみに耐え続けて、家に帰ったら楽しくはっちゃける、という生き方が正しいのでしょうか?
僕はそれも何だか違和感があります。
理想を抱くこと
生きる、ということは、総体なのです。時間を、仕事とプライベートと、そう簡単に分けてしまっていいものでしょうか?人付き合いにおいても、「あわない人はいるし、嫌いな人もいるけど、仕事では付き合わなあかん」と、ある大物タレントさんが言っていたようですが、そんなんでいいんでしょうか? 嫌いな人も、あわないひともいる、ということを言い続けて、世界は一つになれるのでしょうか? 戦争はなくなるのでしょうか? 平和になるのでしょうか? 犯罪はなくなるのでしょうか?
分かりませんが、何だか違和感です。ユートピア、幻想主義者のようですが、別に本気ではありません。ただ、理想としては、ずっと抱いておくべきではないでしょうか? fateのシロウくんの、その熱い思いに心をうたれたのは、どこかしら、皆が諦めている理想を、ずっと強く抱き続けていたからじゃないのでしょうか? そして、サーヴァント・アーチャーが言い放った、「理想を抱いて溺死しろ」という台詞が、これまた多くの人に感動を与えたのは、その理想によって身を砕かれるその辛さ、現実世界のままならなさを、多くの人が感じていながらも、しかし、どこか「理想」の希求があったからではないでしょうか。
書くこと
頭の整理に、書くことは必要だと思います。今年ももう終わってしまいます。
取りあえず、今年の残りの週は、物語を創ることと、サイトの復旧はもちろんですが、改装について尽力しようと思います。
3回、おそらく、まるまる時間は取れなそうですが、中途半端な時間が生じたら、もう、こうした整理用の記事を書かなくてもいいように、その物語に対して、全力投球しようと思います。
ええと、しかし、昼食、どうしよう。もう夜になったのだけれど、……。
いいや、少し、雨も降るようだが、外の風にあたろう。
当面の目標、記事の整理を行おう。
唐突になんだ、整理が重要だ、テーマだ、目的だ、お前は何をいってるんだ?
他の方の作品や記事を読んだりしていて、やっぱり、このダラダラ書き続けるのは良くない。
そろそろ量が多くなってきて、全部ストーリーとして追っていくのが自分にとってもキツくなってきた。
仕事もまた甚大な話に巻き込まれてきて、これは舵取りを間違うと致命的に取り返しがつかない、それは、今後何年かにもひびくだろう。
頭も要領もよくない自分が今後どうやって問題を切り抜けていくのか、もしくは潰れるのか、今後のご期待である。
前向きか後ろ向きかなんて、俺は常に前向きである。ポジティブでしかありえない。
口に出すこと、行動、書くことは、マイナスばかりだけれども、真のポジティブとは何かを知っているだけだ。
例えば、いや、例える必要性を僕は思わないが、あえて書けば、宗教的だけど、仏陀さんって、ポジティブなのか、ネガティブなのか?
さぁどっちだと思う?
俺の解釈は、超ポジティブ、だと思う。
しかし、一般的に、一切皆苦、とか言っちゃう人が、妻子捨てて修行始めちゃう人が、果たしてポジティブなのだろうかと、疑問だろう。
あまり詳しくないけれども、失敗を覚悟で書けば、キリストさんは、右のほほをぶたれたら左のほほを差し出しなさいとか、一匹の迷子羊を探すために他の多数の羊は放置してもいいとか、ネガティブっぽくないだろうか?
でも、キリストさんを卑屈、なんて言う人はいないだろう。
逃げたっていい、戦ったっていい、どっちでもいい。
ただ、祈りだけで、環境が何とかしてくれるみたいな生き方は否定する。
もちろん、行動第一主義というのも否定する。
世界は、
人生は、
自分は、
物理環境と思考との相互関係の因果によって成り立つ。
他者、そして自分、関係ない、その相互依存性が成り立つ。
誰かの作品で自分の感情が変化したとき、それは自分だけでは起こり得なかった結果であり、かといって、それは他者だけの力かというと、それも違う。
感受という、他者を、環境からのフィードバックをインプットできる能力が働いたのだ。それはまた、自分に他ならない。
ブログをやめるというのではない。ただ、ちょっとばかし、多分、書いてる内容はそれほど大きく変わらないだろうが、もう少し読みやすくしようと思う。
その方策が、カテゴリ、テーマをわけることだ。ちょっとチャレンジ。
仕事について
生きる意味について
イライラへの対処について
人間関係について
学習、勉強、インプットについて
思考すること、書くことそのことについて
ポジティブ思考について
目的や目標設定について
恋人や恋愛や結婚について(異性関係)
その他人間関係について(知己、友人)
ゲームやその他の趣味について
創作について
ここで、映画、漫画、小説その他のエンターテイメントについても、カテゴリ分けできるかと思ったが、次の理由で却下した。
その作品の批評や分析が目的ではなく、それによって私が何を思い感じたのか、それが重要であり、その内容は、どれかカテゴライズ可能と思うからだ。
こんなもんかな。
考え付くのはこれくらいかな。
これからの作業としては、現在の思考カテゴリと日常カテゴリの分類精査である。
おそらく、困難になるのは、その複合的な内容の場合である。
生きる意味と目的設定とか関連性深いし、イライラとポジティブ思考は関係深いし、それ以外も散財していることだろう。
ちなみに、この記事は、整理について、というカテゴリか、当ブログについて、という内容になるだろう。
おそらく、そんなことしても、誰も過去記事を読み直すなんてことないし、誰のためにもならない無駄作業である。
だが、
今後も徹底して考える、というタイトルを続けるなら必要な作業だ。
そして、この作業は、今年中を目指す。
ようやく、今年の目標が決まった。もう師走ちかいのに笑える。
来年、仕事、くそ忙しいと予測されるが、
もう1つ目標たてるなら、
絶対に忙殺されんようにすることだ。
真剣に、真面目に取り組んで、成果もあげて、
結局口がうまい人に成果をとられ、悪くなった失敗や問題は俺のせいにされて、と。
まるで漫画みたいなことに巻き込まれる可能性は、真面目さとか純粋さとか、ポジティブさとか、その他自己啓発的なうんたらでは、絶対に避けることはできない。
仕事へのコミットは、決して人を幸せにしない。
一方で、すぐさま書くべきは、仕事じかんちゅう、ずっといやいや苦しんで耐えてるってのも間違いだと思う。
誰かの記事で、忘れたが、仕事を楽しいと思ってるうちはそれは仕事しゃない、とあったが、それは言い当ててるようで、ちょっと違う、ああ、ああ、じかんぎれ、この辺りもまだまだ書ききれてないことなんだ。
この、様々書ききれてないことを、もう速やかになくしていくのが、今回の記事の主旨である、カテゴリ分けの必要性の提案なわけだ。
唐突になんだ、整理が重要だ、テーマだ、目的だ、お前は何をいってるんだ?
他の方の作品や記事を読んだりしていて、やっぱり、このダラダラ書き続けるのは良くない。
そろそろ量が多くなってきて、全部ストーリーとして追っていくのが自分にとってもキツくなってきた。
仕事もまた甚大な話に巻き込まれてきて、これは舵取りを間違うと致命的に取り返しがつかない、それは、今後何年かにもひびくだろう。
頭も要領もよくない自分が今後どうやって問題を切り抜けていくのか、もしくは潰れるのか、今後のご期待である。
前向きになった?
前向きか後ろ向きかなんて、俺は常に前向きである。ポジティブでしかありえない。
口に出すこと、行動、書くことは、マイナスばかりだけれども、真のポジティブとは何かを知っているだけだ。
例えば、いや、例える必要性を僕は思わないが、あえて書けば、宗教的だけど、仏陀さんって、ポジティブなのか、ネガティブなのか?
さぁどっちだと思う?
俺の解釈は、超ポジティブ、だと思う。
しかし、一般的に、一切皆苦、とか言っちゃう人が、妻子捨てて修行始めちゃう人が、果たしてポジティブなのだろうかと、疑問だろう。
あまり詳しくないけれども、失敗を覚悟で書けば、キリストさんは、右のほほをぶたれたら左のほほを差し出しなさいとか、一匹の迷子羊を探すために他の多数の羊は放置してもいいとか、ネガティブっぽくないだろうか?
でも、キリストさんを卑屈、なんて言う人はいないだろう。
困難への対処
逃げたっていい、戦ったっていい、どっちでもいい。
ただ、祈りだけで、環境が何とかしてくれるみたいな生き方は否定する。
もちろん、行動第一主義というのも否定する。
世界は、
人生は、
自分は、
物理環境と思考との相互関係の因果によって成り立つ。
他者、そして自分、関係ない、その相互依存性が成り立つ。
誰かの作品で自分の感情が変化したとき、それは自分だけでは起こり得なかった結果であり、かといって、それは他者だけの力かというと、それも違う。
感受という、他者を、環境からのフィードバックをインプットできる能力が働いたのだ。それはまた、自分に他ならない。
カテゴリ分け
ブログをやめるというのではない。ただ、ちょっとばかし、多分、書いてる内容はそれほど大きく変わらないだろうが、もう少し読みやすくしようと思う。
その方策が、カテゴリ、テーマをわけることだ。ちょっとチャレンジ。
仕事について
生きる意味について
イライラへの対処について
人間関係について
学習、勉強、インプットについて
思考すること、書くことそのことについて
ポジティブ思考について
目的や目標設定について
恋人や恋愛や結婚について(異性関係)
その他人間関係について(知己、友人)
ゲームやその他の趣味について
創作について
ここで、映画、漫画、小説その他のエンターテイメントについても、カテゴリ分けできるかと思ったが、次の理由で却下した。
その作品の批評や分析が目的ではなく、それによって私が何を思い感じたのか、それが重要であり、その内容は、どれかカテゴライズ可能と思うからだ。
こんなもんかな。
考え付くのはこれくらいかな。
これからの作業としては、現在の思考カテゴリと日常カテゴリの分類精査である。
おそらく、困難になるのは、その複合的な内容の場合である。
生きる意味と目的設定とか関連性深いし、イライラとポジティブ思考は関係深いし、それ以外も散財していることだろう。
ちなみに、この記事は、整理について、というカテゴリか、当ブログについて、という内容になるだろう。
誰のための作業か?
おそらく、そんなことしても、誰も過去記事を読み直すなんてことないし、誰のためにもならない無駄作業である。
だが、
今後も徹底して考える、というタイトルを続けるなら必要な作業だ。
そして、この作業は、今年中を目指す。
ようやく、今年の目標が決まった。もう師走ちかいのに笑える。
仕事について
来年、仕事、くそ忙しいと予測されるが、
もう1つ目標たてるなら、
絶対に忙殺されんようにすることだ。
真剣に、真面目に取り組んで、成果もあげて、
結局口がうまい人に成果をとられ、悪くなった失敗や問題は俺のせいにされて、と。
まるで漫画みたいなことに巻き込まれる可能性は、真面目さとか純粋さとか、ポジティブさとか、その他自己啓発的なうんたらでは、絶対に避けることはできない。
仕事へのコミットは、決して人を幸せにしない。
一方で、すぐさま書くべきは、仕事じかんちゅう、ずっといやいや苦しんで耐えてるってのも間違いだと思う。
誰かの記事で、忘れたが、仕事を楽しいと思ってるうちはそれは仕事しゃない、とあったが、それは言い当ててるようで、ちょっと違う、ああ、ああ、じかんぎれ、この辺りもまだまだ書ききれてないことなんだ。
この、様々書ききれてないことを、もう速やかになくしていくのが、今回の記事の主旨である、カテゴリ分けの必要性の提案なわけだ。